第二幕『さまことなりくにやかう』1



「輪炭さん。最近ちゃんと食事は摂れていますか?」


「忙しくて食べれないときもありますけど、まあ概ねは」


 陣平は診察室に置かれた紺色のソファに腰を降ろし、苦笑いを浮かべながら、蓮堂聖医師の質問に答えた。


「顔色を見る限り、少しお疲れのようですね。栄養のある食事を心がけましょう。この季節はカボチャがオススメです。ちなみに私は昨日いただきました。栄養は左腕の回復に必要不可欠ですよ」


 蓮堂医師は、陣平の顔をちらりと見て微笑む。


 治療を開始してから、既に四ヶ月あまりが過ぎようとしていたが、陣平は、未だ症状の根幹であろう、自らが負った心の傷について一言も話せないでいた。それに、通院していることも誰にも話してはいなかった。


 型通りの治療をおこなったのでは、陣平の心は、過去の悲惨な体験を打ち明けてはくれない。むしろいたずらに彼の心の傷を広げてしまう可能性もある。と考えた蓮堂医師は、この数ヶ月、主に治療とは関係のない内容の雑談を陣平と重ねた。そこにはまず、常に過度な緊張状態にある陣平の精神をほぐそうという考えがあった。


 雑談の内容は、美術、音楽、映画、政治、食事、趣味と多岐にわたった。


 収穫もあった。雑談の回数を積み上げて行くにつれ、蓮堂医師は、陣平の性格や、ものの受け止め方、考え方まで、彼の人となりを理解していった。


 陣平の話では、青年期に父親と母親を亡くしているらしい。多感な時期に両親を喪ったことは彼の心に深いショックを与えたことだろう。現在はその現実を受け入れている様子だったが、心の傷はそう簡単に癒えるものではない。


 そのような過去があってか、彼は〝死〟を彷彿とさせる話題に対して酷く敏感だった。


 重要な部分に話が及ぶと、極端に口数が減り、わずかに呼吸も浅く、速くなる。


 現在、顕在化している症状を踏まえ、蓮堂医師は陣平に、心的外傷後ストレス障害、所謂PTSDの診断を下していた。


 以前、前任の医師から、陣平の肩の傷は、とある事件の際に負ったものとの報告を受けていた。その事件は、多数の死傷者が出るほど凄惨なものだったという。いま彼が患っている症状も、近しい誰かの死が原因で発症したことは想像に難くない。


 現に、近しい人間の死を目撃してしまうことでPTSDを発症してしまう警官は少なくなかった。


 もしくは青年期の体験で自分でも気付かぬうちにPTSDを患っており、今回の件がきっかけで症状が顕在化した可能性もある。その場合、原因は前述の事件よりも自ずと根深くなる。と言うのも症状が現れるまでの期間は人によって差があり、一週間から三十年の幅がある。


 症状の根幹を見誤ると、かえって症状を悪化させてしまう可能性がある。慎重に治療していかなくては。蓮堂医師はそう考えていた。


「そうだ、食事といえば、先生がオススメしていたお店、このあいだ行ってきましたよ」


 陣平の言葉に、蓮堂医師の意識は、思考の空間から現実に引き戻される。


「そうですか。お味の方はどうでしたか?」


「美味かったです。先生がオススメするお店って、どうしても行かなきゃって気になるんですよ。なんでだろうな?」


 訝しんだ表情で考え込む陣平に「それは、オススメした甲斐がありましたよ」と蓮堂医師は表情を緩める。


 当初は少なかった口数も、診察を重ねるごとに増えてきている現状を踏まえれば、陣平は、決して治療に消極的ではない。それでも、彼は核心的なことはなにも話さない。恐らく彼自身がそう望んでいるのではない。彼の心が、その奥底にある無意識が、防衛本能でそれを言わせないようにしているのだ。言葉にしてしまい、受け入れてしまうと、精神が耐えきれないことを知っているから。


