第3話 CHANGE THE FUTURE

「んじゃね。また会おうね」

 男が最後に放った言葉は親しい人間にかけるような言葉だった。

 繁華街の路地裏にヒナを降ろすとそのまま走り去っていったのだ。何事もなかったかのように、あたかも束の間の別れであっていずれすぐに再会できるとでも言うように。

 あたりを見回すと人、人、人が何にも見向きすることなく往来を行き来している。 閉ざされた空間ではなく、ヒナは身体の自由が保障された地に存在している。

(解放、されたんだ……)

 意識すると音が、極めて多くの雑音が耳に流れ込んできた。己からは鼻を突く臭いが漂っている。だが不思議なことに車内ではあった身体の痛みが、外に置き去りにされてからというもの一切の痛みを感じない。付着した鼻血は消えていた。

 まるで白昼夢を見たかのようだ。男に関する傷跡は記憶以外きれいさっぱり取り去られてしまっている。

(どうして?でも服は汚れてるし、それに……)

 被害の光景はいまだ鮮明に焼き付き、染みついた痛みと恐怖が蘇る。何より覚えているのが狂気に満ちた男の顔。

 涙は枯れ、立つ気力さえ奪われ尊厳すら剥奪されてもなお、死はヒナにとって甘美なものではなく。今はこうして時間が過ぎるのを待っていた。

 ポケットをまさぐると一粒のキャンディーが入っていた。本来そこに収まっているはずのスマートフォンが姿を消していることに今更ながら驚かされた。

(はは。これじゃあ警察も呼べないじゃん……)

 薄汚れた路地に座り込みキャンディーを舐めた。ひどくみすぼらしいと我ながら呆れて涙すら出ないが、この格好ではむしろつり合っているのかもしれなかった。

 星は出ていなかった。誰も助けに来てはくれなかった。己の身は己で守らなければならないと口酸っぱく聞かされてきたことをまるで空想の物語を聞く心持で聞き流していたことが懐かしく、またどれだけ恵まれた状況で生きてきたのかが身に染みる。

 悪い人間に声をかけられたことも一度ではなかったのだ。夜は子供の時間ではない。少なくとも身に降りかかる大小の災難を自らが払える者が出歩く権利を有していたのだ。

 それほどまでに弱い立場にあった。それを刻み付けられたのであった。

「あたし、なにかしたかなぁ……」

 心から思う。涙に混じり言葉が落ちる。拭えどもそれはあふれとめどなく流れてゆく。押し殺した嗚咽おえつがそれでも突いて止めることができない。

 悔しい、悲しい、許せない。ない交ぜになった感情が涙となって零れては頬を伝う。ネオンの人工的な光はここには届かない。ただ泣くしかヒナにはできない。

 ひどいことをされたがヒナは生き続けなけらばならなかった。死に至っていないからだ。死なないならば、死ねないならば命尽きるまで生きることが求められていた。 生命体としてそれは避けられないことであるから。

「どうして……どうして、あたしが……」

 不意に視界の光が遮られた。思わず顔を上げたヒナの目に映ったのは三人の男だった。

 身なりはあの男よりも派手で、ヒナは顔立ちや髪型からそれらを生業とする者であると推測した。と同時に身構えた。守れるものは特にはなかったが。

 弱って見える者に向けられるのは憐憫か悪意かそのどちらかである。

「これって、アレだよな?」

 金髪の男が隣の男に問う。赤いスーツの男は深刻そうに頷く、彼らには思い当たる節があったようだ。目配せをすると背の高い男がどこかへ去り、赤スーツはヒナに手を伸ばした。

「立てる?」

 真意を図ることはヒナにはできず反射的にその手を払いのけた。無理もない。地獄を見せられた同性をよく分からない事情があることをほのめかされたまま援助を受ける気になどなれやしない。

