ここから世界は動き出す。

 時間は秋山零士が本を手にする少し前まで遡る。

「君がミルダかい?」

 南アフリカのケープ州にある小さな酒場の隅に座る一人の女に、男は声をかけた。

 ミルダと呼ばれる女は背が高く、ブラウンの目と同じ色の長髪を後ろで一つに縛っていた。上には黒のタンクトップ、下には紺のハーフパンツを着ており、左右の腰に付いているホルスターの中には自動銃ベレッタM92が入っている。

 酒場には他の人影は見当たらず、クラシックな音楽だけが薄暗い店中に響いていた。外界から乖離された様な雰囲気の店内は静かで、昼間の喧噪が遠くの方に追いやられている。

「そうだけど、あんたが今回の依頼者かい?」

「ああ、ブライトだよろしく」

 ミルダはブライトを睨むように見上げた。

「早くしてくれ。こっちもそんな暇じゃないんでね」

 そう言ってミルダは咥えていたタバコの火を灰皿に押し付ける。

「そう急くな」

 ゆっくりとミルダの前に座ったブライトは懐から一枚の古ぼけた写真を取り出した。

「これが今回君に取って来て欲しい物だ」

 写真には一冊の本が写っている。

 茶色い本の表紙には記号のような文字が書かれているが、見ただけでは何の本なのかは分からない。ミルダはそれを一瞥し、先を促す。

「この本は創世記と呼ばれる本だ。遥か昔、世界が出来た時に一緒に作られた物であり、世界の全てが記されていると言われている」

「そんな空想の産物のようなものをあたしに探せっていうのか? 馬鹿にしてんのか」

「半世紀前であったら馬鹿にしている事になっていた。しかし、今はもうそうではない」

「どういうことだ?」

「……この本の存在がアメリカのトレジャーハンターによって確認された。場所はメキシコにある地底遺跡」

 声を潜めるブライトの話をミルダは頬杖をつきながら聞く。

「なるほどね……話が読めて来たな。どうせ地底遺跡で見つけたけども取って来れなかったみたいな話だろう? それこそ馬鹿にしてんのか。その話が本当だったとしても、そんな場所に誰が行くと思ってんだ」

「だから君に依頼しに来たんだよ」

 ブライトは持っていた銀のアタッシュケースを机の上に置き開いた。中からは大量の札束が現れる。

「前金だ。全てドルで用意してある。成功したらこの十倍は支払おう」

「本気かい? 正気の沙汰とは思えないが」

 ミルダは訝しむようにブライトを見た。

「この本にはそれだけの価値があるという事だ。それに本を手に入れたならば君の名は世界中に轟き、ひっきりなしに仕事が舞い込んでくるだろう。全世界にいる大物が本を狙っているんだよ」

「なるほどねぇ」

 本の写真を手に取り、見つめるミルダの目はどこか虚ろであり、何を考えているのかが分からない。

「……詳しい資料を寄越しな、やってやるよ」

「ありがたい。詳しい資料は後日部下に届けさせる。いい知らせを待っているよ」

「勝手に言ってな。あたしはあたしの為だけに働く。勘違いするなよ」

 睨みつけるミルダに手を振り、男は酒場を後にした。

 そのすぐ後に、別の男が酒場に入ってくる。短髪で大柄なアジア系の男であり、ミルダの前の席に静かに座った。

「ようヘビィ。どうした?」

 素知らぬ顔のミルダを見てヘビィは溜め息をつく。

「ミルダ、どうして依頼を受けたんだ。今回ばかりは危険すぎると先に忠告しておいただろう」

「そんな事言ってたっけなぁ」

 ミルダはぼーっと本の写真を見つめている。

「その本を狙っている奴は多く、世界各地の大物の名前が上がって来ている。並の奴らならお前の敵ではないが、今回は本当に――」

 ヘビィは眉間に突き付けられた銃口を見て言葉を飲み込んだ。銃を持つミルダはゆったりとした動作でタバコを取り出し、片手で器用に咥えて火をつける。

「ちょっと五月蝿いよ」

 タバコの煙は宙を泳ぎ、葉の燃える音が聞こえてきそうなくらいに店内は静まり返っている。ミルダはヘビィを見る事無く、ただただ写真だけを見つめていた。その姿を見て、ヘビィは大きく息を吐き席を立ち上がる。

「忠告はしておいた。死ぬんじゃないぞミルダ、お前は俺の数少ない友だからな」

 言い残してヘビィもその場を去る。

 一人残ったミルダはホルスターに銃を仕舞い再び写真を眺めた。そしてタバコを深く吸い、写真の端に付け写真を燃やした。

 チリチリと燃える写真を見ながら彼女は静かに笑う。

「さて、行くか」

 タバコと写真を灰皿に捨て、ミルダは店を後にした。

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