第一幕『うつしよはかくもくさのゆかり』8



 すっかりと陽が落ち、都市は夜に覆われ、雨は薄い霧へと変わった。繁華街の煌びやかな灯たちが霧を様々な色で照らす。それはまるで、空気に色が着いたかのようだった。


 鈴璃と陣平の二人は中央線に乗り込み、新宿駅東口に降り立った。


 サラリーマン、OL、学生、カップル、様々な人が通りを行き交う。鈴璃はその間を縫うようにすり抜けて、歌舞伎町方面へ歩を進める。陣平はすれ違う人たちとぶつかりそうになりながらも鈴璃の背を追った。


 新宿へ向かう電車の中で鈴璃はただ一言、「絶対に私から離れるな」とだけ言った。その言葉の意味する所はよくわからなかったが、陣平は後ろを気にせず、すいすい先を歩く鈴璃の背を必死に追った。その足取りは既に目的地が決まっているかのような足取りだった。


「おっと」


 もはや競歩といってもいいスピードで歩を進めていた鈴璃が急に立ち止まったとき、彼女の背中にぶつかりそうになった陣平は、思わず声を上げた。


 顔を上げると、眼には歌舞伎町入り口のアーチが、耳には新宿の街に相応しい喧騒が、それぞれ飛び込んでくる。ほぼ鈴璃の背中しか見ていなかったからか、どこをどんな風に歩いてたのかを意識していなかった。いつの間にこんな場所まで歩いてきたのかと、陣平は瞬間移動をしたような錯覚にとらわれる。


 足を止めたと思ったら、次の瞬間、鈴璃は勢いよくその場にしゃがみ込んだ。


 具合でも悪くなったのかと思った陣平が慌てて視線を落とすと、鈴璃は小さな折り畳み式の椅子に腰掛けていた。


 鈴璃の前には濃紫色のベルベットが敷かれた小ぶりな机があった。机の両端には銀色の燭台に立つ火の点いていない蝋燭がそれぞれ一本ずつあり、中央には使い込まれた形跡の見られる古いタロットカードが束になり綺麗に置かれていた。更にその奥には漆黒の衣装に身を包み、夜のように黒い髪を伸ばした女性が座っていた。街灯に照らされた肌は非常に色白で、切れ長な眼も相待って、儚げな美女といった印象を持った。


 彼女は占い師だった。


「ようこそ、私は藤柳 泉ふじやなぎ いずみ。あなたのお名前を伺っても?」


 藤柳と名乗った占い師は、静かな声でそう告げる。


 鈴璃はこの女性に会いにきたのだろうか、もしかして占いで犯人の所在地を確かめようというのか、それともまさかこの女が……。そんな考えが陣平の頭に浮かぶ。


「私は家館鈴璃だ。後ろの男は……」


「……輪炭陣平だ」


 鈴璃に眼で促され、陣平は仕方なく自己紹介をする。警察手帳は出さなかった。藤柳は満足そうに頷いた。


「カードは過去を糧に、現在に道を創り、未来へと導きます。あなた方は何をお訊きになりたいのですか?」


 藤柳はゆっくりとした動作で宙をなぞると、自然に蝋燭に灯りがともる。


「もしかして、お二人の将来の事とか? うふふ」


 人の警戒心を解くような、愛嬌のある笑顔で笑う藤柳に対して、鈴璃は表情一つ変えずに答える。


「いや、私が訊きたいのは七人の人間のことだ」


「七人の人間。とおっしゃいますと?」


 藤柳は、何も知らないといった様子だった。


「近藤佐知江。小山田圭介。源田智。樋口百子。大塚杏果。山内義之。玉城瑞稀。七人全員の持ち物の記憶に。これ以上言う必要があるか? なあ、よ?」


 藤柳は笑顔のまま停止し、俯いた。その状態のまま軽く息を吐くと、ゆっくりと顔が上がる。


「なあんだ。かあ」


 藤柳の表情を見て陣平の身体は総毛立った。さっきまで顔に張り付いていた愛嬌のある笑顔は消え失せ、色濃い侮蔑の表情がそこにはあった。その表情は別人かと思うほどの変貌ぶりだった。


