第27話 浅間澪那との別れ
校舎の端にある、使用頻度の少ない階段。窓から入る日も色褪せて感じられる、ひと気のない踊り場だ。
「何、話したいことって?」
立ち止まったはいいものの、もじもじして話を切り出さない浅間澪那に問いかけた。
「………えっと………」
さっきマサヲから認めがたい真実を(まだ真実と決まったわけじゃないが)突きつけられたばかり。もし彼女からも、それに勝るとも劣らない仰天ニュースをもたらされたらどうしようと、身構えていたのだが、
「あのね、麻賀多くんは…………これから先、卒業して大人になっても、あたしとメールをしてくれる?」
「え?」
それは人類の存亡や大災の征伐とは関係のない、スケールの小さな頼み事だった。
でも浅間には、そう尋ねたくなる理由があったようだ。鞄の取っ手をぎゅっと掴んで、
「今日江ノ島さんから、空間の狭間に迷いこんだ話を聞いたの。金峯くんからも、間違った未来に迷いこんだ話を聞いて……それで思ったの」
古びた巻物を手繰るように、たどたどしく語る、
「あたし、やっと麻賀多くんに会えたけど、学校を卒業したら離ればなれになっちゃうかもしれないし………大人になったら全然、別人になっちゃうかもしれないんだって。そしたら、もう今みたいに、あたしのメールも、読んでくれなくなっちゃうのかなって……」
浅間澪那はその時を想像し、先取りして、悲しんでいるように見えた。
頭では理解できる。だけど、そんなことがあるんだろうか。
人柄も環境も時代も、何もかもが変わってしまって、もう今みたいな気持ちで浅間と話すことができなくなる。そんな日が、本当に来るんだろうか?
想像はできなかった。だけど、来るのかもしれないという予感もあった。彼女が心配しているように、災難や別離や多忙で、世界は変化し、そんなゆとりは無くなってしまうかもしれない。
だから、答えることにした。
「大丈夫。約束するよ。浅間のメール、必ず読むから」
たぶんそれは、気休めや慰めではなくて。
他ならぬおれ自身が、彼女たちとこうして過ごした日々を、永遠にしたかったから。
「うん……………よかった」
浅間は言葉が見つからないようだったが、やがてそれだけ言って安心した笑みを滲ませ、下りの階段へと足を踏み出した。
しかし、最後に言いそびれていたことを思い出したのだろう。踊り場の縁に足をかけたところで、《見返り美人図》のようにこちらを向き、
「この先、もし麻賀多くんに困ったことがあったら……必ずあたしの魔法で、助けるから。だから、あたしのこと………忘れないで」
〇
江ノ島、金峯、浅間。三者三様に近況報告をしてくれたそれぞれに、一時の別れを告げ、幸い部に帰ってきた。
再び、その扉を開く。
「あ、シントさん?」
そこには、〝彼女〟が――伊勢川ミホカがいた。
「うん」
おれは軽い眩暈を隠すようにして、正面の椅子に座りこんだ。
ミホカは色鉛筆の缶を広げて、何やら作業していた。この前この部室を掃除していて出てきたクーピーの色鉛筆で、60色もの色がズラッと並んでいる。
「何してるの?」
「あ、はい! 外の壁のポスターを、新しくしようと思って」
見れば厚紙にポップな書体で「幸い部」と描かれている。めいっぱい夢を詰めこんだようなカラフルな色合い。それだけでは寂しいと思ったのか、画面の中央上あたりに、青い鳥の絵を付け足しているところだった。
「そういえば今日シントさん、放送で呼ばれてましたね」
「ん? ああ、あれか。生徒会から、呼び出しを受けてさ。副会長と話してたんだ」
「そうだったんですね。なんの用だったの?」
「このクラブの計画書。部長の連絡先が抜けてたんだって」
「あっ! ごめんなさい、ウッカリしてて!」
謝るミホカに、返事が続かなかった。
ミホカはおれの様子が気になったらしく、
「どうか……しました?」
「あ、いや、」
黙りがちなおれに、心配そうな目を向けてくるミホカ。おれは年季の入ったソファに身を沈めた。このまま底が抜けて、沈んでいってしまいそう。
「幸せって、難しいんだなって思って」
「と…いうと?」
さっきまでのこともあって、おれの心には、ここ半月くらいで起こったことがどっと流れこんできたようになってて、そういうものを自分で整理しようとするみたいに言葉を探した。
「たぶん心のどこかで、『人間こうだったら幸せだろう』ってイメージがあったんだと思う。
心も身体も、傷ついたりすることがなくて……。
楽しいこととか、面白オカシイことがたくさんあって……。
将来はやりたかった仕事ができて、好きな相手と結婚して……。
