第一幕『うつしよはかくもくさのゆかり』1

 壁の時計は十八時を回っていた。


「スーツにタキシード、ドレス。着物に、ブランドもののワンピース。それに今回は、下ろし立てのTシャツ。まるで示し合わせたかのように正装、いえ、一張羅って感じね。みんなこれからパーティーだったのかしら?」


 東京都監察医務院内の解剖室。


 監察医の徳取源蔵とくとりげんぞうは、殺風景な室内に設置された解剖台に横たわる若い男性の遺体を見ながら言った。


「なあ、前から気になってたんだが、これから自殺するって人間が、こんな小綺麗に着飾るのはよくあることなのか?」


 壁際にいたアームホルダーで左腕を吊った男、輪炭陣平わずみじんぺい警部補は、首を傾げながら源蔵に質問する。


「自殺する際に身支度を整えるのは、別に珍しいことじゃないわ。誰だって綺麗に死にたいじゃない。もっともそれが当てはまるのは、これが本当に自殺だった場合の話だけど」


「今回も絡みだと思うか?」


「十中八九ね」源蔵は、ためつすがめつ遺体を観察し始める。


「目立った外傷もなく、死因も他の人たちと同じ。死亡推定時刻は午前零時。他の五件と同じよ、奇妙な偶然よね。それにしても本当に幸せそうに笑っているわね」


 解剖台に横たわる遺体の顔を眺めながら源蔵は言う。


「偶然ね……それにしても、人はこんな笑顔で死ねるもんかね?」


「さあ。少なくともアタシには無理ね。ところで陣ちゃん、今回で遺体は六体目だけど、捜査状況はどうなの?」


「全く進んでねえよ。なんの手がかりもない」陣平は眉間に皺を寄せながら答える。


「まあ、自殺にしてはかなり不自然だけど、まだ他殺と決まったわけじゃないし、そんなに落ち込まなくても大丈夫よ。なんならアタシが慰めてあげましょうか?」


「別に落ち込んでねえよ。ゲンゴロウ」


「そのあだ名で呼ぶんじゃねえ! ドクトルと呼べっていつも言ってんだろうが!」


 源蔵の怒号が解剖室に轟きわたる。ステンレスの解剖台が怯えるようにビリビリと音を立てて震えだす。


「うるっせえな。この髭達磨の筋肉達磨が。どっちかっつーとドクトル生かす方よりヒットマン殺す方ってツラだろ」


「やめてよ。髭が濃いの気にしているんだから」


 源蔵は、白衣が張り付いているようにしか見えない太さの腕をしならせ、扇子のような大きさの手で髭を隠しながら、クネクネとその身をよじる。


 その姿を、陣平はげんなりした顔で、ただ黙って見ていた。


「というか陣ちゃん、アンタまた相棒を病院送りにしたらしいじゃないの。この間組んだばかりだったんでしょ? 全く、今回で何度目よ?」


「さあな、忘れた。そもそもあんな程度で入院する方が軟弱なんだよ」


 陣平は不愉快そうに吐き捨てる。


「大体陣ちゃんの捜査が荒すぎるのよ。普通は犯人追いかけてビルからビルへ飛び移らないわよ」


「あれくらい誰だってやるだろ。もういいだろその話は。ちゃんと犯人は逮捕したんだからよ」


 陣平は右手で乱暴に頭を掻きながら、うんざりした表情で言う。


「よくないわよ。アンタの勝手な行動のせいで相棒は両脚複雑骨折よ。全治半年よ」


 源蔵は頬に手をやり、ため息を吐く。


「むしろあの程度で済んで良かったじゃねえか。大体オレに相棒なんて必要ねえんだよ」


「駄目よ。刑事はツーマンセルが基本なんだから」


「んなことはわかってんだよ。言ってみただけだ」


 舌打ちをしながら陣平は言った。


「でも真面目な話。陣ちゃん、アンタの最近の行動は異常よ。まるで自殺願望の現れ。専門医でない私でも分かるわ。アンタは自ら進んで自分を壊しにいってる。まるでハンドルのない車のアクセルを全力で踏み込むように。それくらい不安定に見えるわ。その証拠に以前はあんな荒っぽい捜査なんかしなかったじゃない。やっぱりあの事件の影響で……」


