第三幕『よはなべてこともあり』3
壊れてゆく街が頭上に、舞い落ちる雪が下に。現実離れした光景が、いまは幻想的に感じられた。陣平に全てを話す。そう心に誓ったことで少し感傷的になっているのかもしれない。傘を持っていても、肌や、髪や、眼に容赦なく降りかかる雪粒を受けながら鈴璃は思う。
「こんなときに考え事? 随分余裕だね」
その言葉が耳に届く前に、真愛の右手が、鈴璃の髪を掠める。
「あんまりボーッとしてると、すぐに食べちゃうよ?」
鈴璃は最小限の動きで右手を躱すと、自らも右手で真愛の面を狙うが、その手は軽く躱され、虚しく空を切るだけだった。距離を詰めてくる真愛の肩に、鈴璃は思い切り蹴りを打ち込み、距離を取る。傘地が風を受け、ぶるぶると震える。
「痛ったあ。あはは、楽しいね」
「私は一刻も早く終わらせたいと思っているがな」
「そんなに東京の人間たちが心配? それとも、輪炭陣平が、かな?」
面をしていてもわかるほどのにやけた声で、真愛は言う。
「お前の下らない遊びに付き合う時間が勿体無い。と言ったんだ」
「あれま、つれないな。そんな態度だと、死んでいった人間たちが浮かばれないよ」
「東京を壊すこと、大量の人間を殺すこと。鳴茶木、これが貴様のしたかったことか?」
「そうだよ。貴女みたいに魔女の理から外れた存在を壊すのが、私のしたかったこと。東京破壊はその一環。でも中々の成果だよ。ここからじゃ見えもしない、取るに足らない存在の人間たちが死ぬだけで、貴女の表情がどんどん曇っていく。貴女のそんな顔が見れるなんて最高だなあ。ああ、最高だなぁ。人間に死にも価値があるね」
「私一人のためにここまでとは、随分と大掛かりなことだな」
「物事を楽しむには何事も派手でなきゃね」
「その意見には同感だ。貴様のやり方には虫唾が走るがな」
そのとき、逆さになった頭の上で爆発が起こる。振動した空気が、身体をビリビリと震わせる。それを受け、鈴璃は顔を顰める。
「ほら、また辛そうな顔になった。ああ、その表情良い、良いね。とても良いね」
東京の街は、この瞬間にも破壊されてゆく。大量の黒煙が空を覆い、上空からでは眼下の都市の様子は見えなかったが、爆発音は一定の感覚を置いて連続して続き、止む気配はない。
「ほら、また死んだ。今度は何人死んだかな? ほらほら、早く私を捕まえないと、もっともっともーっと人が死ぬよ? 仕舞いには誰もいなくなっちゃうよ」
真愛は空中ではしゃぎ回り、鈴璃を挑発する。
鈴璃は、空中で一気に真愛との距離を詰めると、両手を代わる代わる突き出し、真愛の身体に触れようとするが、真愛は軽々とそれを躱し、右手を突き出し反撃してくる。空中で行われているそれらの攻防は、何十回、何百回と繰り返され、二人は、まるで大きな竜巻のように一定のリズムを刻みながら東京の空を、上へ上へと昇ってゆく。その姿はまるで戯れているようで、踊っているようで、どこか神々しかった。
鈴璃の指は、何度か真愛の面や着物に触れるが、そのどれもが一瞬だけで、記憶観で真愛の諱を観ることは出来なかった。諱を観るには、最低でも数十秒は対象に触れている必要があった。
しかし、そんな時間奴に触れていれば、私も奴の奇怪な右手で消されてしまう。さて、どうするか。鈴璃は思考を巡らせる。
わざわざ教えてもらわなくても分かっている。東京の街で起こっている大量の爆発の原因は、確実に真愛が仕掛けた魔術によるものだ。鈴璃は真愛を見据えながら思う。真愛の諱を喰えば、真愛の力が自分のものになり、爆発の原因になっている魔術を解除することができる。早く、早くこいつの諱を食わなければ、東京の街がなくなってしまう。現時点で、既に手遅れだとは考えたくない。心の奥から滲み出てくるような焦りを押し殺すように鈴璃は自らを律する。
