第3話

 いつものように、出かけて時間をつぶして、充実していたような空虚なような、自分でも判断が付かない日を過ごした。夏休みは有限なのに、どうしてここまで堕落して過ごせるんだろう。

 世界は赤味がかっていた。酷く私の心を急き立てるいつもの色だ。

 帰りたくないな。

 だけど帰るしかない。

 まだ青みが残る空。道の塀をはみ出た木の葉っぱが黒いシルエットになっている。さわさわと揺れている。すると先のほうに誰かいた。よく見えないけど、シルエットからして女性の人。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

「?」

 何だろうこの声は。女性の声? よく見たら女の人はこっち見ていた。目が合った。口を開いている、黒い服に黒い髪に、黒い口。真っ暗で何も見えない。歪んだ形に開いて

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 ひたすらそう言っている。瞬き一つせずに。私は動けずに、気が付くと目の前にいて、黒い口が大きく開いて



「……??」

 目が覚めた。ベッドの上だ。白猪堵荘の私の部屋。きょろきょろと見回す。誰もいない。毛布をこすって感触を確かめる。ここは夢じゃない。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 あの声が頭から離れない。悪夢なんて久しぶりに見た。追われたわけでもない短い夢なのに、私の心臓は汗がにじむように速くなっていた。


 深夜だった。あたりは外から虫の声のようなものが聞こえてくる。その中に混じって女性の声が聞こえるんじゃないかと思って、私は無駄に寝返りを打ちまくった。


 がっちり起きていたわけではないけど、何回か意識を失っているうちに、辺りは明るくなっていた。


 お腹は減っているけど、そのうち収まるだろう。いつもは出かける時間帯なのに、私はいけなかった。夢がそこまで怖かったのかと言われると、めちゃくちゃ怖かったわけではないけど、でも体が動かないほどだから、怖かったのかもしれない。

「どうした」

 伯生さんが私を見下ろしていた。いつまでたってもこたつから出ないから不審がっているらしい。

「いや…………」

「いつももう出てるだろうが。出てけよ」

「いやちょっと…………」

「腹でも痛いのか?」

 何も食ってないかそう言えば、という感じのあざ笑うような顔をしている。

 私は彼をジッと見つめて、

「ちょっと怖い夢を見ました」

「夢って、お前…………」

 呆れた様子の伯生さん。私は内容をさらさらと話し出した。

 聞いた伯生さんは、意外とバカにしなかった。

「不安なのか?」

「え?」

「だいたいそんな夢見るときって、そういうことに悩んでるときだろ」

「そうなんですか?」

「知らないのか、馬鹿だな」

 というより、伯生さんがそういうスピリチュアルな決断をすることに驚いたんだけど。伯生さんは立っていたけど、初めて座ってきた。

「で、悩みって何だよ」

「いや、あなたが言うんですか?」

 一番の問題は伯生さんからの虐待だと思うんですが、と暗に伝えた。

「そんなわけねーだろ」

「ないって、すごい自信」

「とっとと出て行けばいいのにしないお前の責任だろうが」

「なんで……」

 そう言い方するかなぁ。ちょっと目の奥がツンとする。

「お前がここから出て行かないだけだろ。俺のせいにするな」

「……」ため息をつく。

「学校に戻りたくないのか?」

「何で」

「たいていそう言うもんだろガキの悩みって」

 まぁ、正解なんだけど。言葉に詰まったけど、図星なまま黙っているのも格好悪いから、素直に話すことにした。

「友達と喧嘩したんです」

「どっちが悪いんだ」

「それは私だと思うんです」

「そうだろうな」

「私が悪いんですけど、相手にも悪いところがあるというか」

「へぇ?」

「でも、理解されないというか。多分話しても『それくらいで?』って言われるというか」

「お前にとって嫌だったことだと?」

「んんん……そうです」

「地雷を踏まれたわけか? それが周りに理解されないような地雷って?」

「そうですね。親にも『それの何が問題なの』って言われたんです」

「そりゃ仕方ないな」

 伯生さんは座椅子の背もたれに寄りかかった。

「まぁそうなるだろうな。俺からも似たようなことしか言えねぇ」

「そうでしょうね」

「ああ。周りに理解されないなら、そんなことで悩んでも仕方ないだろ」

 やっぱり。だけどどことなく私の心は澄み渡っていた。諦めがついたような心地だ。

「地元に戻ったら、謝るのか?」

「それはわかりません、多分、時間がかかりそうな気がします」

「とっとと覚悟を決めて、ここから出て行け」

 そんなことでここに居座られても困る、と言いたいらしい。確かにここは彼の家だから、他人がいつまでも居座るのは不快だろう。

 伯生さんはおでんの大根に箸を突き刺して食べていた。

「あの、伯生さんはなんで急にそんな感じになったんですか」

「んん?」

 伯生さんはもぐもぐしてから口を開いた。

「そんなってなんだ」

「私に対してですよ。もっと優しかったじゃないですか」

「いいじゃねーか。いつまでも気を遣うのは疲れんだよ」

「オフの状態ってことですか」

「そうだよ」

「そうなんですか」

「だから、とっとと出て行けよ。お前がいると休まらない」

 いつもは無理して紳士やってたってことか。

 そういえば、こんな様子の彼を初めて見たのは、私が急いで帰ってきた時だ。彼は髪を整えてなくて、煙草もふかして、だらしなくソファに寝転がってせんべいを食べていた。私が急に帰ってきて、驚いた顔をしていた。それから、大家さんとロバートさんがいなくなったから、ふっきれて同じような態度を取ることにしたのかな。

 皆の前ではそんな様子を見せなかった。もしかして、レアな光景を私は見ているのかもしれない。


 結局私は今日家を出なかった。心なしか、伯生さんの態度も柔らかくなった気がする。

 相変わらず食事は用意しないけど、「出ていけ」とは言わなくなった。

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