第一幕『うつしよはかくもくさのゆかり』6
「家館さん、ここって……」
「幼馴染みなら、よく知っている場所だろう?」
車が到着したのは、世田谷区の閑静な住宅街。玉城瑞稀の実家だった。
木造の一軒家は住人である瑞稀とその母を失ったからか、どこか佗しそうに見えた。
瑞稀の父である玉城
陣平の記憶の中での明夫は、背の高いハンサムな男性という印象が強かったが、短い間に家族を二人も亡くしているせいか、かつての面影はなく、今にも消えてしまいそうなほどに憔悴していた。
通された居間で陣平は、しきりに捜査資料に眼を走らせていた。何度も眼を通した内容だったが、遺族の話を訊く前のおさらいの意味を込めての確認だった。隣には、すっと背筋を伸ばした鈴璃が、無言で椅子に座っていた。雨耶は近くの駐車場に停めた車の中で待機している。
捜査資料が綴じられたファイルを閉じ、室内を見渡すと、端の方に仏壇があった。花束を抱えて微笑んでいる瑞稀の母、玉城
「いや、それにしても久しぶりだねえ陣平くん」
「ご無沙汰してます。明夫さん」
キッチンから、三つの湯のみを乗せたお盆を持って玉城明夫が現れる。白くなった髪のせいか、五十八歳という実年齢より少し老けて見えた。寂しげな音を立てて湯のみがテーブルに置かれる。
「この度は、心からお悔やみ申し上げます」
陣平は深々と頭を下げる。
「こちらは、ええと、上司……の、家館鈴璃さんです」
鈴璃は、この度はと、明夫に会釈をする。明夫も会釈を返す。
「妻に続いて娘まで、正直現実を受け止めきれないよ」
顔をあげた明夫は少し涙ぐみながらそう言った。
「それで、なにをお話しすればいいのかな? 昨晩いらした刑事さん達にわかる事は全て話したけど」
「お話の前に、奥方とご息女に御焼香させていただきたいのですが」
鈴璃は明夫に尋ねる。陣平は鈴璃の敬語に絶句していた。このひと敬語話せたのか。
「あ……あ、ああ、構いませんよ」唐突な質問によるものか、鈴璃の人並み外れた美貌によるものかは判然としないが、明夫は激しく動揺しながら答えた。
鈴璃は仏壇に向かう。線香を上げた後、りんを鳴らし合唱する。陣平も隣でそれに倣ったが、左手がアームホルダーで固定され動かせない為、右手で片合掌をし、眼を閉じた。りんの音の余韻に線香の煙が溶けていく。匂いは記憶を呼び起こす引き金になると訊いたことがある。空気と一体になった線香の匂いが、瞼の裏にあった記憶を、両親の葬式の記憶を呼び起こす。
父親の時は母親が喪主だった。母親の時は自分が喪主だった。どちらの葬式でも現実感がなく、全く涙が出なかった。自分は冷たい人間なのかと落ち込んだりもした。しかし、何年か経ったある日、両親がいなくなったことを考えた時、感情が波のように襲ってきて涙が止め処なく溢れた。二人がいなくなったことを、独りになったことを、認めたくなくて、ただ見ないふりをして、感情に蓋をしていただけだった。水に濡れた和紙のような脆い蓋を。
自分の場合は、両親の死を受け入れるのにだいぶ時間がかかった。もしかしたらまだ受け入れられていないのかもしれない。明夫はもう妻と娘の死を受け入れられているのだろうか。大事な人の死は、残された者に大きな喪失感を残す。それはきっと一生かかっても埋められるものではないのだろう。
「奥方は陶芸の素養もあったようですね。しかしこの作品の制作時には、手の怪我で随分と苦労なさったようだ」
陣平は現実に引き戻される。顔を向けると鈴璃は、玉城紗奈の遺影の横に置いてあった一輪挿しに触れながら、そう呟いていた。
「え?」明夫は驚いた表情をする。「確かにその一輪挿しは、家内が陶芸で作ったものですし、それを作った時には右手を怪我していました。家内を知らない筈の貴女がどうしてそれを?」
鈴璃は質問には答えず。瑞稀の写真の脇に置いてあった腕時計を手に取った。
「これは、ご息女の持ち物かな?」
「ええ。娘の就職祝いに私と妻で送ったものです。何回か修理に出したりして大事にしてくれていたみたいです。それがなにか?」
陣平もその腕時計には見覚えがあった。最後に会った日に着けていたことをよく覚えている。
