第二幕『さまことなりくにやかう』11



 ゴトン。


 何か硬いものが床にぶつかる音で、意識が覚醒する。


 見慣れない天井。つまりは自分の部屋ではない。


 反射的にその場から跳ね起きる。辺りを見回すと、そこは鈴璃の店の事務所だった。陣平は応接ソファに横になっていた。そのソファは家のベッドより寝心地が良かったということを、すっかり疲れが取れた身体が物語っている。


 身体に視線を落とすと、見慣れたダークカラーのスーツが目に入る。それは、確かに昨日、自分が着ていたサマーウールのスーツだった。


「全部、夢……? でも、どこからだ?」


 昨晩の出来事を想起しようと無意識に額に掌をやる。その瞬間、陣平は衝撃を受ける。


 額に置かれた手は、左手だった。


 動いた腕は、左腕だった。


 陣平はついさっきの出来事を思い出す。真古登の顔を、言葉を思い出す。蘇る鮮明な記憶はとても夢だとは思えなかった。


「自分を……赦すか」


 何気なく左腕を動かしてみると、驚くほど呆気なく動かすことができた。しかし何だろう、驚くほどなにも感じない。まるで、いままで動いていた部位を普通に動かしたような感覚だった。それとも急に左腕が動くようになったことに、まだ心と身体が追いついていないだけなのか。陣平は黙って左腕を見つめながら考える。


 その時、事務所内に複数人の気配を感じる。


 真っ先に視界に入ってきたのは、二人の女の姿だった。それが雨耶と霧耶だと認識するのに数秒かかった。というのも、二人の格好は、普段の一糸乱れぬ着こなしのレディススーツ姿ではなく、大きめのシャツにショートスウェットといった、いかにも部屋着といった格好だったからだ。二人ともスーツを着ていないだけで随分と幼く見える。


「おはようございます。よくお休みでしたね」


陣平の向かい側のソファに腰を下ろしている二人は、視線も上げず挨拶をすると、それぞれノーメイクでスマホゲームに没頭している。その凄まじい集中力と指の動きは、声をかけるのも憚られるほどだった。


 なぜ鈴璃の店にいるのかわからず、疑問符で満ちてゆく陣平の頭上に、訊き覚えのない声が降ってくる。


「ほら二人とも、彼が起きたよ。就業時間前だからってちょっとダラけすぎじゃない?」


「就業時間以外は全力でダラけろと、主人さまから仰せつかっておりますので」


 言葉遣いとは裏腹に、雨耶と霧耶は弛緩しきった声で応える。普段の丁寧さは何処へやら。しかし不快さは感じない。陣平は奇妙な親しみを覚え微笑する。


「そういうことだ。仕事にはメリハリが大事だからな」


 訊き覚えのある声の方へ眼を転じると。事務所奥のドアから、いつものワイシャツ、ショートベスト、袴のようなトラウザーズを着用した鈴璃の姿が現れる。昨夜のパーカー姿と重ねてみると、本当に同一人物なのか疑ってしまう。


 先ほどの声の主は、音もなく鈴璃の隣に並び立つ。


 視界の中に入ってきたのは、水色のロングワンピースに身を包んだ見覚えのない美女だった。


 陣平の視線に気付くと、彼女は穏やかに微笑んだ。


「初めまして輪炭陣平さん。私は逆志磨栞菜さかしまかんな。鈴璃の友人で、美容師を生業としてます。陣平くんって呼んでもいい?」


 栞菜と名乗った女は、会釈をしながらそう言った。陣平は鈴璃に友人がいたことに驚愕しながらも、その感情を顔に出さないように挨拶を返す。


「あ、ああ……家舘さんの友人ってことは、逆志磨さんは」


「そう、魔女よ。これが証拠」栞菜はそう言い後ろを向くと、優雅な仕草で艶やかな黒髪をかき上げる。首裏のちょうど頸椎付近に、魔女の証である小さな刺青が確認できる。それは、紫陽花の形をした刺青だった。


「なんだか先ほど失礼なことを思われた気がするが、まあいい。兎に角、これが昨日言った解呪師だ」鈴璃が補足する。


「これって、もうちょっと他の言い方なかったの? と、いうか、結局こうなるのね。あなた、干渉は避けるって言ってなかったっけ?」


「だから避けたさ。可能な限りな」


 栞菜が大きなため息を吐き、不服そうな表情をのぞかせると、鈴璃は悪びれる様子もいなく言った。その雰囲気から二人は気の置けない間柄だということが伺えた。


「さて、早速解呪を始めたい所だが、いいのか? さっきから鳴りっぱなしだぞ。それ」


 鈴璃が指で示した先には、テーブルから落ち、ウシガエルのような呻き声を上げながら必死に主人を呼ぶスマホが転がっていた。着信画面は柏倉麻人の名前を表示している。


 陣平はスマホを拾い上げ、耳には当てずに、通話ボタンを押す。次の瞬間、受話口からは騒音のような大声が吐き出され、事務所内に反響する。あまりの声量に驚いた様子の栞菜とは違い、その他の女性陣は全員両耳を塞いでいた。


「おっせーよ輪炭、直ぐに出ろ!」


 身体に絡みつく僅かな眠気も瞬時に消し飛ぶ。代わりに、折角とれた疲労感がまた全身を覆い出す。受話口を耳に当ててなくて良かったと、陣平は心からそう思った。


「ああ……柏倉。お前の声はいい目覚ましだな。でも頼むから、もう少し静かな声で話してくれねえか」


「うるせえ馬鹿。言われなくたってそうする。これから話すのは極秘情報だからな」


 そう言うと麻人は声を落とす。流石に極秘の捜査情報を大声で喚き散らすほど、常識は破綻していないようだ。陣平は胸をなでおろし、女性陣たちと距離を置きながら受話口を耳に近付ける。


