幕間『其の二』



 季節が街路樹の葉を鮮やかな色彩に染め上げ、金木犀の薫りが東京の街を包む午後。陣平は、憂鬱な気分で赤坂氷川神社境内の遊び場にあるブランコに腰を下ろしていた。


 吹き抜ける風が、冬の訪れがすぐそこまで来ていることを物語る。境内には陣平の他に人影はなかった。


 この時期に憂鬱な気分になるのは、もう毎年のことだが、おそらく一生慣れることはないだろう。陣平はそう思った。


 陣平にとって秋とは〝死〟の季節だった。父も母も、そして真古登も、皆この季節に死を迎えた。眼を閉じると、今でもその瞬間が鮮明に蘇り、胸を締め付ける。


 そのためか、毎年この時期がやってくると、孤独感に苛まれ、なにかにつけて感傷的になる。


 そんな思いを頭と心から追い出すために陣平は、病院での会話を思い出す。


「そうですか同僚を……それは辛い思いをされましたね」


 左腕が動くようになって以来、少しずつではあるが、陣平は感情の蓋を外し、自らの心の傷を話せるようになってきた。


「左腕が動くようになったことはとてもいい傾向です。それに、少しずつ話も出来るようになってきた。これは大進歩ですよ輪炭さん」


 蓮堂医師はカルテに眼をやり微笑んでみせるが、その微笑みに一瞬影がさす。


「しかし、稀に左腕に違和感があると」


「はい」陣平は答える。「日常生活に支障はないのですが、時々、自分の意志よりワンテンポ遅れて動くような、そんな違和感があります」


「それは……」蓮堂医師は少し考え込むと、慎重に言葉を選ぶように二の句を継ぐ。


「それはおそらく、まだ僅かに残った心の傷がその違和感の正体でしょう」


「僅かに残った……」


「きっとご自身で自覚はなくとも、まだ心のどこかで自分を責めているのではないでしょうか? 自分を赦せてないと言い換えてもいい」


 陣平は黙って蓮堂医師の言葉を待った。


「輪炭さん。あなたは心の何処かで……おそらく潜在意識のレベルで、自分が幸せになることに許可を出せていない。幸せになることを拒否している」


 その言葉の意味を考え、陣平はゆっくり左手の小指から親指までを順番に閉じ、握り拳をつくると、その拳をゆっくりと開いた。


 そのとき、眼の前を大量の黄葉が通り過ぎ、陣平はつかの間の過去から、現実に引き戻される。


 その後、蓮堂医師は「私や……いや、私でなくとも、信頼できる誰かに話をして、真に自分を赦すことができれば、きっとその違和感は消える筈です。少しずつでいいんです。根気よくやっていきましょう」と締めくくった。


 陣平は大きくため息をつくと、それ以上考えるのを止めて、外気に冷えた身体を気怠そうにブランコから持ち上げる。


「帰るか」陣平は口には出さずそう言うと、出口に向けて歩き出す。


 非番だというのに自宅と病院の行き来しかないなんて、我ながら侘しい休日だなと内心毒付くが、こうも寒いと、何処かに立ち寄る気にもなれなかった。


 自宅に着き、コートをハンガーに掛けた陣平は、ソファに腰を下ろし、一息ついた。


 十秒か二十秒か、そう長くない時間が経った後、陣平はローテーブルの上に乱雑に広げてあるファイルに手を伸ばす。


 ファイルには現在、刑事部で捜査中の事件が全てまとめられていた。


 勿論コピー、持ち出し禁止のファイルであったが、陣平はコピーをとり、資料を自宅に持ち帰っていた。これは明らかに、型破りな捜査を行う九郎の悪習だったが、陣平はその悪習に染まった自分を誇りに思っていた。


「いいか、陣平。警察官たるもの、何より優先するべき任務は、市民の命を守ることだ。その為には、昔からの保守的で右に倣えの捜査方法では、事件のその奥に潜んでいる真相や、更なる事件の発芽に気付けない。そんなルールが足枷になり、市民に危害が及ぶ可能性があった場合は、ルールより人命をとれ。規律に背くことが美徳と言っているわけではないが、規律を守るだけでは人の命は護れないということをよく覚えておけ」


