#16『痛くない歯医者』
1873年、アメリカ西部のどこかで―
注意を払う。
こういう時、フッド・ペキンパーは特に。
床が鳴らないようにするのは、最早彼にとって注意のうちに入らない。大事なのは気配を消すことだ。そうすれば、気づかれず今のように建物へ侵入できる。
ほら、するりと扉を開けたにもかかわらず、歯医者はフッドの気配に気が付いていない。
フッドは滑るような速さで医者の背中へ接近すると、冷たく重たいレミントンを突き付けた。固い金属が背骨に触れる感触が彼の手にも伝わって来る。
歯医者はびくりと跳ねながらも、必要以上に狼狽しなかった所を見ると、彼もまた背骨に突き当たった鈍い金属がリボルバー式拳銃の銃口だと気づいたのだろう。
「お前、歯医者か?」
フッドは耳元で囁くように尋ねた。砂で汚れた不精髭と深く刻み込まれた顔よりは若い声だ。
「へっ………」
声は幾分怯えていた。自分の言葉の先に命がぶらりと垂れ下がっているのだ。平静ではいらるはずがない。
「お前は歯医者かと聞いているんだ?」
「は、はい……そうです………」
言いながら、男の手は降参を示すポーズへ。
「表の看板通りか?」
「か、看板通り?」
「看板に書いてある通りかと聞いてるんだッ」
グッと銃口を深く突き付けると男は前へつんのめった。
「い、痛くない歯医者ってことでしょうか?」
フッドは何も言わなかったが、男は激しく頷き看板に書いてある通り、『痛くない歯医者』であることを認めた。
「俺はなにもお前を殺そうって訳じゃない。ただ、歯を抜いてもらいたいだけだ。分かるな?」
歯医者は頷く。こんな時間に銃で押し入って治療を要求する。医者にもフッドと言う男の首には少なからず、金がぶら下がっているのを理解した。
「治療が済めば大人しく出ていくし、治療代、それもお前が普段取っている代金よりも少し割増ししたっていい。ただし………看板通り、痛くなかった時だけだ。状況は飲めたか?」
激しく頷く歯医者の首筋には汗がぽつぽつと湧いていた。
「じゃあ、契約は成立だ」
フッドは銃口を離すとそのままホルスターへ収めた。張り詰めていた緊張がぷっつりと切れ、歯医者は安堵のため息を肺から絞り出し、うなだれた。
振り返った歯医者を見てフッドはもう一度銃に手を掛けようか迷った。
丸い瓶底のような眼鏡と少々前へ出過ぎた歯。髪の毛も大分薄く、貧弱を画に描いたような風体の男だ。殺したところで毒にも薬にもならない男。しかし、頭が人より早く回るのだという事は分かる。だから、フッドはこの手の男を見ると訳も無く苛立つのだ。
流石に銃に手を掛けるのは止めた。ここで男を殺してしまったら、この数日彼のありとあらゆる平穏を邪魔して来た忌々しい奥歯の痛みを取ることが出来なくなる。
殺すにしてもそれは治療が済んだ後だ。フッドは鉛弾を発射する代わりに舌打ちをして、唾を床に吐き捨てた。
「で、どうやって痛みを消す? 自慢じゃアないが、俺も何度も歯を抜いたことはある。自分で抜く時はそりゃあ、想像を絶する痛みだ。痛みを止める為に一、二発撃たれてもいいって本気で思えるぐらいの痛みだ。医者で抜いたこともあるが、それでも痛い。なのに、お前は痛みを感じさせないんだろう?」
歯医者は引き攣りながらも少し笑みをこぼし、診察台に寝ころぶよう促した。
「わ、私の治療は最新。南部、いやアメリカでも最先端の医療なんです」
フッドは疑り深い目で医者を睨み、寝台へ身を倒した。医者は手にアルコールを浸すと鏡が付いた棒でフッドの口を覗いた。
「これは、虫歯ですね…………抜くしかありません」
医者がそう呟きながら、一瞬目をぴく付かせたのをフッドは見逃さなかった。
「金歯か?」
「えっ………」
図星と医者の顔に書いてある。彼はフッドの口内に並んだ無数の金歯に動揺していたのだ。
「別段珍しくはないだろう? お前は金歯の治療をしないのか? それとも本物の純金を見てちびったか? 貧乏人」
