第11話 月の光

 接客を行う平時の席の、区切られた一席は月光のために設えられた特等席。適度に狭く作業を滞らせない大きさであるこの部屋は、誰にも立ち入ることのできない二人だけに許された特別なものだ。

 何十年も通い、座りなれた席に腰かけると、体が覚えているのか自然と最適な姿勢へ動く。

「ほぅ……」

 柔らかなクッションが腰を支え、背中をゆっくりと伸ばしてゆくと、安堵のため息が意図することなく漏れ出る。明るすぎない照明が眠気を誘う。

 時計のないこの閉鎖空間に一度入ると、時間の感覚が消失する。ただ穏やかに水中に留まっているような、羊水を思わせる静謐さと内包感がこの身を支配するのだ。

 木崎は毛先の一本一本すら取りこぼさないよう丁寧なカットを心掛けている。反物を扱うかのようにその色艶を確かめ、ときおり感心して熱い息を吐いた。

 月光はその様子、もとい自分の髪でさえあまり頓着がなく、熱心に手入れする木崎を鏡越しに眺めている。

「ふふ。いつ見ても綺麗な髪ね……」

 耳元で囁く低い声は我が子を慈しむように甘く優しい。

 髪を這いまわる鋏。夢を見始める前から真似事に付き合わされ度々背中を預けたことを思い出す。あの無知で狭く閉ざされた世界に浸っていた時代の二人には、今の関係を予想することは出来なかったに違いない。

 変わりゆく月光を誰よりも近くで見つめ、慈しみ、愛してくれた。そして今でも支えであり背中を追い続ける憧れの存在であり続けている。それが何よりも嬉しかった。

『眉間の皺、取れたのね。今までのあなたはほら、ずっと苦しそうだったから』

 夢を初めて見たその日の夜、身体の急激な変貌に心身がついてゆけず、木崎の元へ転がり込んだ時、顔を見るなり発した第一声がそれだ。容姿こそ面影は残っていたものの、一目で判別されたのには驚かされた。

 月光自身も気が動転していたこともあって名乗ることを失念していたが、あまりに自然と認識されたものであるから、呆気に取られた。

顔立ちや身長こそたいした差はなかったが、第一に骨格が二次性徴を迎えた男のそれではなくなり完全な女性のものへと変わっていたからである。

『最初はメイクをしてみたのかと思ったの。でも男の子の体つきじゃなかったから、きっと神様の贈り物だって』

 どこから月光であるのかと推測し、突飛な考えを思いつけたのかは今になっても分からない。だが、ありのままの姿を受容してくれるだけで十分な救いなのだ。

 月光にとって夢の到来は願ってもない特異点であり、叶えられないはずの願望を実現させる人知を超えた力であった。精神をそっくりそのまま別の体に入れ替えたかのような感覚。それは時間の経過と共に馴染んで気にならなくなった。

 木崎に憧れを持ったのが原体験ではあったが、自己投影を行うことはなく、あくまでも振る舞いとしての性別は以前と同じ言動のままであることに努めた。月光はそこにさしたるこだわりを持たない。育ちが粗野であるから人によっては顔をしかめることもあるが気に留めたことはない。

 求める性別になれたことに対する喜びも束の間、言わずもがな現在もその感情を噛みしめてはいるのだが、夢といった特殊な環境下という極めて限定的な状態で普遍的に見られる身体能力の向上が新たな悩みの種になった。

「ねえ、今日あなたが助けた――ヒナって言ったかしら」

 黙りこくった月光へ木崎が水を向ける。

「ああ。それが……どうした?」

「強い子なのね。夢を見ずに立ち向かったんでしょう?」

「そう。でも私がすぐに戦っていれば、ヒナはあんなことせずに済んだんだ。だけど……」

 不運にも事件に巻き込まれ、勇敢にも戦うこととなった一人の少女。紅に焚きつけられたにせよ、身一つで加害者と対峙した戦士である。無謀な立ち回りは評価されるべきではないが。

 月光がヒナを無理やりにでも制止すればヒナが夢を見ることはなかったのかもしれない。そうしなかったのは、できなかったのは月光自身が初めて守られたから。

 夢を見ていれば、常人の何倍もの膂力が行使できる。姿を変えたことによる肉体の変化が影響しているのだろう。月光が力を得たと同時期に、様々な不可能犯罪が増えた。どれも夢の特性に似た条件を悪用したと思われる手口で、実際問い詰めると案の定その通りだった。

 同族嫌悪ではないが、同じく力を持った者として悪しき者を排除する義務感に駆られた。可能であれば説得に留めたが、犯罪を犯したほとんどの者は抵抗し、月光もまた武力による対抗でそれらを殺害し続けた。

 桃源郷に誘われたのも同時期で、彼女らは夢を見ない者たちであったから自ずと矢面に立つのは月光のみ。孤独な戦いを強いられ、次第に疲弊していった。殺害方法も、相対して制圧するやり方から背後から奇襲して一息で仕留めるように効率化した。

 ジレンマに苛まされる中、目の前にひらりと現れたヒナの背中は大きく、はためく黒いスカートは薄暗い店内で最も眩しく光り輝いて見えた。彼女の震える体に視線をやると痛ましかったが、武者震いにも思えた。細くも毅然と立ち向かう姿に圧倒され、全身の力が抜けた。

「この子なら、もしかしたら私を助けてくれるかもって考えたら……」

 背中に隠れ、縋りつきたくなった。肩の荷がすっと下りたかのような虚脱感に身を任せたのだ。

「助けたはずなのに、助けたあなたが救われたのね。持ちつ持たれつ、いい言葉じゃない」

「だけどそれは一時しのぎなんだよ。結局のところ私が決着をつけないといけない。これ以上あの子を危険な目に――いや、あの子を虎に仕立て上げることはしたくないから」

 件の暴力男がヒナによって圧倒され、保身のため自ら変身を解除したとき、ヒナは応じた素振りを見せておいて加害を止めなかった。幾発もの拳が男の顔に叩きつけられ悲鳴すら聞こえなくなったあたりで実はヒナの夢も醒めていた。

 夢か現かの違いも分からないぐらいに暴力に陶酔し夢中で殴り続けていたのだ。その時点でヒナの大義は消滅し個人の愉悦のためだけに集約された。条件を満たせなくなったヒナの夢はたちまち消え去ったのだ。

「だからまた私は戦うよ。どんなことがあっても、やらなくちゃ」

 その声は鼻濁音が言葉に混じったように全ての音が濁っていた。日が昇りつつあった。月光の夢も醒める時間が到来しつつある。

「やっぱりこの時間のあなたが一番好き……すべてが曖昧になってゆくから、ね」

 発声の異変に気付いた月光が諦めたように目を閉じた。夢の終わり、現実への回帰は彼にとって好ましいものでなく、夢こそがより本質の月光として生きていられるから。

 木崎は骨格すらどっちつかずに変質してゆく月光を愛おしそうに見つめ、囁いた。

「ね、今日は疲れたでしょう。だから……。おやすみなさいな」

 月光は落ちてゆくように眠りの世界へと誘われていった。

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