「極秘、ってことはもしかして……」


 陣平は小声で対応する。


「ああ。件の動画の発信元が割れた」


「それで、場所は?」


「その前に一つ厄介なことが起きた。例の動画サイトが早朝に更新された。動画内の日時は一昨日の深夜。この意味がわかるよな?」


 その言葉に陣平は全身の血が逆流する感覚を覚える。一瞬で眼の前が真っ赤になる。


 また人が消えた。


 そう脳が認識するより先に、陣平は矢のような勢いで事務所を飛び出していた。


「こら坊や、どこへ行く。まだ解呪が済んでないぞ。おいっ、訊いているのか?」


 背後で鈴璃が叫んでいたが、なにを言っているのか全く訊こえなかった。いまはそれどころではない。


 陣平は出口へ走りながら麻人に尋ねる「それで場所は?」


「どっちの場所だよ。消えた場所か? 発信元か?」


「発信元だ! 早く教えろ!」


 ビルから勢いよく飛び出した陣平は、タクシーに飛び込む。


 これ以上好き勝手にさせてたまるか。いま頭の中を駆け巡っているのはその感情だけだった。




 腕時計に眼をやると、十一時を回ったところだった。


 麻人が告げた発信元は、東京都渋谷区猿楽町にある都心型マンションの二○八号室だった。


 オートロック式自動ドアは固く閉ざされている。その脇に集合ポストがあり、二○八号室に印字されている住人の名は桐崎とあった。


 猛烈な日差しを受け、上昇し続ける気温とは真逆に、陣平の頭は既に冷え切っていた。


 勢いで飛び出してきたものの、魔女相手に令状などとれるはずもない。魔女については秘密裏に捜査しなければならない為、捜査権の行使もできない。つまりは、動画の発信元であるマンションに辿り着いても、部屋に入るに足る理由と方法がなかった。そもそもそれら全てが揃っていたとしても、単身乗り込んで魔女に対抗できる術など持っていない。


 鈴璃たちに連絡を取ろうにも、スマホの充電が切れていた。なんだこの最悪なタイミングは。


 陣平は自分のあとさきの考えなさを後悔し、頭を抱える。一度頭に血が上ると眼の前が見えなくなるという自らの欠点は自覚していたが、欠点とはそう簡単になおるものではないらしい。一旦鈴璃の事務所に戻ろうと考えていると、不意に背中に声がかかる。


「あの……どうかなさいまして?」


 ビクッとし、振り向くと、そこには日傘を腕にかけた色白の若い女が立っていた。


 スレンダーな体型を包む白いフレアワンピース、整った顔立ちから向けられる憂いを帯びた眼差しは、まるで絵画の中の貴婦人のようだった。


 ここで慌てふためきでもしたら不信感や恐怖感を与えてしまう。陣平は動揺を悟られないように敢えて堂々と振舞うことにした。


「おはようございます。私は警視庁の輪炭と申します。実はこのマンションにお住いの桐崎さんという方についてお話を伺いたく……」


「はあ、桐崎は私ですが……」


「え? 貴女が桐崎さん? 二○八号室の?」


「ええ。たったいま日課の散歩から戻ったところです。うちになにかご用かしら?」


 まさかこんな簡単に会えるとは思っていなかった。予想外の出来事に陣平は思考が停止してしまい、次の言葉を捻り出せずにいた。エントランスに奇妙な沈黙が漂い始める。


 陣平は桐崎と名乗る女の顔に既視感を感じる。初対面の筈なのに、何故かその顔には見覚えがあった。それも遠い昔ではなく、つい最近見た覚えがある。昨日訊き込みした人の中にこんな女はいなかったはずだ。ならどこだ? ただの思い違いか?


 思案顔の陣平を、桐崎はしばし怪訝な顔で眺めていたが、やがてなにかに思い至った様子でぱあっと表情が明るくなる。


「あら? もしかしてあなた、昨日スクランブル交差点で魔法陣を調べていた人? 警察の方だったのね。今朝アップした動画を観て、急いで駆けつけたってところかしら? もうここを突き止めるなんて、なかなか優秀ですね。お一人でいらっしゃったの?」


 陣平は愕然とした。全身を針で刺されたような緊張感が覆う。


「なんでそのこと知っているんだ? という顔ですわね。理由は簡単」


 桐崎は肩に下げている小ぶりな鞄から一センチ四方の紙片を数枚取り出し、呆然とする陣平に向け差し出す。


「さて、これはなんでしょう?」


 それは紛れもなく交差点にあったステッカーと同じものだった。


「魔法陣……」気づくと陣平はそう口にしていた。


「大正解。賢い人って素敵」桐崎は両の手を合わせ嬉しそうに微笑む。


「改めて自己紹介しますわ。私は桐崎美咲きりさきみさき。ここで立ち話もなんですから、どうぞ上がってくださいな」


 桐崎は弾む声でそう言うと、手を伸ばし、陣平の腕を掴もうとする。陣平は反射的にその手を振り払う。


「そんなに警戒しなくても大丈夫です。敵意はありませんわ」


 確かに桐崎の微笑からは敵意は感じられない。しかしその程度で警戒を解くほど陣平は愚かではなかった。表情だけで本心がわかるはずもない。


 桐崎は丁寧な身のこなしでエントランスの自動ドアを解錠すると、どうぞと先を促す。


 神隠し事件の容疑者が眼の前にいる、ここで逃げ出す訳には行かない。陣平は気付かれないように腰の拳銃を確認すると、覚悟を決め、案内されるまま自動ドアをくぐる。


 案内された部屋は、白とベージュを基調にした、控えめながらも豪華な洋風なデザインだった。しかし家中に漂う違和感を陣平は過敏に察知した。なにかがおかしい。


 桐崎は陣平をリビングテーブルに案内すると、上機嫌でキッチンへと向かい、紅茶を淹れて戻ってくる。


「どうぞ召し上がって。アッサムはお好きかしら?」


「……どうも」


 手をつける気はなかったが、陣平は一応、形式的に礼を言う。


 ティーカップの乗ったソーサーを置くとき、桐崎の右の足首に家紋のような刺青が確認出来た。それは鋭い刃のようなデザインだった。


「桐崎美咲。お前は……」


「それよりあなた、とても不思議な眼をしていらっしゃるのね」


「あ?」


 テーブルを挟んだ向かいに腰をおろした桐崎は、頬杖をつきながら真っ直ぐに陣平の眼を覗き込んでいた。その瞳はまるで、恋する少女のように潤んで、熱を帯びおり、言葉は艶めいていた。その妖艶な視線を受け、陣平は気まずそうに眼を逸らした。


 完全に出鼻を挫かれた陣平は、短く咳払いをすると、再び桐崎へと向きなおる。


「桐崎美咲。お前は魔女だな」


「いかにも。私は魔女ですわ」


 陣平の質問を桐崎はあっさりと肯定する。


「お前はあの魔法陣で人間を消したのか?」


「そうですわ」と桐崎は魔法陣が印刷してあるステッカーをそっとテーブルに置く。


「消した人間たちは?」


「後で会わせてあげますわ。ちゃんとね」


「指名手配犯の不道友巳を使ってオレに呪いをかけたのもお前だな?」


「不道友巳? ああ、彼はそんな名前だったのですね。そうです。私が彼を使って貴方を襲わせ、時間凍結の呪いをかけました」


「周りの誰もが不道のことを覚えていなかったのも呪いの影響か?」


「はい。時間凍結の呪いは周囲にも影響を及ぼします。交差点で起きたことは、呪いを受けた貴方以外誰も覚えてなかったでしょう? 貴方が呪いを受けた時点で、彼等の記憶も凍結されたんです。呪いが発動し、全て思い出したとしても、悪い夢としか思わないでしょうね。整合性の取れない記憶は、脳が勝手に現実ではないと判断しますから」


