第一幕『うつしよはかくもくさのゆかり』7



 予報通り雨足は激しさを増し、重く湿り気を帯びた空気が、都内を舐めるように包み込んでいた。


 最後の被害者宅を後にした陣平は車に乗り込む。雨耶は行き先を店へと向けた。ワイパーが気持ちを急かすように動き続ける。


 これで被害者全員の遺留品が回収できた。陣平は安堵の息を吐くと、シートに身を預けた。車内のデジタル時計に眼をやると、表示が一五時一五分に変わった所だった。空が暗いせいで、日没間近だと思っていた陣平は軽く面食らう。


「お疲れ様でした」雨耶が抑揚のない声で告げてきた。


「ああ。運転任せきりですまないな。雨の中、徒歩で一軒一軒被害者宅を回っていたらこんなに早く終わらなかった」


 陣平が肩についた雨粒をはらいながら礼を言うと、雨耶は「いえ」と控えめに応じた。


 車内で二人は殆ど会話をしなかった。被害者宅に向かう道すがら、陣平が資料で一人一人の事件背景を確認していたということもあったが、雨耶との沈黙は無駄な威圧感が感じられず、むしろ安堵感を覚えるほどだった。そんな雨耶の持つ雰囲気に身を任せ、陣平は余計な口を開かなかった。


 しかし今は、一つの仕事を無事に終えた達成感で気が緩んだのか、陣平は雨耶に個人的な質問をした。


「アンタも、家館さんと同じ、魔女なのか?」


「はい。ですが主人さまとは異なります。彼女は特別ですから」


 陣平の質問に、雨耶は淀みなく答える。


「特別? 魔女にも色々な違いがあるってことか?」


「はい。人間に置き換えると人種みたいなものでしょうか。少なくとも、私は人間ではありません。人間は黒猫に変身などしたりしませんからね」


 そう言った雨耶の口元には、僅かながら微笑が浮かんでいた。


 雨耶のような硬い雰囲気を持つ礼儀正しい女性でも、冗談を言うのか。と、陣平は内心驚く。


 人形のような無表情と、人間のような笑顔。そのギャップで緊張の糸が緩んだのか、陣平もつられて微笑を浮かべた。


 車がゆっくりと赤信号で停車する。すると雨耶はおもむろにワイシャツのボタンを外すと、胸元をはだけさせ、素肌を顕にする。そのあまりに自然すぎる動作に陣平は驚く暇もなかった。


「宜ければご覧ください」


 雨耶の右鎖骨付近には小さな刺青があった。


「これは……月か?」


「はい。上弦の月です。これが私の魔女の証となります」雨耶は無表情でそう告げる。


「……アンタの魔女の証はよくわかった。だが次回からはなにか言ってくれ。急に脱ぎだしたりして何事かと思ったぞ」


「承知しました」


 雨耶はシャツのボタンを留めなおす。信号が青に変わる。


 魔女に対する恐怖と不信感は、未だ心の深い場所に根を張っている。しかし絶対にわかり合えない存在という訳ではないのかもしれない。根拠のないそんな思いが胸の内に広がりはじめてゆく。窓ガラスについた雨粒を眺めながら陣平はそう思った。




 店に戻り、事務所に入ると、鈴璃は事務所のデスクに、何度も何度も木槌を叩きつけていた。その表情と、断続的に響く衝撃音に、陣平は何か狂気じみたものを感じ、本能的に恐怖を覚えた。


 やっぱり、わかり合うのは無理かもしれない。


 陣平は今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られたが、悲しきかな仕事を投げ出す訳にもいかない。意を決して恐る恐る近づくと、鈴璃が木の枝のようなものを細かく砕いているのが見えた。その傍らには底の深い鍋と、円形の金網が置かれていた。なにがなんだか全く意味がわからない。