 九郎の口癖を思い出し、陣平は少し笑ったが、すぐに真剣な表情に戻り、ファイルに眼を落とす。


 殺人、傷害、暴行、強盗、放火。


 様々な事件の中から、頭の片隅に引っかかるような違和感がないか、勘が働くような記述がないか、神経を極限まで研ぎ澄まし、ファイルに眼を這わす。


 しかし、今回その中のどれもが勘に引っかかることはなかった。全てに動機や背景が感じられる至極真っ当な事件たちだった。陣平はファイルを投げ出し収穫のなさを嘆くと、深くソファに身を沈め天井を見上げる。規則的な時計の音がたちまち空間を支配する。


 陣平は、ふと何かを思い出したようにテレビのリモコンを手に取ると、テレビを点け、契約している動画配信サービスの検索画面を呼び出した。


 あの日、様異なりの国で真古登と再会したとき、彼が最後に言った言葉は、微かではあったが、それでも確かに陣平の耳に届いていた。陣平はその映画のタイトルを検索窓に打ち込む。


 一緒に観る筈だった映画……それは、あまり映画に詳しくない陣平でも名前を知っているくらい有名なヒーロー映画の三部作、その三作目だった。


「一作目も二作目も観たことねえよ」


 陣平は悪態をつきながらも、律儀に一作目から再生ボタンを押す。指先には微かな緊張感があった。


 ヒーローが縦横無尽にニューヨークの摩天楼を駆け巡り、眼まぐるしく映像が展開してゆく。三作品分、合計六時間強の時間は、まるで水が流れるように、あっという間に過ぎ去っていった。


 三作品目のエンドロールが流れ始めた頃、陣平は猛烈な眠気に襲われ、倒れるようにソファに横になった。


「理想の死に方か……かっこよすぎるだろ。馬鹿野郎」


 眠気に揺蕩う陣平は、ぽつりと呟いた。


 瞼を閉じると、つい今しがた観ていた映画のシーンが、脳裏で何度も繰り返し再生される。


「赦すよ……友達だろ」


 今際の際、致命傷を負い、苦しそうな笑顔で語りかける親友に、主人公は眼に涙を浮かべながら笑って答えた。


「親友だ」


「ああ、オレとお前は親友だ」陣平はポツリと呟く。


 いつの間にか陣平は、深い眠りに落ちていた。疼き続ける永別の痛みを胸に優しく抱きながら。




 数時間後、雲ひとつない蒼い真夜中。


 東京千駄ヶ谷にある超高層ビル。そのアンテナ部分に、月の蒼い光に照らされ、トレンチコートの裾をはためかせる鈴璃のシルエットが浮かび上がる。


 本日何本目かの煙草に火を点けた鈴璃は、煌びやかに色を交差させる眼下の街を、険しい顔で眺めていた。


「主人さま」


 どこからともなく現れた鴉と、その背に乗る黒猫は、鈴璃の前に降り立つと、瞬く間に人型へと変わった。


「どうだった?」


「はい。街に異常はなく、鳴茶木真愛の痕跡も感じられません。深く潜っているものと考えられます」と雨耶は言う。


「ふむ。あの様子だと直ぐにでも仕掛けてくると思ったが……」


「しかし、少々気になることが」霧耶が雨耶の話を引き継いだ。「街中に漂っている魔女たちの気配が、微かに希薄になっている感覚があります」


「それは私も感じていた。そいつらも、ただ潜っているだけの可能性も捨てきれないが、それとは違う少し嫌な感じだ」


 そう言う鈴璃は雨耶と霧耶に向き直り、改めて告げる。


「引き続き警戒を怠るな。異常があれば直ぐに私に知らせろ」


「承知いたしました」二つの声が重なる。


 二人は軽く跳び上がり、鴉と黒猫の姿に変化すると、再び夜夜中よるよなかの都へと降りて行く。


 口では待つと言っていても、ただなにもせずに手をこまねいているわけにはいかない。今まで人命に関わる事件が、いくつも魔女の手によって起きていれば尚のことだ。しかし現状、街に異変は見当たらず、鳴茶木真愛もその動きを見せずにいた。それでも、街を包む不穏な何かを鈴璃は敏感に察知していた。


「鳴茶木真愛、一体何を考えている」


 鈴璃は誰に言うともなく呟いた。朝露を模したピアスが、夜明けを待つように、その耳でゆらゆらと揺れている。


 しかし、夜明けはまだ遠い。






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