 桐崎は眼を細め、妖艶な微笑を浮かべながら質問に答え続ける。


 自白と取れる数々の供述に、陣平は違和感を覚えていた。


 簡単すぎる。てっきり藤崎のようにしらを切るか、殺しにかかってくるのかと思えば、さっき彼女が言った通り、敵意も殺意もまるで感じられない。人間相手に臆することはないという自信の表れだろうか。


 室内の雰囲気は、まるで友人と過ごすティータイムのような穏やかさに包まれ、彼女が向ける生物を慈しむような笑顔に、気を許してしまいそうにさえなる。いったいこの魔女はなにを考えているのだろう。


 途端に、部屋に漂う異様な雰囲気の濃度が増した気がした。


 陣平は、冷や汗が頰をつたう緊張感を覚えながらも質問を続ける。


「桐崎美咲。お前の部屋から、あの動画が発信された形跡がある。部屋の中を見せてもらおうか」令状がない為、家宅捜索をできる権限がないのは理解していたが、陣平は努めて威圧的に言う。


「その前に、ちょっと失礼しますわ」


 桐崎はそう言うと、了承も待たず陣平の右腕を掴み、スーツの袖を捲り上げる。


「おい、なにを」


 振り払う間もないほどの桐崎の流麗な動きに、陣平は身を固くする。


 桐崎は陣平の腕の痣を見ていた。現在、痣時計の時刻は十一時五十分。残された零時までは残り十分だった。


 しまった。呪いのことがすっかり頭から抜け落ちていた。陣平の胸には焦りが滲み出してくる。


「まだ少しだけ時間はおありのようですわね。良かった。まだ間に合いますわ」


 桐崎はそう呟くと「部屋の中でしたね、どうぞお好きに見て回って下さい。ご案内いたしますわ」と上機嫌に席を立つ。


 家中の部屋を隈なく見て回り、最後に案内されたのは一番奥の部屋だった。どうぞ、と嬉しそうに桐崎が部屋のドアを開けた瞬間、陣平は家中を満たしている異様な雰囲気の正体を知った。


 かなりの広さを有する洋間の壁を埋め尽くしていたのは、ジュエリーショップなどにある高級ショーケースだった。鈴璃の店で同じようなショーケースを見たことがある。それ自体は特段珍しいものではなかった。問題なのは、その中身だった。


 ショーケースの中でアクセサリーのように丁寧に飾られていたのは。


 人間の眼球だった。


 その眼球らの視線が、一斉に陣平に向けられている。部屋を埋め尽くす眼球は、一見しただけではどれほどの数があるのか見当もつかなかった。


 眼球たちは、ハロゲン照明の光を受け、虹彩がキラキラと輝いている。


 常識の範疇を軽々と超えた光景の中、陣平は数多の眼球が、交差点で消えた人たちの眼球だということを本能的に理解した。


 会わせるとはこういう意味だったのか。その瞬間、頭の先から爪先まで電流のような戦慄が駆け巡り、陣平の両脚は深く根が張ってしまったかのように、その場に貼り付いてしまった。


「私、人間の眼に目がないんです。それも、罪を犯した人間の」


「罪を犯した人間だと?」


 本能的な恐怖のせいか、震える声で陣平は言う。


「そうです。罪を犯した人間の眼は濁るんです。罪の大きさに比例して、それはそれは美しくね。私はそういった人間の眼が堪らなく好きなんです。一日にスクランブル交差点を横断する人の数はご存じ? あれほどの人がいる中で、罪を犯したことのない人間を探す方が困難です。つまり、あの交差点は今も昔も良い狩場なんです」


 桐崎は心底うっとりした表情で、部屋中の眼を一つ一つを眺め回す。その眼差しは、ついさっき陣平に向けられた、熱を帯びたそれと同じだった。


 彼女の聖母のような眼差しは、生物を慈しむものではなかった。それは人間を何処までも物質としてしか見ていない、まるで宝石を見るような眼差しだった。


「罪を犯した人間だけを選別し、魔法陣で消したのか?」


「あら? 魔法陣にお詳しいのね。大正解ですわ」


 桐崎は、両手をポンと叩き、心底感心した様子で言った。


 陣平は恐怖に慄きながらも、ショーケースに囲まれた部屋の隅に、ポツンと置いてあるノートパソコンに気付く。


 陣平の視線に気付いた桐崎は、通販番組の司会者のような素振りでノートパソコンを持ち上げると、顔に満面の笑みを宿す。


「海外のサーバーを経由するのは中々骨が折れました。でも貴方のようなハンサムな方がわざわざ出向いてくださったので、苦労した甲斐がありましたわ」


「何故人間を消す動画をネットに上げた?」


 落ち着きを取り戻しつつある陣平は、浅い呼吸を続けながらも質問を口にする。


「それより、消した人間をどうしたか、ご興味ありませんか?」


 その言葉に、陣平は急激に頭に血が上るのを感じる。しかし、ついさっきそのせいで痛い眼を見たばかりだ。深呼吸をすると、意識して冷静に、次に口に出す言葉を選ぶ。


「消した人間たちになにをした?」


 桐崎はニッコリと微笑む。


因果絲いんがしを絶ちました」


 因果絲? どこかで訊いた言葉だ。そうだ、確か鈴璃が事務所で言っていた言葉だ。陣平は思い出す。


「その因果絲ってのはなんなんだ?」


「因果はあります。誰だってそれを身に宿している。因果が折り重なり、実在が視覚化する。見えないくらい細く長い絲が身体から出ていて、他人の因果と絡み合い、繋がり、やがて縁と呼ばれる。その根本を成して世界と存在を繋げているのが因果絲」


