第三幕『よはなべてこともあり』2



 時計の針は十三時十三分十三秒を回ったところだった。


 舞い始めた灰雪は、あっという間に牡丹雪へと変わり、東京の街に深々と降り注ぐ。


 警視庁庁舎に到着した鈴璃と陣平は、鳴茶木真愛が待つという階上の取調室に向かうため足早にエレベーターを目指す。


 庁舎内は突然の来訪者に対し、明らかに混乱しているようだった。


 二人の姿を確認すると、見たことのない狼狽を顔に貼り付けた九郎が、足早に駆け寄ってきた。次いで、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。


「おい、鈴璃、陣平。鳴茶木真愛ってどういうことだ? 奴は本物なのか? 悪戯とかじゃないのか?」


 九郎の言うことも最もだった。魔女が、いや魔女でなくとも、いくつかの犯罪に関与している可能性のある者が、自ら敵の本陣に乗り込んでくることなどまずあり得ない。普通に考えたら正気の沙汰とは到底思えない。


「オレも会ったことがないのでまだわかりませんが、家館さんのことを知っているとなると、本物の可能性は高いでしょうね」


 当の陣平も緊張した面持ちで答える。


「なんだか気味の悪い奴だった。現れるなりお前たち二人を呼べって、自分はここで待たせてもらう。って言ってきてな。周りの奴らも、まるで国賓を扱うかのように手厚く鳴茶木をもてなし始めやがる始末だ。警視総監にだってあそこまでしないぞ。あいつら一体どうしちまったんだ?」


「鳴茶木は精神支配の類の魔術を使うみたいですからね。その影響かもしれません」


 陣平は歩調を緩めることなく、辺りを見回し、耳に意識を集中させる。「鳴茶木様に失礼があってはいけないぞ」「お茶はもうお出ししたのか?」「鳴茶木様を取調室なんかで待たせて良かったのか? 応接室の方が良かったんじゃないか?」「優秀なSPをつけてあるから大丈夫だ。それに、取調室でお待ちになると、鳴茶木様自身が望んだことだ」「それよりちゃんと空調はきかせてあるんだろうな」訊こえてくるのは、そんな言葉ばかりだった。


「鳴茶木ね。どうやら全員奴の術中のようだな」物憂い気分でそう呟いたとき、陣平はある一つの考えに至った。


「それより、管理官。鳴茶木と会話したんですよね? なんともないんですか? 精神支配を受けているにようには見えないんですが」


「うーむ、特に体調とか気分に変化はないみたいだが。しかし精神支配だったか? なんだか気持ち悪いな」


 陣平の問いに、九郎は居心地悪そうに自らの身体を念入りに眺め回した。


「九郎。お前はここのフロアに残れ。もし混乱が起きた際にはお前がなんとか対処しろ」


 エレベーター前に到着したとき、ずっと黙っていた鈴璃が口を開き、一緒に乗り込もうとする九郎を押し留めた。


 鈴璃の言葉を訊いた九郎は、一歩引くと、辺りをぐるっと見回し、ざっとフロアにいる人数を確認する。フロアには少なくとも二百人以上の職員がいるように見えた。


「この人数を俺一人でどうにかしろと? 相変わらず無茶を言うな。お前は」九郎は皮肉っぽい苦笑を浮かべる。


「頼んだぞ九郎坊や」鈴璃は、信頼しているぞと言わんばかりの微笑みを浮かべる。二人の視線が交差したままエレベーターの扉が音もなく閉じた。


「家館さん」ゆっくりと上昇を始めたエレベーター内で、陣平は口を開く。


「どうした? いまごろ怖気付いたか?」


「ちげえよ。周りの人たちはともかく、管理官は鳴茶木の精神支配を受けている様子はなかった。どうしてだ?」


 鈴璃は小さく息を吐くと、階数表示ランプから視線を外さず口を開く。


「魔術といえども万能ではない。魔術の種類によっては、対象となる人間の精神構造との親和性が重要になる」


「親和性って?」


「ヒビハナヒ。藤柳の例を思い出せ。奴の魔術は、自殺を本気で考えているような非常に切迫し極端な精神状態の人間ほど取り込まれやすい魔術だった。それを鳴茶木の魔術に置き換えると、奴の魔術は、心に抑圧している感情が大きく、裏表が激しい人間ほど取り込まれやすいと推測される。その点、九郎の性格は裏表がないから、それが原因かもしれないな」


