第一章 春にして故地(くに)を離れ

『ロマノフ王朝第十九代ツァーリ、アナスタシア五世。汝はロシア正教会の守護者たるを、臣民の母たるを、そして我らが満州・大ロシアへの反攻をここに誓うものであるか?』

『ダー、誓います』

 周辺を東京都港区に囲まれたロシア帝国臨時首都、トウキョウ州アザブ市。赤絨毯を敷き詰めた講堂に静寂が積もる中、明朗な発音でロシア語が響き渡る。

 神田のニコライ堂から司祭を招き、華やかなドレスに身を包んだナーシャ――アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァの戴冠式たいかんしきが厳かに執り行われていた。場所はロシア帝国亡命政府の庁舎。俺は『ご学友代表』としての列席だった。慣れないスーツに、肩肘が張る。……と、隣に座るもう一人の来賓――『教職員代表』のほうから、のんきな寝息が聞こえてきた。

「おい、えりツィン。起きろ。起きてくれ」

 俺は正面を向いたまま、俺達の担任である物理教師――茶沢ちゃざわえりの体をつつく。

「ふゃぇっ……まだ狩りの時間じゃないだろぉ……」

「またかよ。いい加減に卒業しろ、MMO……」

「ひょ、ひょぇっ!?」

 奇声を上げて意識を引き戻すえりツィン。大声を挙げなかったのは幸いだったが、『ポンコツ天才理科教師』としか言いようのない彼女は、残念ながら社会人として最低限の弁えもできていなかった。日本人として、恥ずかしい限りである。俺達は一応、『筑波大学附属駒場高等学校』を代表して来てるんだが……。

 案の定、学校指定の学ランを着込んだ『あいつ』は俺達をジト目で睨んでくる。式典の最中もナーシャのそばに控えている警護担当――三枝警備保障第四号警備課、通称『四課』の警備員にして警視庁警備部警護課の嘱託しょくたく、『三枝さえぐさひそか』。俺の幼馴染で、同級生だ。左目を隠すよう前髪を斜めに伸ばしたショートカットで、無駄な肉など感じさせないスラッとした細身である。

 ナーシャは日中、高校に通っている関係で正規の警察官の警護が難しい。その代わりに亡命政府庁舎住み込みで警護業務――警備業法の専門用語で『四号警備』と呼ぶ。早い話がボディーガードだ――の嘱託を受けているのが、三枝警備保障前社長令嬢、三枝ひそかと俺である。三枝警備保障は、俺――甘粕あまかす忠彦ただひこの親父が副社長をやっている会社でもある。そんなわけで、あいつとは腐れ縁というわけだ。

 もちろん、三枝警備保障がナーシャの警護を請け負っているのには理由がある。三枝警備保障は俺の先祖に当たる、第二次大戦中の満州ロシア帝国に存在した『ロマノフ映画協会』理事長――いわゆる甘粕事件の実行犯『とされている』甘粕あまかす正彦まさひこが子飼いにしていた憲兵崩れを、戦後になってから正彦の息子に当たる俺の曽祖父が取りまとめて作った会社だからだ。ただし『甘粕』の名は甘粕事件の影響で印象が悪いため、前面には出されていない。

 歴史に時効はない。会社の耐火金庫には今でも、甘粕事件の真相を含めて『表に出したら日本政治史がひっくり返る』記録が保管されている。そのため時の権力との関係は伝統的に密接で、ナーシャの警護についても破格の報酬で契約が結ばれている。

 ひそかはプロだ。隠し持った特殊警棒や体術で対象者を護る訓練を徹底的に受けているし、フリーランス時代からの実績もある。警備員として業務を開始できる十八歳になった四月の時点で、父親が社長を務める三枝警備保障に即戦力として入社。俺と同様に普通二輪免許は前から持っていたから、法定時限の関係で普通免許も早めに取れている。そういった経歴からか、どこか学校の同期とは異なって大人びた立ち居振る舞いが目立つ。捜査権も逮捕権もなく、クライアントのために対象者であるナーシャを守護する孤高の女である。

 ――と、大事なことを忘れていた。今は新しくツァーリに就くナーシャの……ロマノフ朝直系としては最後の生き残りの、戴冠式の真っ最中なのであった。

 ロシア皇帝というのはロシア正教会の守護者という側面もあるため、戴冠式の宗教色は非常に強い。当たり前だがこういった場なので、正教会を徹底して弾圧しているソ連――『モスクワ駐日文化経済代表処』はお呼びじゃない。粛々としたロシア語の説教に続いて賛美歌が流れる中、一つのフレーズが耳に残った。