「因果絲を絶たれた人間はどうなる?」


「因果絲を絶ってしまえば当人に関わったものは世界から切り離され、記憶から痕跡まで跡形なく全て消える。当人が壊してしまったものも元に戻るし、殺した相手も殺していないことになる。当人に関わった全ての人間の人生から綺麗に居なくなる。それは忘れられるということではありません。存在が無くなるんです。だから、悲しむ人も、探す人も、そもそも、居なくなったことに気付く人さえいません。だってその相手は因果絲が絶たれた時点で、ことになるんですもの。この世界に産まれていないんですもの。存在しないものに権利も自由も保護もなにも必要ないですよね。因果絲を絶つとはそういうことです。人間が思うほど存在なんて、世界の繋がりなんて、確固たるものなんかじゃ全然なくて、酷く儚いものなんですよ?」


 桐崎の言葉に、陣平はただ立ち尽くしていた。


「存在が消える。そんなことがこの世に有り得るのか」


「ええ。でも口で言っても、きっと理解できないでしょう?」


「当然だろ。お前は一体何の話をしている」


「この世界の真実」


 陣平の言葉に、桐崎の言葉が覆い被さる。


「いいですか刑事さん。世界は常にその姿を変えています。感情論的なことではなく、事実として創り変っているんです。それこそまばたきする度にね。時間という概念が、世界は全て一本の線で繋がっていると錯覚させるけど、バラバラな状況のコラージュがただ眼の前に暴力的に現れるだけ。それを脳が繋がった現実として認識している。それが世界の真実です。現れては消えて、消えてはまた現れる。まぁ、人間が実感することは不可能でしょうね。でも本能が理解している。そうでしょう?」


 陣平は反論できなかった。否定しようとすればするほど、いままで起きた現象に現実感がのしかかり、桐崎の言葉が嘘ではないという結論に辿り着いてしまう。


「百聞は一見に如かず」桐崎はそう言い、部屋の奥へと歩を進める。部屋の奥には深い朱色の緞帳のようなものがかかっていた。桐崎は緞帳を捲り上げる。


「だから実践して見せて差し上げますわ」


 そこには、手足を縛られ、床に跪く不道友巳の姿があった。その口は縫われたままで、両眼はくり抜かれていた。骨と皮だけの弱々しい姿から、一見して死んでいるように思われたが、まだ微かに息はあるようだった。


「不道……」


 その姿を見て陣平は戦慄する。


「この方の眼は特にお気に入りで、。彼は随分と罪を重ねたみたいですわね。濁りが他の人間と比べものになりません」


 そう言った桐崎は慣れた手つきで自らの両眼の眼球をくり抜くと、それを掌に置き、陣平へと向ける。


「お、お前、まさか、


 桐崎の行動と、両眼に空いた真っ黒な穴が、陣平の身体中を嫌悪感で満たす。


「ええ。だって美しい物を身に付けたいと思うのは、女の本能ですもの」


 桐崎が眼球を自分の眼に戻したとき、陣平は桐崎と会ったときに感じた既視感の正体に気付いた。あれは思い違いなどではなかった。陣平を見つめていた眼は不道の眼だった。つい先日対峙した相手の眼だ、見覚えがあって当然だった。


「さて、そろそろお時間ですわ」


 桐崎が腕時計を見ながら呟いた。


 一瞬なんのことか理解できなかった陣平は、はっとして腕を捲り上げ、痣時計に眼をやる。


「……三、二、一」桐崎は自らの腕時計を眺めながら、嬉しそうにカウントダウンを始める。


 鋭い痛みが一瞬にして陣平の身体を包む。


 時間凍結の呪いの効果が切れた陣平の身体には、交差点で受けた傷が次々と現れ、その傷口からは大量の血液が溢れ出す。ばしゃと不快な音をたててフローリングに血が撒き散らされる。


「私に会って真っ先に解呪を申し出ず、交差点で消えた人間たちを気にするあたり、あなたは自分の命より、他人の命の方が大事みたいですわね。まさに刑事の鏡。そのような方は嫌いじゃありませんわ」


「その男を、解放しろ」陣平は痛みに耐えながら、血に濡れた顔で桐崎を睨みつける。


「この後に及んでまだ他人の心配とは……いいですわ。その気概に敬意を払って、あなたを助けて差し上げましょう」


 桐崎がそう言うと、不道が跪いている床に魔法陣が出現する。そして、彼の頭上に一本の光る絲が現れる。


「なんだ? 光る絲?」陣平は痛みに顔を歪めながら、言葉を絞り出す。


「あら? 貴方、因果絲がお見えになるの? 人間には見えない筈なのに。何故かしら」


 桐崎は一瞬戸惑った顔を見せるが、直ぐにそんなことはどうでもいいといった様子で、言葉を続ける。


「ご覧になって。因果絲を絶つとは、このようなことですわ」


 そう言うと桐崎は、まるで煙を払うような動作で、不道の頭上を一撫でする。その動作により不道の頭上の絲は、呆気なく分断される。


 その瞬間、陣平は奇妙な感覚に襲われる。身体の痛みが一瞬で消えた。視線の先には桐崎とがいる。


「お前、その男は誰だ? その男になにをした?」


 陣平の反応を見て、桐崎はクスクスと笑う。


「彼は不道友巳。連続殺人犯なのでしょう? お忘れになって?」


 そうだ。奴の名は不道友巳。指名手配犯だ。いや、でもこの男は、なんの罪で指名手配されていた? 窃盗? 殺人?


 桐崎は笑いながら続ける。


「これが因果絲を絶った影響。世界が現在進行形で、彼が存在しない世界に創り変わっているんですわ。今はまだ覚えていても、じきあなたの記憶からも、世界からも、この男が関わった全ての事象が無かった状態に創り変わるでしょう。いまここにいるのは、世界から断絶された、存在しない人間。その証拠に、この男と対峙したときに身体についた傷は全て消えているでしょう?」


「傷? なんのことだ?」


「あなたにかけた呪いの話ですわ。私がいまこの男の因果絲を絶たなかったら、あなたは確実に死んでいましたのよ。お忘れになって?」


「知らねえな」


「わかっていたこととは言え、お礼もないのは、少し寂しいですわね」


 桐崎は残念そうに呟いた。


「その話だと、そもそもお前がかけた呪いだろうが。それよりお前、一体いままでどれだけの人間の因果絲を絶ってきたんだ?」


 過去の記憶を無理矢理上書きされていくような、気味の悪い感覚を覚えながら、陣平は言う。


「さあ、もう忘れてしまいましたわ」


「その度に世界が創り変えられてきたって言うのか?」


 今まさに、音もなく静かに創り変わっていく世界の中で、陣平はずっと抱き続けていた謎の正体に気付く。交差点付近に遺棄されていた両眼のない遺体、深山圭人。奴の身元が一切わからなかったのも、因果絲を絶った影響だろう。桐崎は罪を犯した人間、つまり犯罪者だけを狙っていた。もう思い出せないが、深山圭人も犯罪者だった可能性が高い。それに、この神隠し事件で、捜索願が一件も出されていない理由も分かった。