医者は慌てて目を伏せ、軽く会釈した。
「す、すみません………」
「で、どうやって治療するつもりだ?」
「あ、ああ、はい。麻酔……はご存知ですか?」
医者はそう言いながら、緑色の瓶を取り出し軽く振って見せた。ちゃぷんと中で液体が揺れる。
「麻酔? なんだそりゃ……」
「いわば、強力な痛み止め、とでも言いましょうか? このジエチルエーテルを注射すると、体の感覚が麻痺し、昏睡状態に陥ります。その間に歯を抜いてしまえば………」
得意げに語る医者をフッドは舌打ちで制止した。
「御託は良い。つまりそれを打てば俺は眠りこけ、その間に治療が終わるってわけだろ?」
「え、ええまあ………」
「痛みで飛び起きねぇのか?」
「昏睡状態に入れば体が麻痺するので、痛みは感じません」
フッドは部屋を見回しながら少し思案したが、再び視線が医者を捉える頃には腹が決まっていた。
眠っている間に目の前の下種な男が自分を殺しにかかったりするだろうか? いやしないだろう。確証があるわけではなかったが、こういう時の感覚は必ず当たる。フッドは経験上そう確信していた。
「わかった。じゃあさっさと始めてくれ」
医者はテキパキと慣れた手つきで銀皿に施術用の道具を並べ始めた。消毒されたメスやピンセットを並べ終えると、注射筒の中にジエチルエーテルが充填されていく。
太い注射針の先から薬液を数滴絞り、空気を出し切ると軽く振ってスッとフッドの腕へ這わせる。針の先が焼けた肌を数ミリ削った所でフッドは手を上げた。
「まった。寝小便はかきたくないもんでな。便所だ」
フッドはそう言ってベッドから立つとトイレを探しに、診察室の奥の扉を抜けて行った。数メートルほどの短い廊下の先に一つだけ、ドアがある。半開きになったそのドアをフッドは何の迷いも無く、開き中へ滑り込んだ。
ベルトに手を掛け、数歩歩いた所で妙な感触に捉われ、フッドは顔を上げた。薄暗い部屋はトイレなどではなく、診察室よりも一回り小さいこじんまりとした部屋であった。ガラス付きの戸棚が幾つも壁を埋めているせいで圧迫感は更に増している。
目を凝らすとその戸棚の中に並んでいる物が見えて来た。
「金歯……か」
戸棚の中には数十、いや数百を超す無数の金歯がまるでコレクションのように並べられていた。異様である。金とはいえ、人間の歯を模った物がぎっしりと納まっている様にはフッドも寒気を覚え、後退った
後退ったことで、目の前の寝台にやっと気が付いた。細長い、先ほど自分が寝ていたものと同じ寝台だ。部屋の中央に横たえられたその寝台には布が被せられており、布は残酷にもこんもりと膨らんでいた。
舌打ちを一回。フッドは布に手を掛けると、そのままガバッと引き剥がした。
「嘘だろ………」
女の死骸がそこに姿を現した。一目見ただけで、フッドには死んでから、左程時間が経っていない事が分かった。ほんのりと腐り始めた人間の体臭が漂ってきている。
女のすぐそばに置かれた銀皿には3本の金歯が等間隔で並べられている。奥歯が一本、前歯が2本。厭な予感を掻き消すようにフッドは女の口をべろんとめくってみた。
固く冷たい唇を持つ手がいつの間にか震え出していた。
「な、なんなんだ一体ッ」
欠けた前歯を再び、唇で隠した次の瞬間、右ふとももの裏に猛烈な痛みを感じ、フッドは前傾になって倒れかけた。
「ッあぁッ!」
痛みの元を抑えると流れ出した血で指先がぬるぬると滑る。
「治療を始めましょうか? 患者さん」
医者の声が背後から響き、フッドは身を起こした。
「お金はいくらあっても足りませんね。でも、これだけの金を集めればその内、大きな農園ぐらいは買えると思いませんか?」
先ほどとは打って変わった平静で落ち着いた声。戸口に立った医者の片手に注射器が握られている。太ももを突き刺したのはこれで間違いない。シリンダーが下がり、注射筒の中にあったジエチルエーテルは半分ほど減っている。
それはつまり、フッドの体内に麻酔が注入されてしまった事を意味していた。