「お、おい」


 ためらいがちに声をかけると、そこでようやく陣平と雨耶を認識したのか、鈴璃は手を止め、顔を上げる。


「む? おお、戻ったか二人とも」


「なにしてるんだ? まさか、また訳のわからない暇つぶしとか……?」


 不可解な行動から、どうしても先日、初めて鈴璃を眼にした光景が頭をよぎる。紙を偏執狂よろしく細かく裁断していたときの光景が。


「違う。うつを砕いていたのだ」


 鈴璃はそう言うと木槌を振り上げ、最後の一片を勢いよく砕く。その破片を鍋の底に放り込み、その上に網を敷いた。


「ウツリギ? なんだそれ?」


「それより、ブツは集まったのか?」


 鈴璃は陣平の質問を無視し、手に付いた枝のカスをはらう。


 ウツリギが何なのかを説明してもらうより、犯人探しの方が先決だ。そう判断した陣平は集めた遺留品を机に並べ始める。




 第一の被害者、近藤佐知江こんどうさちえ(55)の使用していた万年筆。


 第二の被害者、小山田圭介おやまだけいすけ(38)の使用していた眼鏡。


 第三の被害者、源田智げんださとし(21)の使用していたヘッドフォン。


 第四の被害者、樋口百子ひぐちももこ(30)の使用していたジッポライター。


 第五の被害者、大塚杏果おおつかきょうか(24)の使用していた手帳。


 第六の被害者、山内義之やまうちよしゆき(19)の使用していたピアス。


 そして。


 第七の被害者、玉城瑞稀(26)の使用していた腕時計。




 改めて見返しても、東京在住という点以外は何も共通点がない。遺留品を預かる際、遺族に改めて話を訊いてみたが、全員が殺されるほどの恨みを買うようなこともない、ごく平凡で真面目な人間たちだった。犯人はなにを目的に彼等を狙い、そして殺害したのだろうか。


「ご苦労」


 鈴璃は遺留品を手に取ると、それらを鍋の中に躊躇なく入れていく。


「何してんだっ」陣平は反射的に鈴璃の腕を掴む。


 鈴璃は一瞬驚いた顔をするが、たちまちその顔には笑みが宿る。


「坊やは派手な魔術を所望だろう? 面白いものを見せてやる」


 七つの遺留品が入った鍋と、円形の網を傍に抱えながら鈴璃は言った。面白いもの、そう訊いて陣平は嫌な予感しかしなかった。身体中の筋肉が強張るのを感じる。


「ついてこい」そう言って鈴璃は陣平に何かを投げてよこした。受け取ってみると、それは、旅館などで使用される小さな固形燃料だった。




 もともと暗い空が、陽が落ち更に暗くなり始めていた。先ほどより多少勢いは弱まっていたものの、まだ本降りと言ってもいい雨足だった。


 鈴璃、陣平、そして雨耶の三人が向かった先は、事務所の入ったビルの屋上だった。


 ビルの屋上は庭園になっていた。芝生や花壇は手入れが行き届いており、美しい景観を保っている。


 鈴璃は傘もささずに、鍋を抱えて芝生の中へと足を踏み入れた。陣平と雨耶は傘をさしてその後に続いた。視線の先には、鉄製の植木鉢のようなものが置かれた白い椅子がぽつんとあった。


 植木鉢に見えたものは、固形燃料専用のコンロだった。鈴璃は燃料をその中に入れ、火を点ける。上に鍋をそっと乗せると、蓋の代わりに金網を置き、その上に、鍋から取り出した七つの遺留品を丁寧に並べていく。その様子は傍から見ると、まるで燻製料理の調理だった。ますます意味がわからない。遺留品を調理して食べようとでもいうのか。


「おいアンタ。風邪ひくぞ」


 鈴璃に近づこうとする陣平に、雨耶が声をかける。


「ご心配ありません。こちらでお待ちください」


 陣平は踏み出した足を元に位置に戻し、黙って鈴璃を見守った。


 鍋の底からゆっくりと煙が立ち上ってくる。煙は薄い白藍色で、揺蕩う様子はまるで、水の塊が宙に浮かんでいるようだった。


 火の勢いが増していくと、鍋から立ち上る煙の量も増えていく。白藍色の煙は鈴璃を取り囲み、ゆっくり頭上まで上昇すると、降り頻る雨の一粒一粒に溶けていく。


 鈴璃は眼を閉じ、両の手を広げ空を仰ぐと、煙が溶けた雨を全身で受け始める。静謐な空気が辺りを包む。聴こえてくるのは、しとしとと降り続ける雨音だけだった。


「おい、いま家館さんは何をしてるんだ? 魔術だということは、なんとなくわかるんだが……」


 何故か大きな声を出してはいけない気がした陣平は、雨耶に小さく耳打ちをする。


 雨耶はしばらく無言だったが、やがて陣平の方へ顔を向け、口を開く。


「では、主人さまの近くに降る雨に、少しだけ触れてみるのがよろしいかと。それで全てご理解いただけると思います」


 陣平は言われるがまま、ゆっくりと鈴璃に近づいて行く。


「廃人になりたくなければ雨に触れるのは、ほんの少量をおすすめします。それと、くれぐれも主人さまにはお触れになりませぬよう……」 


 後ろで非常に物騒な警告がなされているせいか、少しだけ身体が緊張する。陣平は、未だ眼を閉じ、空を仰ぎ続ける鈴璃の、二メートル付近まで近づいた。開いた傘の内側からゆっくりと右手を出し、指先で煙が溶け出した雨粒を受け止める。


