第9話 MOTHER

 床やカウンターに飛散した肉片や凝固した血液を拭き取っていると、紅が口を開いた。

「しっかしド派手にやったねえ。ヒナちゃん。おかげで清掃に一苦労だ」

「ああ。そうだな」

 対する月光はどこか浮かない表情で、無心に手を動かし続けていた。

「まさかとは思ったけど、夢を解いた生身の人間を嬲り殺しにするなんて、な」

 店内にいた誰もが目を疑った光景だった。ヒナが様子を見に来ることまでは予想の範疇にあったのだが、百地を庇うどころか男に殴りかかるとまでは誰も想像のつかない事態だったのだ。

「そんでもって――」

 夢への目覚め。字面は逆のことを言っているように思えるが、これが正しい。煮詰められた感情の極致に到達したヒナは常人を超える力を得ることに成功し、同じく夢になっていた男を屠った。

 その姿は白い戦士と表すのが相応しい姿で、紅の言う特撮作品に登場するヒーローがそのまま顕現したようである。その振る舞いはむしろ悪人のそれであったが。相手が絶命するまで殴り続ける主人公などお茶の間では流せるわけがなく、いかなる場合であっても暴力は肯定されるべきではない。

「コレ、見てみろよ。失禁してやがるぜ。ざまあねえよな」

 物言わぬ肉塊となり果てた男の死体は撥水加工されたシートの上に安置されていた。それの股間部を指差して嘲笑する。確かに黒いスラックスは周囲が濡れて染みを作っていた。

「ん?アンモニア臭がしねえな。別の液体だな――どっちだと思う?」

「――っ、どっちって紅、お前……」

 驚愕に目を見開く月光の反応を愉快そうに眺めると、破損した調度品類を片付け終えた百地が彼らの輪に入ってきた。

「こちらはあらかた終わったよ」

 汚れた割烹着を放り投げると、濡れた手を振り回して男の前に腰を下ろした。人相が判別できないまでに損壊した頭部は血管が剥き出しているため、早急な処理を施さなければならない。

「近くで見ると、これは……なかなかの力だね。ぞくぞくするよ」

 死体を化しているといえども元は人間だったものだ。それをただのモノであるかのように扱う言い草は月光にとってはいつまでたっても慣れない。罪を犯し、分かり合えない存在であったとしても。

 鼻が潰れ頬は腫れ、歯は欠損し穴のようになった顔は見るも無残だ。それをあの可愛らしい年端もゆかぬ少女がやったのだと思うとやるせなく、そこまでに至る殺意の程はとてつもないものであると末恐ろしい。

「――これを私がするはずだった。しなければならなかった」

 男を見下ろして言う。懺悔するように訥々と言葉を吐き出す。月光は苦虫を嚙み潰す重い表情で。

「ああそうだな。この男はお前が殺すはずだった」

「だけど……どうしてあの子はあんなに怒っていたんだ。なにかに焚きつけられたみたいに」

 月光がヒナを手当している間まではヒナは男の仕打ちに煮えたぎっていた。それでも十分加害者を襲うに足る動機ではある。だが、ああまで執拗に殴り続けられるだろうか。

「なあ紅。お前何かしたか?」

「したっちゃあしたかな」

「おい!お前!」

 月光は紅の胸倉を掴んだ。しゃがんでいた紅の体が持ち上げられ、慌てて立ち上がる。

「おいおい落ち着けよ。だいたい、お前が踏み込んだ世界でいまだに足踏みしてるのは誰だ?」

「――っ。だけど!」

「だけど、なんだ?無理にでもあの時割って入ることぐらい、お前にできないはずはねえよな」

 言葉に詰まり、月光は口を噤んだ。何を言っても言い訳に思え、どう弁解しても空虚だった。紅は乱れた襟を直しながら追い打ちをかける。

「俺にも分かってんだよ。お前が人殺しなんざ出来やしないタマだってのは。ヒナちゃんを見てみろ。あんなに楽しそうにしていたんだぜ?それこそ適任じゃないか、そうだろ?」

