クイーンマスク! ~悪党にせいなる裁きを~

猫燕

第1話「もう気絶しちまったか」

 二つの足音が闇夜にけたたましく響く。


 息を上げながら必死に走るオフィスワークスタイルの若い女と、追う男。


 男の格好は、恐らく幾つもの年月着続けろくに洗濯もしていないであろう不潔感、不衛生さを全身から醸し出している。


 とっくに夜は深まり、もう人気の無くなった線路沿いの細路地を二人が駆け抜ける。


「へへ……、逃がさねえよ」


 いやらしく笑う男の口から粘度の有る呟きが漏れた。

 どうしてこんなことになってしまったのか。


 女は迂闊だった。


 ◇ 


 出張でやってきた上海、そこでの大きな仕事の一段落と給料日が重なり、同僚で友達の梨紗と仕事の打ち上げの居酒屋から屋台数軒のはしご。ついはしゃぎすぎていつもは出歩かない時間まで遊び、遅れてしまった。


 まぁいいやどっかでタクシー拾えばいいし、と簡単に考えふらふらした足取りで歩き出す葉子。


「じゃあね~、梨紗~!」

「ちょっと葉子、大丈夫?ちゃんと帰れる?」

「ダイジョブダイジョブ!」


 途中で梨紗と別れてからも、ほろ酔いで良い気分のまま歩き続ける。夜風が葉子の頬を撫でていく。


「涼し~」


 道中、仕事の打ち上げ会という名の酒盛りが大いに盛り上がった居酒屋でのお喋りを思い出し笑いしたり、出張で上海に一緒に来たメンバーをまとめるリーダー役の先輩に褒められた事を思い出してニヤついたりしていた。


 この先輩は聞くところによると、週末はフットサルや草野球に参加しているらしく、なかなかに引き締まった身体をしている。

 時々腕まくりをした時に見せる筋張った前腕はオフィスワーカーには不釣り合いな隆起を見せ、同僚女性社員の視線を密かに集めている。


 優し気な笑顔と白く輝く歯が爽やかさを感じさせ、女子更衣室で話題に上がることも多い。葉子もそんな先輩に惹かれている自分を自覚していた。


 仕事の達成感に高揚しアルコールとほのかな恋心に浮かれたまま適当に歩くうちに路地に入り込み、周囲の街灯が少なくなっていく。


 今、自分が見覚えのない場所にいる事に葉子が気が付いたのは、背後の一つの足音が聞こえたのと同時だった。


(え、誰かついてきてる……?それにこの場所何処?)