 雨粒が指先に触れた瞬間、視界が眼球の奥にめり込んでくるような感覚が襲う。眼球、というより意識が自分の内側に極限まで引っ張り込まれるような感覚。上昇。下降。前後。左右。自我に異物が混入したような感覚。意識がミキサーにかけられたようにぐちゃぐちゃになっていく。自我が無数に枝分かれして、張る場所が無い根が、宙を彷徨う。


 何かの映像が観える。誰かの話す声が訊こえる。




「近藤さんの万年筆って随分年季が入っているみたいだけれど、大切にされてるのね」


「ええ、主人からの初めての贈り物なの。もう何度修理に出したか覚えてないわ」




「百子ってさぁ、そのゴツいライター二十代の時から使ってるね」


「うん。おじいちゃんから貰った宝物なんだ。煙草吸わないんだけどね。お守りみたいなものかな」




「あれ? 義之、そのピアス良いじゃん。どしたん?」


「なんか、雑貨屋でビビってきて買った。いま、超気に入ってんだ、これ」




「えっと、ちょっと確認するね。来週の土曜は……あーごめん。その日会社の同期飲みだ」


「えー。杏果、先週の土曜も予定入ってたじゃん。いつなら空いてるのさ?」


「ごめんごめん。再来週の土曜日だったら空いてるよ」


「よし、じゃあその日合コンね、決まり。ほら、もう手帳に書いておきなよ、合コンて」


「もうっ勝手に書かないでよ。あはは……」




「智ぃ、何聴いてんの?」


「え? ああ、あのバンドの新譜だよ。超ヤベェよこの曲。聴いてみ?」




「小山田くん、眼鏡新調したんだ。うん、良いね。似合ってる」


「あ……ありがとうございます」




「瑞稀就職おめでとう。これはお父さんとお母さんとからの就職祝いだよ」


「わあ、ありがとう! 大事にするね」




「なんで私だけこんな目に……」




「辛い。辛いよ」




「死にたい」




「生きていたってなにも良いことなんてないじゃないか」




「なんの為に生きているのかわからない」




「自分は世の中に必要のない人間だ」




「もう、なにも感じない」




「お母さんに……逢いたい」




「あなたの望み、叶えてあげましょうか?」




 りんっ




 突然、伸びきったゴムの端が離されたような衝撃と共に意識が戻る。


 足に力が入らない。手に力が入らない。今まさに身体が背中から地面に倒れこもうとしているのがわかるが、身体が動かない。


 ぱしゃ。持っていた傘が地面に落ちる音がした。


 傘の底が視界を覆っている。身体の落下は停止していた。どうして眼の前に傘があるのか疑問だった。雨が降っていたことを陣平はようやく思い出した。


「はっ……はっ……はっ」


 陣平は意識を浅い呼吸へと集中させる。そうしないと、また呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。この短期間で二度も呼吸の仕方を忘れるのは世界広しといえど自分くらいではないだろうか。何故かそんな自虐が頭の片隅を通り過ぎてゆく。


「深く、ゆっくり息を吸ってください輪炭様」


 雨耶が背後から抱き抱えるように陣平を支えていた。視界を覆う傘の底は、雨耶の持つ傘だった。


「いま……のは?」


 陣平は呼吸と呼吸の合間に雨耶に問いかける。


「移り木とは、記憶が移りやすい特性を持つ樹木のことを言います。主人さまは、七つの遺留品を移り木でいぶし、それらの記憶を煙に変換します。更にそれを水に、つまり雨に染み込ませることにより、雨に膨大な記憶が蓄積されます。その雨を浴びることで、七人の持つ物に残された記憶を短時間で一度に観ることができます。記憶観きおくみと言う名の魔術の応用です。輪炭様がご覧になったのは、個々人の様々な記憶が混ざり合った、膨大な記憶の中のほんの一部です」


 陣平は芝生から少し離れたところにある屋根付きのベンチに腰を下ろし、鈴璃に眼を向ける。もう五分以上は雨を浴び続けている。その光景は、ある種の儀式の様で、不気味な神々しさが感じられた。


 あれは、被害者たちの記憶の一部……陣平は指についた水滴を見た。たった一滴。たった一滴であの密度の記憶。混ざり合って境い目をなくした七人の記憶が、無遠慮に頭の中に侵入してきた。危なかった。あと一滴でもあの雨粒に触れていたら、おそらくあの記憶群に自我を全て絡め取られ、だった。


 そのとき、陣平のつま先から頭の先まで寒気が走った。鈴璃は、あの密度の記憶をたった一人で観続けているのか。一粒に何時間、何日、何週間、何ヶ月、何年、何十年、そんな膨大な量の記憶が溶け込んだあの雨を。