「そんな、そんなはずはない……わ、わたしだって……」

 みるみるうちに月光の目には大粒の涙が溢れ、つつと流れ落ちる。必死で否定する様は駄々をこねる子供のように、分かりきっていることを無理にでも押し通そうとしている。

「泣くんじゃねえよ。いいか?あの子は逸材だ。ああまで純粋に感情を行使できる人材なんざまあいない」

 お前が押し付けたくなるのも頷けるよな。と付け足した。

「ちがう。ちがうんだ。私は……」

 言葉にならぬ否定をただ呪文のように呟いて、とめどなく溢れる涙を何度も拭った。カッターシャツの袖が涙で濡れ、色を濃く変化させている。

「何も違わないさ」

 泣きじゃくる月光を他所に、百地たちは男の一部をかき集めひとところに集め終えた。

「さて、ここからは紅君の領分だよ。月光君もほら、もう帰っていいよ。お疲れさま」

 こくりと頷いた月光は事務所へと消えてゆく。去ってゆく背中はひどく小さく見えた。

 紅はバツが悪そうにため息を一つ吐いた。シートに包みこれを運び出す無機質な音以外はくるくるとあざ笑うかのような換気扇の音だけが目立っ耳に障った。

「君さ、もっとこう言い方ってもがないのかい?流石の僕でも同情するよ」

「あの馬鹿は一人で抱え込み過ぎてんだ。人間は犬猫じゃないのにな」

「気になる女の子に素直になれない小学生か君は。それじゃあ嫌われる一方だよ」

「好かれようなんざ思っちゃいない。ただ、ぶっ倒れられちゃつまらないからな」

 呆れた百地はそれが好意以外の何物だと思うに留め、話半分で聞き流すことにした。ひねくれた人間がひねくれた物言いをしている時ほど面倒なことはない。

「とは言え夢は月光君しかいなかったから、ね。首を突っ込んだのはあの子からだけど、辛かっただろうねえ」

 百地はオーナーではあるがパトロンという立ち位置に近い。率先して依頼を受けるものの、それは月光の意思ありきで進める。

「そこに助けるべき人がいるなら……か。もちろん僕好みの内容じゃないとそもそも受けないけれど、ほとんどは割りに合わないことから断られたケースだから、やらないことはあまりないのだけれどね」

 夢の殺害依頼は、通常の人間を相手取るのとは勝手が違う。空を自在に飛び回ることはないが、単純に身体能力が総じて飛びぬけている。常人が夢を殺害することも可能であるがリスクがあまりにも高い。

故に夢を殺害するのは同じく夢が担当するのが通常のやり方だ。毒を以て毒を制す。理にかなっている。

百地以外にも夢を殺害する業務を請け負う事務所は複数あり、それらは独自の信条で動いている。

「地獄の沙汰も金次第だよ。まったく、困っている人を助けようという精神はないのかね」

「いつから博愛精神に目覚めたのかは知らんが、モモちゃんが好むのは個人レベルで起こっている被害だからな、十分な金なんて用意できる奴はそもそもいないでしょ」

 不能犯といってもよい夢による犯罪はそもそもが表沙汰にならない。奴らの数はごく少数であるから気づかずに見過ごされるか、秘密裡に処理されることがほとんどだ。

「当然さ。あんなに入り組み鬱屈した感情が引き起こす事件は、個々人間にしか起きえない」

 それをタダ同然の破格の料金で請け負うのであるから、真に迷える者はいずれこの桃源郷のドアを叩く。蟻地獄に蟻が転げ落ちるように、切羽詰まった顔で百地に頭を垂れるのだ。

「今回の依頼も、なかなかよかったね。ヒナちゃんが巻き込まれたのは全くの誤算だけど、結果としては悪くなかった」

 紅もこれには同意していた。一匹の蠅が男に停まり、しきりに前足を動かしていた。

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