鯨よりも深く

錦魚葉椿

第1話

 大学受験における「現代文」という教科の存在価値が理解できない。

 センスと気合で7、80点は取れるものになぜそれ以上の力を割かねばならない。

 他の科目は問題演習すればするほど解けるようになるし、類似問題もでるが、現代文は同じ問題に当たる確率は低いし。力を割いても上がる気配もない。

 限りある時間は確実に点数の上がる科目に割く判断をするのが適切な戦術だろう。


 暑い。

 教室のクーラーは私が入学した時からずっと調子が悪い。

 この学習環境で進学校を名乗る神経が信じられない。

 室外機に水をかけて冷やしながら使っている。

 なぜ修理の予算が下りないんだろう。

 担任の言うように「県立高だから」ではないはずだ。校長が怠慢で県知事がポンコツだからに違いない。

 予算がないなら、クラウドファンディングが何かで「クーラーの修理費ください」とやったらいけないだろうか。ため込んでいるPTAの積立金で何とかならないのだろうか。親睦旅行とかいってんじゃねえよ。うちらの学習環境に金を使えよ。

 喉元からシャツの内側に汗が流れていく。シャツが背中に貼りつく。

 前の席の男子の背中と脇が汗で変色している。気持ち悪い。

 自分が臭い。教室全部が臭い。

 窓から吹き込んでくる風がカーテンをひるがえし、不快なにおいを攪拌する。風というより室外機の排気のような温度。気温、湿度、輻射熱いずれもが熱中症危険指数を振り切っているだろう。

 ただでさえイライラしているのが受験生。

 この不快指数1000%の教室で、科目は「現代文」だ。


 深山先生は一切暑さを感じていない顔をしている。

 事実汗をかいていない。

 顔だって爬虫類系というかヒョウモントカゲモドキにそっくりだ。痩せていて、色が白くて、意外とつぶらな目玉を半分細める仕草が。

 ヒョウモントカゲモドキはコオロギとかねずみとかゴキブリとかの生きている餌しか食べないらしい。深山先生もそのくらいのものは食べるに違いないが、人間の食べるものも食べるようだ。

 彼の授業は淡々としている。

 教師としての熱意を微塵も感じさせない。出席をとらない。宿題を出さない。

 学校行事の日は有給取得する。

 隣の美佳は5限の英文法の宿題を間に合わせるのに必死だ。見渡せば、みな現代文の教科書を開いていない。一応現代文を開いている私でさえ、彼が読んでいるのが何頁なのか知らない。

 現代文BGMの自習時間。

 次は体育。

 体育館は本校舎より海側の一段低いところに建てられていて、屋根を見下ろせるような段差がある。屋根はチープな水色で塗られていて、上部だけストライプがはいってたデザイン。幼稚なイメージのクジラに似ていた。

 しかも、屋上に設置された太陽光発電パネルが教室から見ると、目を焼く。

 何を見ても腹が立つのは暑いのと思春期のせい。

 解放の合図が鳴る。

 深山先生はチャイムと同時に教科書を閉じる。説明の途中だろうと朗読の途中だろうと生徒の質問の途中だろうと一切彼は配慮しない。教卓の直角に方向を変え、教室を出て行った。生徒たちの終業後の礼はいつも彼の退室には間に合わない。


 体育館は一階が更衣室と柔道場と剣道場で、二階が普通の体育館になっている。二階にはバルコニーがぐるりとついていて、扉を開けているとすごく明るい。明るい体育館にしたくてそう設計したのだろう。