 彼等は皆失踪したのではなく、消されたのだ。人々の記憶から。世界から。


 一連の陣平の考えは、手配書に感じていた違和感にも説明がつくことを意味していた。


「そういうことか。なら、あの廊下の手配書の枚数も、オレの勘違いじゃなかったってことだな。元々は七枚だったのが世界が創り変わった影響で、六枚になった」


 独り言のように呟く陣平の言葉を訊いて、桐崎は不思議そうな顔をする。


「おかしいわね? 普通、人間は世界が創り変わったことを知覚できないのに。でもあなたは僅かだけど世界が創り変わった痕跡を察知している。もしかして因果絲が見えることとなにか関係があるのかしら? ちょっと、そのお顔、よく見せていただいてもよろしいかしら?」


 桐崎は興味深そうに陣平に近づいてくる。そのとき陣平の頭には、いつかの鈴璃の言葉が想起される。いま、自分にできることはこれしかない。迷っている暇はない。


 陣平は足に体重を掛けると、床を踏み込み、前方へと飛び出す。そのスピードで桐崎の後ろに素早く回り込むと、桐崎の腕を掴み、後ろ手に手錠をかける。左腕が動かせるようになったことで、行われた一連の動作は、驚くほどにスムーズだった。


「魔術は手を使わないと発動できないんだろう?」


 陣平は桐崎をショーケースに押し付けながら言う。


「思ったより乱暴な方なんですね。ますます素敵ですわ。それに、魔法陣の事も含めて多少魔女のことも知っていらっしゃるみたい。もしかして知り合いに魔女の方がいらっしゃるのかしら? 成程。だからここまで来れたのね。ふふ」桐崎はショーケースに突っ伏したまま、うっとりと陣平を見上げる。


「桐崎美咲。殺人容疑と死体遺棄の容疑で逮捕する」陣平は威圧的な態度でそう告げる。


「あはっ。捕まっちゃいましたわ。でもよく考えてみてくださいな刑事さん。私が殺したのも遺棄したのも、自ら罪を犯した犯罪者たちですのよ? 殺して、消して、誰が困ると言うの? むしろ人の世を良くしていると思わなくて?」


 手錠をかけられた桐崎は暴れる様子もなく、ただ愉快そうに言う。


「それでも、罪は罪だ。そういえばオレの質問に答えてなかったな。答えろ。この事件、なぜネットに動画を上げたり、死体を処理せず、わざわざ見つかり易い場所に遺棄した? 痕跡を残すような真似をしなかったら、この事件は誰にも気づかれることはなかったはずだ」


「会いたい方がいましたの。痕跡を残したのは、その方に気付いてもらう為ですわ」


「会いたい……奴?」


 焦りや落胆する素振りを全く見せない桐崎の眼は、不気味に細くなっていた。その眼つきに陣平は鈍い警戒心を覚える。


「ところで、魔女は両手を封じられていても、魔術を発動させられるんですよ?」


「な……」


 桐崎はこれ見よがしに右の掌を広げ、親指と中指を立てると、その指をパチンと鳴らした。


 その瞬間、床に魔法陣が現れ、陣平は突風に突き飛ばされたように、勢いよく壁に叩きつけられる。あまりの衝撃に意識が飛びそうになる。


 立ち上がろうとしたとき、鋭い痛みが全身を襲う。床に眼を向けると、夥しい量の血溜まりができている。陣平の身体には至る所に裂傷ができていた。なんらかの魔術で攻撃を受けたのは明白だった。


「魔術や呪いの類は、凄く凄く複雑なんだから、ちゃんと事細かに教えてあげないと。この場合は、指先までしっかり拘束するのが正解ですわ。貴方に魔女のことを教えた誰かさんは結構大雑把なんですわね」


 外した手錠を床に放り投げながら桐崎は言った。


 急速に熱を失ってゆく陣平の身体は、自らの体重を支えられなくなる。壁にもたれると重力を受け、床に向けずるずると座り込んでしまう。力が抜け、傾きかけた頭が、なにかに支えられる。


「あ、あ、あ、ダメダメダメ。血が眼に入っちゃう」


 桐崎は切なそうな表情でそう言い、両の手で陣平の顔を支える。


 陣平は虚ろな眼をして桐崎を見るが、うまく焦点が合わない。意識が朦朧としてくる。


「貴方に魔女のことを教えたのはどんな方なのかしら? 教えてくださる?」


「だ……お……」


 誰が教えるか。陣平は呂律の回らない口で答えようとするが、その言葉は桐崎には届かなかった。


「上手く喋れないのね。かわいそうに。でもこの出血量ですものね、仕方ありませんわ。眼を頂いたら、ちゃんと因果絲を絶ってから殺してあげますからね。誰も悲しまないように」


 桐崎は壊れ物を扱うように陣平の頭を支えながら、額から流れる血にキスをする。


 死に支度を始めるかのように、陣平の身体は、氷のように固く冷たくなってゆく。


 マジでヤバい。薄れゆく意識の中で陣平は焦りを覚えるが、既に指の一本も動かせる状態ではなくなっていた。


「それにしても身に着けるのが楽しみですわ、貴方の眼。本当に不思議で濁った輝きですわ。まるでなにかが孵化する前の卵みたい。普段は眼に名前なんて付けないけれど、貴方の眼は名前を付けるに値しますわ。嗚呼、どんな名前を付けようかしら」




「愚か者なんて如何かな?」




 そのとき、陣平のジャケットのサイドポケットが風船のように膨らんだ。易々と生地の臨界点を超えたポケットが、勢いよく弾け飛ぶと、そこから二つの黒い影が飛び出し、音もなく床に降り立つ。


 桐崎は反射的に後方へ飛び、二つの影から距離を置く。支えがなくなった陣平の頭は、だらんと脱力し、視線はフローリングの床へと落ちる。霞んだ視線の端には、見覚えのあるカントリーブーツの踵が見えた。