ふむ。鈴璃はそう言って、腕時計をじっと眺め、眼を閉じた。室内に沈黙が広がる。
「あの、一体なにをしているんですか」当惑顔の明夫が堪らず声を発する。
鈴璃は人差し指を唇の前に持ってきて、静かに、のジェスチャーをする。その雰囲気に気圧されたのか、明夫はそれ以上言葉を発する事はなかった。陣平は黙って鈴璃の姿を見ていた。
暫しの沈黙の後、ゆっくりと眼を開けた鈴璃は、顔を上げずに尋ねた。
「こちらの腕時計、証拠品としてお借りしてもよろしいでしょうか?」
「え、ああ、どうぞ」
明夫の返答は尚もしどろもどろだった。鈴璃は礼を言うと、陣平から証拠品袋を受け取り、腕時計を丁寧に中に入れる。それをコートのポケットにしまうと、仏壇に向かい再び手を合わせた。そして明夫に向きなおり、深く会釈した。
「これにて失礼します。貴重な情報提供に感謝します。それでは」
鈴璃は身を翻し、玄関へと向かった。陣平は慌てた様子で明夫に頭を下げ、鈴璃の後に続いた。事態を飲み込めない明夫は玄関から出て行こうとする二人を呼び止める。
「待ってください。これで終わりですか? まだなんのお話もしてませんが」
「いいえ。十分過ぎる情報をいただきました」鈴璃は振り返り言った。「ご息女の最も近くにいたモノからね」
それだけ言うと鈴璃は玄関から表に出る。
「明夫さん。情報提供ありがとうございました。事件に進展がありましたらたら、またご連絡します」
陣平はそう告げ、玉城家を後にする。
意味のわからない明夫は呆然としながら「ああ、またいつでもおいで陣平くん」と絞り出すように言って、玄関から遠ざかっていく二人の背中を見送った。
「おい、一体さっきのは何なんだ?」
玉城家を出た陣平は、前を歩く鈴璃の背中に問いかけるが、鈴璃は足を止めずに歩き続ける。
「最初に言ったろう。話を訊きに行くって」
「何も訊いてないだろ。そもそも会話すらまともにしてねえじゃねえか。あんなので何がわかるってんだよ?」
陣平は怒気を含んだ声で言った。
「わかったわかった。ちゃんと説明するから付いて来い」
歩くスピードが上がり、鈴璃が急いでいるのが伝わる。他人に訊かれてはまずい話なのだろう。そう思い、陣平は黙って後に続いた。
てっきり車に戻ると思っていたが、辿り着いた先は、なんの変哲もない喫煙ブースだった。鈴璃はいそいそと中に入り、設置されているスタンド灰皿に向かう。コートの内ポケットからシガーケースを取り出すと、煙草を一本咥え、マッチで火を点ける。
「もしかして急いでいたのは、煙草が吸いたかっただけか?」
陣平は醒めた目線を鈴璃に向ける。
「仕方ないだろう。車の中で吸うと雨耶に怒られるんだ」
そう言って鈴璃は膨れっ面になり、待ちに待ったと言わんばかりに煙を吸い込んだ。
「ああ、なるほど。だから口寂しくて車内では菓子を食っていたのか」
陣平の指摘に、鈴璃は「悪いか」と少し頬を赤らめ、そっぽを向いた。
「それにしても、昨今の禁煙運動のおかげで、喫煙者には厳しい世の中になったもんだ。こういう喫煙ブースも今では殆ど見なくなった。この
鈴璃は煙を吐きながら、独り言のようにしみじみと呟く。
子供みたいな行動をすると思ったら、今度は年寄りみたいなことを言うんだなと陣平は思った。
「それで、さっきのは一体何だったんだよ。しっかり説明してもらうからな」
「まったくせっかちな坊やだな。この知りたがり屋さんめ」
鈴璃はゆっくりと煙を吸い込み、そして吐き出す。その姿は、なにを話そうか探っているようにも見えた。
「……坊やは、人間が物を欲しがるのは何故だと思う?」
灰皿に灰を落としながら鈴璃は問いかける。
「なんだ急に。今度は禅問答でも始めようってか?」
また鈴璃のたちの悪い冗談だと思った陣平は、溜息混じりに言った。
「いいから答えろ」
鈴璃の顔と声色は真剣だった。吸い込まれそうなほど大きな瞳が陣平を捉える。どうやら冗談ではないようだ。
物を欲しがる意味。そういえば考えたこともなかった。思考に沈んで行く感覚がある。通りでは、何台もの車が脳細胞のように行き交う。陣平はそれを無機的に眺めながら考える。
