第2話「先輩、葉子ちゃんが何か言いたい事があるそうですよ?」
◇
「やったじゃん、葉子」
「ありがとう、梨紗」
わざわざ日本から上海くんだりの支社までやってきた出張。
その中での最大の案件だった商談が成功に終わり、支社ビルの正面ロータリーから商談相手を乗せたリムジンがゆっくりと出発するのを見送った後の廊下で手を取り合って喜ぶ二人。
子供のようにはしゃぐ葉子の背中によく聞き馴染んだ声が掛かる。
「よく頑張ったね葉子君」
「あ、ありがとうございます先輩っ」
跳ねるように振り返り、笑顔を見せる葉子。
そんな葉子の輝いた表情を横から見る梨紗が小声で話しかける。
「イケるって!今日の打ち上げで言っちゃいなよ!」
「えぇ~!?いや無理だってぇ」
「大丈夫だって!酔った勢いでドバっと気持ちをぶちまけちゃおう」
「私、お酒弱いの知ってるでしょ?別のものぶちまけちゃいそうだよ……」
目の前で女性二人が耳打ちし合っているのは訝しい物。たまらず先輩と呼ばれた男が訊ねる。
「何ヒソヒソ話してるの?」
「いえ、こっちのことです!」
顔を赤くした葉子が胸の前で両手をぶんぶん振る。
「先輩、葉子ちゃんが何か言いたい事があるそうですよ?」
「ちょっと梨紗!」
葉子が梨紗の肩をばしっと叩くが、梨紗はいたずらっぽく笑う。
その様子を見ていた先輩は困惑げに、
「いやぁ、女性から言いたい事があるっていう時ってだいたい嫌な予感しかしないんだけど」
言いながら苦笑いして頬を掻く。
「さぁ、なんでしょうね」
梨紗がにやついた顔を見せる。
「もういいからっ」
葉子が強引に梨紗の両肩を引いて下がらせる。
はしゃぐ二人の空気が一段落したのを見た男は表情を引き締め、
「嬉しいのはわかるけど、この後の打ち上げであんまりはしゃぎすぎないように。ここは日本とは違うんだから」
軽く釘を刺す。しかし、気分の上がったままの葉子にはその言葉は刺さらない。
「はーい、わかってまーす」
「本当にわかってんのかな」
「先輩、今日の打ち上げはこないだも行った大龍飯店ですからね!」
いつもよりトーンの上がった声の葉子に、あまり冷や水を掛けるのも可哀想かと諦めた様子で、
「あぁ、わかってるよ」
男は呆れ笑いを返した。
◇
葉子が目を覚ますと、薄暗く雑然とした空間が広がっていた。
コンクリートの壁にずらりと嵌め込まれた窓から、赤や緑、黄色や青など色とりどりの光が差し込む。
隣接するビルに設置されているネオン看板の光に照らされ、室内の乱雑さが照らし出される。
冷たいコンクリートの床に雑多に積み上げられたオフィス用のスチール製のデスクや椅子、テーブルにロッカー等が散乱し、さながら密林を形成している有様。
ぼんやりしていた意識が徐々に覚醒していき、身体を動かそうとした瞬間、肩や手首に鋭く痛みが走る。見ると、自分は床に座らされ両手首が一纏めに縛られて上方から鎖で吊られているのだ。
頭上から手首に繋がる鎖は太く長く、鈍く光っている。解こうとして揺すると重々しい金属的な物音だけが静かな部屋に反響する。
その音を合図にしたかのように、野太く濁った声がどこからともなく空間に響く。
「よぉ、お目覚めかいオネエチャン」
まだ醒めきっていない葉子には何が起きているのか把握しきれず、虚ろな様子に声は続く。
「まだ、どういう状況かわかってねぇみたいだな。そりゃそうか。」
直後、葉子の脳内がスパークし、自分に何が起き何をされたのか記憶がフラッシュバックする。
背筋に冷気が走り一気に心臓の鼓動が早まっていく。
あれからどれくらいの時間が経っているのか、意識を失っている間に自分に何かされているのではないか。