「ああ、なるほど。管理官て単細胞だもんな。だからか」


 陣平は腕組みをして、納得した様子で首を縦に振る。


「坊や……お前、言うようになったな」


 鈴璃は関心と呆れがないまぜになったような表情で笑った。


 そのうちにエレベーターは速度を下げ、目的の階に到着する。鈴璃と陣平が廊下に降り立ったとき、 熊とゴリラを足したような体躯をした二人のSPが、仁王像のように待ち構えていた。


「お待ちしておりました。中で鳴茶木様がお待ちです」SPは取調室の前まで案内し、見かけからは想像出来ないほど丁寧で無駄のない動作で扉を開ける。鈴璃と陣平は臆することなく、部屋の中に足を踏み入れた。


 音もなく扉が閉まったとき、簡素なパイプ椅子に腰掛けたは眼の前に現れた。


 白い狐面に、怖気が走るほどに美しく艶やかな着物。そしてなにより、その圧倒的なほどの禍々しい存在感。鈴璃に確認するまでもない。こいつが鳴茶木真愛だ。陣平はそう確信する。


 灯りの点いていない薄暗い取調室の中は、鳴茶木が喫う煙管の煙が充満していた。麝香のような匂いに頭がぼうっとする。


 簡素な机と、それを挟んで置かれた飾り気のない二脚の椅子。見慣れた取調室がどこか呪術的な雰囲気の漂う異様な空間に感じられた。


 鉄格子が嵌められた窓は閉めきられ、そこから入り込んでくる頼りない光だけが、室内で唯一の光源だった。三人のシルエットがぼんやりと浮かび上がる。


 堪らず陣平は窓を開ける。煙が吐き出されていく替わりに、外の冷気がゆっくりと室内に入り込んでくる。


「やあやあ。いらっしゃい。思ったより早かったね。見たかい? あの警察達の私へのおもてなしっぷり、厳つい警官たちが束になって私を気遣ってくれる。なんだかお姫様になった気分だよ」


 真愛は両の手を広げ、まるで友人との再会を喜ぶような声色で言う。仮面の下の笑顔が透けて見えるようだった。


「貴方は初めましてだね。輪炭陣平警部補」


 真愛は陣平に向け、煙を吹きかける。陣平は不愉快そうに顔をしかめる。


「ご招待、心から感謝します。鳴茶木真愛様」


 鈴璃は、椅子に座る真愛のことを、無表情で見下ろし、言った。


「あはは、そんなに精神支配に怯えなくても大丈夫だよ。もう君たちには効かないから」


「どういうことだ?」真愛の言葉に鈴璃は眉間に皺を寄せ言う。


「精神支配はね、相手に気付かれた時点でもう失敗なんだ。力尽くで精神を支配したところで、効果はもう期待できない。重要なのは、いかに自然に相手の無意識に入り込むかなんだ。だから貴女があのとき桐崎の部屋で違和感に気付いた時点でもう精神支配はできないんだよ。あ、ちなみに貴方も大丈夫だよ、輪炭陣平警部補。もう私の魔術を知識として知っちゃっているからね」


 真愛は残念そうに肩をすくめる。


 成程。〝知っているから〟精神支配にかからないのであれば、九郎が無事なのも納得がいく。陣平はそう考えた。


「で? それをわかっていてなぜ今、この時になって姿を表した?」


 真愛の目的がわからず鈴璃の眉間の皺が深くなる。


「いやあ、お互い潜りながら、ちまちまお互いのこと探り合うなんて、地味なことに飽き飽きしちゃってね。だからこうして会いに来たの」


「ほう。地味ねえ?」鈴璃の額にぴしりと青筋が走る。薄々勘付いてはいたが、どうやら彼女は地味という言葉が嫌いらしい。陣平は不謹慎と思いながらも少し吹き出してしまう。


「初めて会ったときだって、もっとお話ししたかったのに、質問には答えてくれずに尻尾巻いて逃げちゃったし。なんだか東京中の魔女が怯えるほどの怖い魔女って感じがしなくて、正直あれま。って感じだったよ。だからこれくらいのことをしないと出てきてくれないと思ってね」