「この占い師が、魔女……」


 よく見ると、彼女の左手首の小指側に小さな刺青が確認できた。藤の花の絵が円の中に収まっている。家紋のようなデザインは、鈴璃の刺青とよく似ていた。


 陣平は直立したままながらも身構える。なにができるわけでもないが、そうせずにはいられなかった。


「訊き覚えがある名前のようだな。お前が七人の寿命を喰ったのか?」


「そうよお。そのような『望み』だったからねえ。みんな良い人間だったわ。善良で、素直で、呆れるほど普通な人間だった」


 鈴璃の質問に対し藤柳は楽しそうに笑いながら、驚くほどあっさりと事件への関与を認めた。と言うより、これはもう自白に他ならなかった。


『望み』この一言が陣平の胸に引っかかった。


「後ろの坊やは警察官だ。罪を全て認め、おとなしく投降するのであれば、私はなにもしない」


 鈴璃は陣平を親指で差してそう言った。陣平は無言で警察手帳を取り出した。


 藤柳は警察手帳を一瞥するが、臆した様子もなく鈴璃へと視線を戻す。


 陣平はその場から一歩踏み出し、左腰部にある手錠入れに右手を伸ばす。


「さて、どうする?」との鈴璃の提案に、藤柳は吐き捨てるように言った。


「どうするってえ? おとなしく逮捕されろってことお? 人間程度に魔女が捕まえられるとは思えないけどねえ」


 藤柳は片手で頬杖をついて、見下すような眼で陣平を一瞥する。その眼は、語尾を伸ばす独特な喋り方同様、陣平の神経を逆撫でする。


「ところでさぁ、貴女、家館鈴璃さんだっけ? あ、鈴璃ちゃんて呼んで良い?」


 藤柳は両手で頬杖をつく。そして机に身を乗り出し、鈴璃の顔をまじまじと覗き込む。許可を出していないにも関わらず、藤柳は嬉々として鈴璃ちゃんと呼び始める。その光景は、友人たちで繰り広げる、楽しげな女子トークの一場面に見えなくもなかった。


「鈴璃ちゃんさあ、観たんでしょお? あの七人の持ち物の記憶。だから、私に辿りついた」


「ああ」


 鈴璃は無表情のまま答える。


「記憶観なんて、あんな古臭い魔術使う魔女なんて、まだいたんだあ。あれ、時間かかるし、退屈だし、持ち主の感情がダイレクトに伝わってくるから疲れるし、なにより地味だからワタシ嫌あい」