「やはり、必要に迫られてじゃないか? 物がないと生活していけないからな。後は便利だからとか。憧れの人が持っているからとか。幸せになりたいからとか。あ、ストレス解消になるからって訊いたこともあるな」
「そう。人間は様々な理由で物を欲しがる。自分を残す為にな」
「自分を、残す?」
すっかり短くなり、フィルター部分しか残っていない煙草が灰皿に放り込まれる。
「ああ。物に自分を残すんだ。物には意図せずとも、持ち主の記憶や体験が染み込んでいる。良いことも悪いことも、誇れることも恥ずべきことも、分け隔てなく。紙にインクが染み込み、二度と落とせないようにな。人間の記憶は薄れやすく不明瞭で、いとも簡単に形を変える。だから真実が他人に伝わらないことも多ければ、間違ったことが真実として認識されることもよくある。その点、物に残っている記憶は紛れもない真実だ。薄れることも、偏った認識もない。ただ、ありのままの記憶が残っている。人に歴史あり、物に歴史ありだ」
黙って話に耳を傾ける。「物に記憶が、残る……」陣平の脳裏には仏壇に飾ってあった一輪挿しが想起される。あの一輪挿しには、玉城紗奈の記憶が残っていたというのか。あの一眼で手造りだとわかる、優しい形の一輪挿しに。
「ということは、持ってきた腕時計には瑞稀の記録が残っているのか?」
「理解が早いな」
鈴璃は再びシガーケースを取り出す。
「人はいつか必ず死ぬ。そしていずれ誰からも忘れ去られる。死から逃れられないことは誰だって理解している。しかし、物に自分を残すことはできる。無意識にそれを知っているからこそ、人は自分の外に、物に記憶を残そうとするのだろう。誰だって忘れられるのは怖いからな。これは全ての人間に備わっている無意識下の普遍的生存本能の一つだ」
鈴璃は二本目の煙草に火を点けながら、落ち着いたトーンで言った。
その時、左腕に激しい痛みが走った。陣平は苦悶の表情を浮かべ、反射的に左腕を押さえようとするが、右手が肩に触れる前に、既に痛みは消えていた。あまりに一瞬の出来事に、痛みが気のせいだと感じるほどだった。
陣平を一瞥し、視線を正面に戻した鈴璃は、煙を吐きながら続きを話し始める。
「私は物の記憶を観ることができる」
答えがわかっている質問をすることは、野暮であろうことは自覚していた。しかし、訊かずにはいられなかった。どうしてか鈴璃の口から答えを訊きたかった。
「記憶を観るって、どうやって?」
「それはもちろん、魔術でだ。すごいだろう」
したり顔で踏ん反り返る鈴璃に対して、陣平は腕を組み難しい顔で黙りこむ。それは予想通りの答えだったからこその考えがあったからだ。
「なんだその顔は。文句でもあるのか?」
「いや、文句はねえし、すげえし、この前の視覚を移す魔術とやらもすげえ驚いたけど、その……魔術って言っても、なんか全体的に地味だなと思って」
「じっ……地味だと」鈴璃は絶句したまま、その場で固まる。
「世間一般が思い描いてる魔術って、呪文とか唱えて、パパーっと何でもできるイメージだったが、現実はそんなに大したことないんだな」
陣平は、今までの仕返しと言わんばかりに、意地悪な表情をして見せる。
頭の中に浮かんだ魔女のイメージは、例えば箒に乗って空を飛んだり、占いをしたり、何か得体の知れない薬を創ったりと、もっとファンタジックなものだと思っていた。それらは全て幼少の頃に観た本や映画、もしくは漫画やアニメの知識だった。特に熱を上げて観ていたわけでもないが、魔女と訊くと今でもこのようなイメージが自然に思い浮かぶことから、自身の持つ魔女の印象が幼少の時期から更新されていないと気付く。もしかしたら今の世間一般の思い描く魔女像はまた違ったものなのかもしれない。陣平はそんなことを思った。
「大したことない……だと」
あまりにショックだったのか、鈴璃は蚊の鳴くような声でそう言うと、その場に呆然と立ち尽くしていた。暫くすると彼女の顔は怒りで真っ赤に染まってゆき、口元には耳まで裂けるのではないかと思うほどの歪な笑みが浮かぶ。