「触らないでッ‼」

 思わず声を荒げたヒナは、男を怒らせてしまったと悟り咄嗟とっさに頭を手で覆った。殴られるのは、痛い思いをするのはごめんだった。

「あ、いや俺たちは……えっと……」

 たじろぐ男たちはどう己の真意を伝えるべきか困った様子で、路地を遮ったままうんうんと唸っていた。その様子から悪意はないのだとヒナも薄々感じてはいたが、信じるに足る要素が欠けていることもあってこちらからもなにか行動を起こすに起こせないままでいたのだ。

「あー。えっと俺たちはこういうモンで……とりあえず名刺渡すから、さ。これ……」

 おずおずと差し出した態度と裏腹にその名刺は豪奢ごうしゃなあしらいが施されていた。全て名だけが印字された物であったが、店名や細かな情報も記載されていてそれなりに信用に足る人物であると一応納得させた。いくら悪意ある人間といえどもこうまで下手に出ることなど考えられない。

「今この手に詳しい人を呼んでるからさ、それまでだから俺たちと一緒に待ってようよ」

 宥めすかす赤スーツの言いぶりは手慣れたもので、不用意に距離を近づけず見守るようにヒナを取り囲んでいる。害を与えるつもりはないが、あくまでもどこかに逃がすつもりもない。それを暗に示していた。

 ただ心配するだけでなく何か裏を匂わせている。ヒナは何か大きな事件に巻き込まれたのやもしれす、一抹の不安を覚えた。

「タバコいる?」

 金髪が胸ポケットから一本を差し出した。戸惑いつつもそれを受け取ると今度は火が差し出された。

「おい、子供がなに一丁前にタバコ吸ってんだ」

 遮る声が新たに光から投げかけられる。それは腕を組んで仁王立ちしていた。呼びに行った長身の男が後ろから金髪を一睨みする。

「月光さん!この子が――」

 振り返った赤スーツは到着を待ってましたと言わんばかりに安堵した表情を浮かべ、丁寧にお辞儀をした後で道を譲った。月光と呼ばれた青年はずかずかと男らとの間に割って入るとヒナの様子を窺った。

 不思議な色香を持つ人間。ヒナは第一印象でそう捉えた。身を屈め、労わりを含んだ目でこちらを見つめる月光の長い睫毛や潤いのあるふっくらとした唇、手入れの行き届いた艶やかな栗色の髪が素晴らしく女性的魅力を放っていた。

「ああ間違いねえ。この子は私が保護させてもらう。こっからは任せてくれ」

「もちろんですよ」

 何かの協定か取引かが既に結ばれているのか、その言葉を聞くと赤スーツは懐からスマートフォンを取り出しどこかに連絡を寄越す。済んだ、夢、また……といった意味深長な単語が会話の端々から聞こえてくる。

 会話を背景にし、長身が月光らに会釈すると金髪もそれについてゆく。去り際に金髪はヒナに笑顔でこう言った。

「下戸さんがいれば心配することは何もないよ!めっちゃ強いから。男の俺でも敵わないくらい。酒にはちょー弱いけどね」

「うるせぇ!下戸って呼ぶな!」

 凄む月光から逃げ出すように三人は夜の街に溶けていった。ここの住人が見せるかりそめの優しさとまったく異なる心からの優しさ、人間の根底にある善性を垣間見た気がした。

 が、それはそれとしてヒナは謎が深まるばかりであった。夜の住人による裏のない善意、妙に親しく信頼されている男、ただ事でない気配をちらつかされた暴行事件。 どれをとっても知らされていない情報が多すぎる。

 ともかくこの月光とかいう謎の人物についてゆく他ないのだろう。

「さて、自己紹介しようか。私は月光。このへんにある店で働いてるモンだ。あんたは?」

「ヒナ……です。春夏秋冬ひととせヒナ。あの、あたしは――」

「詳しい話は店で気の済むまで話してやる。ともかく身体を綺麗にするのが先だろ?」

 どこまでも人の弱みに触れぬ男たちの気づかいが胸に沁みた。それが彼らの常套手段であり職業柄無意識に行われた行為かもしれないが、ともかく彼らが信頼するこの青年を信用してみることとした。

 夜はまだ半分も過ぎてはいない。夢を見るにはまだ早い。

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