第4話 昏迷の味
ネオンの煌びやかな明かりに照らされてヒナと月光は連れ立って歩く。身長差こそさほど変わりない月光だが、今のヒナにとっては誰よりも心強く大きく見えた。彼以 外に頼れる人間がいないからであるのは言うまでもない。
すぐ隣を歩くわりにはパーソナルスペースの近さや圧迫感を感じることがなく、異性であるのかすら疑わしく思えてくる。言動やホストの男たちとの距離感から鑑みるに男なのだろうが。
(綺麗な人だな……)
逆光で見上げたときもそう思ったが、近くで見ると一層魅力的である。光に透く髪が小麦畑のようで、また同時に遠くを見つめるような少し冷めた、どこか哀愁のある視線が過去を、生きてきた軌跡の入り組んだ複雑さを物語っている気がした。大きな孤独を抱えているのだろう。人には打ち明けられない何かが。
「なんだ?人の顔をじろじろ見て」
「あ、えっと……ありがとうございます。親切にしていただいて」
その場しのぎに繰った言葉であるが本心でもあった。見ず知らずの人間に優しくされたのは久しぶりであり、くすぐったかったのだ。こうして感謝を述べる機会もめっきり減っていた。
「私はただ呼ばれただけだ。こうして保護するのも仕事の一環さ」
素っ気なく突き返す言葉とは裏腹にその目は穏やかで口元は笑みをたたえていた。その様子が少し可笑しく思えてヒナはクスリと笑った。
「なんだよ」
「いえ、素直じゃないんですね。月光さんって」
「なっ……」
意表を突かれた月光は口ごもると、照れて頭をがりがりと掻いた。人間味のある男なのだ。ホストの彼らからも慕われるわけはこういう一面を持ち合わせているからなのだろう。
「うるせぇうるせぇうるせぇ。ほら店に着いたんだ、さっさと入りな」
乱暴に店の裏口のドアを開け、ヒナを中に入れてやる。店の名は「カフェ&バー
裏口からは階段で店の上にある居住スペースへと向かえるようになっており、人目につかず二階へと移動することができた。
「わ、わあ……」
落ち着いた店内の雰囲気とは打って変わった内装に思わず声が漏れる。
くぐもったジャズの音が床から聞こえてくる以外は室内はとても静かである。ここは事務所と兼用であるため土足で上がるよう指示されたが、本当にそのままでよいのかと思えてくる内装の数々であった。
形容しがたい模様の絨毯が切れ目なく床一面に敷かれており、豪奢なレースがあしらわれた来客用と思しきソファやレリーフが所狭しと彫られた猫足のテーブルが鎮座されている空間は果たして事務所と呼んでよいものか、そして入ったが最後なにやら請求されるのではないのかと今更になって不安になってきたヒナである。
「これ、高いやつですよねきっと。汚したりなんかしたらあたし……」
「いいんだよ取り寄せた本人が汚してんだから。それに私が掃除しなけりゃとっくにゴミ屋敷だ」
尻込みするヒナの背中を押して強引に部屋に招き入れると、そのまま腕を引き風呂場へと案内した。ここでも先と同じ者の趣味によって構成された内装になっており、おっかなびっくりのヒナに月光は若干呆れながらあれやこれやと設備の説明をしてゆく。
「着替えはそこらに脱いでおけばいい。私が洗濯しておく。着替えは適当に見繕っておくからこれも気にするな。お前はただ風呂に入っていればいい」
そう言い残して月光はドアを閉めていった。つっけんどんでありながら世話好きな人間だ。
ヒナは足音が聞こえなくなるのを待って着ていた服を脱ぎ捨ててゆく。衣服を入れておく籠を探したが見つからなかったため、汚れている箇所が床に接地しないよう気を遣いながら畳んで置いておいた。
ノブを捻ると温かな湯が心地よく肌を撫で滑り落ちてゆく。路地裏で蹲っていたときとは異なる暖かい孤独に浸る。清浄な水が穢れすらも取り去ってくれるかのようで勝手にため息が零れた。
一息ついたのも束の間、再び浴室のドアが開く。何か差し入れか詰め替えにでも来たのかと頭からシャワーを浴びるそのままにちらりとそちらを覗き見た。