「お前、口には気を付けるんだな。派手なのが希望なら片腕でも捥いでやろうか? 今、直ぐに!」
非常に物騒な物言いとは対照的に、鈴璃の眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。
めんどくせえ。陣平は混じり気のない純真な気持ちでそう感じていた。
更に陣平は一八〇センチ近い長身だった。見た感じ、身長が一六〇センチにも満たないであろう鈴璃が、どんなに背伸びをして威嚇し凄もうと、はたから見れば痴話喧嘩程度にしか見えないだろう。今日は、登り見降ろすテーブルも無い。
鈴璃の想像以上のリアクションに、陣平はたまらず笑い出した。
「魔女って、全然普通の人なんだな。なんだか力が抜けちまった」
そう言う陣平の緩みきった笑顔を見て、鈴璃の怒りは、まさに水をかけられた勢いでしぼんでいった。その締まりのない陣平の顔は、勢い余って本気で腹を立てていたことに少し気恥ずかしさを感じるほどだった。
「もういい」鈴璃は、ばつの悪そうな顔で舌打ちをする。「話を本筋に戻すぞ」そう言うと、コートのポケットから証拠品袋に入った瑞稀の腕時計を取り出し、陣平に突き出す。
「坊やはこれから雨耶と一緒に、残り六人の被害者宅を回り、この腕時計と同じような当人が死ぬ直前まで長く使用した物を借りてこい。出来れば身につけていた物が好ましい」
「オレと雨耶さんでか? アンタは?」陣平は不思議そうに言った。
「坊やは警察だから、捜査という名目で、他人の家に勝手に上がり込むことができ、なおかつ証拠品という名目で、どんな物でも追い剥ぎしてこれるのだろう。私がいないことになにか問題があるか?」
「問題はないが……なんだかすげえ悪意のある言い方だな?」
「気のせいだ」鈴璃はそっぽを向き、ぶっきらぼうに答えた。どうやら魔術を地味と言われた怒りは完全に鎮火した訳ではないようだ。
「それとも」鈴璃はトラウザーズの右裾を少し捲り上げ、隠れていた足首を少しだけ見せる。「私がいないと寂しいか?」
悔しいが鈴璃の左腿に見惚れていた事実は、とっくに見抜かれていたみたいだ。女性は自分が見られていることに恐ろしく敏感だ。と誰かに訊いたことがあった。
「いや」陣平はそれだけ言うと、差し出された腕時計を受け取った。
「私は別行動をとる。全て集まったら……」
そのとき、顔になにかが当たる感覚があった。鈴璃と陣平は反射的に頭上を見る。
一層重みを増した灰色の雲からは、雨粒が控えめに降り始めていた。時間が経つにつれ雨足が激しくなることは容易に想像できる。そんな降り方だった。
「雨か。これは都合がいい」鈴璃は空を眺めながら嬉しそうに言った。確かに午前中から午後にかけて雨が降るとの予報が出ていた。
「日没までに全て集めて店に戻れ。いいな」
鈴璃がそう言い終わるのとほぼ同時に、眼の前に雨耶が運転する車が滑り込んでくる。通りに面した助手席のドアが開け放たれ、中から木製の蝙蝠傘が差し出された。
「主人さま、こちらをお使いください」雨耶が運転席から相変わらずの無表情で言った。
鈴璃は、すまないな雨耶。と礼を言うと、傘を開く。綺麗な朱色の格子柄があしらわれている瀟洒なデザインの傘だった。
「それでは参りましょう。輪炭様」雨耶は言う。
「あ、そうだ。一つ言い忘れていた」
「何だ?」
「集める物で、携帯電話は避けてくれ。アレは数多の人間の記憶が混在しすぎていて、うまく記憶が読み取れない」
「わかった」陣平は振り返らずに答え、車に乗り込んだ。
踵を返し、車とは逆方向に歩き出す鈴璃を、陣平は無意識に眼で追った。その歩調はどこか楽しげで、雨の雫の一粒一粒と戯れているように、踊っているように見えた。格好も相まって、子どもの頃夢中になって観たミュージカル映画のワンシーンを思い出す。
車がゆっくりと動き出す。通りの雑踏に紛れていく鈴璃の姿を見送りながら、陣平は視線を前方に向けた。その先には、春雨に溶けていく蜃気楼のような街が見えた。
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