第6話「かかったなアホが」
悪漢は靴裏のローションを床に擦り付けてやっと乾燥させ、グリップを回復させた靴で立ち上がる。
まだ床に残るローションを、せっかく乾いた靴裏に付くことがないように慎重に跨いでから、燃えるような眼光で闖入者を射竦める。
「てめえ一体ナニモンだぁ?」
ドスの効いた低音が問いかける。しかし、仮面の男は相も変わらず軽い口調で応答。
「名乗る程の者じゃないわ……これ、人生で一度は言ってみたい三大セリフってやつの一つね」
「ふざけやがって……まぁ何でもいい、一瞬でも気を許した俺がバカだった。やっぱり邪魔モンはブッ飛ばしてから楽しむまでだ!」
言うや否や、悪漢の巨体がカタパルトで弾かれるように突進。
ゾウのような大きな足がコンクリート床を蹴飛ばす炸裂音を轟かせながら、その体格からはとても想像できない俊敏さで仮面の男に迫る。
「こんなことになってもまだコトに及ぶつもりなの?まったく見上げた性欲というかなんというか……」
しかし突撃してくる悪漢に対して、まだ呑気な呟きを洩らす。
悪漢が目の前まで迫り、巨拳が振りかぶられても未だ棒立ちを解除しない。
「馬鹿が、ぶっ飛びやがれっ」
ごうっという風切り音と共に巨拳が振り下ろされる。
しかし、次の瞬間その拳は何の手応えも得る事が無く虚空を打ち抜き、標的の姿は忽然と視界から消えていた。
「こっちよ」
声が発せられたのは、全力の拳が空振りし体勢の崩れた悪漢の背中。
仮面の男が軽く跳ねながら、リズミカルなステップを踏んでいた。
「ちっ、妙にすばしっこい野郎だ」
振り返り、悪漢が肩をぐるんと回す。
「おらぁ!」
力任せに振り回される豪拳がことごとく躱され、虚しく風切り音を奏でる。
仮面の男は流れる水のような体捌きで、わざと悪漢に貼り付くような至近距離で動き回って余裕を見せ、耳元で声を掛け挑発する。
「ホラホラ、こっちよ」
「くそっ、気持ち悪ぃ!離れやがれっ」
振り払うように暴れるが、それすらもかすりもしない。顔を真っ赤にしながら言葉にならない叫びを上げる。
「がぁ!」
「力で無理矢理今まで何人もの女の子を食い物にしてきたみたいだけどアタシには通じないみたいね」
唸りをあげる剛腕、丸太のような脚をすいすいと躱しながら、悪漢の巨躯を舐めるように撫で回しながら、
「ウフフ、逞しい身体素敵だわぁ~」
「うおおぉ!気色悪いっ」
いいようにあしらわれ、振り回され続けた悪漢の息が次第に上がって来た。
「アラアラ、燃料切れかしら?」
「……くそったれ」
悪漢の攻撃の届かないギリギリの間合いで対峙する二人。
窓の外、隣に建つビルの壁に設置された、会社名を象ったネオン灯の緑の明かりがお互いの横顔を照らしていた。
片や大きく肩を上下させ苦しげに息を切らし、片や表情に変化の無い能面のような奇妙な被り物。
悪漢の先程までの力任せに暴れるような動きは鳴りをひそめた。
距離を保ちつつじりじりと横方向へ足を動かし、床に円を描くような動きに切り替わる。
その動きに呼応して仮面の男も円運動に加わる。
お互い無言のまま付かず離れず、一触即発の空気に緊張感が高まっていく。
ひとしきり間合いを探りあった後、悪漢が静かに口を開く。
「てめぇがタダモンじゃねぇってのは、十分わかった」
「光栄だわ」
「その身のこなしといい、力自慢ってだけの素人じゃ勝ち目が無いってのもな」
「アラ、降参なのかしら?」
「だがな、これならどうだっ」
そう言い放つと悪漢はさっきまでと同じような突進。
若干足がもつれて右にずれたか。
さっきまでと特に変化の無い繰り返された行動パターンに、仮面の男は一瞬訝しんだが、距離が近かったため反射的に逆側に躱し回避する。だが、
「かかったなアホが!」
「っ!?」
突如、仮面の男の体勢が大きく崩れる。その足元の床には光るものが。
そこを狙いすましたように巨大な廻し蹴りが空気を切り裂き迫る。
咄嗟に両腕を正面に入れ直撃を防ぐが、悪漢の巨体の重さが乗った勢いは抑えきれず吹き飛ばされ、そのまま窓際の壁まで強かに叩きつけられる。
衝撃で劣化の進んだ廃ビルの壁にひびが数本走った。
すかさず悪漢が距離を詰め、仮面の男の上体を開け放たれた窓の縁に両腕で抑えつける。
「形勢逆転だな」
「……」
「何が起きたかわかってねえみたいだから教えてやるよ」
「親切ね」
絶対的有利な状況を作り上げた悪漢は、糸を引く口を大きく開けて汚く笑う。
「てめえが踏んだのはさっきてめえで撒いたローションだよ!まだ床のローションが乾いてないのを見つけた俺は気付かれないように位置を誘導して、てめえがそれを踏むように動いたんだよ!」
「なるほど、アタシは自分で自分の持ってきたものにまさに足元を掬われたってわけね」
わざと足がもつれたふりをして横にずれ、その様子を見た相手が反対側に回避するように方向をコントロールする。
見た目に似合わない、小技を効かせた頭脳プレーに意表を突かれたのは事実。
安易に外見から判断し、そういった類の知恵が回るはずが無い、と無意識に思い込んでいた油断がこの事態を招いてしまった。
「このまま押し出せばてめえはビルの下に真っ逆さまだ」
眼下に見える地上のごみ箱やガラクタが、とても小さく見える。
隣のビルとの隙間を強い風が流れ抜けた。
長い年月風雨にさらされ傷んだ外壁がぽろぽろと剥がれ、欠片がゆっくりと時間をかけて落ちてゆく。
「ここから落ちれば間違いなく助からないわね」
「命乞いでもするか?場合によっちゃ助けてやってもいいかもな」
厭らしく口の端を吊り上げる悪漢。
「アラ、優しいのね助けてくれるの?」
「ほら早く命乞いしてみろよ、情けなくみっともなくよォ!」
「言ったら本当に助けてくれるの?」
「いいから早くしろっ」
「…………」
唾を飛ばし怒号を上げる悪漢は完全に場を掌握したと確信し、仮面の男が出来る行動はもはや提案に乗る以外の選択肢は無い状況。
僅かな時間、無音の対峙の後、ゆっくりと口を開く。
「だが断る」
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