「行き先も告げず飛び出したかと思ったら、なにを勝手に死にかけているんだ。全く、度し難い愚か者だな」


 夢でも見ているのか? 突然鈴璃が現れた。いつもの憎まれ口がこれほど頼もしく訊こえたことはなかった。


 次の瞬間、今日初めて見た顔で視界が覆われる。陣平は内心かなり驚いていたが、血が足りないせいか、身体を動かすどころか、声も上げられなかった。


「大丈夫、陣平くん?」


 誰だっけこの人? 陣平は今日の記憶を遡るが、頭に血が回っていないのか、思い出すのに時間がかかる。そうだこの人の名前は、たしか……。


「逆志磨……さん?」


 陣平は絞り出すように言った。


「喋らないで。いま傷を塞ぐわ」


 栞菜はそう言い、傷口に指を這わすと、その上をゆっくりと撫で始める。傷口はまるでファスナーが閉じてゆくかのように、みるみると塞がってゆく。


 痛みから気を遠ざけようとしてくれているのか、栞菜は低く穏やかな声で話す。


「時間燃焼。細胞の分裂速度を早送りして、傷を癒す魔術よ。陣平くんがかけられた時間凍結の呪いとは反対に位置する魔術ね。でもヘイフリック限界がなくなるわけじゃないから人間にとっては万能魔術ではないの。だから今後、あまり怪我をするのはお勧めしないわ」


 話を訊いている内に、傷はあっという間に塞がり、痛みも引いた。傷口は少し時間が経てば怪我をしていたことを忘れてしまいそうなほど鮮やかに治っていた。


 ヘイフリック限界。つまり、細胞分裂の限界がなくなるわけではないと言うことは、本来自然分裂するはずの細胞を無理矢理働かせ、傷を治していると言うこと。つまり寿命の前借りか、陣平の血の巡らない頭でも、そこまでは理解出来た。


「す、すまない……」


 陣平は戸惑いながらも礼を言い、立ち上がろうとするが、足に力が入らず、うまく立ち上がれない。栞菜が両肩に手を置いて、立ち上がりかけた身体を、元の位置へとゆっくり押し戻す。


「動かない方がいいわよ。傷は塞がったけど、流れ出た大量の血は戻っていないから」


「そうなのか……」


「けれど、もう傷は完全に消えたわ。これで解呪完了よ。魔術で受けた傷は、ほぼ全て呪いみたいなものだからね。それと、次からはちゃんと解呪を済ましてから飛び出していってね。呪いを受けたまま動き回るのは良くないわ」


「……ああ。肝に銘じておくよ」


 いたずらっぽく笑う栞菜に、陣平はバツの悪そうな顔をしながら再び床に腰を下ろす。視線の先には鈴璃の背中があり、その向こうには、変わらぬ微笑を浮かべる桐崎の姿があった。


「ああ、スーツのポケットに魔法陣を忍ばせておいて、それで移動して来たんですね。だったら彼が怪我をする前に出てきてあげてばよかったのに」


 桐崎は陣平と鈴璃を交互に見ると、微笑のまま、そう呟く。


「行き先も告げずに一人で勝手に飛び出して行った罰だ。感情に流され過ぎると、こうなるという教訓になっただろう。痛みは学びに効く」


 鈴璃は正面を向いたままそう言う。陣平が気まずそうに背中から眼を逸らすのを雰囲気で察知したのか、鈴璃は無表情ながらも鼻で笑った。


「あら、お優しい。それにしても、実物は噂より小柄なんですね」


 桐崎の言葉に、鈴璃の眼がピクリと反応する。


「よく考えなくても、お分かりですよね? 魔女の力を以ってすれば、誰にも気付かれずに容易に人間を消すことも殺すことも喰らうことも出来ることを。それを何故、わざわざ手間暇をかけて動画に収め、ネットに流したり、発見されやすい場所に死体の遺棄なんていう煩わしい方法をとったと思いますか?」


「さあ、何故だろうな」とぼけ顔で鈴璃は答える。



 部屋の中を、奇妙な沈黙が包み込む。


 目的が達成され、屈託のない笑みを顔に浮かべる桐崎とは対照的に、鈴璃は警戒を込めた眼差しで尋ねる。


「……私を知っているのか?」


「お噂はかねがね。魔女はと同族を検知することが困難なので、今回の件は、正直とても手間がかかりましたが、こうして無事お逢いすることができて、努力が報われた気分ですわ」


 桐崎はにっこりと微笑むと、丁寧にお辞儀をする。


 魔女を喰う魔女まつかひをんな。


 その言葉に鈴璃の口角が上る。「なんだ。そういうことか」


「まつかひをんな。なんて、いまどき随分と古い言葉を使ってらっしゃるのね」


「古き良き言葉は、後世に語り継ぐべきだろう」


「いいえ。使用されなくなったモノには必ず理由がありますわ。言葉も同じ。後世に語り継ぐ価値がない、必要がない、意味がないと、世界と歴史が判断した証拠ですわ。貴女もそれと同じ」


 鈴璃は腕組みをしながら得意げに言うが、桐崎は吐き捨てるように否定する。その顔に笑顔はない。


「随分と遠回しな言い方をするんだな。私を殺したいならそう言えばいい。後ろめたいことがある魔女たちから随分と恨みを買っているのは訊いていたからな」


「それでは遠慮なく……と言いたいところですけれど、私は目先の利益よりも長期的な利益を優先させていただきますわ」


 その言葉を合図に、巨大な魔法陣が現れ、瞬時に部屋中を覆い尽くそうとする。


「栞菜!」


 鈴璃が叫ぶと、栞菜は陣平の腕を掴む。ポケットから魔法陣の描かれた小さな紙片を取り出すと、それを自らの身体に押し当てる。瞬間、紙片はゆらゆらと宙を舞い、音もなく床に落ちると、黒い炎を上げ灰も残さず消え去った。二人は部屋から姿を消した。