『キリエ・エレイソン』


 カトリックなどの西方教会では『主よ、憐れみたまえ』と訳される有名な言葉だが、実は東方教会でも使う言葉で、日本正教会では『主、憐れめよ』と少し形が違う。普段は聞き慣れない言語でも、知っている言葉が混ざっていると妙に安心するものだ。

「ボク、ごちそう楽しみだよ。何が出るのかな。チョングッチャン? ボルシチ?」

「あんたの脳内では、その二つが『ごちそう』なのか? ってか酒くせぇ……二日酔いだろ、あんた……」

 ……これ以上、日本の恥をさらすのもためらわれる。仕方ないか……身内は近くに俺しかいない。俺は長椅子の端からメガネに白衣の――本人曰く『理科教師の正装』――えりツィンを抱えて通路に出すと、なかば引きずるようにして部屋の外へと連れて行くことにした。

「ちょっと何するのさ、離してよ。ボク『本物! 現役女教師 緊縛監禁』なんて絶対に出演しないよ? やだやだやだぁ……イケメンに壁ドンされて、求婚されてから唇を奪われるんじゃなきゃやだぁ……」

 願望丸出しだな……。見た目だけはいいのに、色々と残念なえりツィンにそんな機会が訪れるとも思えないが。

 よくも学校側も担任とは言え、この学校きっての問題教師を名代に送ったもんだよ。俺はえりツィンの腕の下から片手でその体を抱え、もう片方の手で口をふさいだ。……絵面がやべえな、これ。見るとひそかは、顔の筋肉をこわばらせながら体をプルプルとさせている、怒りと笑い、半々と言ったところだろうか。

「理科の教員免許は取るの大変なんだから、もっと大切に扱えよなー。ボクは物理屋なのに、生物から地球科学まで取らされたんだから……」

 もはや、何を言っているのか意味がわからない。京大で理学博士号を取得するも『リケジョの皮を被ったマッドサイエンティスト』として会費未納により学会を追放されたという彼女だが、普段は酒に酔う度にこういったくだを巻く困った人である。……『麻酔銃型腕時計』とか『スケボーつきターボエンジン』とか、その発明品は頭おかしいとしか言いようがないのだが。

 式典の会場からえりツィンを外に出し、講堂の出口の横に置いてあった椅子に座らせる。すでに国もなく民もなく、白系ロシア人の篤志に頼るだけの『国家』ではあるが、ロシア帝国は先の大戦における日本の恩人だ。外交問題に発展することだけは、避けなければならない。

 大戦末期、当時満州を領土としていたことから『満州ロシア帝国』または『満露』とも呼ばれたロシア帝国は、国際情勢に鑑みて東京への疎開作戦を展開していた。しかし日本も本土決戦が叫ばれ、米軍機が飛来するような戦況。そんな中、東京大空襲を契機としてロシア帝国はある決断をする。

 『皇室は皇室を守る』。中立国であったロシア帝国はその大使館機能を皇居に移転し、東京の隅々まで総領事館を設置。その後、同じく中立国だったスイスを経由して連合国にその旨を通達。それにより、東京に対する空襲は極めて限定的なもののまま終戦を迎えた。こういった経緯で、日本はロシア帝国に大きな借りがある。それが、日本が世界の主要国ではただ一カ国、『ロシアにおける唯一の正統政府』としてロシア帝国を未だに承認している理由である。

 と。講堂の廊下を、書類かばんを持ったスーツの白人が眉間にシワを寄せながら歩いてきた。よく見知った顔だ。筑波大学附属駒場高等学校校長、ボリス・マクシミリアーノヴィチ・ヴォルコフ。本業は在日ロシア帝国大使館の駐在武官で、筑波大学附属駒場高等学校には『グローバル人材育成』という名目で着任している。学校生活におけるナーシャの警護に関して全権を持つ、俺たち警護チームの事実上のリーダーだ。

 俺はえりツィンの腕を掴んで無理やり立たせると、一礼した。一応えりツィンも警護の件については事情を知っているが、実際に警護するわけじゃない。クラス担任と部活――『ROR団』の顧問をやらされているだけだ。

「……そのままでいい。ここまで来るのに、いくつかソ連側の尾行を『切って』いて遅くなった。今夜は学校長としてではなく、亡命政府の駐在武官として様子を見に来た。陛下の式典はつつがなく行われているか?」