しかし身体を見ると特に衣服の乱れは無いようだ。
「……っ」
重々しい足音に目線を上げると、積み上げられたガラクタの暗闇から大きな影が現れ、窓から差し込むネオンの原色の光にその姿が映し出される。
2メートルに迫るであろう身の丈に、熊のような極太の巨躯。初めて見る男の顔は手入れとは無縁の伸び放題の髪と髭。その髭から覗く口には数ヶ所、隙間の開いた歯が見えていた。
「たいへんだったぜぇ?オネエチャン気絶しながらオエーってよぉ」
「ひっ……嫌っ」
大げさなジェスチャーで茶化すような男の仕草に、羞恥心と恐怖心がごちゃ混ぜになり混沌とした不快感が胃の底から立ち上る。
「あなた、誰……?」
「オレが誰か、なんてどうでもいいじゃねぇか。オレからすればオネエチャンが何処の誰かなんて興味ねぇ。どうせオメエは今からオレにオモチャにされて飽きたら山奥にポイ捨てされるっていう、それだけの存在よ」
男は大仰に腕を広げ不敵に口を開け笑い、歯と歯に糸を引く唾に光を反射させる。
あまりにも簡単に、軽々しく告げられた悍ましい宣言に葉子の脳が停止する。
一瞬の忘失の後、これから起こる避けようの無い恐怖を悟り身が竦む。抑えきれない震えが葉子の歯をカチカチ鳴らしていた。
「だ、誰かぁ……」
いるかもしれない誰かが来てくれるかもしれない。来てくれさえすればこの状況をきっと終わらせられる。そんな儚い希望に縋るように勇気を振り絞り助けを求めた。
しかし竦み上がった喉は命令に反し、自分でも恥ずかしくなる程情けない小さくか細い声がやっと出た程度。
「はぁ?何か言ったか?」
当然ながら数メートル先の男にも聞き取れないような声では、誰にも届かない。
危機感など微塵も感じていない重い足音をさせ、大男は真正面から真っ直ぐ近づいてくる。
「ほぉ、女の体をしてりゃ顔なんてどうでもいいと思ってたがオネエチャンよく見るとなかなか美人だな。こりゃしばらく遊べそうだな」
太く角ばった指が葉子の細い顎を持ち上げ、一直線に見つめながら葉子の顔を品定めする。
下卑た笑いに開かれた口から、酒の臭いと腐臭が混じりあった悪臭がとめどなく漏れ出す。
見つめる目線は微塵の揺れもなく据わっていて、瞳孔が大きく開いている。
暗く輝きの無い瞳は、ただのアルコールに溺れただけの者ではない不気味さを発していた。
気色の悪い嫌悪感から葉子はたまらず顔を逸らす。
「い、嫌あぁぁ!」
「お、少しは声が出てきたじゃねえか」
男は余裕の表情を崩すこと無くにやつき、反抗の態度を見せる非力な獲物をまるで可愛らしい物を見るかのように眺める。
その気になれば力でいつでも、いくらでも、どうとでも出来るという自らの膂力に対する揺ぎ無い絶対の自信がその余裕の根源だろう。
「っ!……!」
縛られている両手を揺らして鎖を鳴らし、すらりと伸びた両脚を振り回し男を蹴って暴れる葉子。
しかし、その必死の抵抗も床に座らされ両手の自由を奪われている現在の体勢はどうしても脚に力が入りにくい。男へはさほどのダメージも与えられていないのが逆に脚を通して伝わってしまう。
案の定、男は歪な笑みを浮かべたまま、
「少しは嫌がってくれねえとむしろ楽しくねえからなっ」
言いながら大きな掌を広げ、暴れる葉子の右脚を子猫を抑えつけるかの如くいとも簡単に片手で制す。
床にめり込みそうな程の力で抑えられ、激しい痛みに葉子の顔が苦悶に歪む。
「痛っ」
「全力で嫌がる女を無理矢理男の力でこじ開けて、犯してやるのが最高に気持ちいいんだよなぁ!」
見開かれた双眸に、大きく開けた口で男は厭らしく嗤う。
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