「それにしても、最近暑くなりましたね。お疲れに見えるのは、その影響もありそうですね」


「そう、ですかね」


 陣平は曖昧に答えながら左腕を撫でる。


 蓮堂医師は陣平の表情を見て、動かない左腕に対して感じる不安が、疲れの原因なのだろうと解釈した。


「大丈夫。そんな不安そうにされなくても左腕は回復傾向にあります。きっとすぐに動くようになりますよ。そうだ、先日知り合いからルイボスティーをいただいたのですが、いかがですか?」


「じゃあ、いただきます」


 蓮堂医師は立ち上がり、棚からマグカップを二つ取り出す。保温ポットに入ったルイボスティーを注ぐと、陣平に差し出した。陣平は右手でカップを受け取った。


「ルイボスティーは三百年以上もの歴史を持ち、原産地の南アフリカで、不老長寿のお茶として飲み続けられているんですよ。奇跡のお茶とも呼ばれており、夏バテやリラックスに効果的な飲み物です」


 蓮堂医師の薀蓄を訊きながら、陣平はルイボスティーを啜った。


「ところで輪炭さん。どうして夏に怪談話が多いのかご存知ですか?」


「え? 何ですかいきなり」


 唐突な質問に、陣平はカップを落としそうになる。


「いや、夏といったらやはり怪談かなと」蓮堂医師はゆっくりと口角を上げる。


「諸説ありますが、夏の定番として怪談話が定着し始めたのが江戸時代らしいです。人間は恐怖を感じると生理的反応で血管が収縮し、肌寒さを感じる。怪談話により感じる恐怖感を納涼法として活用したという訳です」


「へえ。それは面白い話ですね」


 いつの間にか話に訊き入っていた陣平は、素直に感心する。


「でもね……私としてはその話、後付けだと思うんですよ」


 蓮堂医師の声がワントーン落ちる。


「先生?」


 診察室に不穏な空気が漂い始める。


「幽霊。もとい人ならざるものは昔から実在しています。人間と同じく、夏はそれらが活発になる時期で、その姿も数多く目撃されていた。しかし、その実在を認めてしまうと、世界はパニックに陥ってしまう。だから、お上はそれらしい嘘を市井人に信じ込ませ、人ならざるものは、こんにちに至っても、公には存在しないことになっているのです」


 蓮堂医師の不気味な声色がいやに耳にこびりついてくる。その表情は、いつになく真剣だった。


「人ならざるものが存在する証拠に、この時期は変なものを眼にしたという患者さんも多い気がします」


「先生も、そのような経験があるんですか? その、変なものを見た、とか」


 陣平は、緊張を感じながら問い掛ける。


「いいえ、ありませんよ。さっきの話も作り話ですし」


 蓮堂医師はあっさりと言い放つ。


「は? 作り話?」


 蓮堂医師の告白に、陣平は呆気にとられる。


「輪炭さんが真剣に訊き入っていたので、ついからかってしまいました。少しはお楽しみいただけましたか?」


 直前までの真剣な表情から一転、蓮堂医師は子供のような笑顔で言った。


「先生の話が上手すぎて、一瞬本気で信じるところでしたよ」


 陣平は薄く笑って、安堵の溜め息を漏らす。


「それにしても随分熱心に訊き入っていましたね。輪炭さんの方こそ、なにか変なものを見たご経験でも?」


「まさか。一度もないですよ」陣平は、蓮堂医師の問い掛けに、冷や汗を流す。


 人ならざるもの。魔女。嫌が上にも思い浮かぶイメージを振り払うように、陣平はその言葉を否定する。


「しかし、噂をすれば影がさす。好事魔多し。様々な言葉があるように、人ならざるものは、気が付かないだけで、いつだって私たちの側にいるのかもしれませんね。それくらい世の中には、不可解な出来事に溢れている」


 蓮堂医師の言葉は、本気とも冗談ともつかない、そんな口調だった。


 陣平の頭の中では、ここ何ヶ月かの体験が、ぐるぐると渦巻いていた。






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