医者の話が本当であれば、その内フッドの体に麻酔が回り、体は動かせなくなる。
「ッ、てめぇッ! イカれてんのかぁーーーーッ」
勿論、フッドはホルスターに手を掛けた。しかし、指先が何故かいつまでたっても銃、どころか足に触れないのだ。
ハッと見て異変に気が付いた。手はホルスターに触っているのだが、肝心の感覚が無い。異常事態に湧き上がって来る恐怖を喉の筋肉で下へ押し下げると、医者めがけて突進した。
倍ぐらいの差があるフッドの体格に医者は壁へ叩きつけられる。
なんとか、部屋を出たまでは良かったが、次第に平衡感覚が鈍り始め、診察室に飛び込んだところでフッドは足を絡ませてその場へ倒れ込んだ。
倒れた衝撃で机に置いてあった銀皿が地面へ落下していく。
今まで感じたことのない感覚。腕や足はいう事を聞かず、視界はぐんにゃりと歪む。加えて指先や足先の感触が無い。自分が今地面に接地しているのかどうかも分からない程、全身の感覚器官が麻痺し始めていた。
それでもフッドは仰向きになって地面を這い進む。
「逃げても無駄ですよ。致死量ではありませんが、既に昏倒するには充分の麻酔が入っているんです。仮にその扉から出て行ったとしても数メートル進んで終わりです。絶望させるようですが、それが現実です」
言い返そうと思ったが、それをする暇があればやれるだけの事はやろうとフッドは思った。感覚のない手を何とか動かし、目の前へ持ってくる。
「ッ………」
右の拳にはメスが突き刺さっていた。痛みは一切ない。
「うぬぁぁぁぁッ」
唸り声を上げながら、フッドはそれを口で噛むと引き抜いた。
「鉱山夫の気付け薬にエーテルを湯で割ったものを出すでしょう? あれを見て思いついたんです。私のアイデアですよ? これを使って歯の治療をすれば痛みは無くなる。画期的な方法だと思いました。これで歯の治療に革命を起こせる………でもある日、もっといいことに気が付いたんですよ。この方法を使えば人間を無防備な状態で殺せる、ってね。こうやって看板につられてやって来た客の金歯を拝借する。もうあと少し、金が溜まれば………こんな町と店は捨てて、南部へ出ます。大農園をやるんです。そうすればこうして―」
指先はどうすれば動かせるのか、初めてそんなことを思った。死ぬ気で両手を使い、銃を挟むところまでは持って行った。これも医者が得意げに演説をしていたお陰だ。
しかし、問題は重い撃鉄をどう起こすかだ。指はどう念じても動く素振りすら見せず、凍ったように動かない。
「ぬぅぅぅッ」
背に腹は代えられなかった。前歯で撃鉄を強く噛むと、力づくで引っ張った。前歯は歯茎に食い込み、ねじ切れそうに軋みを上げてぐらつき始める。
一発撃つのに、歯を一本とは高い弾代だ―― ガチャリと撃鉄が起こされ、弾倉が回転する。
手首でグリップを固定すると、もう片方の親指をトリガーに引っ掛けた。感触が無い為にそれらの行動を何度も目視で確認しなければならなかった。
「一人殺してしまえばもうあとは何人だって同じですよ。簡単なんです。ジエチルエーテルをこのシリンダー一杯に入れて注射してあげればその内寝息を立てますが………それも数分すれば無くなります。穏やかな死ッ! 正に眠るように死んでいくもんですから………罪悪感はないですよ。所謂致死量って――」
幸運なことにフッドが赤ん坊のように銃と格闘している間、医者は喋り続けていた。
バレルは確かに真っ直ぐ医者を捉えている。一撃で頭を仕留めたいが、それを行うには運を信じなければならない程、フッドの意識は混濁していた。今は一刻も早く、銃弾をぶっぱなしたい。
はやる気持ちで、フッドは親指の付け根をトリガーに押し込む。強い力で押したせいで指はあらぬ方向へ曲がり、骨が異様な姿で皮膚を内側から押し出そうとしている。
ドッと火花が散って雷管が叩かれた。音速を超える速さで甲鉄の弾がバレルを駆け抜け、解き放たれた。その衝撃で銃口が大きく跳ね上がる。