「ちげえよ。あれは関係ねえ。それに、オレはちゃんと安定している」


「でも、まだ左腕が」


「ちげえって言ってんだろ。何度も言わせんな」


 陣平は床に視線を落とし、低い声で呟いた。源蔵は一瞬沈黙したが、ため息と共に再び口を開いた。


「お節介に訊こえるかもしれないけれど、心の治療をおすすめするわ」


 源蔵の表情は本気で陣平の身を案じていた。


「はっ、本当にお節介だな。心の治療ね、あんなの誰が受けるか」


 陣平は源蔵の提案を鼻で笑い飛ばす。


「まったく、アンタは眼も耳もスーツの着こなしも良いし、オマケに顔も悪くないのに、口と態度は最悪よね」


「うるせーぞ。それに、口と態度が悪くても、身嗜みさえ良くしておけば大抵の人間は本能的に心を開いてくれるもんなんだよ」


「あら、前半はともかく、身嗜みに関してだけは中々素敵な心がけね。誰かの教え?」


「さあ、誰だったかな?」


 確かに誰かに言われた記憶があるのに、誰の言葉か陣平は思い出せなかった。


「とにかく、写真は預かっていくぞ」


 陣平はデスクに置いてある遺体の顔と全身を撮影した写真をまとめ、封筒に入れる。


「また何かわかったら連絡しろよな、ゲンゴロウ」


「ドクトルだって言ってんだろ」


「はいはい了解です。ドクトルさん」


 源蔵のドスのきいた声を背に受け、陣平は監察医務院を後にした。




 春先は日が落ちるのが早い。外は既に真っ暗だった。


 外を眺めようとすれば、閑散とした室内と自分の顔が窓に映り込む。


 警視庁刑事部捜査第一課強行犯捜査三係、刑事部屋のデスクで、陣平は先ほど源蔵から預かった六枚の写真を仏頂面で眺めていた。


 写真にはそれぞれ男女が一人ずつおさめられている。写真の中の男女は、誰もが眼を閉じながらも笑顔を浮かべていた。その笑顔は心の底から幸せそうで、写真を見た誰もが、つられて笑ってしまいそうなほど素敵な笑顔だった。しかし、それを見つめる陣平の表情は苦悶に満ちていた。


 陣平はうわ言のように繰り返す。「笑顔、笑顔、笑顔」


 被害者の死因は全て多臓器不全、つまり老衰だった。


 被害者達は年齢もバラバラで、東京在住以外の共通点は無く、現場の状況から他殺の可能性は極めて低かった。この怪奇な連続変死事件は『スマイリースーサイド』笑顔自殺と呼ばれ、世間の注目を大いに集めていた。この通称は、被害者達全員の死に顔が笑顔だったことに由来する。マスコミがつけたあまりにも悪趣味なその名称を耳にする度に、陣平は律儀に苛立った。


「そういえば、何年か前にも似たような不審死事件があったな。あれはたしか、三人死んだあと、それまで連鎖的に起きていた不審死がパッタリと止んだんだっけか。結局三人の死は、偶然が重なったとして事件性なしでケリがついたんだよな」


 陣平は写真を睨みながら、そう独り言を言った。


 写真の中の笑顔がなにを意味するのか、陣平は考えあぐねいていた。世間では自殺と言われているが、他殺と仮定しても、殺される間際にここまで幸せそうな笑顔を浮かべられるものなのか。写真の中の彼等の笑顔からは、絶望も、恐怖も、それに類する感情も読み取れはしない。むしろ希望に満ち溢れた感情の方が多分に見てとれる。


 世間の言う通り、本当に自殺だった場合でも、不審な点は多い。部屋からは自殺に使用されたであろう薬物は発見できず、事件の可能性を考慮し行われた司法解剖の結果も、体内に薬物を使用した痕跡は見当たらなかった。加えて、そういった薬物の購入履歴も被害者全員に認められなかった。