「ああ、どこかに繋がった魔法陣に逃げたんですね」


 さほど興味がなさそうに桐崎は呟いた。


「その魔法陣を通過できるのは栞菜と、あの坊やだけ。追うことはできないぞ」


 鈴璃がそう言うと、桐崎は心外と言いたげに口を尖らせる。


「わかっていますわそんなこと。正直、あの刑事さん眼は惜しいですけど、貴女を引き渡した後にゆっくりと探しに行きますわ」


 鈴璃の身体は、桐崎の出現させた魔法陣により、直立の状態で拘束されていた。


「拘束陣にしては、いささか過剰過ぎるほど重厚に術式が編み込んであるな。それほど私を捕まえたかったのか?」


 鈴璃は涼しい顔をしながら嘲笑の色が滲んだ声で桐崎に告げる。


「ええ、それはもう。この数ヶ月、どれほどこの瞬間を夢見たことか」


 桐崎は鈴璃の嫌味など意に介した様子もなく、嬉しそうに言う。


「先ほど、引き渡すという言葉が出たが、誰かに私の捕獲を頼まれたのか?」


「結構きつく拘束しているのに、随分余裕なんですね」


 桐崎は開いた掌を握るような仕草をする。その動きに同調するように魔法陣は鈴璃の身体をより一層きつく締め上げる。みしみしと骨が軋む音がする。鈴璃の顔が苦痛に歪む。


「あら、今ので悲鳴を上げないなんて、見た目ほどやわじゃないのですね。たくましいこと」


 桐崎は小馬鹿にするようにせせら笑う。


「……ッお前、鳴茶木真愛という名を知っているか?」絞り出すような声で鈴璃は言う。


 桐崎の顔に張り付いていた笑顔が真顔になる。


「その名をどこで訊いたのかしら」


「おおかたこの件も奴の入れ知恵だろう。お前も奴に踊らされた憐れな魔女の一人ってことか。奴は何者だ。なぜ私の捕獲を……」


 鈍い音が部屋の中に響く。桐崎が鈴璃の顔を殴りつけ、その言葉を遮る。


「いきなりグーとは。見た目の割に、随分乱暴なんだな」


 口の中を切った鈴璃は、皮肉を、血が混ざった唾と一緒に吐き捨てる。


「踊らされた憐れな魔女ですって? 貴女、口の利き方に気をつけなさい。貴女をおびき出す助言をいくつかいただきましたが、あの方と私は対等ですわ。


 鈴璃は嘲笑の笑みを浮かべる「対等ね。その思い込みが、あいつに踊らされていると言っているんだ」


 桐崎は敵愾心に満ちた表情で鈴璃の頭を鷲掴みにすると、更に力を込めて、もう一度顔を殴りつける。


「いまのは私たち魔女の総意だと思ってくれて構いませんわ。魔女事件に、スマイリースーサイド。その他多数。人間の側に付き、同族を狩るなんて汚らわしい行為……同じ魔女として虫唾が走りますわ。貴女には魔女のプライドというものがありませんの?」


 口と鼻から血を滴らせ、鈴璃は口角を歪めて嗤う。


「はっ。貴様らの勝手な都合で人間の世界を引っ掻き回すことが、お前のいう魔女のプライドか? 生憎そんなもの、初めから持ち合わせていない」


「はぁ。貴女の命は私の掌の上にあることを忘れているようですわね。少し立場をわからせてあげましょう。死なない程度に痛めつけてさしあげますわ」


 桐崎は顔に憤りの色を浮かべると、掌を鈴璃に向けてかざす。




 ちりーん。




 そのとき、風鈴の涼しげな音が鳴り、部屋の中に充満していた殺伐とした雰囲気が一瞬浄化される。鈴璃と桐崎の視線は、自然に音の鳴った窓の方へ向けられる。


 ほっそりとした身体を、見るからに上等そうで艶やかな着物で包み、真っ白な狐面を被った女が、気怠そうに窓際に腰掛けていた。


「綺麗な音だねえ。この風鈴」


 どこか妖しげな雰囲気が漂うその女は、鈴璃と桐崎には眼もくれず、緩慢な動きで窓際に飾られた風鈴を眺めていた。


 窓から吹き込んでくる風により、髪にさした簪からぶら下がるつまみ細工が、控えめながらも優雅に揺れる。


「ああ、あなたでしたの。相変わらず神出鬼没なんですね」


「まあね」


 狐面は気のない返事をし、ゆっくりと立ち上がると、面の口の部分の隙間に器用に煙管を滑り込ませ煙を燻らせる。


「ほらご覧くださいませ。あの憎っくき魔女、まつかひをんなを捕獲しましたわ。これもあなたのアドバイスのおかげです」


 桐崎は狐面に向けて笑顔で言う。


「……お前か」


 その瞬間、バキンとなにかが壊れる音がする。桐崎が顔を向けると、そこには拘束陣を破壊し、ポケットから煙草を取り出している鈴璃の姿があった。


「な……あ、貴女、あの複雑で強靭な拘束陣をどうやって……」


「ふん、愚か者め。大人しく捕まっていたのはお前のが現れるまでの時間稼ぎだ。本来であればあんな拘束陣もの、二秒もあれば抜け出せる。まあ、殴られたのは想定外だったがな。結構痛かったぞ」


 鈴璃は鼻と口元から垂れた血を拭い、軽く頬を撫でた。煙草を取り出し火を点けると、狐面に向け歩を進める。狐面の方もその雰囲気に同調したのか、鈴璃に向けゆっくりと歩を進め、両者は向かい合った。煙草と煙管の煙が互いに交差しあい、混じりゆく。


 二人は暫く無言で互いを見つめていたが、やがて静寂が破られる。


「お前が鳴茶木真愛か」鈴璃は煙を吐きながら穏やかな声で言う。


「そうだよ」真愛は無感情に答える。


 面の奥からは、くぐもっているものの、妙に安心感を与える穏やかな声が訊こえる。その声は独特の響きがあり、鮮明に耳まで届いてくる。


 特徴的な話し方をする奴だ。と鈴璃は思った。


「他の魔女をそそのかして一体何のつもりだ?」


「どんなつもりでもないよ?」


「何だと?」


 わずかに鈴璃の眉間に皺がよるが、その感情が声に乗ることはなかった。


「じゃあ、お前は特に目的もないのに、魔女たちを唆し、多くの人間の命を奴らに喰わせたと言うのか?」


「ううん。それは彼女たちが勝手にやったことだよ。わたしの目的は別の所にある。そしてそれは人間の寿命を食べることではない」


「お前の目的って?」


「あなただよ」間髪入れずに真愛は答える。


「ふうん。なぜそんなに私に興味を持つ?」鈴璃は動揺することもなく、淡々と尋ね続ける。


「そうだなあ、人間と仲良くなれる魔女がどんなのか見てみたかったからかな? 捕獲を依頼したのは、あなたが他の魔女たちにどれほど憎まれ、嫌われ、煙たがられているのかを身を以て知って欲しかったから」