風を受けてゆらゆらと優雅に揺れる真愛の簪の摘み細工や、着物の裾や袂。そのどれもが自分を嘲笑っているように感じられ、鈴璃は神経が逆撫でされる思いだった。
「ああ、まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。まつかひをんな。魔女を喰う魔女まつかひをんな。あっははははは」
「うるさいぞ貴様」
真愛の心から愉快そうな態度に、鈴璃は苛立ちを顕にする。
「いや、何度訊いても面白い名を名乗ってるなと思ってね。それは自戒のつもりなの?」
「何のことだ」
「またまたとぼけちゃって。まつかひをんなの名前の由来を知っているからこそ、そんな名を名乗っているんでしょ? それとも別の理由があるのかな?」
「さあな。どちらにせよ、貴様には関係のないことだ」
鈴璃はポケットから小さな紙片を一掴み取り出した。その動作と同時に、空中を蹴り上げ、一気に風下に移動すると、握った紙片を全て真愛に向け撒いた。
それらの紙片の一つ一つには細かな移動魔法陣が描かれていた。紙片が、まるで粉雪のように舞い、真愛を包んだ瞬間、鈴璃は姿を消し、魔法陣の群れの中に紛れ込む。
次の瞬間、真愛の眼の前に鈴璃が現れ、狐面を鷲掴みにする。鈴璃は力任せに面を引き剥がそうとするが、狐面はまるで溶接されたように真愛の顔に張り付き、少々の力ではびくともしなかった。
鈴璃の手を振り払おうと、真愛は右手を突き出すが、その右手が突き出されたときにはもう、鈴璃の姿は眼の前から消えていた。
そのときには、鈴璃は既に真愛の背後に現れ、着物の肩の部分を掴んでいた。振り回される真愛の右手は虚しく空を切り、その右手に吸い込まれていくのは、細かな紙片たちだけだった。
断続的に上がる小さな黒い炎が、二人を包んでは消えていく。鈴璃は舞う魔法陣の中を縦横無尽に移動し、まるで殴り付けるかの如く真愛の身体に触れてゆく。
一瞬しか触れられないのなら、その一瞬を無限に伸ばせばいい。真愛の右手に囚われずに奴に触れるには、この方法が最も効果的だった。鈴璃は再びポケットから魔法陣を取り出し、自らと真愛の周りに舞わせる。
「観せてもらうぞ、お前の諱」
上下前後左右、様々な角度から感じる衝撃と、訊こえてくる鈴璃の声に、真愛は昂ぶったような様子で言う。
「わあ。すごいすごい。流石はまつかひをんな。でも、もっと楽しみたいから、少し抵抗させてもらうね」
その言葉と同時に鈴璃は、大きな衝撃を受け、紙片もろとも吹き飛ばれれる。視界に入ってきたのは大きな乗用車だった。
鈴璃は崩れかけた態勢を立て直すと、なす術なく地上に落下していく車を一瞥し、再び真愛を見据える。
真愛は左手をこちらに向けていた。
鈴璃はこめかみから流れる一筋の血を拭う。魔法陣の紙片はほうぼうに舞い散り、雪と一緒に東京に降り注ぐ。
「なるほど。飲み込む右手に、吐き出す左手か」
「そう。面白いでしょ?」
真愛は両の掌を鈴璃に向けると、挑発するようにダブルピースを向ける。
「いちいち癇に障る奴だ」
「ふふふ。貴女もね。この、咎人」
「咎人だと?」
鈴璃の眉がピクリと動く。