 だが、明るい必要はないんだと、気が付く。

 暑くて窓を開けざる得ないが、窓からの光と扉からの光で床が乱反射してバトミントンの羽が見えない。天井も採光のためかところどころ透明になっている、眩しい。

 何回目かの空振りをしたとき、運動場から妙な歓声が上がった。

 歓声は徐々に悲鳴の音色を含み、収まらない。

 私と美佳は体育館の用具倉庫の扉からバルコニーに出て、外を覗き込んだ。

 海がキラキラ輝きながら、陸に迫ってくる。

 それはテレビで見たことがある津波のようではなかった。

 まるで風呂が溜まっていくような速度で、水面が上がってくる。

「ヤバい、本校舎に戻ろう」

 本校舎の方が高台に建っている。しかも5階建てだから、2層構造の体育館より、水没しないはずだ。

 いや無理だ。

 ここは2階なのに水は既にバルコニーのすぐ下まで来ている。

 逃げられないと思った瞬間、体育館は地面から離れ、浮いた。

 まるでプラスチックでできた大きなクジラのおもちゃのように。プカリと地面から遠ざかっていく。

「変なつくりだと思ってたけど、基礎までちゃんとしてなかったんやわ。ラッキー」

 ラッキーと口から出たものの、まるで洗剤が入ったような何とも言えない不快な味がした。あっという間に本校舎すらも水に沈んでしまったからだ。


 水面はどんどん上がり、街を飲み込み、山さえも水面の下に埋もれた。

 同じように体育の時間だった50名ほどは言葉を交わすこともなく、座り込んでいる。体育館は小舟のように浮かんで漂っているが、なぜか全然浸水しない。

 そもそも浮くはずもないものだ。

 体育館は避難所を想定されていたから、一階の倉庫には相当量の食料備蓄があった。それを少しずつ、分け合った。

 食料が見つかっても嬉しさはあまり感じなかった。

 誰かが助けに来てくれるようには思えなかったからだ。

 バルコニーから外は見渡す限り青い海が広がっていた。体育館は寄る辺ない草舟のように流れていく。



 漂流3日目。

 私たちは食料を均等に分け合うことにした。

 全部の量がこれだけあって、一人当たり何をいくらもらうのが公平かをみんなで書き出していた。

 A4のコピー用紙に字を書こうと油性マーカーのふたを外した瞬間、突然、体が硬直した。首が曲がったまま一ミリも体が動かない。

「たすけて、体が動かない」

 何とか声が出た。

 まるで錆びた古い機械人形のように、私の体は乱暴に動かされ始めた。

 自分ではない誰かに。

 柔道場の床に引きずり倒される。

 私の右手は柔道場のマットにハングルのようなタイ文字のような象形文字のような見たこともない言語を書き始めた。複雑な模様のように見えるそれをすさまじい速度で。誰が見ても、私がいたずらで書いているように見えなかったと思う。


「―――― 世界がこのようにして始まったように、世界を終わらせようと思う」

 私は振り向くことはできなかったが、その声が美佳のものだと知っていた。

「読めるの美佳」

「なんでかわからないけど。読める。これは古代ヘブライ語」

 英語が苦手のあまり理系選択の美佳に読めるはずがない、私を動かしている何かの力が彼女にも働いているのでなければ。

 美佳はその文字を読み始めたが、私の体は文字を書きながらどんどん後ずさって、柔道場を出て行ってしまう。何が書かれているのか、私だけ知ることができない。遠くで悲鳴が聞こえる。

