第2章:ご職業は何ですか?

P3

 小説のページ上に並ぶのは文字だけだけど、作者の頭の中には文字にされる以上の景色がある。


 直接的には描写されていない光や音、におい、温度、空気、その空間を構成する何もかも。それをどれだけさりげなく作中に醸すことができるかは、作者の腕の見せ所だと思う。


「ふ……んーっ!!」


 何が言いたいかというと。


「世界観の文明レベルよりはるかに発達してる寝具にしといて良かった……っ!!」


 布団と寝台は寝心地がいいに限るっ!!


 かつての私、グッジョブ! と心の中で歓声を上げながら私は寝台の中で伸びをした。板の扉が付けられた窓の隙間から微かに朝日が差し込んでいる。


 その光景と、寝台の中から見える景色を改めて見つめて、私はポツリと言葉を零した。


「……夢じゃ、なかったんだ」


 昨日、私はこの世界に転移してきた……らしい。かつて自分が執筆していた世界、『絶華ぜっかちぎり』の世界に。


 今、私の視界に映っているのは、私が想像していた通りの……いや、それ以上にリアルな世界だった。


 石を積み上げて造られた壁に、板張りの床。中華色が強い調度品。どこか和の色も感じるけど生活様式は中華色が強くて、家の中も靴を履いて行動することが前提の造りになっている。


 ──昔、紅珠こうじゅの家の間取り図とか、夢中で作ったりしてたな。


 もちろんここは『絶華』の主人公である紅珠の家ではないけれど、紅珠の自宅は下町の一般的な家で、周囲の家もみんな似たような造りになっているという設定もしていたから、多分その設定が生きているのだろう。昨日の騒動の後、澄村すみむらさんが連れてきてくれたこの家は、かつて私が間取り図を引いたり外観図を描いたりしていた家とよく似ていた。


 思わず、切なさに胸を突かれた。かつての何もかもが楽しかった自分と自殺を考えていた自分の落差とか。その楽しさの中で夢中になって創り上げた世界の中にいることとか。昨日自分がそんな世界に蔓延している矛盾を斬ったこととか。でもその矛盾はこの世界の続きを望んでくれた読者の念が創り上げたものだったこととか。


 そんな色んな感情が胸の中に収まりきらなくて、痛みに近い切なさが私の中を暴れ回る。


 だけど、いつ何時でも己の肉体はマイペースなわけで。


「……多少は空気を読むってことができないのかな、私の胃腸は」


 ぐぅぅ、ぎゅるるるるる……と、それこそ妖怪の唸り声か何かかと言いたくなるような音で私の胃腸が空腹の悲鳴を上げた。……いや、確かに昨日は色々疲れてて、ここに案内された途端に寝落ちちゃったけどさ……。創作者として『情緒』とか『雰囲気』とかは大切にしたいわけですよ。お分かり? 私の胃腸よ。


「でもまぁ、何かは食べないと」


 腹が減っては戦はできない。現状、何と戦えばいいのかも分からないけれど。


 そして何も分からないまま転移生活二日目を迎えた私だけども、とりあえず食料を持っていて当面の目的を知っていそうな人物には心当たりがある。


 私は寝台から降りると靴を履いて部屋から出た。細い廊下の突き当たりには階下へ続く階段がある。下町の家はみんな敷地面積が狭くて、路地に面して細長い土地に二階建ての家がすし詰め状態で建てられている。大体台所と居間が下で、二階は寝室や物置。トイレは外。井戸はご近所さん何件かで共有で、お風呂は湯屋へ行く。


 ちなみにお貴族様になると屋敷の敷地面積が増えて、建物は平屋建てになる。トイレが室内に作られるようになって、お風呂や井戸も個人の敷地内に造られる。


 ──そんな感じの住宅事情は、日本の江戸時代を参考にしたんだったっけ?