「飲んだくれ教師一名を除いては、まあ。なんでこんなのを学校の代表に選んだんですか?」

「事情を知る人間は、少なければ少ないほどいい。ことはそれ以上でもそれ以下でもない」

「ああ、そういう」

「三枝くんはどうしている?」

「脇に控えて、なにかあったときに備えてます。俺の担当は主に運転ですから、俺もひそかも今日は上がって警護の当直室で休むだけです」

 俺も四月から編入してきたひそかと同様、四輪の免許を取ったこの五月、三枝警備保障株式会社に親父の意向で入社してナーシャの護衛に当たることになった。求められるのは、学校卒業までの間の校内警護と送迎。亡命政府の宿舎に住み込みで、だ。

「モスクワのミナリンスカヤ大統領訪日を控えて、日本政府内には向こうと大っぴらにことを構えるなという意向が強いようだ。だが必要とあれば、存分にやってくれ。責任は私が持つ」

 いつものしかめっ面で、校長は角型二号封筒を差し出した。表には『警視庁総務部』と印字されている。

「遅くなったが、日本国警視庁嘱託だった三枝くんのお父上の公務災害にかかる書類だ。三枝くんに渡しておいてくれ。――返す返すも、気の毒なことになったと思っている」

 言って踵を返すと、校長は亡命政府庁舎の出口に向かう。

「用件は以上だ。引き続き警護を実施し、異常があれば報告してくれ」

 凛とした佇まいで背筋を伸ばし、校長の影が遠ざかる。校長は雰囲気があってかっこいい大人、というのが俺の印象だ。ただし奥さんと死別しているという話もあり、どことなく陰がある。あの独特の雰囲気で、高三の日本史は一コマだけ校長直々の授業が行われる。

 俺もナーシャも、そして男装して編入してきたひそかも三年生で、えりツィンが担任を務めるB組の生徒だ。えりツィンが顧問を、ナーシャが団長を務める『ROR団』に俺は所属していたのだが、三年になってからはひそかもメンバーに加わり、『ナーシャの学校生活を守りつつ警護を完璧にこなす』という難題に挑んでいる。学校側の便宜がなかったら、とてもじゃないがやっていられない。ナーシャが国立の男子校である筑駒に入ることになったのは、将来のパートナー探しという面ももちろんあるだろうが、政局が動いた際の警護の便宜も考えてのことだったのだろう。……現にロシア帝国亡命政府から校長も、三枝警備からひそかも来たわけだしな。

 つらつらとそんなことを考えていると、講堂から流れる曲の曲調が変わった。プログラムによると……確か、戴冠の儀が終わって中庭でお披露目だ。『皇帝アナスタシア五世』の誕生である。

 俺はえりツィンの頭を上から強制的に押さえつけると、講堂の入り口脇にひざまずいた。ほどなくして厳かな聖歌と学ラン姿のひそかを従え、ナーシャが中庭へと歩を進める。礼儀作法など弁えていない俺でもそうせざるをえないほど、この場には雰囲気があったのだ。

「……これ」

 俺の意識を引き戻したのは、肩を叩く感触だった。見ると金髪の美少女――ナーシャは扇の先で、俺のことをポンポンと叩いている。

「なんじゃ、その姿は? その方は余の学友であって、臣下ではない。立ち上がれ。そして余の伴をせい」

「し、しかし」

「いま一度言う。ロシア帝国ツァーリ、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ五世の名によって命ずる。立ち上がり、余の側にあれ。そして我が手を取って中庭へといざなえ」

 薄紅色の唇から紡がれるその言葉には、有無を言わせぬ力があった。

「……はい。この無礼をお許しください」

 言って、俺はナーシャの手に口づけると、その手を取って中庭にエスコートしようとした。

「な……」

 と。後ろに控えていたひそかが、思わず声を出す。

 ! しまった。学校では男装したひそかは、警護の必要性からナーシャと『恋人同士』という設定になっていたんだった……!

「ど、どういう了見だ。人の恋人に。失礼じゃないか。親友と言えども無礼は許さないぞ」

 上ずった声で、ひそかが俺に苦言を呈する。こんなとき、『普通の男』がどういう反応をするのか分からないのだろう。

「……すまん。一瞬とはいえ、雰囲気に飲まれてしまった」

 仕方がないので助け舟を出し、俺は中庭にエスコートする役をひそかに譲った。……今回ばかりは冷や汗かいたぞ。これで社交界の噂のネタは、ナーシャを巡る三角関係で決まりだな。