 謎は深まるばかりだった。調べれば調べるほど、得体の知れないなにかに身動きの取れない底なし沼へと引きずり込まれるような恐怖と不快感が胸の中に広がっていった。


 胸を満たしつつある負の感情を振り払おうと、陣平は物言わぬ写真に向かって問いかける。


「……なんで笑っている」


 写真はなにも語らない。陣平はため息と共に写真をデスク上に投げ出す。暫く天井を無言で仰ぎ見る。


 少し頭をスッキリさせるため、コーヒーを飲もうと椅子から腰を浮かせた瞬間、背中に強い衝撃が走る。あまりの衝撃にむせこみながら、陣平は腰を浮かせた状態のまま振り返る。そこには上司の岩石九郎いわいしくろうの姿があった。


「おう。やってるか。若人よ」


「岩石管理官」


 いかにも警察官然とした大柄な体躯に相応しい快活な声で、九郎は陣平に声をかける。


「訊いたぞ陣平。お前、また組んだ新米を病院送りにしたんだってな。お前、警視庁内でなんて呼ばれているか知っているか? 〝疫病神〟だとよ。まさにその名の通りの活躍っぷりだな、わはは」


「何か用ですか?」


 陣平は不機嫌そうに九郎に尋ねる。今日もスーツとネクタイのコーディネイトが絶妙に合っていないな。と陣平は思った。


「他人行儀だな。昔みたいに九郎おじさんと呼んでくれてもいいんだぞ。陣平よ」


「もうそんな歳じゃないですよ。それに職務中ですしね」


 ふんと鼻を鳴らすと、九郎はデスク上の写真に眼を向ける。途端、彼の眼付きが鋭くなり、刑事の顔になった。さっきまでとは別人のようだと陣平は思った。


「最近巷を騒がせている連続変死事件か。被害者は全員自室にて死亡。死因は全て多臓器不全。外傷はなし。室内に荒らされた形跡もなし。と」


 写真の一枚を取り上げ、顎に手を当てながら、九郎は独り言のようにぶつぶつと呟き始めた。


「陣平。お前、この事件どう見ている」


 写真に視線を落としたまま九郎が尋ねる。


「そうですね。病歴を含め、被害者全員に共通点がありません。勿論共通の知人もいないことから殺人の線は薄いと思います。通り魔的な犯行であってもわざわざ自室に侵入してから殺人を実行するとも考えにくい。部屋から不審者の指紋も検出されていませんし。状況証拠だけを見たら世間で言われいる通り自殺かもしれません。でも」


「でも、何だ?」


 歯切れの悪い言葉に九郎は怪訝な表情を向けた。しばらく考える素振りを見せていた陣平だったが、やがて意を決したかのように口を開く。


「正直、こんなことが偶然起きるとは考えられません。この事件は自殺ではなく、他殺だとオレは思います」


「そう言い切れる根拠はあるのか?」


 九郎の眼付きが鋭さを増す。その眼は静かに、しかしはっきりと、曖昧な答えは許さないと語っていた。


「いえ、勘です」


 九郎の眼を真っ直ぐ見てそう言い切る陣平の眼に、迷いはなかった。


 その眼を見た九郎は一瞬言葉を失うが、すぐに大声で笑いだした。


「わはははは。勘か。そういえば陣一じんいちもよく勘とか言ってたな。しかもそれがよく当たるんだ。同じことを口にするとは、やはり親子だな」


 昔を懐かしむような口調で九郎は語り出す。陣平の父親、輪炭陣一は九郎の同期で親友だった。


 陣一は、豪快な九郎とは対象に物静かなタイプで、一人でいることの多い男だったが、何故か九郎とは気が合い、お互い良いコンビだと思っていた。その友情は、陣一が殉職するまで続いていた。


 昔話が長くなりそうな気配を察知した陣平は、咳払いをして、話題を本筋に戻そうとする。


「管理官はこの事件についてどうお考えですか?」


「その話だったな、すまん」


 九郎はここ最近、加齢とともに自分の昔話が長くなってきたことを自覚したのか、少しばつが悪そうに角刈りの頭を撫でながら話を続けた。


「俺も概ねお前と同じ意見だ。偶然でこんな事故が起こるわけがない。しかしな陣平、仮に、これがお前の言う通り他殺だった場合、その犯人は俺達には見つけ出せないかもしれん。と言ったら、どうする?」