「だってそうじゃない。本来白く在るべき物を黒く染め上げ、そのままの形で美しい物を醜い形に歪めている。というか、貴女自身が貴女の決めたルールを犯しているんじゃないの? 世界の在るべき形を歪め、破壊してはならない。だっけ? もしかして自分は当てはまらないとでも思い込んでいるのかな? 取り返しのつかない大罪を犯したのになんの罰も受けていない。それを咎人と呼ばずに、なんて呼ぶの?」
「貴様。なんの話をしている」
「輪炭陣平のことだよ」
その言葉に鈴璃は眼を見開き、真愛を睨み付ける。
「さっきの様子じゃあ、彼はなにも知らないみたいだったけどね。全てを知ったとき、貴女の正体を知ったとき、彼は一体どんな顔をするんだろうね?」
「貴様。なにをどこまで知っている」
「さあね」
「ふん。そうか」
一瞬眼を見開いたが、反応はそれだけで、さほど驚く様子を見せなかった鈴璃は、弾けるよう飛び上ると、再び風上に移動する。魔法陣を取り出し、真愛に眼を向けたとき、そこに彼女の姿はなかった。
「馬鹿の一つ覚えみたいに、また同じ手?」真愛は鈴璃に左手を向ける。「もう通じないよ」
鈴璃の視界が一気に黒い塊に覆われ、身体に壁のような物体が勢いよく激突する。激突する瞬間、視界の端に捉えたその塊は大型のバスだった。
指一本も動かせない程の重力を受け、身動きが取れない鈴璃は、空中から地面を目指し真っ逆さまに落ちていく。
「落ちて、墜ちて、堕ちて、トマトみたいに潰れちゃえ」
落下するとき、バスの隙間から見えた真愛の姿はまるで、雪に塗れ灰色の空に美しく嗤う、一輪の毒花のようだった。
隕石のような勢いでバスが地面に墜落したとき、追い打ちかのように数十台の車両が轟音と共にバスの上に降り注ぎ、鈴璃の身体を圧し潰す。鈴璃は自分の肉が千切れる音と、骨の砕ける音を訊いた。
辺りに砂塵と雪と轟音が舞い上がる。音の方は程なく舞い散る雪が吸い込んでしまったが、砂塵は止む気配がなく。もくもくとその身で、辺りの空間を侵食してゆく。
うっすらと雪の積もった地面に音もなく降り立った真愛は、煙管に火を入れると、雑な墓標のように地面に突き刺さった車両群を無言で眺める。墓標が突き立つひび割れた地面からは、鈴璃の血が流れ出ているのが見えた。
数秒後、まるでポップコーンが弾けるように、それらの車両群が爆散する。車両群は宙に舞い上がり、爆音と共に更にその身を歪めながら、地面へ突き刺さり直す。おさまりかけた砂塵が再び息を吹き返し、舞雪が吹雪のような勢いで真愛の身体に襲いかかるが、彼女はその場から微動だにしなかった。
砂塵の中から鈴璃が姿を現す。しかし、手足や首はおかしな方向に曲がり、身体中は血と地面と車両の塗装が混ざり合った無残な色に変色していた。服はボロボロで、皮膚はところどころ裂けており、夥しい量の出血量が確認できたが、それでも鈴璃は自らの脚で、そこに立っていた。
「ああ、良かった。生きてたね。こんなので死なれちゃったら興醒めが過ぎるからね」
真愛は己の感じた安堵感を、煙と共に吐き出した。
刹那、鈴璃の折れ曲がった手足や首が、まるで逆再生のように在るべき形へと、人の形へと戻ってゆく。流れ出た大量の血は、砂鉄が磁石に吸い寄せられるように体内へと引き寄せられていった。しかし、服だけは未だボロボロのまま元通りにはなっていない。トレンチコートの裾が、ボロ雑巾のようにはためいている。
「死んださ。一回だけな」すっかり身体が元通りになった鈴璃は言う。
破れたワイシャツの隙間から手首が覗く。そこにあった刺青は、まるで墨を擦ったように消えていた。
その刺青は藤柳泉、諱ヒビハナヒの魔女の力を喰らったときに、その力が彼女の手首から鈴璃の手首に移動した刺青だった。