そしたら人間、幸せになれるんだろうって考えてたんだ。じっくり考えたことなんてなかったけど、なんとなく、そんなイメージしてたんだと思う」
「違ったんですか?」
「わからない。ただどれもこれも、思ってたよりずっと、難しいみたいでさ」
浅間澪那と、江ノ島ひとみと、金峯マサヲと。それぞれとの対話が、交流が、示唆してくれていた。
平凡と思える幸福を手に入れるためにさえ、数えきれぬ困難が待ち構えているということを。
幸せになることの、難しさを。
「それに、」
極めつけに。
「家族がいるかって問題でも、なかったらしい」
「家族? ……あ、シントさんのお家って」
「ああ、話したことあったっけ? 父さんと母さんと、弟もいたんだけど、みんな小さい頃に死んじまってな。それで祖父母のところにいるんだ。だから親がいたり兄弟姉妹がいたり、そういうのって賑やかで、羨ましいような気がしてた。
けど、世の中にゃあその反対で、家族がいない方が幸せってやつもいるんだな。そんなの考えたことなかった。人によって幸せの条件がここまで違うとさ。もうお手上げじゃんか」
「シントさんは―――やっぱり、みんなが幸せになれる世界がいいんですね?」
「……え? ああいや、おれの話だよ。そんな、べつに人のことなんて考えてないって」
なんだか、彼女にまで買い被られているようだ。いまのは本当に、自分の話をしただけ。幸せになるのはこんなに難しいんだって、己自身の経験から………。
あれ? おれが言ってるのって人の話か? まだ幸せになれてないのは、浅間たちで、親から非道いことされて要らないと思ったのは、………よくわからん。
こんな他人のことなんて本当、おれには無関係で、どうでもいいはずなんだけどな。
「ミホカは? どうしたら自分が幸せなのか。イメージはある?」
ただ、それでも彼女のことが気になるのは確かだったみたいで。
まだ聞いてなかったことを訊いてみたくて、尋ねた。
「わたしは――…」
色鉛筆を手放し、ちょっと考えてから、
「いまがすごく、幸せですから。シントさんがやっと、やりたかったことできてるようなので」
笑って言った。
「え」
おれがやりたかったこと?
予想だにしない答え。どうもおれはミホカと再会してから、驚かされてばかりいるようだ。彼女にも、他のみんなにも。
ミホカは膝に手を添えた。困惑するおれに、心境を説明してくれる。
「わたし前に、好きな人に告白をして、まだ答えてもらえてないって言ったじゃないですか」
「うん、言ってた」
知りたいけど知りたくないような話になって、やや心が強張る。けど、やっぱり気になって、耳を傾ける方を選んだ。
「わたしが悩んでたのってきっと、その人から返事がなかったことじゃないんです。うまく想いが伝わらなかったのかなって感じて、寂しかったんだと思う」
「結果の問題じゃないってことか」
「はい。だけど、そのことはもういいのかなって、思えてきて」
「そうなの。どうして?」
「その人のために何かするのも、結局わたしがしたいからしてるんですよね。わたしって昔から、自分のためになることしかしないんです。人からおかしいって言われるくらい、すごく……ワガママなので」
産まれたての宇宙のように澄んだ瞳を輝かせて、ミホカは笑った。
「それは―――」
あれはいつのことだったろう? 彼女がいつか口にした、「ワガママなお願い」。その、本当の意味。
それはどこまでも純真で、心強く――なのに、どうしようもなく、儚げだった。
なぜだろう? ミホカとはもう、ネットだけの付き合いじゃないんだ。いつでも傍に行って、見つめて、その気になれば触れることだってできる。
あの昔、ずっと遠くにいた〈珠璃〉は――いせがわみほかは、今ではもう、こんな近くにいるのに。
彼女のことを知れば知るほど、どんどん遠ざかっていくようだった。
そのまま、まるで見えない壁に心が隔てられてしまったように思った時、
彼女はそっと、おれの手に手を重ねた。
「ミホカ……?」
どうしたのかと、名前を呼ぶ。立ち上がったミホカは、今日は黒のハイソックスを穿いていた。
「わたしのことは、このくらいでいいですっ。次はシントさんのことを、教えてくれませんか?」
視線を合わせる。ポニーテールが生きものみたいに、可愛らしく揺れた。
「おれのこと? いいよ。知ったって面白味ないと思うけど。何が知りたい?」
「ねぇ、シントさん。あなたは、」
伊勢川ミホカは―――。
〝彼女〟は、問うた。
「 何 が ほ し い の ? 」
「―――っ!」
耳許で、ものすごくハッキリ声が聴こえて、目が覚めた。
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