 いつのまにか辺りに人影はなくなり、人の営みを感じさせない閑散とした建物が葉子を取り囲んでいる。

 かつては商店や飲食店や民家だったのだろうか、木造の建造物が大小連なっている。

 だがそれらのどれもが壁に穴が空いていたり、屋根が落ちていたり、建物自体が大きく傾いているものもあり、現役を終えたとしか思えない物ばかりである。


 上海に出張でやってきて以来、立ち入ったことの無いエリアが醸し出す雰囲気に葉子の肝が冷えていく。

 そんな環境で自分と一定の距離を空けつつ、いつまでも消えることの無い足音。


 わざと二回、左に路地を曲がってみてもついてきている。


 嫌な予感が考えたくない事態を想起させ、途端に潮が引くように酔いが醒めていく。心臓が早鐘を打ち、さっきまで熱くなっていた手足が急速に温度を失う。

 口の中が乾き、手のひらに冷たい汗が滲みながら、大通りに出たい一心で振り返る事無くひたすら歩き続ける葉子。


 立ち並ぶ街灯は消えかけ、点滅しながら青白い顔を照らす。

 背後の足音はおおよそ街灯二本程度の距離を保ちながら未だ、居なくならない。


 たまたま同じ方向に向かう人なのかもしれない。もしかすると自分と同じ女性かもしれない。そうだ、もしかしたら私を心配してついてきた梨紗かも。

 恐怖心をかき消そうとする葉子に様々な考えが逡巡する。


 意を決し路地の角を曲がる瞬間、追跡者を刺激することが無いようそっと顔をチラリと横に向け後ろの影を視界に捉えようと試みる葉子。


「……っ」


 わずかな希望的観測はその存在を目にした瞬間に、破裂し消滅した。

 視界が点滅し、熊のような大きなシルエットが映る。街灯に照らされわずかに見えた口元は怪しく歪む。


 即座に目線を外し、見なかったことにしようと早足で歩き出す葉子。それと同時に後方で何かが弾ける音の後、雄々しく連続する地鳴りが葉子の鼓膜を連打する。


 全身の細胞という細胞が全力で警鐘を鳴らし、心臓が破裂しそうな程高鳴る。

 葉子は考えるより先に全力で駆け出していた。


 ――狙われている。追いかけられている。


 濃褐色の長く毛先にウェーブがかかった髪を振り乱し、がむしゃらに逃げる葉子。しかし無情にも後ろから迫る野蛮な足音は少しずつ、そして確実に大きくなって来る。


「はぁっ……、はぁ……!」


 葉子の上背は平均的な日本人女性より少し高く、見た目にはスポーティな印象を与える。

 が、それは両親からの遺伝的なもので葉子自身、運動が得意なわけではない。


 学生時代も運動部で汗を流したという事は無く、それどころか体育の授業でさえもおざなりにごまかし、主に同級生とのお喋りに華を咲かせていた。


 幼少期から大人になった現在まで、これといった運動をしてきていない葉子の身体は、あっという間に悲鳴を上げ脳からの命令を聞かなくなる。


 どれだけ空気を吸い込んでも息は苦しく、脇腹は万力で締め上げられているかの如く鋭い痛みを発する。鉛に変化したと錯覚させるほど靴が重く感じ、足を地面に引っ張る。


 今日に限っての葉子の格好も不運であった。あるいは後方に迫る影は狡猾にそれを見定めていたのか。


 ◇


「よくやったね」

「ありがとうございます!」


 大事なプレゼン会議の日だからと、気合いを入れるつもりで普段よりヒールの高めの靴に、いつもは履かないタイトなスカートで出社。その成果もあったかプレゼンは成功、これからのさらなる仕事の発展に先輩や同僚の期待を集めた。


 ◇


 今朝の選択がまさかこんな時にこんな形で裏目に出るなんて、想像もしていなかった。いや、本来は想像するべくも無い事態に陥るなんて。

 みるみるうちに走る葉子の脚はもつれ、上半身と下半身の動きの連携は崩れていく。


 焦燥心にかられ後ろから迫る脅威との距離を確認しようとつい振り返った時、


「あっ」


 地面のアスファルトに走る僅かなひび割れにつま先を引っ掛け、体勢が大きく乱れる。

 そのまますぐ側に立っていた電柱が勢いよく眼前に飛び込んでくる。


 顔を守るように咄嗟に身体を捻り、なんとか正面衝突を避けるが肩を強打。

 衝撃で視界に星が飛び、抑えきれない慣性が葉子の肢体を振り回しその場に倒れこむ。起き上がるまで一瞬の意識の混濁があった。


「うぅ」


 後方の影にはその一瞬で十分だった。


「へへ、ゲットぉ……」


 立ち上がろうとした葉子の襟を乱暴に後ろから掴み、暴力的に引っ張る。

 ついに葉子と影は間近で顔を合わせてしまう。


 街灯の薄明かりを背中に浴び、暗い顔ははっきりとは見えない。

 しかしその体格は葉子より二回り三回り程は大きく、か細い葉子の腕ではどれだけ力を振り絞って暴力行為で抵抗しようとも、期待する成果は全く得られる事はないだろうと一瞬ではっきりと悟らせる。


「き」


 反射的に声を上げようとした葉子。その瞬間強い衝撃が走る。

 細く柔らかい鳩尾に男が固く握りしめた拳がめり込み、葉子の身体がくの字に折れ曲がる。


 一瞬、体重が軽くなる錯覚をする程の突き上げる衝撃に意識が遠のく。


「うっ……げ」

「おっと、声は出させねえよ。ん、もう気絶しちまったか……」


 岩とも思わせる男の左の拳が内臓を強く圧迫。舌根に苦味と酸味のあるものが上がってくるのを感じながら、葉子の意識は落ちた。


「よっと」


 葉子の身体を軽々しく自らの肩に担ぎ上げた男は周囲をぐるりと確認したのち悠々と歩き出し、廃墟街の暗闇に消えた。

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