「男前ぇ。三枝クンに、拍手ぅ~」

 冷やかすように、えりツィンがパチパチと小さく拍手を送る。だから余計なことはやめろって。日本側のお偉いさんもいるんだぞ。

 ひそかはバージンロードを父親が導くように、ナーシャを中庭のパーティー会場まで連れて行く。そして中庭の中心につくと、ナーシャの一歩後ろに下がって警護の定位置についた。

 ナーシャはシュン、と風切り音をなびかせて扇を羽ばたかせ、列席者の耳目を集めた。

「我がロシア帝国臣民の諸君、そして友邦の諸君。余がロシア帝国ロマノフ朝第十九代ツァーリ、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ五世である。今宵は皇室と帝国のためにお集まり頂き、感謝にたえない。Mes sujets de l'Empire russe et les invités des nations amis, ici Anastasia Nicolaevna Romanova cinquième, le Tsar dix-neuvième de la dynastie russe Romanov. On ne sait comment vous remercier d'être ici ce soir pour entretenir des relations amicales entre vous et nos dynastie et empire.」

 日本語に続けて、かつてロマノフ朝の貴族階級で用いられていたというフランス語が流れる。小柄ながらも、聴衆を飲み込むようなオーラがそこにあった。

「モスクワと日本の国交正常化、及びミナリンスカヤ大統領の訪日が取りざたされる中での戴冠式であったが、今後も友邦諸国には、我が国との変わらぬ関係を維持していただきたい。それではささやかながら宴を用意しておるので、今夜はごゆるりと楽しまれよ。On a tenu le couronnement sous les rumeurs de la normalisation des relations diplomatiques entre Moscou et Japon et de la visite au Japon par President Minalinskaya. On vous souhaite entretenir les relations fermes avec nous à l'avenir. Alors, jouissez beaucoup notre réunion ce soir, je vous en prie.」

 言って、ナーシャは扇をパチンと閉じた。それと同時に、拍手が中庭に満ちる。

 ナーシャが挨拶で友邦諸国、と言っているのは日本の他にもバチカン市国など、ロシア帝国との外交関係を維持している国が一定数存在しているからだ。

 パーティーが始まると、ナーシャは各国の大使連中と歓談を始めた。同時に、ひそかがナーシャのもとを離れてこちらに向かってくる。

「いいのか、ナーシャの側にいなくて」

「本来、敷地の中の警護は亡命政府の役割だから……亡命政府の警務総局に引き継いできた」

「戴冠式の警護は、本来業務から外れるからな。学校への送迎と、登校から下校までの護衛。それが契約内容だ」

「当然、その分の手当は貰ってる。わたし……が戴冠式での警護に選ばれたのは、日本との関係に配慮してのことらしい」

「そりゃ、お前はナーシャの『彼氏』だからな。日露友好の象徴だぞ」

「茶化さないでよ……くれ。一介の警備員には荷が重い」

「そりゃお前、『お姫様が同級生の亡命政府現地雇用員に一目惚れした』んだから、しょうがないだろ。これは高度に外交的な案件なんだよ、ひそか君? それよりお前、言葉遣い」

「ああ……気をつけるよ」

 こくり、とおとがいを縦に振るひそか。

 ナーシャとひそかが偽の恋人関係になって二月め。変な表現だが、ひそかはまだ『男』としてはスキが多い。女言葉が漏れるのはもちろんだが、無理に男ぶろうとして不自然な表現になることもある。体育の着替えのときなんかはしょうがないので、俺が更衣室の隅で盾となっているのが現状だ。

 さて、このちっともリラックスできないパーティーが終わったら宿舎で当直につきますかね……。


         ▼


 ナーシャの寝室の横にある当直室では、俺とひそかが同室で寝泊まりしている。ナーシャの身に何かあれば、亡命政府警務総局から支給されている警護用の無線に連絡が入る仕組みだ。普通『当直』と言えば誰か起きていなければならないが、この案件の『当直』は『すぐに起きられる待機状態』であればいい。人員が限られている以上、昼間の警護に支障をきたすわけにもいかないからだ。

 俺は当然、ひそかとは別室がいいと言ったのだが、ひそかの意見は違った。

「本物の男子を観察しないと、短期間でナーシャの彼氏を演じきることはできないから」

 実に『プロであること』に厳しいやつである。幼少から武芸を鍛錬してきたひそかは半端じゃなく強く、俺ごときがステゴロ仕掛けても必敗である。俺が勝てるのは、運転の技能くらいだ。免許的には初心運転者なのだが、高校に入ってからは田舎にある会社の私有地で訓練を受けてきた。ナーシャいわく四月に担当していたひそかの運転に比べると、俺の運転は段違いに安心できるそうだ。