 藤柳は小馬鹿にした調子でため息をつく。


「地味……」鈴璃は呟く。


「ところでえ、なにしにきたのお? 物の記憶を観たなら全部わかってるんでしょお?」


 藤柳は眼を細めて更に身を乗り出してくる。鈴璃は黙っていた。


「もしわかってないのならあ……」


 藤柳はなにか言いかけると頬杖をついたまま辺りを見渡す。その視線は鈴璃も陣平も捉えてはいなかった。


 なにを見ている? 陣平も警戒を解かず、辺りに視線を走らせる。しかし特に変わった事もなく、見慣れた新宿の喧騒しか確認できなかった。


「ここ、ちょっと五月蝿うるさすぎるわねえ……」


 藤柳は軽く眉間に皺を寄せながら、ふっと、ため息と一緒に蝋燭の火を吹き消した。どうやら街の喧騒が耳に障ったらしい。


「鈴璃ちゃん。貴女とはもっとじっくりお話ししたいわあ。もう少し静かな場所に行きましょお。あ、もちろん陣平くんも一緒ねえ」


 陣平くん……。そんな呼び方をされる間柄になった覚えはないのだが。そんな意味を込めて、陣平は藤柳を睨みつける。視線に気付いたのか、藤柳は、にっこりと微笑んだ。


「ああ。ごめんなさいねえ。ワタシって、さん付け苦手なのよお、だから許してえ」


 藤柳はまるで友達に対するような態度で謝罪すると、眼の前に置いてあるタロットカードを何枚か横一列に並べ、その中の一枚を裏返した。


 暗転。


 突如、眼の前が真っ暗になった。


 眼の前にある暗闇は、顔をなにかに覆われたような人為的な暗闇ではなく、部屋の電気を急に消されたような、自然的で突発的な暗闇だった。


 陣平はなにが起こったのか理解できず、数歩あとずさる。原因が魔術であることはわかりきっている。それでも、唐突に起こる現象な以上、驚かずにはいられない。予め予告されていたとしても、きっと結果は変わらなかっただろうが。


 辺りを見回しても明かりはない。靴底の感触と、頰を撫でる空気から、屋内であることだけはわかった。


 その場所はやけに静かだった。下手に動くのは危険だ。


 必死に冷静さを取り戻そうと、陣平は耳鳴りが反響する頭であらゆる可能性を考える。


 家館さんは無事なのか? 


 ここは新宿のどこかなのか?


 それとも、別の場所なのか?


 どこかに幽閉されたのか?


 自分一人がこの状態なのか?


 視界が奪われたのか?


 藤柳は逃走したのか?


 それから、


 それから。


 次第に高まっていく脈搏の中、陣平は視界の端で、揺らめくオレンジ色の光を捉えた。


 視界が生きていることに陣平はひとまず安堵した。そして、警戒はそのままにゆっくりと光への距離を詰めていくと、そこには見覚えのある小さな背中があった。


「家館さん。無事だったんだな」


 陣平は鈴璃の背中に駆け寄った。オレンジ色の光はマッチの灯だった。しかし、すぐにその灯はふっと消え、僅かな余韻を残し、暗闇が戻る。


「お前もな、坊や」


 煙草に火を点けた鈴璃は、煙を吐きながら振り返った。火種の灯に照らされて、淡く辺りの景色が浮かび上がる。


「ずっと見てたけど、陣平くん、すごい慌てちゃってたねえ。可愛かったわあ」


 煙草の火種の奥に、くすくすと笑う藤柳のシルエットがぼんやりと見て取れる。表情までは確認できなかった。


「随分と大仰な演出だったな。見ていて恥ずかしかったくらいだ」


 鈴璃は煙を吐き出しながら鼻で笑うと、机からカードを一枚手に取り、指先でもてあそび始める。


「だってえ、いまの時代、これくらい大袈裟にやらないと、本物の占い師って信じてもらえないんだもん。近頃の人間は眼ばっかり肥えて困るわあ」


 藤柳は心底うんざりした様子だった。


「だから、小細工なんかせずに、ちゃあんと魔術を見せるようにしてるのお」


 蝋燭にバスケットボールサイズの火がひとりでに灯る。揺らめく火は、次第に大きな炎へと姿を変えると、跳ねるように宙を舞い、そしてまた蝋燭へと戻った。


「ほら、これで明るいでしょお」


 藤柳は再び両手で頬杖をついた。   


 冷静さを取り戻した陣平は、落ち着いて周囲を確認し始める。そこはがらんとした広い倉庫だった。懐からスマホを取り出し、現在位置を確かめた。


 画面に出た現在位置は、芝浦ふ頭の倉庫街を指していた。どうやら新宿から芝浦まで一瞬で移動したようだ。ここにきて倉庫内に吹き込む外気が潮の香りを含んでいることに気付く。


