方位磁石
綿引つぐみ
方位磁石
夏の夜、ローソンの帰り道、あたしは旅人に出会った。
「方位磁石が狂っちゃったみたいでね。迷ってしまったんだ」
男は大きなリュックを背負って、そこにはツエルトからピッケルまでささっている。歩道の真ん中に座り込んで地図を広げる男に、あたしはついつい声をかけてしまった。するといったいどこの地図なのか、見たこともないような不思議な記号だらけのそれから顔を上げ、男は縋るような情けない目つきであたしを見る。
歳は幾つぐらいなのだろう。まったく見当もつかない。少なくともあたしより年上、三十は過ぎているように思えるが定かではない。何だか知らない動物の年齢を推し量ろうとしているみたいにあいまいだ。
結局あたしは男をアパートに連れ帰り、彼はそれから一年間あたしの部屋にビバークした。
彼は一円もお金を持っていなかった。円だけでなくウォンも、ドルも。元も。いったい今までどうやって生活していたのだろう。生活費はあたしがすべて出した。彼はずっと部屋にいて、日がな植物の面倒をみていた。
一年が過ぎ、再び巡った夏のある日、彼はそそくさと旅の準備を始めた。あたしは当然のようにその様子を見ていた。あたしが新しく買い与えた磁石を首から提げるとたいした食料も持たぬまま彼は旅の支度を終えた。あれじゃあ三日ももたないだろう。
「これをあげるよ。この世界でお金に換えられるかどうか分からないけど、あの店のものを毎日一生買い続けられるくらいの価値はあるはずだ」
そういって彼は一枚のメダルのような金属片をくれた。あの店とはきっとローソンのことだろう。
ドアの閉まる音がして、振り向くともう彼の姿はなかった。メダルと、ベランダにはとても食べきれないほどの夏野菜が残った。そのほかの観葉植物も恐ろしいくらい元気がいい。もしかすると妊娠するんじゃないか思っていたが残念なことにそれはなかった。いや、本当に残念なのか。自分でもよく分からない。
ビールが飲みたい。そう思って冷蔵庫を開けるとビールがない。あたしは部屋を出る。ローソンへ缶ビールを買いに。
方位磁石 綿引つぐみ @nami
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