 真愛は肩を震わせ、小馬鹿にするように笑う。


「それはそれは、御心遣いまことに痛み入る」


 鈴璃は腕を組み、口角を歪な角度につり上げながら肩を震わせていた。この震えは明らかに真愛のそれとは違うの種類のもの、つまりは怒りによるものだった。


「と、いうのは理由の八割で、残り二割は、貴方に興味があったんだ、輪炭陣平警部補さん。警察といえばやっぱり、ここ警視庁に来れば一番会えると思って、来ちゃった」


 真愛は首を傾げ、鈴璃の肩越しに陣平の顔を覗き込む」


「オレ? どうしてオレに……」


「普通はさ、魔女が人間を避けるのではなくて、人間が魔女を避けるの。魔女は世界で不吉、不幸、禍事の象徴だからね」


 真愛の人を食ったような軽い声に鈍い重みが加わる。そこにはなぜか少量の侮蔑の色が混ざっているように感じた。


「そもそも魔女に逢うこと自体がとてつもない禍事なの。普通人間は、魔女の存在にすら気付かずに一生を終える。それに、幸運にも禍事の種に気付いたとしたら、本能的に全力でそれに関わらないようにする。どんな生き物だって禍事からは一目散に逃げ出す。自らの命を守るためにね。それが正しい。それが太古から全ての生物に受け継がれている普遍の本能だからね。貴方もきっと、脳でそれを理解し、その肌で感じている筈なのに、どうして当たり前のように今もこの女の隣にいるのかな? よっぽどの馬鹿か、異常者か、破滅願望の持ち主か、もしくは……ふふふ」


 真愛は陣平を見つめ不気味に笑う。面のせいで彼女の瞳は見えない筈なのに、陣平は瞳の奥の深淵まで覗かれているような気分になり、反射的に眼を逸らす。


「よしわかった。なら以前の話の続きといこうじゃないか。幸い時間はたっぷりあるからな」


 鈴璃は真愛の向かいの椅子に乱暴ながらも優雅に腰を下した。陣平との会話を中断されて真愛は少し残念そうに見えたが、面のせいで表情はわからない。


「うん。そうだね。それに今日はクリスマスイブだし、なにか楽しいことが起きるかもしれないしね」


 真愛は特に動揺した様子もなく胸の前で手を合わせ、極めて嬉しそうに鈴璃の提案を快諾する。


「それで、何だったかな? 魔女の本能がどうとかいう話だったか?」


「そうそう。貴女はどうして“人間を喰う”という魔女の絶対的本能に抗って、その代わりに魔女の諱を喰うなんて、とても手間のかかることをしているの? 魔女を殺すとかの方がまだずっと理解できる。同族殺しも立派な生物の在り方だからね。でも、貴女のしていることはそれとは違う。わかりやすく人間に置き換えると、その行為はカニバリズムに近いけどそれとも違う。貴女の行為は知性のある生き物として、種の進化に逆行する不自然な行為だよ。でもそれは逆に、異常なほど病的な思想や哲学や制約で自らを律さないと成り立たない行為とも言える。わたしはその貴女の思想や哲学や制約、貴女をそうたらしめる為の行動原理が知りたいの。貴女は、何故そうまでして魔女を喰うの?」


「面白いから。という理由だけでは不足かな?」


「うーん……出来れば、もう少し具体的に訊かせて欲しいかな」


 真愛の返答に鈴璃はあからさまに不満げな表情を見せる。


 しばしの沈黙の後、鈴璃は、まるで腕相撲を挑むような姿勢で右肘を机の中央へ置き、五指がしっかりと広げられた手の甲を真愛の眼前に突き出す。


 その行動の意味がわからず、真愛は首をかしげた。


「一つ、私は別に魔女を憎んでいる訳ではないし、人間を喰うことを否定する気はない。私は喰わないがな」


 と言い、鈴璃は親指を折り曲げる。立っている指は残り四本となった。


「二つ、かといって人間という種を特別好いている訳でもない。しかし、人間の生み出す文明や、嗜好品は気に入っている」と、曲げた人差し指が、親指の上に重なる。


「三つ、なので、無闇に人間の命が消えてゆくのは、あまりいい気分がしない」と、中指が曲がる。


「四つ、私にはルールがある。世界の在るべき形を歪め、破壊してはならないというルールがな」と、薬指。


「五つ、私が敵と見做すのは、そのルールを犯した者だけだ」小指が曲がり、掌は完全に閉じられた。


「そうなんだ。つまり貴女は……」


「六つ」氷の刃のような鋭い声で真愛の言葉を遮った鈴璃は、閉じられた拳から中指を突き立てる。その行為は、明らかな宣戦布告だった。


「なにより、神を気取って人間たちの生き死にを好き勝手に決める貴様たち魔女共が、私に諱を喰われ、一切の力を失った際に見せる顔が、人間という心底見下している存在に成り下がったときに見せる絶望の表情が、私は好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで堪らない。驕り高ぶった魔女の諱を喰うことほど愉快なことはない。殺して楽にしてしまうなんて、そんなつまらないことなんてしてやるもんか。理解したか鳴茶木真愛。これが私が魔女を喰らう理由だ」