 そんなことを思いながら恐る恐る階段を降りた。階段を降り切ると右手に玄関、左手には居間があって、台所は居間を突っ切ってさらに奥に入った場所にある。この家には台所とは別に居間から奥に入った場所に一部屋余分に部屋があるそうで、澄村さんはそこで寝起きをしているという話だった。


「お、おはよう、ございます」


 ──そういえば、澄村さんはどうやってこの家を手に入れたんだろう?


 声を上げながら居間の中を覗き込む。その瞬間に、ふとそんなことを思った。


 世知辛い話だけど、生きていくにはどこの世界でもお金が必要だ。読者として物語を外から楽しんでいる時は描写されている部分しか目に留まらないけれど、この世界の登場人物達には主人公からモブまで全員、物語に描かれていない部分も含めてそれぞれに生活がある。


 ご飯を食べるためにはお金が必要だ。それ以外にだって衣食住の全てを整えて生きていくためにはそれなりの収入がなければならない。この絶対的なルールは物語の中に入り込んでしまった私達にも適用されるはずで、そこに作者だとか編集担当だとかいう特別扱いがあるわけがない。現に澄村さんはそのルールに従って今までやってきているはずだ。


 ──澄村さんがどれくらいこの世界にいるのかは分からないけれど……


「あ。おはようございます!」


 誰かの庇護を受けているようにも見えないということは、自力で何とかしてきたということか、あるいは最初は誰かに頼っていたけれど今は独立しているということか……なんて考えていたら、朝から華やかな声が居間の奥から聞こえてきた。ハッと顔を上げると、居間と台所を仕切る扉の向こうからピョコリと澄村さんが顔をのぞかせた所だった。


「浮かない顔をしてみえますけど、ちゃんと寝れました?」

「あ、はい。自分の設定に自分で感謝したくらいには」

「はははー! それ、私もこっちに来た当初よく思いました!」


 じゃあ、とりあえず朝ご飯にしましょうか! と明るく続けた澄村さんは、一度奥に引っ込むとお盆を手に居間に出てきた。素朴な白木のお盆の上にはどんぶりが二つ載せられていて、ホコホコと柔らかな湯気が上がっている。フワリと、優しくも胃腸を刺激する美味しい香りが一気に居間に立ち込めた。


氷咲こおざきさんの精神状態がちょっと分からなかったので、ショックを受けてて食が細くなってても食べられるかなーと思って水餃子のスープにしてみました。お口にあうと良いんですけども」


 そんな説明とともに澄村さんは居間の中心に置いてある机にお盆を置いた。近寄って中を覗き込むと琥珀色のスープの中にプリッと餅肌も美しい餃子が浮かんでいる。細かく刻んだ野菜と一緒に煮込まれた水餃子のスープは彩りも豊かで、香りのみならず視覚情報でも胃袋を刺激してくる一品だった。


「すごい……!!」

「さぁ、食べましょう!」


 澄村さんは明るく言うと台所から一番近い椅子に座った。玄関に一番近い場所にある椅子を引いた私とはちょうど差し向かいになる位置だ。


 ……そういえば、澄村さんはこの家に一人で暮らしているみたいなのに、ここの机には四辺に添って一脚ずつ、つまり四脚の椅子が置かれている。さらに居間の隅には使っていない丸椅子が重ねて置かれていた。空間に対してやたら椅子が多い。


「い、いただきます」


 そこに疑問は抱いたけれど、空腹が限界値に達していた私にとっては水餃子のスープの方が重要案件だ。


 ひとまず疑問を脇に退けた私は、これまた澄村さんが用意してくれたレンゲを使って水餃子を口に運ぶ。


「……!」


 その瞬間、私の中に衝撃が走った。


 ──ウッッマァァァァッ!!


 お、美味しい……!! 何これ、すごく美味しい! こんなに美味しい水餃子、今まで食べたことない……っ!!


