殺し(部)屋②

 ホテルのロビーで朝食を食べながら、FOXは目頭を押さえた。昨夜はよく眠れなかった。


 あの後も幻聴が続いた。眠りかけようとすると、女の声で何かを囁かれる。全て日本語で、意味は理解できない。女の声は、最初数メートル離れたところから聞こえていたが、段々と近づいていき、朝方には耳元で聞こえていた気がした。


 それだけではない。何者かが部屋の中を歩く気配や、部屋全体が軋む音もした。その度に部屋の電気をつけて確認したが、おかしな様子は何もない。


 旅の疲れか、あるいは仕事の疲れか。ボスの言う通り、休暇を取って正解だったかもしれない、とFOXは思った。


 ティーカップに半分ほど残った冷めかけのコーヒーを一気に胃の中へ注ぎ込み、FOXは部屋へと戻った。今日は快晴で、出かけられないのがもったいなく感じる。


 FOXは、自分が「晴れた日は出かけたい」と感じるような、人間らしい心をまだ持っていることに改めて気づかされた。ロシアのスラム街で生まれ育ったFOXは、幼少期から人の死を目の当たりにしてきた。内乱に巻き込まれ、父、母、兄弟は皆撃ち殺された。


 残されたFOXは、生き延びるために何でもした。食べ物を盗んだ。金を奪った。そして人を殺した。透き通った水のようだった少年の心は、イカ墨が混ざったかのように黒く染まっていったのだ。


 そんなFOXの生活がボスの目に留まり、正式にマフィアの殺し屋として働くことへとつながった。稼ぎは良くないが、後悔はしていない。ボスにも感謝している。殺し屋にならなければ生き残れなかったし、自分の天職だと感じている。しかし、街で無邪気に遊ぶ少年たちの姿を見ると、自分にも別の生き方があったのかもしれない、なんて思えてくるのも事実だ。


 この日も何もすることがないFOX。ベッドの上で寝転がり、天井を眺め、深く息を吸った。


ーーーーーーーーーー


キキキ……キキ……ギキキ……ギ……


 不快な物音でFOXは目を覚ました。暗い部屋の中で上半身だけを素早く起こし、枕元のボールペンへ左手を伸ばした。


 ベッドのすぐ右にある大きな窓。その側に黒い影がある。誰かが立っている。


キギキ……キキキキ……ギギギ……キキ……


 爪で窓を引っ掻いているようだった。


「動けば殺す!二秒だ!動いた瞬間から二秒後、貴様の頸動脈にペンを突き刺す!」


 FOXが叫ぶ。今回は幻覚ではない。確実に誰かがいる。


 影はその場でゆっくりと回転した。真っ黒で顔は見えないが、こちらを見ている。


「動くなと言ったはずだが、聞こえなかったか?いや、ロシア語を理解できないのか。悪いな兄弟、俺は日本語はからっきしでね。来週から日本語スクールに通うことにするぜ。だが残念!お前と話すことは二度とない!」


 FOXはベッドの上でしゃがむと、弾力を利用して影に飛びかかった。飛びながら逆手に持ったボールペンを素早くノックし、床に着地するのと同時に影に突き刺す。しかし手応えがない。ボールペンは虚空を切った。


 影から無数の黒い触手が伸び、FOXの体に絡みつく。腕、足、首が固定され、大の字の体勢で身動きが取れなくなってしまった。


 FOXは気づいた。これは髪の毛。影から伸びているのは長い髪の毛だ。影は髪の毛を吸い込むようにしてFOXを引き寄せる。「この影に喰われたらマズイ」と、FOXは直感した。


 抵抗するため全身に力を入れ、影から離れようと後退するFOX。しかし足をジリジリと床に這わせることが精一杯で、全く抗えない。身長一八六センチ、体重八十五キロの大男が、まるでデパートのおもちゃ売り場ででタダをこねる子供が親に引きずられるかのように、影へと引き寄せられていく。


 完全に力負けしたFOXは、足を滑らせ、大きな音を立てて腰から床に転げ落ちた。抵抗力を失ったことで、髪の毛はスルスルと影の中へ吸い込まれていく。


「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 FOXが苦悶の声を上げた。


「お客様、どうなされました?」


部屋の扉がノックされる音と、若い男性の声が聞こえた。


「下の階のお客様から連絡がありまして、伺わせていただきました。大丈夫でしょうか?」


 FOXは我に帰った。全身を縛っていた髪の毛と影は消えていた。この部屋には何かある。そう確信した。

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