「面白かったあ? 陣平くん」


「何のためにこんな事をするんだ……」


「こんなことって?」


「人殺しのことだ」


 静かな声の中に怒気を含んだ陣平の質問に、藤柳は意に介した様子もなくあっけらかんと答えた。


「何のため? 意味なんてないわよお。無意味で、無意義で、ナンセンス」


「無意味に人の命を奪ったって言うのか!」


 倉庫内に陣平の怒声が響き渡る。


「陣平くん、怖あい」


 人懐っこく笑う藤柳の顔は、倉庫の暗さと蝋燭の灯により、はっきりとコントラストが分かれていた。その顔は、まさに魔女と呼ぶに相応しいほど不気味だった。


 陣平の背中に寒気が走る。


「そうそう、人間の話だったわねえ」


 藤柳は、ぱんと手を叩き、鈴璃に向き直る。


「ワタシ、なにも悪いことしてないわよお。物の記憶を観たんなら、鈴璃ちゃんもわかっているはずでしょお?」


「なにをだ?」


 鈴璃の口調は、どこか心ここに在らずといった様子だった。


「またまたあ、とぼけちゃってえ。あの七人が自ら死を望んだということ。ちゃんと当人たちから許可を得て寿命を貰ったってことよお」


 藤柳は意地悪なおばさんのような手振りをしながら、衝撃的な言葉を言い放つ。



 陣平は藤柳の言葉に絶句する。直ぐに真実を確かめずにはいられなかった。


「何だよそれ、本当なのか?」


 陣平は鈴璃に詰め寄ったが、その口は硬く閉ざされていた。


「おい!」


 鈴璃の肩を力任せに掴んだ。永遠と思える長い沈黙の後、鈴璃は低く重く呟く。


「本当だ」


 少しでも被害者たちの日常を垣間見た自分ならわかる。その一言は、心を打ちのめすには十分過ぎるほとの真実性を持っていた。そんな、瑞稀はそれほど思い詰めていたのか。自分の言葉は何ひとつ届いていなかったのか、そんな無力感に苛まれた陣平は、再び言葉を失い、立ち尽くす。


「痛いわ。馬鹿者」


「あ、悪い……」陣平は慌てて鈴璃の肩から手を離す。無意識に強く握っていたらしい。


 例えようのない暗く重苦しい絶望が、陣平にのしかかってくる。


 藤柳の言った『望み』とは、被害者たちの『望み』。


 被害者たちが最期に残した、あの心から幸せそうな笑顔は、欲しくて欲しくてたまらなかったもの。


 即ち〝死〟を手に入れた喜びの表情。彼等の心からの感情。


 過程はどうであれ、あの七人は、自ら望んで藤柳に残りの人生を差し出し、自らの意志で人生を終わらせることを選択した。


 七人はこの魔女と出会ったことで、死に魅入られ、本来なら手に入れることのできない手段を手に入れてしまった。


 自分を殺す手段を。それを決断する勇気を。


 それはもう、に他ならなかった。


 自然と瑞稀の顔が頭を過ぎる。陣平は鉛を飲まされたような陰鬱な気分になる。


 怖くはなかったのだろうか。後悔はなかったのだろうか。遺された人たちのことは考えなかったのだろうか。あんな顔で笑えてしまうほど、生きているのが辛かったのか。様々な疑問が陣平の胸に渦巻く。それと同時に、その疑問に答えてくれる相手はもういない。その事実が、より重い現実の強度を増す。


「ワタシは、みんなの願いを叶えてあげただけだよお。みんな生きるのに疲れちゃってたみたい。寿命いらなかったんだってえ。だからもらってあげたのお。捨てるくらいなら誰かが有効活用してあげたほうかいいに決まってるでしょお?」


 唐突に始まった話に、鈴璃と陣平は黙って耳を傾ける。


「みんな死にたくなった理由を長々と話してくれたよお。こっちは訊きたくもないっていうのにねえ。あははっ」


 藤柳は明るい声で話し続ける。


 曰く、何年も前から受け続けていた夫の暴力が辛かった。


 曰く、持病が回復する見込みが無いことに絶望した。


 曰く、学生時代に受けた酷いいじめによって負った心の傷が消えなかった。


 曰く、海外への留学中に男性から暴行を受け、心と身体に酷い傷を負った。


 曰く、結婚の約束までしていた恋人に手酷く捨てられた。


 曰く、受験に失敗して親に見放された。


 曰く、死んだ母親に、逢いたかった。


 とても笑って話せる内容ではなかった。なのに藤柳はまるでいい思い出かのように、身ぶり手ぶりを加え、心底楽しそうにそれらを話した。時折倉庫内に響く甲高い笑い声が、笑ったときに見える白い歯が、どうしようもなく不快だった。陣平は血が滲み出すほど拳を強く握りしめていた。


