一本の大樹

紫鳥コウ

一本の大樹

 以下は、わたしの友人である、カーン君の遺書のひとつである。


 カーン君の死は、わたしにとって、ある種、予見できたものであったかもしれない。彼が、あらゆるものの「いま」に対して、繊細になっていたことは、わたしも承知していたからである。


 惜しいひとを亡くしたと思う。カーン君のようなひとが、「いま」には必要だったから。


   ――――――


 重なり合う木の葉の間からかすかに太陽が見えたとして、それがだれにとって喜ばしいのだろうか。まだらに落ちた光が森を洒脱しゃだつにするだけなのに。


 なるほど、葉脈は人間の血管と似ているようで、似ていないような気がする。だが、人間の血管と葉脈が似ているなんて、だれが言ったのか。答えは、だれでも。連想の自生的な効果の範疇はんちゅうに閉じこめられているのだから。


 そして血管に似ているという連想が、次々に展開し、氷河期にたどりついたところで、だれが驚くものか。連想は、切断されることなく無限に展開される。よって、血管と葉脈のアナロジーの連想から出発して、氷河期にたどりついたからといって、失笑されるいわれはない。


 氷が美的だと言い張る論者の多くは、その表面がかぎりなく変化すること、つまり気温が上がれば溶けて、下がれば固体に近づくことを、その論拠としている。しかしこうした論者の欺瞞ぎまんは、そうした氷の宿命を振りかざすことが、移り変わるものすべてに美が内在している、という結論を導きだす三段論法の存在を、隠匿いんとくしていることだ。


 春と夏を架橋する梅雨は、ひとを不愉快にして止まないし、思春期もまたそうであろう。暴力と性欲を抑えようと試みては、暴発を余儀なくされる、あの子供から大人への過渡期は、あらゆる人々に拒絶的な反応をもたらしうる。


 と、反駁はんばくする論者こそ、あまりにも論点をすり替えていることは、言うまでもない。


 それにしても、思春期の者を調教しようと鞭を打つ者、例えば教育者や家族への彼ら彼女らの反抗心は、刹那的であり暴力的で、そのレジスタンスを正当化する論拠は弱く、だとするならば、弁護士を雇うべきだとさえ思うものだが、無謀にも、捨て身で法廷に乗り込んでいく。死刑さえおそれない。彼ら彼女らは。


 月光が氷の上をすべっていく光景を、芸術的だと思える頃に戻れればいいのにと、多くの大人が深層で欲していることは隠しきれない。その大人たちは、口をそろえる。社会の歯車。この表現が的を射ていないということは、言うまでもない。


 社会の歯車という表現は、敷衍ふえんすれば、歯車どうしがかみあって有機的な動態となるということに他ならない。実際には、彼ら彼女らは、歪んだ形をした鉄の塊や、千切れた粘土のように疲れ切っていて、荒廃した土壌の上で陽光にかれているのだ。しかしこの現実は、社会の歯車という、たくましい想像力によってもみ消されている。


 果たして月光に温度があるのかどうか。しかし、そんなことに想いを馳せたところで、氷河期の夜の寂しさをねのけることはできない。いま、葉脈から始まった連想をより過剰に発展させることが要求されている。見える星を順繰りに繋げていくみたいに。際限もなく。


 ひとつ処にとどまると、そこを拠点に、ひとつの思想を共有した集団が形成される。こうした集団はあちこちで生まれる。そして、往々にして、同盟を結ぶことを拒絶する。集団の間で闘争が始まってしまえば、和睦わぼくができない。しかし闘争を放棄するという発想も存在しない。あるのは、敵と味方を峻別しゅんべつするための詭弁であり、永続的な戦争への欲求だけである。


 一本の大樹。枝が分化していき、それぞれが異なる場所で葉をつける。色づく場所は違うけれど、元はといえば、太いひとつの幹が母胎としてある。こうした感覚は、だれにでも生じうるが、果てしない連想が、そのことをかすめるのは、有限たりうるだろうか。


  ――Kahn(2nd Apr 2021)

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