第二幕『さまことなりくにやかう』2
人が消える。
そんな噂がまことしやかに囁かれ始めたのは、『スマイリースーサイド』事件もすっかり世間から忘れ去られ、うだるような暑さが続く、八月上旬のことだった。
四ヶ月前の連続変死事件『スマイリースーサイド』で死亡した七人は、その全員が偶然が重なった不幸な事故と発表された。魔女の存在に対しては、そもそもその存在を知る数少ない人間たちにすら箝口令が徹底して敷かれ、遺族にも真実は伝えられなかった。その措置に理解も納得もしていたが、なにも感じていないわけではない。陣平はどこか鬱屈した気持ちのまま夏を迎えた。
警視庁。
「一、二、三、四、五、六……ん?」
刑事部三係の刑事部屋に向かう途中、陣平は不意に、廊下に貼られている指名手配書に気を取られる。
「輪炭さん。どうしたんですか? 手配書なんて眺めたりなんかして」
手配書を見て首を傾げる陣平に、後輩の
「なあ、楓。ここに貼ってある手配書って七枚じゃなかったか?」
「いいえ? 初めから六枚でしたよ?」
不思議そうな顔の芽衣を横目に、陣平は再び壁の手配書を眺める。言われてみれば元々六枚だった気がしてきた。
「やべえな。寝不足過ぎて幻覚でも見えてたか?」
陣平は小声で呟く。
「夏バテですか? あ、塩飴食べます?」
芽衣が笑顔で塩飴を差し出してくる。
「いらねえ。で、なんか用だったのか?」
「そうそう輪炭さん。観てくださいよ、これ」
芽衣の声色が二トーンほど上がったと思った瞬間、陣平の視界がスマホの液晶画面で覆われる。
「おい、楓。仕事中に遊ぶな」
陣平は眉間に皺を寄せ、右手でスマホを払い除けると、芽衣を鋭く睨みつける。
「遊んでる訳じゃないですよ。また更新されたんです。例の動画」
芽衣は陣平の視線に臆すことなく、再び陣平に向けスマホを差し出す。
「はあ? 動画? なんだそれ」
「え、輪炭さん知らないんですか? 神隠しですよ、神隠し!」
「それって、人が突然失踪したり消えたりする、あの神隠しのことか?」
「そうです! そうです!」
相当テンションが上がっているのだろう。芽衣は足をばたつかせながら答える。なにがそんなに楽しいのだろう。陣平は醒めゆく気分で芽衣を眺める。
「なんだ、怪談か。興味ねえよ、ていうか遊んでんじゃねえか」
素っ気なく芽衣の腕を振り払うと、陣平は刑事部屋に足を向ける。
「だから違うんですって。ほら、観ればわかりますから」
向かう先に立ちはだかり、全くめげずに液晶を押し付けてくる芽衣の神経の太さに、陣平は呆れ返る。
「わかったよ……」
これ以上押し問答をしても無駄だと悟った陣平は、鬱陶しさが伝わるように、精一杯わざとらしく溜め息をつくと、渋々スマホを除き込む。
映っていたのは雨の日。渋谷スクランブル交差点を捉えた定点カメラの映像だった。右上に日時が印字されている。時刻は十三時、日付は三ヶ月前を表示している。
「この人ですよ、よーく観ててくださいね」
芽衣は陣平に身を寄せると、画面の端の人影を指差す。距離が近い。陣平はさりげなく芽衣と距離をとると、横目で画面に映る映像を見た。
交差点全体を俯瞰で映している映像のうえ、画質もあまり鮮明とは言えない。その日は雨で、傘を差した人影は豆粒みたいに小さく、芽衣が指し示した人物は白っぽい服を着ていることは確認できたが、表情は勿論、男か女かもすらもわからなかった。映像が再生される。
信号が変わり、歩行者はあらゆる方向へ横断し始める。陣平は芽衣が差した人影を眼で追っていた。人混みに紛れ始めたと思った時、不意にその人影を見失った。
「あれ?」
眼は離してはいなかった。周辺を探してみたが、眼で追っていた人影らしきものは見当たらない。しかし周りに白っぽい服を着た人など他にもいるし、傘で視界も悪かった。画像の不鮮明さも相まって、それらしき人影など沢山いるように見えた。瞬きした時にでも見失ったのだろう。消えたというには少々お粗末だな。陣平はそう思った。
「これ、本当に消えたのか? 錯覚じゃねえのか」
「最初はわたしもそう思ったんですよ。じゃあ、次の動画を観てください」