 そう思った所で、私の記憶は一回途切れる。


 次に我に返った時、私の手の中にあるどんぶりは綺麗に空になっていた。


「……ハッ!?」

「いやぁ、いい食べっぷりでしたね」

「わ、私は一体……!?」

「意識飛ぶほど一心不乱にご飯食べてたんですか?」

「……お代わりって、ありますか?」

「ありますよ」


 結局、私が落ち着いて水餃子を噛みしめられるようになったのは、さらに追加で水餃子のスープが二杯空になった後だった。うぅ、さすがにお腹がチャポチャポいってる……


「澄村さん、質問があります」

「些細なことでも、気軽にお尋ねください」


 私が一心不乱に食事を終えた後も、澄村さんは噛みしめるように自分の水餃子のスープを食べていた。食べるのを惜しんでいる、というわけではなくて、元々食が細いんだろうなと思わせる食べ方だ。


 ──そういえば澄村さん、鬱で担当を降りたって話だったけど……


「澄村さんは、どうやってこの世界で暮らしているんですか?」


 私は一瞬だけ胸をよぎった不躾な質問を軽く頭を振って打ち消してから、改めて疑問を口に出した。


「この世界に入り込んでしまった以上……この世界の『モブ』と言える存在になってしまった以上、私達はこの世界で生計を立てなくては生きていけないはずです。状況から推察するに、澄村さんはそこそこ稼いでいるみたいですよね?」


 下町とはいえ一軒家持ち。スーツの上から羽織っているうちぎも、ヨレや擦れがない所から見るにありあわせの古着を拾ってきた、というわけではないのだろう。化粧っけこそないけど澄村さんは身綺麗にしているし、肌艶から見て健康的に生活しているということに間違いはないはずだ。


 それに何より、さっき水餃子のスープのお代わりをもらいに台所に入ったけれど、台所には食材や調味料が豊富にストックされていた。生活していけるスレスレラインよりもかなり余裕がある証拠だと思う。


「どうやって暮らしているのか、教えていただけませんか? それから、私がこの世界でどうやって生きていけばいいのかも、ご教授願えませんか?」


 私は真っ直ぐに澄村さんに質問をぶつけた。そんな私を澄村さんも真っ直ぐに見つめ返してくる。


「……さすがですね」


 そんな澄村さんが、ふと表情を緩めた。


「やっぱり作家さんは洞察力に優れているものなんでしょうか? あぁ、でも地に足がついた考え方は、きっと氷咲さん特有のものなんでしょうね」

「はい?」

「いえ。ご自身の作品の中に転生されたんです。もっとはしゃいでいてもいいんじゃないかと思ったものですから」

「……はしゃいでは、いますけども……」


 多分、これからだって、この世界の新たな一面に遭遇したら、感動したり、驚いたり、きっと煩いくらいにははしゃぐと思うけども。今はただ、そんな感情よりも不安や疑問が頭の大半を支配しているってだけで。


「それでも十分、冷静だと思いますよ」


 澄村さんは柔らかい笑みを浮かべるとどんぶりを両手で持ち上げた。グッとどんぶりのふちに口をつけてスープを飲み干せば、ようやく澄村さんのどんぶりが空になる。


「私は、確かにこの世界でそこそこに稼いでいます。競合他者があまりいない仕事をしていて、ありがたいことに評判も上々ですのでリピーターも多いんです」


 空になったどんぶりを机に戻した澄村さんは、そこまで口にしてからふと私から視線をそらした。私の後ろ……玄関の方に視線を向けている。


「その内容については、実際に仕事に同行してもらった方が分かりやすいかもしれませんね」

「え?」


 思わぬ言葉に私は首を傾げる。


 その瞬間、バタバタという忙しない音ともにバンッと勢いよく玄関の扉が開いた。チリンッと玄関扉につけられた鈴が鳴った時には、玄関と居間を仕切る衝立ついたてを弾き飛ばしそうな勢いで人影が転がり込んできている。


「先生っ!!」


 な、何事っ!? と固まる私になんて目もくれず、飛び込んできた男は澄村さんにすがりついた。


「助けてください澄村先生っ!!」


 ──澄村さん、この世界で『先生』なんて呼ばれてるんですか?


 そんな素朴な疑問も口に出せなかった私は、とりあえず水餃子のスープを喰いっぱぐれることがないように、自分のどんぶりに残っていた水餃子のスープを勢いよく飲み干したのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る