 世界から切り離された50人からも私は切り離されてしまう。



 私の体の占有権は奪われ、私は文字を書き続ける。

 そのかわり、私は一切の生命活動をしなくてよくなった。お腹もすかないし、眠らなくてもいい。トイレにも行かなくていい。

 食料が付き、同級生がやせ細って、目が落ちくぼみ、争いあうのを別世界のように見ていた。

 何日目だろう。遂に、一人が力尽きた。

 力のある男の子たちがその子の体を持ち上げてバルコニーから海に下ろした。

 体は浮かばず、まっすぐに沈んでいった。

 みんなが嘆き悲しむ中、私はバルコニーの壁にさえ文字を書き続けていた。


 美佳は字を読む力は与えられたが、体は普通のままだった。

 みんなと同じようにやせ細って弱っていった。

 何の救いもない情報を与える私に誰も近づかない。

 もう美佳は文字の内容を声に出そうとしなかった。声を出すことが辛いのだろうし、それを伝えたとして誰にも何にもならない。

 私の体にもたれ、そのまま滑り落ちるように横たわった。

「これはなんて書いてあるの」

「――――そうしてここが世界の終わり」

 喉から最後のため息が漏れて、彼女も息を止めた。




 誰もいなくなったら、私は体の占有権を返却された。

 油性マジックを握っても、もう私の体を使って何者かが文字を書くことはなかった。

 静かに静かに。

 私一人をのせたまま、体育館は沈み始めた。

 私はどうやら既に人ではなくなっていたようだ。


 どのくらいたっただろう。

 体育館は深海の底に接地した。

 私は体育館の玄関の扉を開け、外へ出た。

 扉から光が漏れ、白い砂がずっと平坦に続いている。

 足元をうごめく深海生物。

 息を思い切り吸い込んでみたが、呼吸の手ごたえはなかった。


 地面と反対の方向を振り仰いでみれば、はるか上の方を巨大なクジラがのたりと横切っていった。

 体育館の明り取りの天井窓から漏れる光を反射して、腹がつるりとゆっくり光る。

 クジラはとても巨大だった。

 深海魚は浮きながら泳いでいるのに、私の体は一切浮力を感じない。

 体育館の灯りが届かない先は暗黒の深海。


 ――――そうしてここが世界の終わり

 美佳がそういう意味だと読んだ部分を手でなぞった。

 そこから先を読んでくれる美佳はもういない。

 その後も続く文字の羅列は世界の何を示しているのだろう。




 プチっ

 その感覚は落雷と瞬停に似ていた。

 世界は一瞬暗くなり、そして明るくなった。




 深山先生と目が合った。

 何の感動も映さないぬるっとした丸い無表情な目が真横から私を見ていた。

 息が詰まってしばらく呼吸ができなかった。

 規則的に並んだ同級生の背中。

 文字がほとんど書かれていない黒板。

 私の体からは冷や汗なのか寝汗なのかわからない汗がだくだくと噴き出していて、髪までぐっしょりだ。まるで海に落ちたかのように。

 横の美佳を振り返る。

 美佳は真っ青だった。たぶん、私も真っ青だろう。

 深山先生は、自分の教科書のページを指し示し、唇を横にすいぃっと引き延ばした。

「寝てちゃダメじゃないか」

 やっぱりトカゲにしか見えなかった。

 時計は三限終わりの11時20分を差し、のどかなチャイムが鳴る。

 みんな次々と体育館に移動していった。

 行きたくない。今はどうしても体育館に行きたくない。私たちは二人とも椅子から立ち上がることができずにいた。

 始業のチャイムが鳴る。

 人気がなくなって、カーテンがドレスの裾のようにひるがえり、爽やかな風が吹き込んできた。

「――――ねえ美佳」

 呼びかけたら、彼女はちらりと視線だけこちらに向けた。

「あんた古代ヘブライ語、読めるん」

 美佳は答えなかった。


 海岸線はいつもの遠いところで一列に並んで輝いている。




 私たちは心を入れ替え、現代文で現代文以外の教科書を開くのをやめた。

 美佳はめちゃくちゃ勉強をするようになったが、志望校を変えた。古代ヘブライ語を勉強できる学部を受けるらしい。

 親と担任が必死で止めている。

 ほんとにあるんだそんな言語。ていうかそれは何学部なんだ。

 突然の翻意について、本人が口を割らないから、私まで呼び出された。

「深山先生の影響だと思います」

 マジだし。

 担任はものすごい表情で深山先生を振り返った。


 真面目に授業を受けるようになって、美佳は現代文の成績が伸びたらしい。

 私はそうでもない。

 ただ、トカゲとそれに類するもの、水族館の巨大水槽がまったくだめになったので、大阪南部の有名な行楽地には一生行くことはないと思う。






























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鯨よりも深く 錦魚葉椿 @BEL13542

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