第7話「本当のお楽しみタイムはこれからよ」
人生であまり中身を使ってこなかった頭脳の、理解の範囲を超えた発言に悪漢は耳を疑った。
「なん……だと……?」
「だが断るって言ったのよ。これ、人生で一度は言ってみたい三大セリフその2」
指でVサインを作り呑気な声。
上体はビルの窓から押し出され、悪漢が本気で行動を起こせばあっけなく墜落する。まさに絶体絶命といった危機的状況をまるで意に介してない風だ。
「よっぽど死にてえみてえだなっ」
この期に及んでまだ挑発的な言動を続ける姿に、頭が沸騰したように熱くなる。
悪漢がさらに力を入れようとしたその時、身体に不思議な事が起こった。
「フフフ、効いてきたみたいね」
「なに……?」
悪漢の極太の腕によって窓枠に押さえつけられ、のけ反った状態の仮面の男の上体。どう考えても力で覆せる体勢ではない。
それが事も無げに起き、そのまま悪漢を押し返し室内に帰還した。
自分の自慢の剛腕の抑えがまるで利いていないような自然な挙動に、悪漢の頭は軽い混乱を起こし言葉を失った。
「興奮して気付いてなかったみたいね、自分の力がすごく弱くなっていた事に」
「……っ?」
仮面の男がトンと軽く悪漢の胸を小突くと、30センチ以上はある二つの足がたたらを踏んでよろめき後ずさった。
「一芝居打たせてもらったわ。あなたの力に押されてるようにわざと力を抜いてね」
マントについた埃を払い、改めて悪漢に向き直り人差し指を突き立てる。
それと同時に悪漢は急激に、自分の身体が重く怠くなってきたのを感じた。
「てめえ、なにをしやがった!?」
予想だにしない突然の体の異変に、油のように粘度の高い汗が頭皮や顔や背中、全身からどろどろと噴き出し皮膚を流れていく。
「そういえばさっきも女に妙な術みたいなのをやってたな、それか。くそったれ」
「あの子にやったのは確かに妖しいものだったかもね。でもあなたのはそういうのじゃないわ」
ちらりと部屋の隅で横になり気絶している葉子を見やる。
平均的な日本人女性よりやや長身な肢体。
それを構成している要素の大きな一部である長い脚が、ボロボロのスカートと穴だらけのストッキングを纏い、扇情的な姿を晒している。
視線を悪漢に戻し、
「命の心配はないわ、ちょっとした麻酔みたいなものを盛らせてもらっただけ」
「麻酔……?」
「もうすでにあなたの体内にはアタシの仕込んだ『毒』が回っているわ」
「……っ」
悪漢は眉根を寄せ、歯噛みする。その顔を見て仮面の男は人差し指を立てて続ける。
「いつの間に、って顔ね。お忘れかしら?アタシの持ってきたものであなたの体の中に入った物があるのを」
しかし悪漢は得心のいっていないといった表情。
その『毒』が全身に行き渡り、効果を見せる。
目つきは虚ろになり脂汗を浮かせ、悪漢の醜悪な顔がさらに歪む。膝が笑い出し、地震に揺られるビルのように2メートルの体が漂う。
仮面の男は一歩、距離を詰めながら続ける。
「あなたがあんな頭脳プレイをしてくるとは意外だったわ、油断した。アタシもまだまだね。そのせいで一度は足を掬われたけど、ちゃんと狙った通りの、真の仕事をしてくれたわ。」
それを聞いてハッと床に目をやる。先刻、自分が上手く利用して相手を出し抜いてやった物がまだ潤いを失っておらず、室内に入り込むネオンの光を煌々と反射している。
「そう、アタシが最初にあなたの全身に、念入りにぶちまけたローションよ。あれの中に特別な麻酔みたいなものを溶かしてあったの」
「なん……だと……」
とうとう悪漢は、みるみる力が抜けていく自らの超ヘビー級の巨体を制御しきれなくなり、腰が砕け片膝が地につく。
「体だけじゃなく鼻や口の粘膜に入るように、わざと顔にもかけていたのよ」
仮面の男は悠々と近づき、耳元で穏やかな声色で話しかける。
「大丈夫、死ぬような強い物じゃないし意識がなくなるような物でもない、怖がる必要はないわ。ただちょっと身体の自由が利かなくなるだけよ」
もう自力で立つこともままならなくなった悪漢を優しく介抱するように支えながら続ける。
「だって『気ィ失ってて何の反応も無えのはつまんねえし味気ねえ』ですもんね」
「っ……何をする、気だ?」
「本当のお楽しみタイムはこれからよ」
表情の見えない仮面から聞こえる嫣然とした声に、悪漢は傍若無人傲岸不遜に生きてきた今までの人生で感じたことのない寒気を感じた。
さながら、股間に氷を押し付けられたような全身が瞬時に竦む冷気が、脊椎から頭のてっぺん、足の爪の先まで貫いた。
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