第二幕『さまことなりくにやかう』10

 


 一秒か一分か一時間か、どれほど眼を閉じていたか定かではないが、気が付くと、そこは真っ青な空間だった。身体を包んでいた落下の重力はいつの間にか消え失せ、自らの足で地面に立っていることを自覚する。


 辺りを見回すより先に、陣平の視線は眼の前にいる男に注がれる。


「よう。久しぶりだな」


「ま、真古登?」


 眼の前にいる男は、城築真古登その人だった。


 向けられる気取った笑顔は、記憶の中の姿とちっとも変わっていない。


 陣平は我が眼を疑い、その場に立ち尽くす。


 心拍が異常に速くなり、頭が瞬く間に秩序を失い、混乱し始める。


「どうした? 間抜けなツラして。腹でも痛いのか?」


 真古登は不思議そうな顔をして、陣平の顔を覗き込む。


 「い、いや、なんでもない」


 そう言い精一杯の笑顔を作る。恐らくその顔は酷く不恰好なのだろう、陣平は顔筋の感覚からそう感じる。


「まあいいや。ついてこいよ」


 真古登は顎で行き先を示す。


 歩き出すと、そこはただ真っ青なだけの空間ではないことに気付く。行く先には一本の畦道がどこまでも続いていた。四方には地平線の彼方まで深い青に染まり、夢幻的でありながらも長閑な田園風景が広がっていた。


 田んぼから訊こえてくる鈴虫とウシガエルの厳かな鳴き声が辺りを包む。澄んだ空気が田舎のブルーアワーを連想させる。


 その風景は、陣平の心を穏やかにしてゆく。


「ここは、何処なんだ?」


 陣平は思ったままを口にする。


「さあ、俺もよくわからねえ。あいつらは、って言っていたけどな」


「あいつらって?」


 真古登は黙って彼方を指差す。


 指の先に見える彼方の田園には、提灯や蝋燭の光が長い列を成し、ぼんやりと揺らぎ続けている。間もなくそれは大勢の人だということがわかった。彼等は馬鹿騒ぎをしながら自分たちとは逆の方向に群れ歩いていた。その光景は、いつか絵本で見た百鬼夜行を思い起こさせる。


様異さまことなりのくに……ね。つまりは、黄泉の国。死後の世界か」


 そう口に出した時、陣平は自分は死んだのだと理解した。経験してみると想像以上にあっけない。感慨も実感も何も湧いて来なかった。未練がないと言えば嘘になるが、こうやってまた真古登に会えたことは素直に嬉しかった。いずれ両親や瑞稀にも会えるのだろうか。陣平は既に、自分の死を受け入れつつあった。


 陣平は真古登の数歩後ろを歩き続けた。歩いている間、二人は一言も言葉を発さなかった。


 どれ程歩いても景色が代わり映えしないためか、前に進んでいるという実感がない。鈴虫とウシガエルも変わらず一定の声量で鳴き続けている。


「なあ、何処に向かっているんだ?」


「行くべき場所さ」


 真古登は振り向かずに答える。その声色からは、どのような感情も読み取れない。


 行くべき場所。その言葉の意味を考える。死んでしまったいまでも、胸の内にある陰鬱な気持ちは全く消え去る気配を見せない。会えたというのに真古登にかける言葉も見つからない。これではなにも変わっていない。死んだら全てから解放されるなどと考えていた自分が酷く滑稽に思えてくる。忸怩たる思いに駆られながらも陣平は歩を進める。それでも思考は止まらない。彼に伝える言葉を探している。自分が言うべき言葉を探している。


「なあ、真古登」


 結局取り繕おうとしても、格好つけようとしても、言葉が言うことをきいてくれない。もういい。もう全部がどうでもいい。考えるのは止めた。どうせ死んだんだ。


 口から溢れ出たのは、何の飾り気もない陣平の心からの言葉だった。


「オレは、お前がいなくて、寂しかったよ……」


 真古登の声で幻聴が訊こえたときも、恐怖など微塵も感じなかった。その声は、お前の声は、いつも明るく楽しそうだったから……。陣平は口には出さなかったが。そう思っていた。


 振り向いた真古登は、一瞬面食らったような表情をしたが、直ぐに気取った笑みが口元に宿る。


「俺もだよ」


「オレを……恨んでいるか?」


 もう二度と訪れることはないとわかっていた。でも、いつかまた会えることがあったら訊きたいと思っていた質問を、胸の奥で、癒えることなく疼き続ける傷のまま放置していた言葉を、陣平は口にする。


「いーや。恨んでねーよ。俺はお前が生きていてくれてなにより嬉しいぜ。俺が死んだのはただ運が悪かっただけだ。それ以上でも以下でもないさ。夢も叶ったしな」


「勝手なこと言うなよ。オレは、お前に恨まれてると思っていた。いや、むしろ恨んでいて欲しかった」


 陣平の声は震えていた。


「残念だったな。それはねえよ」真古登は陣平の言葉を綺麗に否定し、続けた。


「俺はな、自分の理想の死に方が出来たんだ。誰がなんて言おうと、いい人生だったと、胸を張って言える。陣平。お前には、理想の死に方はあるのか?」


「理想の死に方?」


「ないなら、それを見つけるまで生きろよ。俺はずっとここで待っててやるから」


 気付くと真古登は、その場に佇んでいた。辺りのウシガエルの鳴き声が徐々に大きくなってくる。


「俺が案内するのはここまでだ。後は自分で行け。じゃあまたな」


 真古登は畦道を外れると、彼方の夜行の方角へ歩き始める。


「おい、待てよ真古登。何処行くんだよ。待っててやるって、どういう意味だよ」


 陣平は真古登を追いかけようと、前へと踏み出す。しかし、唐突に水飛沫が上がり、その歩みは妨げられる。陣平の足は、深い水に浸かっていた。二人の間にはいつの間にか一本の大きな川が流れていた。


 柔らかな蒼い光に照らされ、静かに輝く水面には、蓮や椿、優曇華うどんげの花や牡丹が、所狭しと浮かんでおり、その荘厳な光景は、陣平に畏怖の念を抱かせ、その足はもう前には進まなかった。


「あ、そういえば、お前が観たがっていた映画のタイトルな……」


 対岸で真古登が何か言っていた。しかし急に大きくなったウシガエルの鳴き声で、その声は掻き消される。陣平は大声で訊き返す。


「何? 訊こえねえよ。なんだって?」


「映画! お前の観たがってたやつ! あのタイトルな」


 さらに増したウシガエルの泣き声で、陣平はもう自分の声も訊こえなかった。空間が音で埋め尽くされる。真古登の背中はもう見えない。あの彼方の夜行の列に加わったのだろうか。あの大勢の人たちは一体何処に向かうのだろう。


 どうか彼等の行き着く先に、安息がありますように。


 陣平はそう願わずにはいられなかった。






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