「えっ、なに入って来てるんですか⁉」
見るや月光は身にまとわぬ姿で、ヒナの抗議も意に介することなく浴室に入り込んでいた。
「なにって、私もついでに入ろうと思ってな」
いきなりの乱入にヒナは慌てた。気を許したらこれだ。やはり夜の住人は信用に値しないのだと後悔と落胆が入り混じる。
「可哀そうに。こんな細い体を殴られたんだな……」
月光はヒナの腕に触れる。行為とは裏腹にその手つきは割れ物を扱うかのように繊細で優しかった。
「やっ、やめてください!恩があるとはいえこんな――」
腕を振りほどき月光の顔を見据えると、少し寂しそうな顔で肩を竦ませた。
「悪い。迷惑だったよな」
月光の態度は仮に悪意ある行動だとすればちぐはぐで、まるで己の行いが責められる
何か見当違いをしていなければこうも認識が嚙み合わないということはないはずだ。例えば性別でも誤認していない限り――。
今までの違和感の正体に気が付いた。
夜であるからシルエットが分かりにくく、またスーツを着ていたことや声色から勝手に男であると思い込んでいたのだ。
「お、女の人……だったんですね……」
「今まで男だと思ってたのか?――ああ」
断固たる拒絶はヒナが異性だと勘違いしていたからである。中性的な印象を感じたのはあながち間違いではなかったと言えよう。中庸な成りをしているから。
「まあ男みたいなもんだよ。あながち間違っちゃいない」
邪魔したな。と謝罪して月光は出てゆこうとしたが、ヒナが引き留める。掴まれた腕を今度は自らが掴んだ。
「せっかくなので一緒に、どうですか」
「じゃあそうするよ」
生まれも何もかもが違う二人がこうして出会い同じ空間にいることがヒナには不思議でならなかった。年齢こそ姉妹程度の差でしかないだろうが、歓楽街になど訪れるのはずっと先のことで遠い世界でしかなかった。知り合いの何人かはそこに関わりを持つ者が何人かはいたが、ヒナはその手の職業で金を落とす稼ぐの両方に興味はなかったからである。
「風呂から上がったら飯にしよう。どうせろくに食べてないだろ」
「そうですね。コンビニでちょっと食べたんですけど、全部戻しちゃったので」
「……そうか……そうだろうな」
不要な言葉を吐いてしまったと悟ったのか、次の言葉を探して黙りこんでしまった月光を見かねてヒナはずっと気になっていた質問を問うてみた。
「それで、どうしてここまでしてくれるんですか?施設でもないのに」
身を寄せているここはどう見ても飲食店である。看板も掲げられ、それらしい音楽も道中で耳にしていた。
「シェルターも兼ねてんだよ。ここは。ごくごく一時的でだいたいは専門機関に引き渡すけどな。たいていは風呂と飯をやったらそれで終いさ」
髪を洗いながら月光は言う。保護といっても虐待など日常的な暴力で逃げてきた者を匿う従来のそれと異なり、特定の事件に巻き込まれたと推測される者の保護を主な目的としている。
「ヒナ、男にやられたとこは痛むか?」
「いえ、あんなに殴られたのに全く痛くないんです」
「そこなんだよ。私が迎えに行った理由は。そうでなきゃ警察にでも預けてるさ」
泡を流し終えた月光は湯船に浸かった。肩までとっぷりと身体を沈めるとこう問うた。
「夢っていつ見るもんだ?」
「それは……寝ているときだと思いますが……」
至極当然の回答である。夢とは生物がある特定の睡眠状態にある場合に発生する現象のことであり、起きている状態、すなわち覚醒下で夢を見ることはありえない。
それと今のヒナが陥っている状況に一体どういった関係があるのかと首をかしげていると、その考えを見越しているのかまた問答を投げかけた。
「なら、夢で高い場所から落ちたりしたことはあるか?」
「何回かはあったような気がします」
「その時ケガは?」
「するわけない、と思うんですが」
自分で結論付けてヒナは心にざわつきが生じたことに気がついた。
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