 真愛は黙って鈴璃の中指を眺めていたが、突然堰を切ったかのように笑い出した。


「あっはっはっ、なるほど。凄く身勝手で我儘な理由だね。その点においては貴女もちゃんと魔女の本能に従っている訳か。自分の都合さえよければ他はどうなろうと構わないっていう魔女の絶対的な本能に」


「ご満足いただけたかな」立てた中指はそのまま、鈴璃は悪意のある笑顔を、真っ直ぐに真愛に向ける「さて、お前はどんな表情を見せてくれるのかな?」


 笑い疲れた真愛は、一息ついて落ち着きを取り戻すと、再び穏やかな声で話始める。


「あースッキリした。そこだけが気になっていたんだよ」


「それはなにより」


 鈴璃は椅子の背もたれに、ふんぞり返るように体重をかけ、煙草に火を点けた。室内の空気がまた濃くなった気がした。


「魔女を喰うことを、やめようと思ったことはないの?」


「止められるわけないだろう、こんな面白いこと」


「ふうん。性格悪っ」


「魔女だからな」


 真愛は黙って鈴璃の顔を見つめ、煙管の紫煙を燻らし続ける。


「つまり貴女は、人間がとても大事だってことなんだね。それがよくわかったよ」


「お前なにを訊いていた。そんなことは言っていない」


「でも人間がたくさん死んじゃったら、いい気はしないんだよね?」


 その言葉に、鈴璃の顔に軽い動揺が現れる。


「どういうことだ? お前、なにを考えている?」


 身を乗り出した鈴璃は真愛に掴みかかろうとする。真愛はふわりとそれを躱すように椅子から飛び上がると、音もなく机の上に着地する。自然と視線が鈴璃を見下ろす形になった。




「大事ならさぁ、護ってみてよ」




 床ごと浮き上がるような浮遊感。体験したことのないような一瞬の無重力。


 次の瞬間、建物を凄まじい轟音と揺れが襲った。鈴璃は煙草を床に落とし、陣平は背中から壁に叩きつけられる。


 あまりの衝撃に天井からは細かいコンクリートの破片が落ち、蛍光灯が明滅する。


「そんな慌てなくて大丈夫だよ。いまのは、ただそこら辺の適当なビルを吹き飛ばしただけだから。人間も数百人程度しか死んでないよ」


「数百人程度、だと?」


 真愛の言葉に、陣平は敵愾心を顕にする。


「そう。ただ、とっても楽しいことが始まっただけ。でも、このまま放っておいたら、東京が消えてなくなっちゃうかもね」


 再び激しい轟音と揺れが起きる。それは強い衝撃となって建物全体を揺らす。


「鳴茶木。貴様、なにをした?」


 鈴璃は真愛を鋭い眼で睨みつけた。その眼からは殺意のようなものが滲み出ている。


「教えてあげてもいいけど、その前に貴女には一つ選択をしてもらうよ」


「選択だと? 一体なにを……」


 突然、鈴璃の言葉をかき消すような音で、取調室のドアが開く。鈴璃と陣平の視線が自然にそちらに向く。


 室内に入って来たのは二人のガタイの良い刑事だった。


 陣平は二人の顔に見覚えがあった。彼らは同じ刑事課所属の刑事たちで、片方とは短期間だがバディを組んだこともあった。しかし、陣平の無茶な捜査による彼の怪我で、早々に関係は解消された。