 さて。俺の一挙手一投足をつぶさかつ綿密に観察するひそかのまなざしには若干の恐怖を感じざるを得ないのだが、今のところ押し倒される気配とかはない。なやつなのだと思っておきたい。着替えをするときとか、カーテンを引くのは俺のほうである。普通は逆だろと思う。ちなみに二人きりのときには、俺に言葉遣いを『監修』してほしいらしく、ひそかは男言葉で話す。

「そういえば、歩き方にまだ女の癖が残ってるぞ、お前。つま先が閉じすぎてる。男はその骨格上、開いて歩くんだ」

「そ……そうか? 気をつけるよ、ありがとう。この前の任務は、お嬢様学校に通っての生徒護衛だったから……おしとやかな所作が求められちゃって」

「女子校でモテただろ、お前。背も高いし、そういう雰囲気だ。王子様っていうか、なんていうか……イケメン女子?」

「――うん。バレンタインデーではチョコ貰いすぎて、鼻血出た」

「しかし、うちの編入試験よく受かったな。学力的には手心加えられなかったんだろ? ナーシャはあれで、学業優秀だし」

 うちの学校は、偏差値的には日本で一位だ。高校偏差値だと78……要は『測定不能』の領域である。

「ああ……実任務のストレスに比べたら、あの程度の準備は余裕だよ」

 ……こいつ、絶対に浪人しないな。そして今度は、大学を舞台に学校専門の警護人になるに違いない。

 ひそかは支給された拳銃を枕元に置くと、ベッドにその身を横たえた。柵の外、つまり『日本国』なら銃刀法違反だが、ここは日本にある外国『ロシア帝国』。法律違反にはならない。亡命政府警務総局から射撃訓練は受けているし、実は俺も拳銃を与えられている。運転に加えてこちらに関しても、ひそかよりは成績がいい。

 使用拳銃はMP-443グラッチ。ソ連軍の軍用拳銃で、ロシア帝国の工作員がろ獲してきたり、あるいは様々な意図で密輸入したものらしい。現在のロシア帝国には、自国で兵器を生産する能力がないからだ。使う場面が出るとしたら、麻布の庁舎自体が襲撃を受けた場面くらいだろうが、流石にそんな事態には発展しないだろうと希望的観測を抱いておく。

「ナーシャだけどさ」

「ん?」

 唐突に、寝そべって目を閉じたひそかから漏れる声。俺はそれを受け、小さく返す。

「あの子、そんなにメンタル強いほうじゃないんだ。今日の立ち居振る舞いだって、精一杯の虚勢だと思う。わたし……僕は、『四月事件』で震えていた彼女の背中を忘れることができない」

「それで、俺にどうしろと?」

「忠彦にもサポートしてやってほしい。たとえ護衛人の領分を超えることであっても、せめて高校卒業までは普通の女の子でいてほしいんだ。……あの子は、僕の『彼女』だから」

「……それなら、言われるまでもない。ナーシャとの付き合いは俺のほうが、編入組のお前より長いんだ」

「そうだね。眠りにつくたび、パパは……なぜあの函館で死ななければならなかったのか。それを考えちゃってね」

「あ……そういえば校長から、公務災害の書類預かってるぞ。その……親父さんの」

「要らない」

 一種、拒絶するかのような言い方だった。

「なんでだ?」

「四課の人間は『盾』だけど、死んじゃならない。対象者も警護人も、生き残らなきゃならない。だから殉職するようなヘマを犯した任務で、申請することをパパが望むとは思えないんだ。ママも既に、鬼籍に入ってるしね。幸いなことに副社長――君のパパは、僕によくしてくれている。だから、食べるのには困っていない」

「そりゃ、親父にとってお前は親友の娘だからな――それがお前の意思なら、俺は尊重するよ。言いたいことはそれだけか?」

「うん」

「なら、俺も着替えたら寝る。俺はお前と違って、学ランで寝るような変態じゃないからな。朝、替えの服に着替える前、それとシャワー使う前には一声かけろよ? カーテン引くから」

「うん。おやすみ、忠彦」

「ああ」

 言うと、ひそかは寝息をすうすうと立て始めた。俺とは違う、甘い香りがそこはかとなく聞こえてくる。……だから同室は嫌だって言ったのに。

 ……俺も寝るか。俺はベッドの周囲に張り巡らされたカーテンを引き、パジャマに着替える。

 今日は疲れた。そう思う間もなく、布団に身を潜めると眠気が俺の意識を断った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る