 精神力が強いとかそんな次元の話じゃない。『廃人になりたくなければ……』いまならわかる、雨耶が言っていたあの言葉の意味が。


「人間じゃねえ……」


 陣平は呟いてから気付いた。肌で実感した。本能的に思い知らされた。彼女は人間ではない。魔女だ。人間の常識なんかでは測れない。


 そして、自分は人間だ。知っている世界の中でしか物事を判断できない。そう判断することで自分を守っている、ごく平凡な人間だ。鈴璃が自分を見失わずにいられるのは、魔女だからなのだろうか。それとも彼女自身の持つなにかが為せる業なのだろうか。


 陣平は魔術に触れ、被害者たちの記憶を僅かでも見たことで、鈴璃がなにをやろうとしているのかが直感的に理解できた。七人の被害者は自殺でなく、魔術による殺人だと鈴璃は言った。ということは即ちそれを行った犯人がいるということだ。この魔術の目的は、被害者の持ち物に蓄積されている膨大の記憶の中からこの『スマイリースーサイド』以前の七人全員に共通する人物、その存在の確認。陣平も僅かではあったが、その存在らしきものを知覚していた。


 物に蓄積された記憶というのは、改竄かいざんや他者の手が介入不可能な超主観映像のカメラそのものだ。〝被害者七人〟という点を〝死〟という線で繋いだ時、その中心にいる人物こそが、事件の最重要容疑者ということになる。鈴璃は記憶観でそいつを見つけ出そうとしている。眼には眼を、歯には歯を、魔術には魔術をということだろう。確かにこれは人間の領域外の出来事だった。


 そう考えが至ったとき、陣平は自分の頬に涙がつたっていることに気付いた。


 そうだ。自分は話したこともなければ、会ったことすらない被害者たちのことを。みんなの人生の一部を知っている。いや、


 佐知江さんは、誰にでも分け隔てなく接する人懐っこい女性だった。


 圭介さんは、無口だったけど決めたことは最後までやり通すクールな男だった。


 智くんは、音楽が大好きで、良い曲を聴いた時に見せる笑顔が最高だった。


 百子さんは、家族をとても大切に想い、やることに筋を通す凛とした女性だった。


 杏果ちゃんは、ほんわかした空気でみんなを癒してくれる優しくかわいい子だった。


 義之は、芸術的センスが抜群な分、凄く純粋で繊細な奴だった。


 瑞稀は、あいつは……。


 彼等はみんな生きていた。そしてもう何処にもいない。もう会えない。そのどうしようもない事実が、陣平は哀しかった。哀しくて堪らなかった。


 しばらくすると鈴璃は眼を開け、目線を足元に落とした。濡れた髪が顔に垂れていて表情はよく見えない。雨耶に渡されたタオルで顔の水滴を拭いながら、鈴璃は陣平の隣に腰を下ろす。濡羽色の髪から滴る雫が水晶玉を彷彿とさせる。陣平は鈴璃にバレないように涙を拭った。


「雨耶から訊いたぞ。観たんだそうだな。如何だったかな、派手なのは?」


 そう言った鈴璃の顔には、満足げな笑みが宿っていた。もうさっきまでの神々しさはかけらも感じられなかった。


「また吐きそうだ」陣平はうなだれながら言う「アンタは、家館さんは大丈夫なのか?」


「人間に人外の業は少々刺激が強かったかもな。そしてそれを使う私も人外。心配はいらん」


 先日ほどではなかったが、魔術を体感すると酷い吐き気に襲われる。回数をこなせば慣れたりするのだろうか。正直、慣れるほど魔術を体感するのは御免こうむりたい。陣平は心からそう願った。


「あの記憶を観る魔術の目的は、事件の前後に、被害者全員に接触した誰かを探すことだな。なんの接点もない被害者たちに共通の知り合いがいるなんて、偶然にしては出来すぎだからな」


「被害者たちの記憶に触れてなにかわかったみたいだな。共通点を探したのは正解だ。まあ、目当てはヒトではないがな」


「それで、アタリだったのか?」


「当然だ。行くぞ」肩まで伸びた黒髪をタオルで拭いながら、鈴璃は勢い良く立ち上がった。


「行き先は?」自然と陣平も立ち上がる。


「新宿だ」


 二人はエレベーターに向かい歩き出した。扉の前には、鍋から取り出した七つの遺留品を丁寧に抱えた雨耶が待つ。流石人外の業、魔術と言うだけあって遺留品には焦げ跡ひとつ付いていなかった。ふと足を止め鍋の方へ眼を向けると。まだ少しだけその場に煙が揺らめいていたが、視界に入った瞬間、空気に溶けて消えてなくなった。




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