「どうしてあの七人だったんだ?」


 陣平は藤柳を睨みつけながら問いかける。眉間の皺が感情を物語る。


「陣平くん怖いよお。噛みつかれちゃいそう」


「いいから答えろ」


「適当に眼についたから話しかけたのお。『何か人生について深く悩んでませんか?』ってね。そしたら、勝手にベラベラ話し始めたのお。だから言ってあげたのお。この先あなたの人生にはなに一つ良いことは起きませんってね。そしたらみんな寿命くれたんだあ」


 考える素振りすら見せず、驚くほどあっさり藤柳は答えた。


「あー、楽しかった。さあて、お話しも済んで、ワタシが悪くないって証明できたし、全てを知っちゃった鈴璃ちゃんには死んでもらって、陣平くんからも寿命を貰っちゃおうかなあ。まあ、それも死んでもらうってことなんだけどねえ」


 伸びをして一息つくと、藤柳は椅子から腰を上げ、両の手を広げる。蝋燭の炎が揺らめきだし、蛇のように渦巻き、その身体を取り囲む。


 こんな状況でも鈴璃は落ち着き払った様子で椅子に腰掛け、尚も煙草を燻らせている。


「陣平くん、最期にいいこと教えてあげるよお。魔女ってねえ、殺せるんだよお。人間に比べてずっと頑丈だしい、ずっと長生きだけどお、殺せるんだよお。例えばあ、首を落として頭を再生できないくらい完全にグチャグチャに潰しちゃうとか。燃やして燃やしてケシズミにして燃やし尽くしちゃうとかあ。とっても大変だけどねえ」


 その言葉に陣平は、反射的に腰のホルスターから拳銃を取り出し、藤柳に向け撃鉄を起こしながら叫ぶ。


「お前のしたことは承諾殺人罪、または自殺幇助罪に該当する。先程の供述も、自白としての証拠となる」


 銃口を向けられた藤柳は、不満げに口先を尖らせた。


「んー、そんなんじゃあワタシを殺せないかなあ。先ず弾が足りないねえ。それとも、脅し? 魔女を逮捕するなんて本気で出来ると思ってるう?」


 藤柳は銃に向けて、軽く指を弾く。刹那、銃身が吹き飛んだ。飛び散る破片が陣平の頰や額を掠め、じわりと血が滲み出す。


「でもお、痛いのは嫌だから、そんなもの向けないでね」


 陣平は、ただの鉄塊と化した銃のグリップを苛立たしげに床に放り投げる。


「おとなしくしててねえ。それとも足でも千切って、無理矢理おとなしくさせてあげようかあ?」


「はっ、魔女は直ぐに手足を千切りたがるのか? どっかの誰かさんも似た様なことを言ってたぞ」


 陣平は軽口を叩くが、藤柳から放たれる殺気により、その場に括り付けられたように動けなくなっていた。


 膨大な数の殺気に晒される特殊部隊に身を置き、それなりの経験を積んで、それなりの修羅場をくぐって来た自負はあった。しかし、藤柳が発するそれは、積み上げて来た経験をやすやすと呑み込むほどの質量の殺気だった。


「いい子ねえ。さてと」


 藤柳は陣平を見て満足そうに頷くと、鈴璃に照準を合わせる。


「久しぶりに同類とお話しできて楽しかったよ鈴璃ちゃん。しっかりと苦しめて、燃やして、殺してあげる」


 気味の悪い笑顔で、藤柳はゆっくりと腕を上げる。


 殺す気だ。陣平は鈴璃に駆け寄ろうとする。「家館さん!」


「そう。彼等はその短い人生の中で、何度も悲しみ、喜び、絶望し、立ち直り、ある日その命を諦めた。生きることを諦めた。その日を境に彼等の人生は、死というきっかけを探すだけの余生、いや、生を諦めた者にとって毎日は煉獄と言い換えてもいいほど辛く苦しい日々だったのかもしれない」


