確信と誤解

 それから二人は、言葉を交わさなくなった。もう言い残したことはない。

 僕は寸前まで迫った死を感じながら、懐から睡眠薬を取り出すと、水と共にそれを飲もうと地面においた。そうすると、薬の瓶の方が、彼女の手にあたってしまったらしく、カタン、という音を立てて倒れてしまった。僕は、慌ててそれがどこにあるか探ろうとしたが、瓶の中で薬が移動する音が、雨音の中微かに聞こえた。どうやら、先に彼女に取られてしまったらしい。返してくれ、と頼もうとしたその時、彼女は瓶を振りながら、思いがけない奇妙な質問を、僕にぶつけてきた。


 「これ、なんですか?」


 僕は、言葉の意味がよくわからなかった。確実に溺死による自殺を図るには、時期に水が溜まるような場所で、睡眠薬を飲んで眠ってしまうのが一番手っ取り早く、また、それなら苦しむ必要もない。しかし、この期に及んで、その中身が薬であることがわかっているのに、それがなんの薬かがわからないなどということが、本気で入水自殺を考えている者に本当にあり得るのだろうか。

 僕はこれまで、彼女もまた、何かしらの悩みを抱え、自ら命を絶とうとしているのだとばかり考えていた。最初は止めに入ろうと思ったが、あの質問をされたとき、僕はそれをやめた。その瞬間から、無意識のうちに、どこかで彼女の影を、この女子学生に重ねていたのかもしれない。いや、なによりも、自分もまた同じことをしようとしていたことを、思い出したからなのかもしれない。いずれにせよ僕は、この女子学生は自殺をする気だ、ということを、最初から信じて疑わなかった。今思えば、僕は彼女のことをほぼ知らない。知っていることは、その声と、暗闇の中でぼやけて見えるシルエットだけだ。


 ― 彼女は死ぬ気が無かった。


 新たに浮上した事実に、僕は動揺した。その睡眠薬が無ければ、僕は死にきれないかもしれない。また、ここで自殺をしようとしていたことが彼女に知れれば、彼女は誰かに助けを呼びに行ってしまうか、自分を巻き込んで一緒に死のうとした殺人犯として、ここで僕を通報してしまうかもしれない。そうなれば、僕はこれからどのように生きればいい、僕にまだ苦しみを味わえと、そういうことなのか。

 いや、そんな自分のことなんかより…、彼女に死ぬ気が無いのなら、僕は彼女を巻き込むわけにはいかない、また、僕の間違った選択で、新たに人を殺したくはない、絶対に。



・・・。



 「それは持病の薬で、毎日飲まないと症状が現れてしまうんだ。今日はたまたま今まで飲む暇がなくて、ちょうど今思い出して、飲もうと思ったところだったんだ。」

 この状況を解決するには、僕はこう言う他なかった。彼女に睡眠薬であることを悟らせないままそれを回収し、自分で勝手にそれを飲む。川が氾濫して水が浸水してくれば、彼女も、さすがにことの重大さに気づくだろう。水が浸水してきてから、この窪みに水が完全にたまるまでの時間は十分弱。その時間は短いが、僕を起こすことができないことを悟り、仕方なく僕を見捨ててこの窪みから逃げるくらいのことはできるだろう。こうすることで、僕は死に、彼女は助かる。そして、後から僕が睡眠薬を飲んで自殺したということが報じられれば、彼女は僕のことを無関係な人間を巻き込み心中しようとした異常者か、いいとこ自分を殺そうとした人間だと憎らしく思うことだろう。そうすれば、彼女が僕のように、間接的にでも人を殺したのだと悩むこともない。


「でも、昨日は飲んでいなかったじゃないですか。」

 僕は、必死で頭を回す。彼女を守るために。

「昨日は、家で飲んだんだ、それで今日はたまたま忘れてて、そういうときのために、予備の薬をいつも持ち歩いているんだ。」

 さすがに苦しい言い訳か。それがどんな持病で、どういった名前か、また、それがなんという薬で、どういった効力を持つのか、というような詳細なことを聞かれれば、誤魔化し通す知識も自信も、僕には無い。

 実際は刹那でありながら、僕にとってはとても長く感じられた沈黙の後、彼女は口を開いた。


「そうですか、それではお返しします。」


 彼女は思ったよりあっけなく、睡眠薬が入った瓶を僕に返してくれた。この暗闇のおかげで、彼女にも、これがなんの薬なのかはよくわからなかったようだ。僕は一息つくと、それを受け取った。

 僕は睡眠薬を飲んだ後も、水が浸水するその時までそのことが彼女に知れないように、体を窪みの端に預けて、どこかに倒れないようにした。不思議と、恐怖は無かった。これで、全て上手くいく。誰も悲しませず、誰も傷つかせず、ただ僕たちだけの七夕伝説が、独りでに幕を閉じる。それこそが、この数年間、僕が待ち望んだ結末だった。


 僕は、今までの人生を振り返りながら、笑顔を浮かべ、一思いに睡眠薬を飲みこんだ。

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