芽衣はスマホを操作し、別の動画を陣平に見せてくる。撮影場所は同じだった。日時は先程の動画から一週間後の夜間帯で、雨は降っていなかった。信号は赤で、画面の左端で大勢の人が信号待ちをしている。
「今度はこの人です」
夜間帯なだけあり画面全体は暗かったが、傘を差していない分、さっきよりは幾分か人影がよく見えた。指差された人影は、黒いTシャツに脚のラインが際立つ細いデニム、つばの広い麦わら帽子を被っているのが確認できた。画質が荒いが、服装からしておそらく女性だろう。
「もうそろそろです。眼を離さないでくださいよ。瞬きも禁止です」
芽衣は真剣な表情で言う。緊張のためか、話し方もひそひそ声になっていた。陣平は、今度は見逃すまいと、いつの間にか真剣に画面に眼を凝らしていた。
信号が変わり、人々がゆっくりと交差点に流れ出す。人影は人混みの後方付近にいて、前の人のスピードに合わせて歩を進めているようだった。
交差点中央に到達した瞬間に、注視していた人影が視界から消えた。今度は、先程の動画とは違い、後方にいた別の人影が奇異な行動を見せた。その人影は立ち止まり、しばらく辺りを見回している。その内、何事もなかったかのように再び歩き出した。
「作り物にしては、良く出来ているな」
陣平は画面を巻き戻すと、顎に手を当て、再び同じ場面を見る。確かに消えているように見えなくもないが、これで神隠しと言うには、あまりにお粗末すぎる出来だ。
「そう言うと思いまして……」
芽衣は再びスマホをいじりだす。なんだか反応を先読みされているみたいだ。陣平は軽くイラッとする。
「これです。これが今日更新された動画です。これやばいですよ」
また同じ場所からの撮影だった。日付は今日から六日前の昼頃。画面も明るく、今迄で一番人の姿がはっきり見えていた。
「この一番前にいる男の人です」
指差されたのは交差点の一番前で信号待ちをしていた男で、スポーツウェアのような服を着ていた。その男は急いでいたのか、信号が変わった瞬間、全速力で交差点内に駆け出す。あっという間に交差点の中央まで到達したと思ったその時、その男はぱっと消えた。まるで手品のように、跡形もなく。
周りの人も気付いた様子で、足を止め、狼狽えている様子を見せている者。怯えているのか、しばらく交差点内に立ち入らない者もいた。しかし、直ぐに誰もが普通に交差点を横断し始める。幾人かは中央付近を通るのを避けているようだった。
流石に不審に思った陣平は、真剣な顔で画面を何度も巻き戻す。
「どうですか? 輪炭さん」
芽衣は、液晶画面を食い入るように見つめる陣平に言った。
「……この動画って、全部で何本あるんだ?」
陣平は画面から眼を離さずに尋ねる。
「えっと、今日更新された動画を含めると十八本ですね」
「十八?」
想像より遥かに多い数字に陣平は眼を瞠る。
「つまり、動画が本物なら、あの交差点では少なくとも十八人は消えてるってことになります」
芽衣は何故かしたり顔で言い放つ。
確かに本物ならそれこそ神隠しだろう。世間もパニックになる筈だ。しかし警視庁内でもこのような話は訊いたことがない。
「実はですね、輪炭さん。本当にやばいのはここからなんですよ」
黙って考え込む陣平に、芽衣は人差し指を立て、怪談話を聞かせるかのような口調で話し始める。
「これだけの人間が消えているのに、どこからも行方不明届けは出されてないみたいなんですよ」
その言葉に、廊下の温度が少し下がった気がした。
「一件もか?」
「はい。わざわざ生活安全課に行って確認したんで間違いないです」
「お前……そんなことまでしてたのか」
陣平は少し呆れた口調で言う。
「こう見えてわたし、結構オカルト系好きなんですよ。深夜のオカルト板徘徊はなかなか楽しいですよ」
芽衣は凛々しい運動部然とした顔つきの、
「どうですか輪炭さん。なんか気味悪くないですか? マジやばくないですか?」
芽衣は華のある笑顔でにこっと笑う。この笑顔は刑事仲間は勿論、容疑者ですら魅了してしまい、すぐに自白してしまうという噂を訊いたことがある。
「まあ、確かに気味の悪い話だな」
陣平はいつの間にか、少し冷や汗をかいていた。思いのほか芽衣の話に引き込まれていたようだ。