 鈴璃は眉ひとつ動かさず静かに語り始める。流石の藤柳も呆気にとられた様子で気味の悪い笑みのまま静止していた。


「それは人間として、至極真っ当な行為なのだろう。自ら死に向かい踏み出しもせず、かと言って、前向きに明日を生きようともしない。そこにある生をただ惰性で消化する。そんな日々を過ごしている人間は世界にごまんといるだろう」


 藤柳は多少苛ついた様子で鈴璃に向け、炎の蛇をけしかける。


 鈴璃の左腕の肘から下は炎に包まれ、一瞬で火傷を通り越して炭状になり、音もなく地面に落ちる。


「だからなんなの? そんな彼等を、魔術で死の側に追いやったワタシを責めようってことお? 毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日、無為に捨てられいるかわいそうな命をワタシの寿命として有効に使ってあげようっていう考えを否定しようってことお?」


 そう言う藤柳の態度は、軽薄そのものだった。


「家館さん」


 駆け出そうとする陣平を鈴璃のが静止する。「奴が言っていただろう? 魔女はお前たち人間よりずっと頑丈だとな」燃やされた筈の鈴璃の左手は一瞬で再生していた。


 藤柳は鈴璃の再生スピードに一瞬驚いた顔を見せたが、その顔には直ぐに笑みが戻る。その表情は努めて余裕を見せているようだった。


「いいや、私は別に正義の味方ではない。倫理に従属してる訳でもない。私もお前と同じでやりたいことしかやらない。だからお前を責める気は微塵もない」


 鈴璃は本気でそう思っているらしく、その声から激した様子は全く感じられなかった。


「それに、私はお前の言う通り、全部知っていた。彼等が自らお前に寿命を差し出したことも、ここに連れてこられることも、私たちを殺そうとすることも。まあ、最後の二つは経験則だがな」


「じゃあどうしてのこのことワタシに会いにきたのお? どうしてこの期に及んで逃げもせずワタシに殺されようとしているのお?」


「そんなの決まっているだろう? 時間稼ぎだよ。お前のいみなを知るためのな。こちらは初めから殺される気なんて毛頭ない」


『ヒビハナヒ』その音の連なりが発せられた時、場の空気が変わった。


「な……なんで」


 藤柳は震えていた。身体を取り囲む炎も、震えに呼応するかのように不安定に揺らめいている。軽薄で余裕のある態度、気味の悪い薄笑いは跡形もない。


「なんでワタシの諱を知っているのよ!」


 自らの顔を掻き毟りながら、藤柳は嗚咽のような金切り声を上げる。


「助かったよ。お前が隙だらけのうえ、無駄話し好きの 愚 か 者 で」


 鈴璃は先ほど机から拾い上げた一枚のタロットカードを眼の前に掲げる。


「ワタシの……カード」


 蒼白さを増す顔に、突き立てた爪の紅い筋が浮き上がる。


「まさか、あなた、そのカードの、記憶を……」藤柳の切れ長の眼が大きく見開く。


「ああ、ここに来てからずっと観ていたよ。お前の言う古臭く地味な魔術でな」


「そんな……一体カードにどれだけの長さの記憶が蓄積されていると思ってるの? それに記憶観をしながら会話なんて、本気なの? 意識の居処がわからなくなって、いくら魔女でも頭が狂っちゃうに決まってる」


