第5話「爆発寸前のようね」
突風が吹き抜けた。
葉子に向かって手を伸ばし、涎を垂らしていた悪漢には見えるはずもないが、その葉子の目には瞬間の出来事がはっきり映っていた。
5メートル以上は離れていたはずの二人の距離が怪人のマントがふわりと翻った、と思ったら次の瞬間には悪漢の真後ろにほぼ密着するぐらいまで接近。
体術なのかはたまた妖術の類か、流麗な手足の動作を見せると、悪漢の巨躯がまるで重力から解き放たれたかの如く浮き上がり、大きく縦回転。
すぐさま重力は役目を思い出し、巨体と床を激突させてフロア全体に小さい地震を起こした。
叩きつけられ仰向けに平らになった悪漢と、その様を悠然と見下ろすマントの男。
何故、自分を襲おうとしていた二人が、こんな形になっているのか葉子には全く理解できなかった。
呆気に取られる葉子に背を向け、ペットボトルから奇妙な液体を悪漢に向かって垂れ流していた怪人が、くるりと葉子の方に向きを変える。
「ひっ」
全身が強張り、喉が締まる。怪人はそのまま無言で、音もなく葉子へ向かって真っ直ぐ足を進めだす。
「嫌あぁーー!来ないで!」
「大丈夫よ、ワタシはあなたを助けに来たんだから」
ヒステリックに叫ぶ葉子に対して、怪人は至って平静に話しかける。
えっ、とたじろぐ葉子の目の前で怪人が立ち止まる。
間近で見上げる体格は、後方でローションの効果で滑り転げている悪漢には劣る。
しかし、そもそも悪漢が規格外の巨体なだけでこちらも十分に威圧感を感じさせる上背と横幅を持っている。
怯える葉子に相対して跪く怪人、その時ふいに窓からの風がフードをめくった。
中には、トランプのクイーン柄の顔を模した造りの被り物があった。
「おっと。顔を隠してるのは許してちょうだいね」
「気持ち悪い!こないでー!」
泣き叫びながら、ストッキングが破られ悪漢による引っ掻き傷が赤々と走る両脚をばたつかせ、怪人の体をマント越しに蹴って攻撃するも、
「傷つくわねぇ、これ結構気に入ってるのに」
当の怪人はまるで意に介さず、とぼけた口調。
まじまじと葉子を観察し、小さくため息を漏らしながら手を伸ばす。静かに葉子の頬を撫でる手は少し熱い。
「アラアラ、ぼろぼろね。顔も涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。美人が台無しよ」
「ひっ、嫌あぁ!」
「……やれやれ、お話にならないわね」
優しく話しかけるも混乱したままの葉子の耳には、声が届いていないようだった。どうしたものかと仮面の男がしばし黙考していると後ろから大声が。
「おい!何してやがる!」
地に手をつこうとしては滑って肘を打ち、膝を立てようとすれば滑って腰を強かにぶつける。
未だに立ち上がることもままならずローションまみれで暴れる悪漢が、唾を飛ばしながら喚く。
汚い声にクイーンの仮面は振り向きチラリと悪漢を一瞥、その様子を確認してから何事もなかったかのように葉子に向き直る。
「先にこっちね」
「え?」
「破ッ」
甲高いかけ声を発すると同時に、仮面の怪人の両手の親指が葉子の顎の下と頭頂部に突き立てられる。
「今日の事は全部忘れてもらうわ」
一段トーンの下がった声を聞いた途端に、葉子の両目から光が失われ目つきが虚ろになる。
全身の力が奪われ肩が落ち、脚が寝て、糸が切れた操り人形のように脱力し、気絶したかのようにおとなしくなる。
「今押したのは秘密のツボよ。少しの間静かにしててもらうわ。ちょっと強引な方法になっちゃったけど許して頂戴ね」
静かに穏やかに温かくゆっくりと語りかける。その口調はただただ優しい。
「怖かったわね、寒かったわね、でも安心なさい。このツボの効果で今日はぐっすり眠れるわ。そして明日、目が覚めたら今夜のことはすっかり記憶から消えていつも通り気持ち良く起きられる」
暖かに葉子の頭を撫で、ささくれ立ち腫れ上がっていた葉子の心を静めていく。
そのまますっくと立ち上がり、葉子の両手首を吊っている鎖に手をかけた。
その様子を後ろでもんどり打ちながら見ていた悪漢が叫ぶ。
「コラ!何する気だ!?」
「ウルサイ奴ね…この後すぐに相手してあげるわ!」
喧しい声を背中で軽くあしらい、乱雑に絡みつき縛り上げている鎖を丁寧に解いていく。
「ハイ、できた。解けたわ。今まで痛かったでしょう。……アラ、少し怪我してるわね」
そう言うと右手をマントの中に突っ込みゴソゴソとまさぐり、絆創膏と包帯を取り出す。
「これくらいなら傷痕は残らないでしょう。……たぶん」
擦り切れ、少し血が滲んでいる。白く細い葉子の手首を丁寧に手当しながら、どこか気まずそうに軽い所見を零す。
こんなところね、と呟いたのち羽織っていたマントを脱ぎ、葉子にふわりと掛ける。
「ここでもう一度……破っ!」
再びの掛け声とともに、今度は葉子の左右のこめかみに両手の親指を突き立てる。
「見られるといろいろと面倒だから今すぐ眠っといてもらうわ」
親指を離すと同時にかくんと葉子の首が項垂れるのを見届けてから立ち上がり、くるりと踵を返す。
騒がしかった背中が静けさを取り戻し、ただならぬ気配を音も無く漂わせている。
「おまたせ。アラアラ、爆発寸前のようね」
「……あぁ、さっきまでとは違う意味でな」
両足で床を捉え前のめりに立ち、肩を大きく上下させて息をする悪漢と、余計な力が入っていない自然な姿で真っ直ぐに立つクイーンの仮面の男が3メートル程度の間合いで睨み合う。
窓からの風が二人の間で渦を巻き、床の塵芥を巻き上げていた。
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