「あれま。喰った魔女の諱を自分の命に届かないよう
真愛は音もなく鈴璃との距離を詰める。身体が元通りになっても、失われた体力までは短時間では戻らない。虚を衝かれた鈴璃は、その場から一歩も動けなかった。
「一回だけ。と、いうことは」
真愛は微かな微笑と共に、躊躇なく鈴璃の胸元に煙管の吸い口を突き立てる。鈴璃のくぐもった苦痛の声と潜血が空中に漏れ、細雪を濡らす。
真愛は鈴璃の肉を、その上のワイシャツとベストごと一の字に抉る。
「う、あああっ」
くぐもった鈴璃の声は絶叫へと変わる。しかし抉られた肉は、既に魔女特有の治癒能力で再生を始めている。真愛の狙いは肉体に損傷を与えることでも、悪戯に苦痛を与えることでもなかった。見たかったのはその手前。真愛は自らが作った切れ目からワイシャツをベストごと乱暴に引き裂く。
鈴璃の素肌は漆黒に染まっていた。その漆黒は、一つ一つが魔女の力の根源で在る諱の刺青が何重にも重なった漆黒だった。それらは襟で隠れた首元から、臍の下までびっしりと続いていた。それは、鈴璃がいままでどれほどの魔女の諱を喰らってきたかの証明であった。その姿は神々しさを軽々と通り越し、見た者に本能的畏怖を与えるほど禍々しかった。
「あっはははは。なにこれ? 一体今まで何人の魔女の諱を喰んできたの?」
畏怖の念が可笑しさに変換された真愛は、鈴璃の胸元から煙管を乱暴に引き抜く。鈴璃の顔が苦痛に歪むが、傷は既に塞がっていた。
「ああ、ごめんね。痛かったよね。これはささやかなお詫びだよ」
真愛は鈴璃の服を軽く撫でつける。刹那、鈴璃の服は新品同様に元通りになっていた。
「それにしても、ああ面白い。これは言い換えれば、死ぬ程の苦痛を何度与え続けても直ぐには死なないってことだよね。何度も何度も罰を与えられるってことだよね? 右手で食べて一瞬で終わらせちゃうなんて勿体なさ過ぎるよ。生き汚い咎人にはどんな苦痛を与えようかなぁ。なんだかゾクゾクしてきちゃった」
真愛は自らを抱き締め、震える声でそう言った。その仕草はまるで喜びの閾値を超え爆発的にはしゃぎ回りたいのを、すんでのところで堪えている子どものようだった。
「これほどの供犠を用意しているなんて、よっぽど死ぬのが怖いみたいだね」
「ああ、怖いな。私は生き続けなければならない。私には、役割があるからな」
「役割? それはどんな役割なの?」
心底興味があると言った声色で真愛が訊ねる。
「記憶し続けることだ」
「ふうん。よくわからないけど、それも今日でお仕舞いにしてあげるよ。さて、まつかひをんな。貴女は何回殺せば死ぬんだろうね?」
「さあな。貴様にできるものなら、やってみるか?」
取り出した煙草に火を点け、鈴璃は言った。
「あれま。そんな強がりがまだ言えるとはね」
煙管の煙を燻らせ、真愛は言った。
「それより、ずっと気になってたことがあるんだ」
真愛は数歩進み、鈴璃の前で立ち止まると、右手で優しく鈴璃の頬を撫でる。魔術が発動していないことがわかっていた鈴璃は、甘んじてその行動を受け入れる。
「貴女の言う、世界の在るべき形って、なに?」
「世界を破壊する貴様には、到底理解できないさ」
真愛の質問に、鈴璃は平坦な声で答える。
「あはは、厳しいなあ。でも、確かにそうかもね」
雪は音もなく降り続け、まるで隠すかのように、瓦礫だらけの都市を白一色に染め上げてゆく。
魔女は嗤う。
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