 鈴璃は人差し指でこめかみの辺りを軽く叩き、蔑むような笑みを浮かべる。


「年季が違うんだよ。お嬢さん」


 トランプ投げのように鈴璃はカードを藤柳に向かって投げる。カードは炎に吸い込まれると、灰も残さずに消えた。


 藤柳は力なく椅子に沈み込む。うなだれた身体からは一切の力が抜けきり、いまにも椅子からこぼれ落ちそうだった。垂れ下がった髪の隙間から虚ろな眼が微かに見える。


 身体を取り囲んでいた炎はいつの間にか蝋燭に戻っていた。


 藤柳は明らかに戦意喪失していた。


 微風が建物の隙間から流れ込み、それぞれの肌を撫でる。とても静かだった。


「…………魔………………ま……………………な…………」


 蚊の鳴くような声が訊こえた。その声は無意識に呟くというより、一言一言を重く、噛みしめるような、そんな呟きだった。


 机と椅子がけたたましい音を上げて地面に叩きつけられる。


「嫌だ。嫌だっ。そんな、本当にいたなんて」


 藤柳は弾けるようにその場から駆け出していた。出口を目指してるというより、鈴璃から一歩でも距離をとりたい。その一心だけの行動のようだった。その証拠に藤柳の身体は出口の扉ではなく、コンクリートの壁に勢いよく突っ込んだ。


「私は、人間が自ら死を選択することも、お前が魔術でどんな悪さをしようとも興味はない。だがな……」


 鈴璃は緩慢な動作で椅子から立ち上がる。そう見えた瞬間、藤柳の頭を鷲掴みにし、壁に叩きつけた。少し距離がある陣平の位置からでも、硬いものがコンクリートぶつかる鈍い音がはっきりと訊こえた。


。だと? 魔女には運命を操る力などない。奴等の人生を、お前が勝手に決めるなよ」


 鈴璃はそう言うと、壁にめり込ませる勢いで藤柳の頭を押さえつけた。藤柳のくぐもった呻き声が倉庫内に低く響く。


「いや。やめて。やめてください。すみません。許してください。ごめんなさい。ごめんなさい。やめてください。助けてください。助けてください。助けてください。私がやりました。言った。言いました。認めたんだから見逃してくれるんでしょ。貴女そう言ったじゃない。そもそも責める気なんてないって言ってたじゃない」


 藤柳は子供のように大粒の涙を流しながら許しを請う。彼女の眼前で、鈴璃は以前陣平にそうしたように、三本の指を突き立てると、いたずらっぽく、ぺろっと舌を出して、さらりと言った。


「そんなの嘘に決まってるじゃん。私は魔女だぞ? それもとっておきタチの悪い部類のな」


 血の気が引いた顔で藤柳は尚も叫び続ける。


「ワタシはそそのかされたのよ! あいつに、あの女に! そうよ「日々無為に消費されている命を貰うことはむしろ世界の為」だって。あの女が言ったのよ。ワタシは言われた通りにしただけ。ワタシは悪くない。ワタシは悪くない。ワタシは悪くない」


「あの女とは誰のことだ?」鈴璃は怪訝な顔をし問いかける。


「真愛しんあ! 鳴茶木なりさき真愛!」


 藤柳は今日訊いた中で一番の声量で叫ぶ。倉庫内の空気が振動する。


 鳴茶木真愛……訊き覚えがない名前だ。藤柳の言うことをそのまま信じるなら、この事件を計画したのはそいつということになる。魔女か人間かも分からないそいつは、一体何者だ? そのとき、藤柳の叫び声が、考えを巡らす鈴璃の思考を遮った。


「全部アイツが仕組んだのよ。ワタシが考えたわけじゃない。だから見逃してよ。貴女にも情けくらいあるでしょう?」


「残念だったな、いま切らしてる」


 絶望に染まる藤柳の顔を見て、鈴璃は堪えきれないといった様子でぷっと吹き出し、嗤い出した。


「あははは。あっははははは。あはっ。あはははっ。あっはははははは。あっははははははははは。あはははっははははははは。あっははははっ。あーはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」