「……どういう意味ですか?」


 陣平は当惑気味に訊き返す。


「十年程前になるか、東京で不可解な行方不明事件が起こってな。当初は、行方不明者の所在もわからず。事件性もあるかどうか曖昧で、只の失踪扱いだったんだが、ある日なんの前触れもなく犯人と名乗る人物が捕まった」


 その事件なら訊いたことがあった。当時、世間でもかなり話題になっており、連日ニュースで大々的に流れていた光景を覚えている。犯人と名乗る人物が指定した場所から次々と死体が見つかった。死体は確認できただけでも二十五体。そのどれもが個人を特定出来ないほど執拗に分解されており、分解された遺体は、まるでプラモデルのように部位を入れ替えられ、パーツを付け替えられ、新しいとして作り直されたのち、空き家や、廃ビルなど、都内のあらゆる場所にひっそりと飾られていた。


 行方不明事件が一転して連続猟奇的殺人事件に変貌し、それは世の中に大きな衝撃を与えた。あの事件の名前は確か。




「魔女……事件」




 陣平は意識外で、そう口に出していた。


「よく知ってたな。当時、お前まだ学生だったろ」


 九郎が感心した様子で言った。


「かなりセンセーショナルな事件でしたからね。父親は捜査状況を教えてくれなかったので、いち視聴者としてテレビにかじりついていましたよ。確か犯人は、推定二十代の女性でしたね。遺体は鋭利な刃物のようなものでバラバラにされており、およそ女性一人で起こせる事件ではないって言われてましたよね」


「ああ。しかし、情報が犯人しか知り得なかったことと、彼女には一切の身内や友人がいなかったことから、複数犯説も現実的に不可能として、警察は彼女一人を逮捕した。逮捕時にも、特に抵抗した様子も見せなかったな」


「逮捕時の映像、生中継されてましたよね。そこで犯人が言った言葉、今でも覚えてますよ」




「私は魔女だ」   




 陣平は、海馬の裏側から記憶を引きずり出す。ブラウン管に映った女の薄ら笑いが、記憶の最上層に浮上する。背筋に何かヒヤリとしたものが走る。


「結局、解体した身体は魔術に使ったという発言等から、犯人は、心神喪失者として認められ、精神病院に収監されました。世間の関心もここで御仕舞い。三ヶ月もすれば人々の興味もなくなり、記憶からも消えていきましたとさ。めでたし、めでたし」


 おどけた様子で九郎は煙草に火を点け、どこか軽蔑した顔で煙を吐き出す。


「それが今回の事件となんの関係があるんですか?」


「そう、ここからが本題だ」九郎は陣平の眼を真っ直ぐ見ながら言った。


「陣平、あの魔女事件と今回の事件が、俺たち人間の領域外で起きていることだと言ったら、と言ったら、お前信じるか?」


 室内がしんと静まりかえる。煙草の先が燃える音がノイズになって耳に届く。胸のあたりに不快なものが重くのしかかるような感覚がある。


 九郎がなにを言っているのかわからなかった。からかわれているのかとも思ったが、九郎の表情と声色は至って真剣だった。


「管理官、この部屋は禁煙です」


 陣平は落ち着いた動作でコーヒーの空き缶を右手で差し出す。しかし頭の中では脳細胞がけたたましく動き回り、言葉の意味を考えていた。魔術。魔女。領域外とはなにかの隠喩か暗号か。それとも遠回しに刑事としての能力を疑われているのか。返事を返そうにも言葉が出てこない。


 陣平が返事に困っていることに気が付いたのか、九郎は腕時計を眺めながら言った。


「そういえばお前、晩飯食ったか?」


「え、いや、まだですけど」


 九郎はにやりと笑い、煙草を空き缶に放り込んだ。火種がジュッと音を立て、飲み口からぼんやりと煙が立ち上る。


「陣平、事件の捜査資料をまとめろ。行くぞ」


「行くって、どこへですか? それに捜査資料の持ち出しは厳禁ですよ」


「そんなもん俺の管理官権限でなんとでもしてやる」


「それに」コートを羽織り、ドアへ歩を進める九郎の表情は悪代官よろしく、悪い笑みを浮かべていた。


「捜査資料を持ち出したことが誰にもバレなければ、規則違反にはならないだろう?」




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