序幕『まくあきまするはみやこべにて』
そこは真っ暗な裏路地。
視界は赤かった。より正確に言えば赤黒かった。
しくじったという悔しさと、長年望んできたことが叶うかもしれないという期待が、痛みの中で混在している。しかし、その痛みも既に感じなくなってきていた。
最早機能を失いつつある聴覚が、ある旋律を耳にする。
祭囃子。
そうだ。確か、今の季節は夏だった。
「もう、そんな季節だったんだ……」
掠れて、もう声なのかどうかも怪しい自分の声を訊いた。
意識を保つ為、思いついたことは全て口に出す。
口に出して、耳に届け、認識させる。まだ自分は生きているのだと。
でも、そもそもなぜそこまでして意識を保とうとしているのかも、もうわからない。
「もう再生もできないのに……」
本能。生への本能的欲求。
そんなものが自分にあったということに気付いたとき、どうしようもなく笑いがこみ上げてきた。しかし、その口から溢れたのは笑い声ではなく、血だった。
吐血。
狭くなった視界を真っ赤に染め上げる程の、大量の吐血。
自分の身体の何処にこれほどの量の血液があったのだろうと、この後に及んでも驚いてしまう。
止まってしまっては駄目だ。止まってしまったら最期。もう二度と動き出すことはできない。
思考とは関係なく脳がそう判断し、ボロボロの身体は自動操縦のように祭囃子の方に向かって歩いて行く。
路地の街灯がチカチカと明滅を繰り返す。わたしと同じで、終わりが近いのだろう。
繰り返し訪れる明と暗が、自らの状態を照らし出す。
視界が赤黒いのは、割れた頭から止め処なく血が流れ続けているから。
呼吸がしにくいのは、肺に穴が開いているから。
歩きにくいのは、右足の膝から下がなくなっているから。
右腕の感覚がないのは、肘から下が千切れかかっていて、薄皮一枚でしか繋がっていないから。
少しだけ感覚の残った左腕は、落としてしまわないようにと、必死に右腕を支え続けている。
しかし不意に何かにつまづいたとき、支えていた左手が薄皮に引っ掛かり、右腕はぶちりとあっけない音を立てて身体から離れ、ぼとんと地面に転がり落ちる。
名残惜しそうに視線を後ろに向けると、落とした右腕より先に、あるものが視界に飛び込んでくる。
それは今、自らが辿ってきた道だった。
大量の血液が、遠慮の欠片もなく撒き散らされた道。
そして、身体を擦り付けて進んできた壁には、掠れた血の跡が延々と続いていた。
まるでそれは生への執着。
醜く、下品で、眼も当てられないほど愚かな、わるあがき。
それを眼にしたとき、自分でも制御できないほどの愉快な気持ちが、腹の底から込み上げてくる。
笑った。
血のあぶくを吐きながら、大口を開けながら、腹を抱えて笑った。身体中のあちこちから血が吹き出しているのを感じるが、そんなものは気にならなかった。自らの笑い声はそれはそれは凄惨で、惨たらしく、情けないものだと想像していたが、いつまで待ってもその笑い声が耳に届くことはなかった。
代わりに、ひゅうひゅうという不快な音だけが耳に届いていた。激しくむせて、また大量の血が地面と自らの衣類を濡らす。
それでも底抜けに愉快だった。自分を偽ってきたつもりはなかったが、自分の真の願いなど、一生自覚する機会などないと思っていた。
しかし、地面を濡らす血が、未練がましく壁にこびり付く血の跡が、それらを雄弁過ぎるほどに語っている。
いま自分は、自らの願いを見てしまった。
個人ではなく、生命体としての、自らが自覚できなかった自分の本能であり、心からの願い。
「はぁー……」
そのまま壁にもたれ掛かり、重力に任せ、その場にずるずるとへたり込む。もう再び立ち上がる力が残っていないことはわかっていた。祭囃子はまだ遠い。かと言って、祭囃子に辿り着いたところで、どうなる訳でもないのだが。
「わたし、まだ生きたかったんだ……」
