第5話 FUNKY ウーロン茶

「そう、しない。普通はそうならない」

 月光は湯船に浮かぶ二つのラバーダックを手繰り寄せ片方をひっかいて傷をつけた。

「右のアヒルは現実のヒナ。左は夢を見ているヒナだとするだろ?夢でつけられた傷は目が覚めると消えてなくなる。だけど傷をつけられたという記憶は残る」

 右のアヒルの底に傷ついたアヒルの底を合わせ湯に沈める。無傷のアヒルは何事もなかったかのように水面に浮かんでいるが、その下には傷ついたアヒルが隠されている。

「とても鮮明に、まるで現実に傷つけられたかのような感覚だ。錯覚と言ってもいいかな」

「でもあたしは本当に、あいつに……!」

 分かっていると言いたげに頷き、月光はアヒルを握っていた手を離した。傷ついたアヒルが浮かび、二つのアヒルが水面に浮かぶ。

「これは事情を知らない奴らの意見さ。一般的とも言えるがね。だけど、実際は違う」

 立ち上がり、髪から、体から水滴を滴らせて月光は言う。

「お前は他人の『夢』に傷つけられたんだよ」

 荒唐無稽。博識でもなんでもないヒナであったが断言できる。非現実的だ。言っていることが滅茶苦茶なのだ。他人の夢が現実の人間を害すると月光は世の真実かのように言い放った。やはりどうかしているのだ。この女も。

「なにを言って……」

 だがヒナが暴力を振るわれ怪我を負ったのは、ヒナ自身にとっては現実に起きた出来事として認識している。あれほどのたうち回り悶え苦しんだ痛み、これを現実と思わずして何とするだろうか。

「信じるかどうかはお前しだいだよ。でも、ヒナは自分に起きた現象をほかにどうやって説明する?あれがヒナの夢だとしたらお前はイカれてることになるよな。本当にそうか?」

 言いよどむヒナ。本当は即座に否定したかったが、理性がこれを拒む。

「すぐに分かるさ。なにが現実かってな。さ、飯にしよう」


 風呂を上がり、用意された着替えを身につけようと月光に渡されたのはこれまた異質な服であった。少なくともヒナが身を置いていた世界では着用した写真すら見たことのない代物だ。

「これ、あたしが?着るんです?」

 児童文学か絵本の人物が身にまとうような横に大きく広がったスカートが目に付く。周囲をぐるりとフリルが取り囲み幾つもの層を形成する。袖口にも柔らかいプリーツがふわりと覗き、胸元にも同様の意匠があった。

 おとぎ話の衣装と異なるのはそれらが漆黒に染め上げられていることである。本来軽やかな配色で幻想的な雰囲気を醸し出すはずのそれが暗色になることでどこか退廃的なものとなっていた。

「おう。これしか着せられそうなものが無かった。見るか?」

 ハンガーに掛けられた服を見たところ、ハロウィンの仮装と見間違うほどの奇抜なものが数々で着ても恥ずかしくないと思われるものはヒナは探し出すことができなかった。

「で、どれにする?私は今渡したやつが似合ってると思うんだけどな」

「似合ってるかはわかりませんけど、これしか……」

 そうは言いつつもそれなりに興味はあった。女性的なデザインではあったが過剰に露出があるわけでもなくむしろ好意的な印象をもった。それに洗濯を待つための替えとはいえバニースーツを着るのは勘弁願いたい。

 ぼさぼさの髪に煌びやかなワンピースは少々の不釣り合いを覚えていたが、いざ袖を通してみるとしっくりとくるものだ。生地はほどよく全身を包み込み身軽な鎧を身に着けているような感覚がある。