「それはそれはご丁寧に」鈴璃は大げさに会釈をしてみせる。「それで、実際私を見てみた感想は?」


 まるで少女が新しい服をお披露目するかのように、鈴璃は真愛に向け、くるりと回ってみせる。トラウザーズの広い裾がふわりと踊る。


「うーん、面白そう。かな? より興味が深まったよ」真愛は少しだけ愉快そうに言う。鈴璃と真愛の間に奇妙に和んだ雰囲気が漂いだす。


「ちょっと!」桐崎が慌てた様子で、二人の間に割って入る。


「大丈夫ですわ鳴茶木さん。こんな魔女また私の拘束陣ですぐに捕らえて……」


「うるさいなあ。いまわたしが話しているでしょ?」


 真愛の右手の指先が桐崎の身体に触れる。その瞬間、桐崎は部屋から姿を消した。まるで景色が上塗りされるように、もしくは、彼女のみが、この場所から削ぎ落とされたかのように、桐崎は部屋から一瞬で姿を消した。


「……いま、あの女になにをした」


 仲間割れを始めたと思ったら、片方の魔女が突然姿を消した。一体なんだこの状況は。鈴璃は当惑しながら真愛に問い掛けた。


「食べた。いまは私のお腹のなか」真愛は自らの腹部を軽く撫でる。「まあ、それは比喩表現で、実際にお腹の中にいる訳じゃないんだけどね」


「あの女の通行専用の魔法陣を右手に用意していたってことか。随分用心深いんだな」


 それは、敵意というよりは興味本位での質問だった。


「ううん」真愛は首を振る「わたしの魔法陣は特別。魔女だろうが人間だろうが物だろうが何でも食べちゃう。制限なんてない」


 真愛の言葉に、鈴璃は不可解なものを感じる。


「なんでも。だと? そんなことありえない。魔法陣はそれ自体がサイズの違うトンネルみたいなものだ。大きさも違えば、移動距離の長さも質量も違う。一つ一つの魔法陣が緻密で複雑に構成されている。それを制限がないだと? 魔術には原理も原則もある。自分が気付いていないだけで、必ずなにかの法則が存在する筈だ」


 腕組みをしながら悩ましげに話す鈴璃の口調は、存在し得ないものを否定するというより、相手の不勉強を叱責するといった類のものだった。


「そうなのかな。魔法陣がそういう理屈なのはわかっているけど、実際なんでも通しちゃうからな。在るから使う。それだけだよ」


 真愛は困惑した様子で隙間なく刺青が施してある自らの両の掌を眺める。


「それか、まだ誰も知らない魔術が存在するかだな。しかし、わからないな。それほどの力を持っていながら何故自ら動かず、他の魔女を使うような真似をする?」鈴璃は訝しんだ顔を向けて言う。くわえた煙草の火はフィルター部分まで到達しそうになっていた。


 すっかり火の消えた煙管の灰を床に落としながら真愛は言う。


「だって、自分でなにかするのってめんどくさいし……というかそもそも、魔女を動かすつもりなんて初めからないよ。ただお話しているだけ」


「話?」鈴璃は自前の携帯灰皿に吸い殻を放り込むと、新たな煙草に火を点ける。


「うん。自分以外の存在に興味があるから、日々色々な魔女と話しているんだけど、私と話すとみんな自分と向き合うみたい。そして最終的に自分が何者かを、魔女の本能を思い出すみたいなんだ。わたしはただ話すだけ。言葉を鎖のように繋いでゆくだけ。起こったことは全て彼女たちが本当にしたかったこと。わたしはそうなった彼女らに少しだけお願いをしているだけ。みんな快く訊いてくれるよ」


 その言葉に、鈴璃はまるで感情の重力に捕らわれてしまったような感覚に陥る。思考がたったひとつの言葉から離れない。それでもその感覚にはっきりとした嫌悪感があった。


 魔女の本能。


 真愛は、鈴璃の感覚を悟ってか、まるでその嫌悪感を言語化するように語り出す。


「魔術を私利私欲のためだけに使い、気まぐれで人間の命を奪い、人間の世界に混沌を齎す、超絶自己中心的な生きた厄災。みんなから嫌われ、誰からも愛されず、孤独で、不吉で、空虚で、破滅的で、周囲に悪影響を撒き散らす。それが魔女の本性であり、本質であり、抗えない本能」


 眼を背けてきた現実が、不意に眼前に突きつけられたようだった。自分が何者で、何をするために存在しているのか。何が出来て、何が出来ないのか。何を知り、何を知らないのか。何を愛し、何を憎むか。何を護り、何を壊したいのか。断片的に在る、自らを構成する要素が自分の意思とは無関係に形を成してゆく。眼の前にある鏡の前に立つ。そこに映るのは、他ならぬ自分自身だった。彼女は笑っていた。酷く悪意に満ちた不気味な笑顔で。


 真愛の言葉は、まさに鎖のようだった。重くて、冷たくて、何処にも逃げられないように思考と感情を拘束する。


「だからわたしはあなたに興味があるの。自らの本能に抗ってまで人間に味方をし、魔女が嫌悪する同族狩りをする理由はなに? 一体なにがあなたをそうさせるの? わたしはそれが知りたい。あなたのことを訊かせて?」




 あなたはだぁれ?




 こめかみから頰にかけて、冷や汗が流れ落ちる感覚で我に返ったとき、吐息がかかりそうなほど真愛の顔が近くまで迫っていることに鈴璃はようやく気が付いた。面の眼の部分は水晶玉がはめ込まれており、自分の姿が逆さまに写っている。


 鈴璃は動揺した様子で、その場からよろよろと後ずさる。壁に背を打ち付けたとき、口から煙草が落ちる。火種がフローリングに小さな焦げ跡を作る。


 夏だというのに全く暑さを感じない。むしろ身体が冷え切っている。


「だいじょうぶ?」


 真愛は首をかしげながら声をかけてくる。皮肉にも、その声には本気で心配している様子がうかがえた。鈴璃はなにも答えない。


 重苦しさを伴う静寂の中、時折鳴る風鈴の音だけが、唯一知覚できる現実だった。


 鈴璃は唇を噛むと、右手を乱暴にトラウザーズのポケットへ突っ込み、一枚の紙片を取り出す。


 まばたきの間に、鈴璃は部屋から姿を消していた。魔法陣が描かれた紙片が宙を舞い、床の煙草の上に落ちる。じりじりという音と共に、紙片から煙が上がる。


「あれま。逃げられちゃった」


 その場に佇んでいた真愛は、ゆっくりとした動作で部屋の中を目的もなく歩き回る。煙を上げる煙草の前まで来ると、黒い炎を上げる紙片ごと煙草を踏み消す。


「でも、またすぐ会えるか」


 一陣の風が吹き込み、風鈴を揺らす。清涼感のある音が鳴り響き、空間に溶けだす。そして再び鳴っては、消えてゆく。現れては、無くなる。


 誰もいなくなった部屋の中で、ただそれだけが繰り返されていた。






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