第8話 言って。
前のめりに倒れ伏そうと傾く上体。首根っこを右手で掴むと、そのまま無理に立たせる。身長差で男は完全に立つこともままならず中途半端な姿勢のままヒナによって吊り下げられている。
「離せ、このっクソガキ……」
地に足が付いておらず足を出すことはできない。首を締めあげられ、掴まれた手を振りほどこうともがくのが精一杯で、懸命に右腕を殴っているがそれは鉄のように固く反撃らしい反撃は叶わない。
頭頂部から顎までを覆う面頬によってヒナの表情を窺い知ることはできはしないが、口元に施された意匠は憤怒を表現しているかのようにきりりと吊り上がっている。
「離せってこ――」
ヒナは掴んだ手をそのまま突き出す。棒が倒されるような形で頭から床に叩きつけられ、西瓜が地面に落ちとされるのに似た重い音が男から生じる。なおも立ち上がろうと身を起こした男のこめかみを殴りつけると、再び頭部を強かに打ち付けた。
「があっ!」
押し倒された男は衝撃により怯みしばらくの間体を動かすことができなかった。唇は裂け鼻血を垂らす様に目もくれず、ヒナは男を見下ろした。
「ぶぶっぶぶぶっ……」
口に溜まった血を吐きつけヒナの衣装を汚す。スカート部の白いフリルが赤黒く染まった。
ヒナは仰向けに転がる男を舐めまわすように全身を見回すと、何か考える素振りを見せて男を跨ぐ。ゆっくりとしゃがみ、そのまま膝をついて馬乗りになった。
腰を落とし股を胴体にぴったりと密着すると、ヒナは背中を大きく反らした。腹部の装甲が爬虫類のそれを思わせるように音もなく展開され、美しい女性的な曲線を描く。
「ふっ――」
吸い込んだ空気の塊を一気に吐き出すと、今度は背中を急に丸め、勢いをつけて腕を振り下ろした。握りしめた拳が唇を引き裂き何本もの歯が折れ弾け飛ぶ。
「あっがっ、あがあぁああぁ」
唾に混じり飛び散ってゆく血液と、艶々とした白い歯は対照的な色合いを持ち、風に吹きすさぶ花弁のように儚く散ってゆく。痛みに悶え叫ぶ男の絶叫の調べは喉から絞り出してくぐもって響き、いまだ声帯を振るわせ人語を話していた。
浅く喘ぐような呼吸を続ける男を見つめ、腰を持ち上げると、落とす動作に合わせまた拳を叩きつける。右手の次は左手で。また右手を振り下ろすのを繰り返して腰を弾ませる。
「うぐっ、がふっ、あぶっ……」
まるで陸に打ち上げられた魚だ。殴打されるたびに顔は右へ左へと交互に跳ね、肺から空気を漏らす。腫れあがり有機的な反応を示しているそれと、何も話さず笑いもしない無機質なヒナが恐ろしいぐらいに対照的だ。
男は両手を上に掲げ、降参を意思を表した。
「わ、わるかった。だから、勘弁してくれ、な?」
ヒナは攻撃を止め、ゆっくりと上体を起こして次の行動を待つ。
男は変異を解いた。醜悪な顔でヒナに交渉する。
「ほ、ほら。これでさっきまでのケガはチャラだ。だからキミも、さ。ほら……」
痛みの消えた腹部や腕の患部をさすり確かめている。手を何度も握っては開き、回復を確信した。左手の握り拳と男の顔を交互に見比べ、安堵の表情を浮かべた中心に目掛け――。
「あっぁっぁっぁがああっがぁぁ」
先と変わらぬ力で叩きつけ、鼻を埋没させた。熟れたトマトを握りつぶすような柔らかな感触で、粉砕された軟骨が平らにひしゃげた。男はこれまでに聞いた中で一二を争う大きく甲高い声で痛覚を訴えている。
だがそれを最後に悲鳴らしい悲鳴を上げなくなった。頬骨が折れて落ち窪みえくぼを作っても、顎が外れ皮膚にぶら下がっても、血のあぶくを時折噴き出すだけでだんまりを決め込んでしまっていた。
反応しなくなった男に気づいたヒナは自身の変異もいつの間にか解けていることを知った。メリケンサックには肉とよくわからない組織が付着していた。
「はあっ、はあっっ、はぁっ……」
肩で息をするヒナの顔は興奮で紅潮し、焦点の定まらぬ目で遠くをぼんやりと見つめている。尻の下に横たわる男の顔にはぽっかりと虚が開き、そこから這い出す地虫のごとき赤い舌が、辛うじて人体の器官であることを窺わせる。男は絶命していた。
ぺちぺちぺちと下手くそな拍手が静寂にこだまする。それは百地だった。ヒナを熱のこもった目で見つめ、芝居かかった身振り手振りで言う。
「いやあ、素晴らしい!圧倒的な夢の力だねぇ。ぜひ僕の頬を一度張ってもらえないかな?」
呆然とする周囲を他所に恍惚として百地は語る。それが鶴の一声となり現場の時が動き出す。
「何をふざけたこと言ってるんですか。モモさん。今はそれどころじゃ……」
「ああそれどころじゃないね。せっかくの新人ちゃんの初陣を沈黙で締めくくるなんて。非情にもほどがあるよ」
百地は男の死体に跨ったままのヒナに手を差し出し立ち上がらせた。血を吸って重くなったワンピースの裾から一筋の半ば凝固した血液がどろりと垂れた。
「さてここの清掃は僕たちがしよう。君はのんびりと風呂に入ってくるといいさ。夜も深いからね。子供は寝るべきだよ」
百地の提案に首肯で応えたヒナは、血の滴るワンピースそのままに再び事務所へと戻っていった。
「さて、はじめようか」
――私は小さいころヒーローになりたかった。悪を倒し人を守り人のために戦う絶対 的な存在に。だけど、物心ついた頃、世の中にそんな悪人はいないことが分かった。悪意というものは広く存在していて、ごく小さなものがそこら中にあった。
泣いている同年代の女の子を見て、あの子たちの当時の心境とあたしが涙を流す姿が重なった。その子たちを救うことで自分自身も救われると思うと不思議と力が湧いて、あいつに立ち向かっていった。
ただ必死に、目の前の辛いものを壊せばどうにかなる気がして、何度も暴力を振るい続けた。そこには誰かの笑顔を守りたいだとか悪を許せないだとかそういう考えはあいつと対面したときに消え失せた。
ただ、必死だった。必死に戦っているとなぜか勝っていた。そこまではよかった。殴った感触が柔らかくなって、あいつが泣いて許しを懇願したとき、あたしのなかで何かが弾けた。殴るたびに弱ってゆく様子が、情けない悲鳴が見るたび聞くたびに快感に変わっていった。
その時にあたしは、あいつがどうしてあんなに楽しそうにあたしを殴っていたのかがはっきりと分かったんだ――
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