第10話 愛して愛して愛して
バーバーズショップ木崎。桃源郷と同じ街にひっそりと佇む個人経営の理容店だ。 店主のこだわりが凝縮されたこの店は女店主がひとりで切り盛りしている。連絡を入れれば夜間でもある程度対応してもらえることから、夜を生業とする客がよく利用する。
眠らない街を支える一軒であるこの店が唯一臨時休業するのは彼女が来店したときだ。
その時は唐突にやってくる。
鍵のかかったドアを遠慮がちにノックする音が、奥で食事を摂っていた彼女の耳に届いたのは日付を跨いだ頃。静まりかえったリビングでの咀嚼音は容易にそれに上書きされた。
手元のスマートフォンで予約の有無を確認するも、本日来るべき者は誰もいない。飛び入りか掟を解さぬ新参者か。あるいは――と淡い期待を抱きつつ嘆息して店の鍵を外した。
「ごめんなさいね。夜は予約しかやってないの――あら、来てくれたのね。嬉しいわ」
常套句を述べつつ開けたドアの向かいで待っていたのは、ひどく落ち込んだ様子の月光。優しく出迎えた木崎に申し訳なさそうに視線を送る様は家出をした子供のようである。
頬に手を添えうっとりとした表情で見上げた木崎はさながら愛しい我が子を見る母親で、それに縋る月光もまた、親に甘える幼子である。
汗と埃にまみれた髪は艶を失ってみすぼらしく、ほんのりと漂った鉄錆の匂いが、ここを訪れる前に起きた出来事をありありと想像させた。また月光は死を超えてきたのだと、考えるまでもなかった。
「ほら、奥に……わっ――」
ドアを閉める余韻を待たずに月光は強引に唇を重ねた。人工的な灯りを背負い夜を連れてきた外の景色は色を失う。木崎はゆっくりと瞼を閉ざすと、添えていた両腕を首筋に回した。漂っていた死の香りが木崎の香水と混ざり合って中和されてゆく。
縋るように何度も重ねられた唇はつながりを次第に深めた。木崎が絡める舌は熱く、触れるたびに火傷を負いそうなぐらいに月光のそれも感応する。
突きあげられ形を歪めて密着する豊かな胸が、高められ悦びに満ちる心の内の拍動を直に伝わらせている。わずかに早く、打ち返す波に似てはっきりとした安らぎが、月光を包んでいた。
「今日はずいぶん求めるのね……」
引き離された舌と舌の間で唾液が橋となって細長く伸び、ぷつりと切れた。交差する眼差しはさながら火にくべられた栗で、いつ弾けるかも知れない。燃え盛る思いは収まることはなく、唇から流れ出した唾液に木崎は舌を這わせる。
「でもね、これ以上はおあずけ。こんなに苦しそうなあなたと、私はしたくないから。だから、ね」
伸ばされた手をやんわりと制し、ソファに腰かけ、膝の上に寝かせる。されるがままに寝転がった月光を見下ろして、さわさわと頬や髪を撫でる。肉付きの良い大腿部にほどよく頭が沈み込んで心地よかった。
視界を占めるのは木崎のみで、それ以外には何も映っていない。瞳に反射した己の陰鬱とした顔が唯一の部外者だった。眠たげに薄く開かれた、光をすべて吸収してしまうのではないかと思わせるほどに黒い瞳が月光を捉え続けている。
「なんでもいいの。あなたが話したいことを私はみんな聞いてあげるから」
ルージュの落ちた唇から紡がれる言葉は甘く蠱惑的に月光の心に根を伸ばし、侵食してゆく。身も心も委ねてしまいたくなる誘惑に抗うことはできそうになかった。
請け負っていた依頼の被害者を助けたこと。その子が夢を見て月光の代わりに加害者を自らの手で虐殺したこと。殺すのが辛くてたまらないことをぽつりぽつりと話した。
絞り出す言葉の一つ一つを嚙み砕くように聞き入れ、頷いて相づちを打つたびに髪が揺れ木崎の匂いが香った。綺麗に染められた金髪の毛先が肌に触れ、くすぐったかった。
「紅にも言われたんだ。私は中途半端で、なんにもできやしないのに首ばっか突っ込んで……」
月光もまた夢を見る者である。力を持っているが故、手を差し伸べられる者には極力助けようとし、実際に何人かは窮地から救ってきた。必要ならば暴力も行使し、退けてきた。
救うことさえ出来ればそれでよかった。だが夢は牙を剥き、悲しむ人がいなくなることはなかった。仕方がなく拳を振るうと、脅威はあっさりと斃れた。人の手を取るために伸ばした手はいつしか骨を砕き血肉を露わにするために突き出されるようになり、醜く汚れていった。
「辛くて辛くて……でも私が決めたから。私がいないと、悲しむ人を笑顔にしてあげることができなくなるから」
心が折れる寸前で崖っぷちのぎりぎりに立ち、戦い続けてきた。桃源郷は月光を支援するために設立された組織だ。終わることのない地獄でも、誰かがやり続けなければならなかったから。
「そうね……あなたはすっと独りで戦っているわ。『声ある者は幸福也』。声を上げられない人を救いたい一心でときには誰かの命を奪っているのよね」
入り込んだが最後、逃れられない沼にはまった月光にとって終局は死かすべての夢を殺害する他にない。それでも唯一の逃げ道として縋るのが木崎だった。彼女は月光の夢を理解するただ一人の女で、姉のようであり、恋人であり家族であり、すべてのきっかけでもあった。
どうしようもなく心が疲れ果てたときに月光はこの店を訪れる。髪を切るのはそのついで、コミュニケーションとしてのきっかけに過ぎない。
木崎は月光に助言することはほとんどない。堂々巡りの答えはその場しのぎの癒しにしかならず、逃れることの出来ない道で得た答えもなにもかもを月光は知っている。すべて自明のことであるから、ただ肯定しまた明日へと踏み出せるように慰めてやることしかしない。
「ふふ……愛しい人。とても不器用でまっすぐな、そんなあなたが好きよ」
スウェットに模様を作るほどに流れた涙をそっと拭い、前髪をかき上げて額に口づけする。
「大丈夫。私がここにいるから、ね?」
柔和にほほ笑む木崎の笑顔はどこまでも影がなく、春の夜を思わせる儚げな雰囲気に心が掬いとられ浮かんでゆく。
「落ち着いた?」
「ああ……」
起き上がった月光は再び木崎と唇を合わせた。互いの指を組み何度も握り合った。できるだけ多くの肌を触れ合わせていたかった。
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