「かわいいじゃん。持ち主より似合ってる。なんなら持って帰っちまえばいいさ」

「……それは喜んでいいのですか」

「もちろん。あんな自堕落なやつに着られるくらいならヒナに渡したほうが服のためでもある」

 椅子に腰かけるヒナの髪をいてやり、細やかな装飾を見繕っている。

「こうやってさ、みんななりたい自分や綺麗な自分になりたいだろ?誰かにとってこうありたいとか、こう見せたいとか、誰もが思うことなんだよな」

 鏡越しに目が合った。その目は出会ったときを思い出す、悲しみを湛えた遠い目をしていた。

「それを使って悪さしてんのが、君に危害を加えたクズってわけよ」

 知らない声をよく聞く一日だとヒナは関心する。開け放っていたドアの前に男が立っていた。こちらが気が付いたと分かると、数回ノックする。男は続ける。

「世の中にゃ力を持つと良くないことに使う人間がいるもんでな、まったく困ったもんだ」

「あのなあ、入る前にノックしろって何回私は言ったか覚えてるか?それと店じまいは」

「二回目ぐらいから数えるのをやめたなあ……。あ、もちろん準備はできてるぜ。言うまでもねえ」

 学習能力があれば覚えていると思うのですがと言いたくなるのをヒナは堪えた。ただでさえ噴火直前なのに今茶々を入れるとこちらにまで火の粉が飛んできそうであるから。

「……それで、この方は?」

 すぐにでも射殺さんとする目つきで男を睨みつけていた月光は恥ずかしそうに咳払いをする。

「俺は紅。下のバーでこいつとバーテンやってんだ。ってな」

 飄々ひょうひょうとした物言いに月光の機嫌がまた悪くなった。たしかに嫌いそうな人種だ。それをお構いなく、むしろその反応を楽しんでいるようにさえ見受けられる。

「で?詳しい話はしたのか?月光」

「これからしようとしてたんだよ。これから。風呂に入って、飯食ってからな」

「毎度ご苦労だねえ。メンタルケアってやつ?それともお前の自己満足か?」

「言ってろ」

 紅と名乗る男のすねを蹴飛ばしてこれ以上の無駄話を切り上げさせる。

「お前の分も作ってんだよ。ガタガタ抜かすと食わせねえぞ」

 争ってはいるが結局のところは仲間なのだ。月光が甘いとも言えるだろうが。紅もそのあたりの線引きはしてるようで、にやにやと腹の立つ笑顔を浮かべる。

「のんびり食ってる時間があればいいがねえ。ま、月光ちゃんのお料理を食べない手はありゃせんよっと」

 俺が作るのと違って旨いんだよねと呟き、ルンルン気分で食卓につく。並べられていたのは冷製パスタだ。盛られた麺に絡まったトマトと青紫蘇が目に鮮やかに映え、改めてヒナが空腹であることを思い出させる。

 一人分が明らかに多めになっている皿に紅が手を伸ばし、その手を月光が叩き落とす。

「馬鹿、これはヒナが食べる分だ。ガキと争ってんじゃねえ」

「過保護だねえ……。体格からそれを食べるのは俺が適任だと思わない?」

「思わない」

 にべもない物言いに肩を竦め、紅は悪戯を思いついた子供のような顔でヒナを見た。

「ヒナちゃんを襲った男って、どんな奴?」

 いきなり投げ込まれた直球にヒナの心臓が飛び出すかのように跳ねる。月光も同様で、丸い目をさらに丸くした後にいつもの如く怒りに眉を顰めた。

「手前!私がここまでやってきたことをぶち壊しやがって!」

「そう怒るなって。第一やりかたがまだるっこしいんだよなあ。こういうのはさ、問題の根本からいかないと」

テーブル越しに拳を振り上げる月光を他所に、紅は続ける。

「ヒナちゃんも知りたいよな?傷が消えたトリック」

 知らないことが多すぎる事件の真相を知るためにここまでついてきた。そうでなければこの胡散臭い街からとっとと去っているに違いなかった。無言を肯定と受け取って紅は続ける。

「じゃあそっちも情報を出してもらわないと。対等にいこうよ。ね?だから」

「ヒナ、無理に思い出す必要はねえ!ただ辛いだけだろう?」

「それを決めるのはお前じゃない。おせっかいはほどほどにしたほうが……いいぜ?」

 言われて月光は口をつぐむ。委ねるべきはヒナの自由意志であることは彼女自身もわかっていた。

「あたしは――」


 ヒナは洗いざらい話した。いつも待ち合わせにしている場所には一人でいる時間がそれなりにあるということや、そこに狙いすましたように車が停まっていたこと。言葉に詰まりながらではあったが、暴行された過程も覚えている限りのすべてを。

 話すたびに男の心底楽しそうな笑い声や、剝き出した歯が止むことなく脳を揺さぶる。掌に握りしめた爪が食い込んで血が滴った。

「オッケーもういいよ。聞きたいことは聞けたから。自分をそれ以上傷つけてもいいことないぜ?」

 我に返ると同時に鈍い痛みが伝わる、月光は救急箱を取りに席を立った。

「さて次は俺の番。あいつさ、ヒナちゃんの前に三人の女の子に危害加えてるんだよね。いわゆる連続犯。それも計画的なね」

 全身の血が沸き立つ感覚を覚えたのは初めてのことだった。

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