「まあ、わたしたちの所になんの情報もおりて来てないってことは、結局は作り物って判断されたってことなんですかね」
芽衣はつまらなそうに言う。どうやらこの神隠し動画を質の高い作り物として純粋に楽しんでいる様子だった。
確かに良く出来た作り物として片付けるのは簡単だ。この時代、世界はそういった真偽が曖昧なもので溢れ返っている。一つ一つまともに取り合っていたら時間がいくらあっても足りないだろう。しかし陣平は、先ほど冷や汗を流した時に感じた、あの嫌な感覚に覚えがあった。
「疑え」鈴璃の言葉が頭の中で木霊する。
「訊いてます? 輪炭さん」
芽衣が眼を丸くして陣平の顔を、鼻と鼻が当たりそうな距離で覗き込んでいる。距離が近すぎるのは彼女の癖なのか。
「近い。離れろ楓」
陣平は芽衣の顔を掌で掴み、乱暴に押し返す。
「おお……輪炭さん。女の子にも容赦ないですね」
顔を撫でながら楓は後ずさる。陣平は額に手をあてると、心底疲弊した顔で言った。
「容赦して欲しかったら、もう少し離れろ」
「何だか輪炭さん、最近ぼーっとしていること増えましたね。大丈夫ですか?」
芽衣が心配そうな視線を向ける。
「只の寝不足だ。気にすんな。で、なんて言ったんだ?」
「動画が気に入ったなら、輪炭さんのスマホにURLを送りましょうか? って言ったんですよ」
「そうだな。送っておいてくれ」
一瞬悩んだが、陣平はほぼ即答する。芽衣は驚く反応を示した。
「てっきりいらないって言われると思ったのに意外でした。でも、オカルト仲間ができて嬉しいです。観たら感想訊かせてくださいね」
芽衣は戸惑いながらも嬉しそうな笑顔を浮かべる。陣平は、別にオカルト仲間になるつもりはないけどな。という言葉をぐっと飲み込んだ。
ポケットの中でスマホが短く振動し、URLの受信を知らせた。
「その動画、配信者が不明なんですよ。今の時代、そんなの珍しくもないですけど、何だかそういう所もオカルト心をくすぐられますよね」
芽衣は補足といった感じで耳打ちをすると、一足先に刑事部屋に向かった。
陣平は送られたURLを確認する。
一応、鈴璃に相談しておこうと思った。只の作り物ならそれでいい。だが、もしこの神隠しに魔女が関わっていた場合、結果的になにが起こるか想像もつかない。
全ての不可解な現象を魔女に関連付けるのはどうかしていると思う。だが自分はもう現・実・をこの眼で見てしまった。なにも知らなかった日常にはもう戻れない。超常現象に種も仕掛けもあることを知ってしまった。
魔女の実在を知ってしまった。
ふと考える。知るということは薬のようだ。正しく使えば現実という名の病気に対処できる。しかし使い方を間違えると途端に毒となり、身体を蝕み、最悪死に至らしめる。『この世には、知らなくていいこともある』という言葉があること自体が、知るという行為の危険性を表しているように思える。この場合、陣平に『知る』と言う薬を処方したのは鈴璃ということになるのだろう。
笑えもしない例え話だ。陣平は心の中で自分に悪態をつく。
そんなことを考え、刑事部屋に足を踏み入れると、陣平は部屋中に漂う異様な雰囲気を敏感に察知する。空調は効いている筈なのに何故か室内が蒸し暑い。
しかし、辺りを見回すまでもなかった。その蒸し暑さの正体は、直ぐに陣平の視界に飛び込んで来た。二人の男が、自分のデスクの前を占拠し、神妙な面持ちで話している。その二人の男は、岩石九郎と特取源蔵だった。自分の知る限りの二大巨漢が放つ威圧感と熱気で、デスクの周りは陽炎のように揺らぎ、慣れ親しんだ刑事部屋は、もはや別世界になったようだった。隣のデスクの芽衣が窮屈そうに席に着くのが見えた。
ヤバい。嫌な予感しかしない。
本能的にそう感じた陣平は、踵を返し、気配を消して、足早に刑事部屋を立ち去ろうとする。
「おう、陣平。来たか」
「もう、陣ちゃん遅い。待っちゃったじゃないのよ」
二大巨漢の野太い声が重なって、陣平の背中を槍のように貫いた。
逃げられない。逃走を諦めた陣平は、観念してため息をつくと、振り向き言った。
「なにかあったんですか?」
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