その願いを口にしたとき、何故だか急に涙が込み上げてくる。
「死にたくないよ……」
表面張力ぎりぎりまで溜まった涙が、いま、まさに頬を伝いそうになったそのとき、聴覚が自分のものではない声を耳にする。
すすり泣くような声。恐怖と不安に苛まれた声。
それでも、生きている声。
視線が自然に、声のする方向へと向く。そこは暗闇だった。
暫くして暗闇から現れたのは一人の子どもだった。
三つか四つくらいのその子どもは、派手な柄ながらも、控えめな色彩の甚平を身に纏っていた。
ヒーローもののお面を被り、右手に綿菓子を持ったその男児は、涙が溢れ出る瞳を両手でしきりに擦っていた。
「あら、あら。迷子、かな?」
もう声など出ないと思っていたその喉から、いつの間にか自然と言葉が漏れていた。
声をかけられた子どもは、大仰にびくつく反応を示すと、涙で濡れた眼で、声の主を、つまり自分を見据えながら小さく頷いた。
沈黙が暗い路地を包む。微かな祭囃子だけが、その場にある音の全てだった。
「…………お姉ちゃん、怪我してるの?」
長い沈黙の後、意を決したように子どもが尋ねる。
こんな猟奇殺人の現場みたいな状況を見ても、一目散に逃げ出さないとは、中々図太い子どもだなとわたしは思った。
「そう、みたいだね……」
「痛くないの?」
「痛いよ。いや、でも……もう痛くないかな」
子どもの困惑顔が見て取れる。もう自分の声さえうまく耳に届かない。果たしてあの子に自分のボロ雑巾のような声が届いているのかどうかもわからない。でもなぜだかあの子の声はよく訊こえた。
「この道を、まっすぐ行けば、おそらく人のいるところに出られる。人は、呼ばなくて、いいよ。ここで見たものは、全部悪い夢だから。すぐに、忘れた方がいい」
最後の力を振り絞り、行き先を子どもに示したところで、首に力が入らなくなり、意思とは関係なく、折れるように頭が垂れる。
子どもの靴音が遠ざかってゆくのが訊こえる。最後の大仕事を終えたかのような安堵感が胸に広がる。
もう眼も開けていられなかった。自然に瞼が下がってくる。
暗闇。
妙に落ちつく暗闇が訪れる。
街灯もその寿命を終えたようで、辺り一面が暗転する。
「もう……このまま」
そう声にならない声で呟いていると、瞼越しに光を感じる。明滅を繰り返しているところから察するに、どうやら街灯が息を吹き返したようだ。共に逝く相手をなくしたような少し物悲しい気持ちがあった。
それにしては妙だった。瞼に届く明かりが暗い。まるで街灯と自分の間になにかがあるような感覚がある。
人の、気配?
そのとき、不意に甘い匂いがした。それは懐かしい甘い匂いだった。
頭上から全力で押さえつけられているような重い首を上げる。辛うじて片方だけ開いた瞼から視界に飛び込んできたのは。
綿菓子だった。
視線を綿菓子の後方へ向けると、先ほどの子どもが小さく震えながら綿菓子を差し出していた。道案内をしたお礼だろうか。だとしたら愚かなほど律儀な子だ。
「食べる?」
子供は震える唇でそう問いかける。
「困っている人がいたら助けるって、パワフルエイトが言ってたから」
パワフルエイトとはこのお面のヒーローのことだろうか。どこの誰だか知らないが、中々良いことを言うじゃないか。そう思い、霞んだ眼でお面を見上げる。
精一杯の力で、微かに感覚が残る左腕を持ち上げると、その子どもの右手を掴み、綿菓子ごとその身体を自分の方へと引き寄せる。左手から子供の緊張と、怯えと、勇気が伝わってくる。
「食べる」
感情が表情に出ていたのなら、このときのわたしは、きっと微笑んでいただろう。
口をつけた綿菓子は、甘い甘い鉄の味がした。
「美味しいよ」
自然と涙が頬をつたった。
「ありがとう。ヒーロー」
これより、まつかひをんなの、はじまりまじまり。
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