 二人は慣れた足取りで室内へ歩を進めると、胸元から拳銃を取り出し、銃口を当然のように陣平と鈴璃のこめかみに押し付ける。


「お前ら、なんの真似だ? 向ける相手を間違ってんじゃねえか? それとも以前オレが原因で負った怪我の復讐か? それならまた今度にしてもらいてえんだがな」


 陣平は深いため息をついて二人の顔を交互に見るが、彼らの眼は焦点が定まらずトロンとしており、全く生気が感じられなかった。


「無駄だ坊や。既に深く精神支配されている。なにを言っても無駄だろう」


 鈴璃は腕を組むと、身体ごと真愛に眼を向ける。


「そ。貴女と輪炭警部補を悪人って思い込ませたの。今、この人たちの脳は貴女たちのことを凶悪犯罪者として認識しているハズだよ」


「選択する。とはこういうことか。坊やの命か、東京の人間の命か。はん。雑なトロッコ問題だな」


 鈴璃は心底不愉快そうに鼻を鳴らす。


「そう。輪炭警部補を今ここで見殺しにしたら、この爆発は止まる。結果多くの命が助かる」


「まさか、こんなちんけなもので私を殺せるとは思っていないだろう?」鈴璃はこめかみに押し当てられた銃を一瞥し言う。


「でも、いくら魔女でも頭を撃たれた直後は魔術が使えないでしょ? だからまず貴女を撃った後、輪炭警部補を撃つ。東京中の人間の命を選ぶのならそうする」


 真愛は両腕を大きく広げると、高らかに鈴璃に向け言い放つ。


「さあ、選択して? 相棒の命か、東京中の人間の命か」


「うわぁ、性格悪っ」


「でも最高に楽しいでしょ? それに性格悪いのはお互い様」


 嫌悪の彩度を濃くした声色で吐き捨てる鈴璃に対して、真愛は心から愉快そうな声色で室内をふわふわと飛び回る。床には鈴璃が落とした煙草が転がっている。既に火種がフィルター部分に到達しそうだった。


「それで、どうするの?」


 その言葉をきっかけに、二人の刑事の人差し指が、引き金にかけられる。


「悩みたいなら時間はいくらでもあげるよ? いくらでもね」


 建物が揺れる。またどこかで大きい爆発が起こったようだった。蛍光灯が暗転と点灯の間を忙しなく行き来し、煙草の灰が雪のように宙を舞う。


「いや、答えは最初から決まっている」


 鈴璃は、そんな選択など、はなから興味はないといった態度で口を開く。


「そうなの? その割にはだいぶ悩んでいるように見えるけど」


「そう見えたか? 残念ながらそれは勘違いだ。私はただ時間稼ぎをしていただけだ。これのな」


 鈴璃は煙草を指差す。


 パァン


 床に転がっていた煙草が突如破裂し、室内に爆竹のような音が響き渡る。二人の刑事は本能的に音のした方向に眼を向ける。


「坊や!」


 その言葉を合図に、鈴璃と陣平は視線を交差させ、刑事たちの顎を、それぞれ掌底と肘鉄で打ち抜いた。刑事たちは意識を失い、身体の中の芯を引き抜かれたような動作で、その場に硬質な音を立てて崩れ落ちる。


「アンタ、魔女なのに結構動けるんだな」


 床に転がった拳銃を、足で遠くへ払いながら陣平は言う。


「ま、嗜む程度にはな。それに魔術より物理攻撃の方が効果的な場合もある」


「と、いうか、あの煙草って爆発するのか。よくそんな危険なモン吸えんな」


「以前言ったろう? 特別性だと。本当はあの音で鳴茶木を怯ませた瞬間、諱を喰ってやるつもりだったのだが、まさかこんなところで切り札を使ってしまうとはな」


「ショボい切り札だな」陣平は思ったままを口にする。


「ショ……ショボ……ショボいと言ったか? お前いま、私の切り札をショボいと、そう言ったか? じゃあなんだ、坊やにはあの状況を打開できる策がなにかあったとでも? あるなら言ってみろ! むしろ今やってみろ!」鈴璃は陣平に向かい、泣きそうな顔で抗議の声を上げる。


「はいはい。ありませんでしたよ。助けていただきどうもありがとうございました」陣平は、心底うんざり顔で礼を口にする。


「ふー、ふー、ふん。分ればいい……さて」


 肩で息をする鈴璃は、うんざり顔の陣平に並び立ち、宙に浮く真愛を見上げる。


「あれま、一瞬だったねえ。まあ、少しは楽しんでもらえたかな?」


「これが答えだ鳴茶木真愛。私はどちらも選ぶ。そもそも魔女という傲慢で身勝手な存在に選択肢を与えるということ自体が間違いなんだよ」


「貴女は本当に面白いね。だからこそ壊し甲斐があるよ」


 真愛は、壁際まで飛んで行くと、まるでバターにそうするかのように、壁を正円に繰り抜いた。人が通れそうなほど大きな穴から入り込んで来る舞雪と冷気は、ゆっくりと部屋の空気と混ざり合ってゆく。