「嫌だ、死にたくない。死にたくない。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だああああ!」 


 耳にしたことがない絶笑と絶叫が、陣平の鼓膜をつんざく。内臓を持ち上げられるような音圧に気分が悪くなる。


 炎の灯に照らされ伸びる鈴璃の影はまるで、見たこともない怪物のように揺れ蠢き、陣平に本能的な恐怖を与え、その足を竦ませる。


 陣平の眼に映った鈴璃の笑顔は一瞬、被害者たちの死に顔と重なって見えた。


「殺すな!」


 気が付くと陣平は叫んでいた。


 その声に反応した鈴璃の眼は、叫びの主である陣平の眼と一瞬交差する。


 鈴璃は邪気の全く感じられない顔で屈託なく笑う。その瞳はまるで少女のように澄んでいた。


 二人の視線が交錯したのは一瞬だったが、陣平の眼は、彼女の歪んだ口角をしっかりと捉えていた。言葉には出ていなかったが、唇の動きでなにを言っているのかわかった。


「殺してなんかやらない。ただ、


 不気味に蠢いていた鈴璃の影が、ひとりでに動き出す。


「喰わせて貰うぞ。お前の諱」


 鈴璃は尚も笑顔で真っ直ぐ藤柳を見据え言う。その眼は紅く光っているように見えた。


「嫌あああああぁぁあぁぁああぁぁああぁああああああああぁぁああああ!」


 藤柳の声にならない絶叫で、痛いほど鼓膜が震える。


諱喰いみなばみ」


 鈴璃の影が、藤柳の影を飲み込んだように見えた瞬間、思わず身震いするほどの冷たい風が倉庫内を包む。


 風に炎は吹き消され、再び漆黒の闇が倉庫内を包んだ。衣類が壁に擦れる音がする。眼を凝らすと藤柳が壁にへたり込んでいるのが確認できた。


 陣平の頭の中では理解の範疇を超えた疑問が物凄いスピードで駆け巡っていたが、その中でもひときわ理解できない言葉があった。藤柳が消え入りそうな声で呟いた言葉。




 魔女を喰う魔女、まつかひをんな 。




「まつかひをんなとは、お前、古い言葉を知っているな。その言葉を口にする魔女も最近はめっきり見なくなった」


 藤柳に話しかける鈴璃の低い声が訊こえてくる。倉庫が広いせいか、どこから声が訊こえてくるのかよくわからない。


「なあ、まつかひをんなって、なんなんだ?」


 陣平は問いかける。姿が見えないせいで暗闇そのものに語りかけてる気分だった。


「言葉の通りさ。まつかひ魔使いの力を喰うまつかひ。それがまつかひをんな。つまり私だ」


 全く理解出来ない言葉が鈴璃の声に乗り、それが四方から身体に巻き付くように響いてくる。陣平の身体は藤柳と話していたときのような寒気を感じる。


「ヒビハナヒ。私はこの魔女の諱を、を喰った。魔女の諱は力そのもの。力を喰われた魔女はただの人間だ」


 陣平は想像する。魔女がその力を失うということ。それは手脚をもがれるみたいなものか。若しくは舌を切り取られ二度と話せなくなるようなものか。上手い喩えが思いつかないが二度と魔術が使えないということだけは理解できた。


「さて、なあお前」暗闇の中、鈴璃は目線を落とし、へたり込む藤柳に声をかける。


「ひ……」と、藤柳の怯えきった短い悲鳴が響いた。


「殺しはしない。魔女の力は全て喰らったが、寿命はしっかり残しておいた。美しく惨めに、鮮やかに醜く、希望と絶望に苛まれながら現実を踊り狂え。人間を見習ってな。永遠にさようなら魔女ヒビハナヒ。そしてこんにちは。、藤柳泉」


 嘲りを帯びた声で鈴璃はそう告げる。


 陣平は口を開かない。藤柳は口を開かない。そして鈴璃は口を開かず、愉快そうにくすくすと嗤い続ける。


「ほら、坊や。こいつはもう人間だ。逮捕したらどうだ?」


 陣平は腰から手錠を取り出すと、藤柳に近付き、手首にその鉄の輪をかける。


「藤柳泉。承諾殺人罪及び、自殺幇助の罪で逮捕する」


 乾いた金属音が、静かに『スマイリースーサイド』に終わりを告げた。




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