焦ったのが運の尽きだ、狙いは大きく外れ、銃弾は医者の後ろに並んだ瓶を叩き割った。
「ッ…………これは。賞賛に値しますよ。あれだけの量を服用しても銃を撃てるだなんて………」
医者は焦るどころか、感心したようにフッドを見る。医者の口は興奮気味に歪んでいたが、何かを感じ取ったのか一瞬で閉じられた。
鼻を数回鳴らし、辺りを見回して医者は割れた瓶の破片と床にぶちまけらえた液体を見る。顔に曇りが掛かるのをフッドは見逃していない。
「ジエチルエーテル…………」
割れたのは麻酔薬が入った瓶だったのだ。医者は少し黙った後、再び笑みを取り戻した。
「賞金首と言う人間は、少なからず運に守られていると私は思うのですが、やはり事実のようですね。この場でジエチルエーテルの瓶を割るとは。ジエチルエーテルは非情に揮発性が高く、気化しやすい。気化したエーテルにも充分麻酔作用があります。そして既に私は幾分かのエーテルを吸い込んでしまった。闘いは五分と五分ですか? それに――」
二射目は簡単だった。同じ動作を機械的に繰り返し、照準を合わせる。次は外さない。周囲には気化したエーテルが充満し、鼻を刺すような刺激臭が漂っていた。
「それに、気化したジエチルエーテルは非常に引火性が――」
言い終わる前にハンマーが雷管を叩き、チャッと火花が散る。
熱さも殆ど感じなくなっていたが、それでも自分が置かれている状況は漠然と把握できていた。部屋に充満したジエチルエーテルは火花で着火し、部屋は吹き飛ぶに近い形で崩壊。猛烈な爆風と爆炎の中、フッドの身体は吹き飛ばされ、路上へ転がっていたのだ。
痛みが分からない所為で死に近づいているのかそれとも九死に一生を得たのか分からない。だが、フッドの心はさほど沈んではいない。不本意とはいえ、あの医者をあの世へ送ったのだから。
わずかばかり動かすことができる視線を燃え盛る歯医者の建物へ向けて見た。炎の光が無数にちらつき、はっきりと認めることは出来ないが医者は無事ではないはずだ。
視線を頭上に向けると星空が広がっている。
息を深く静かに吐いた。
と、フッドの耳に聞き覚えのある金属音が響いた。
ウィンチェスターのレバーを起こして、薬莢を装填する厭な音だ。視線が再び炎上する建物を捉える。そこにはショットガンを構え、こちらへ歩いて来る男。
あの歯医者だ――
「ぬああっぁあああああッ――」
眼を開けると、ランプに照らされた天井が見えた。恐怖で心臓がバクバクと唸って痛いぐらいだった。荒く苦しい息はしばらく収まりそうにない。
何が起こったのか。フッドは身を起こそうとしたが体に一切力が入らない。
眼を動かしてみると、すぐ傍で例の歯医者が血の付いたメスを入念に洗っていた。
ここは歯医者だ―― 燃えてもいなければ爆風で吹き飛んですらいない。忍び込んだ時と同様、静かで清潔な部屋がそこにあった。
「あれ? もう、気が付きましたか?」
振り返った医者が少し驚いた声で言った。
フッドは返答しようとしたが声がまだうまく出せず、眼を顰めて男を睨んでみるだけだった。
「治療は無事終わりましたよ。ただ、まだ麻酔が残っているのでもうしばらくはお休みください」
夢か―― フッドは気が付いた。あれは全て夢だったのだ。自分は麻酔で眠りこけ、その間にすっかり手術は終わってしまったのだ。
普段から警戒心を人一倍持っている事がこんな馬鹿馬鹿しい夢を見させたのだと思ってフッドは鼻を鳴らせて笑った。
不意に掌へ視線を落とす。
右の掌にはパックリと裂けた傷が綺麗に縫われていた。
「………そう言えばあなた、賞金首ですよね? 金歯よりも金になりますね? これは」
モヨヨ超短編劇場 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339
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