「おいでよ、まつかひをんな。鬼ごっこしよう。私を捕まえられたら、どうすればこの爆発が止まるか教えてあげるよ」


「そんな見えすいた嘘に乗ると思っているのか愚か者が。現に、まだ坊やは生きているのに爆発は止まっていないではないか」


「あれはお茶目な嘘」


 真愛は可愛らしい声で狐面をコツンと叩く。陣平は隣の鈴璃がイラッとしたのを気配で感じとる。


「それに貴女はこの誘いに乗るよ。貴女はわたしの誘いに乗らざるを得ない。だってこのまま私を捕まえなかったらどうなるか、説明するまでもないよね?」


 鈴璃は黙っていたが、苛立ちまでは隠せていない様子だった。


「気持ちは分からなくもないよ。輪炭警部補を一人にしたくないんだよね?」


 真愛の言葉に、鈴璃は黙ったままだったが、眼には微かに、しかし明らかな反応が見て取れた。眼が宿す感情は、嫌悪と焦りだった。


「あははっ、図星みたいだね。そりゃそうだ。蟻塚にいるなにも知らない人間なんて、こんな状況下で放って置いたら直ぐに死んじゃうもんね。余程大事なんだね。輪炭警部補、いや、輪炭陣平が」


 まるで挑発するような話し方に苛立ちが募る。そうしている間にも部屋は、外の爆発を感じ、断続的に揺れ続けている。震える沈黙が続く。


「行ってくれ」


 そう言ったのは陣平だった。鈴璃は陣平の顔を見た。


「オレなら大丈夫だ。ちょっとやそっとじゃ死なねえ。家館さんは鳴茶木を捕まえて、この爆発を止めてくれ」


 その陣平の言葉に、鈴璃は一瞬、眼を丸くするが、直ぐにいつも見せる不適な笑みに戻った。


「よく言ったな。それでこそお前だ」


 鈴璃の言葉には、その声色には、いままでにない信頼感が感じられた。


「良いか坊や、私について来い。いま東京に安全な場所はなさそうだ。あるとすれば、それは私の側だ。そこが一番死ぬ確率が低い」


「アンタの側ほど危険な場所もなさそうだけどな」


「はっ、それは違いない」


 苦笑いで言う陣平の胸元に、鈴璃は意地の悪い笑顔で拳を押し付ける。


「面白そうだねそれ。じゃあもし輪炭陣平がわたしたちに追い付けたたあかつきには、とっておきの話をしてあげるよ。この建物内にいる人間全員を精神支配してあるから、簡単に追っては来れないだろうけど。もしかしたら建物を出る前に死んじゃうかもね」


「とっておきの話?」


 明るい声色でそう言う真愛に対して、陣平は怪訝な表情を見せる。


「そう。この女、まつかひをんなの正体を話してあげる。じゃあ幸運を祈るよ」


 真愛はそう告げると、舞うような動作で壁の穴から外に飛び出していった。


「これは、坊やが死なない為のまじないだ」


 鈴璃は右手をゆっくりと上げると、まるでその身を案じるように三本の指で優しく陣平の額に触れた。


「家館さん、さっき奴が言ってたアンタの正体って……」


 鈴璃は陣平に背を向け、壁に空いた穴の前で立ち止まる。腰から折り畳み傘を取り出して開くと、ゆっくりと振り向いた。


「追い付いたときに全てが分かるさ。くれぐれも死ぬなよ、坊や」


 そう言うと鈴璃は穴から飛び出して行く。陣平の眼には、その時の鈴璃の顔がとても悲しそうに見えた。


 陣平は穴から身を乗り出して外を眺めた。東京の街は既に雪に覆われつつあった。


 所々で大きな黒煙が上がっている。様々なサイレンの音やクラクションが耳に届く。上空に視線を向けると、二人の魔女が天高く昇ってゆく姿が見えた。こんな感情を持つべきではないと重々承知していながらも、二人の舞うような姿を見て、陣平は美しいと思わずにはいられなかった。


「とは言ったものの、どうやってあんなのに追いつきゃいいんだよ」


 陣平は、いま抱いた感情を頭から追い出すようにそう言った。






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