刑場の井戸③

 夜23時頃。奏は祖父母の家の2階にある部屋で布団に入っていた。21時半には寝る体勢になっていたのだが、1時間半も寝付けずにいる。


 原因はやはり匂いだった。匂いに対する興味が奏の中で膨れ上がっていく。頭の中は、怪奇神社にある井戸のことでいっぱいだ。


 父と母に聞いても、匂いのことも神社のこともよくわからないそうだ。二人は高校卒業と同時に東京で同棲を始めたから、怪奇町のことはそれほど詳しくないらしい。


 祖父母は奏たちを受け入れたことで生活が忙しくなっているし、息子である父の容態も心配もしているだろう。余計なことを聞くのは忍びないと、奏は感じていた。


 クラスメイトたちも知らないし、あと事情を知っていそうなのは担任の森野先生くらい。担当科目も日本史だから町の歴史に詳しいかもしれない。しかし、転校して数日で「神社の井戸について教えてください」なって質問するのも変なヤツに思われそうだ、と奏は悶々としていた。


 この匂いの正体は自分で調べるしかない。正体を突き止めないと、眠れそうにない。父だけでなく自分まで精神的にやられてしまうかもしれない。


 家族が寝静まり暗く静かな家の中を、奏は足音を立てないように1階まで下りた。玄関に開封していない段ボール箱が残っている。東京から持ってきたものだ。


 奏はゆっくりとガムテープを剥がし、中から懐中電灯と荷造り用の紐を見つけ、家を出た。


 歩くこと10分。怪奇神社にたどり着いた。鳥居を潜り、井戸を覗き込む。あの匂いはやはりここから出ている。心なしか、父と来た時よりも匂いが強くなっている気がした。


 奏は井戸にかかっているネットを剥がした。固定されているわけではなかったので、簡単に動かすことができた。そして、近くの木を一周するように紐を巻き付けて固く結び、もう一方を井戸の中に投げ込んだ。数秒遅れて、中からかすかにピチャンという音が聞こえた。中に水が溜まっているようだ。最悪落下しても、水に落ちれば助かるかもしれない。帰りは紐を伝って上がってくることにした。


 奏は紐を握りしめ、井戸の壁面に足をかけるようにして中へと降りていった。灯りは脇に挟んだ懐中電灯だけ。井戸の上部を照らしている。


 水にたどり着くまでにはかなり深くまで降りる必要がありそうだった。その間にも匂いは強まっている。鼻に直接ブドウ糖を流し込まれているかのようだ。


 5分ほど降りた頃。奏の踵が急に冷たくなった。足が水についたのだ。奏は思い切って紐から手を離した。ザブンッと大きな音を立て、体が冷たい水に浸かる。間違いない、匂いはこの水から発生している。鼻の奥に匂いが突き刺さる。


 水は少しベトッとしている。そして底の方からブクブクと泡が湧き上がっている。ただの水ではなさそうだ。


 甘い匂いは奏の欲求を駆り立てた。この水を飲んでみたい。ただの水じゃないし、何年も使われていない井戸水なんて飲んだら病気になるだろう。しかし、それでも飲んでみたい!この水を飲めば、匂いの秘密がわかる気がする!


 奏は両手で水を掬い上げると、勢いよく口の中に注ぎ,喉の奥へと誘った。この味は、まさにコーラだ!いつも飲んでいるコーラ!いや、そんなもんじゃない!コーラよりも美味いし甘い!こんなに美味しい飲み物は飲んだことがない!


 水を掬う手が止まらなくなった。もっと飲みたい!もっと飲みたい!この水は誰にも渡したくない!自分だけのものだ!家族もクラスメイトも気付いてない!自分だけのオアシスだ!


 奏は頭まで水に潜り、奥へ奥へと潜っていった。井戸の上へ戻れるようにと垂らしておいた紐が切れていることにも気づかず。

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