夫の困惑
アントレーはパイプを咥えながら妻の立ち振舞を黙って眺めていた。相変わらずの独特な挙動はゼンマイ仕掛けの人形を連想させるが、今日に限ればそのゼンマイ人形が20体も同時に動いているように見えた。
一体どこにあったのか?と聞きたくなるような巨大なナップザックはもう大きく膨らんでいるが、そこに詰めたものから考えれば驚異的な小ささだった。しかしそれでも身体の妻そのものよりも大きく見えるが。
「……」
妻の様子を眺めているのはアントレーだけではなく息子のヨシュアもだった。そして父と息子は黙って妻の様子を眺め続けている。半ば以上はその手際のよさに見とれていた。元々手際のいい妻であり母ではあったがこれはこれは……
「…なあ母さん、本当に行くのかい?」
アントレーはもう何度も聞いた言葉をまたも繰り返した。そして妻もまた飽きもせずに同じ回答を返してきた。
「まだ判りませんが準備だけはしておかないと」
そういって妻ミランダはにこにこと嬉しそうに荷物をまとめるのであった。アントレーは妻に対しての質問は諦めて息子のほうを向いてこれは初めての質問をした。
「…お前にはなにか判るのか?」
アントレーには判らないがミランダの息子であるヨシュアなら母と同じような感覚を持っているのかも知れないと思ったのだ。
「…んー…」
ヨシュアは首を捻ってあらぬ方向をみながら考えた。
「…言われれば、なんとなーく…かなあ?」
ヨシュアは正直にそう言った。
「ヨシュアには難しいでしょうねえ」
ミランダは全く手を休める事なく息子の感覚をそう評した。
「一度でも拝謁すればすぐにわかりますよ」
ミランダは嬉しそうに答えつつ22体の身体を使って旅の準備を進めるのであった。
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アントレーは今をさること33年前にミランダと出会って結婚した。当時アントレーは時事報の販売店員で給料は安かったが、それ故に同じく薄給だったミランダとの結婚を周りから勧められて結婚したのである。
「貧乏人こそ寄り添って生活するべき」
それが周囲の提案であり、実際に結婚しても豊かにはならなかったが生活は大きく改善した。慈尼の一族たるミランダは倹約家で、王宮侍女でもあるので家事に関する知識と技術は確かなもので、若く昼間は時間が空きがちだったアントレーは妻の指導の元、家事技術向上と共に夫としても大きく成長したのである。
アントレーからするとミランダの印象は若い頃からほとんど変わってない。大きな目と鼻と独特の歩き方が特徴的で、出会った時から古女房のような女性だった。
当時のガリウス一世により異民族受け入れ政策は円熟し、異文化をそのまま受け入れる良い風潮が王国にはあり、その意味でもアントレー夫婦は幸福な結婚生活を満喫できたが、結婚に際してひとつの約定があった。
「慈尼が再臨された時はその導きに従う」
これはミランダが言い出した事ではなく、当時の慈尼の一族の皆がそう考えていた。またこれはあくまで慈尼の一族の希望者がそうするという話で、アントレーに同行を求めているわけでも、後に生まれるヨシュアに強制するものでもなかった。
──再臨の暁には私達は行く──
慈尼の一族の誰かがはっきりそう言った訳ではない。そういう考えが前提にあって、今現在は仮の生活だと考えている者がほとんどだった。
当時のアントレーにはその考えはよく判らなかった。いや今でもよく判らない。アントレーから見た慈尼の一族は言葉が違うわけでも容姿が大きく違うわけでも迫害されているわけでもなく、言われても他の庶民と何も変わらない人たちである。一体何が不満でその慈尼とやらの導きに従い旅に出るのか。
当時から今にかけてうっすらと思っていたのは彼らなりの建前なのかと考えていた。つまり宗教的指導者に対する建前として「慈尼の導きに従う」と言っているだけで、本音ではそんな事は考えても望んでもいないのではないか、と。
しかし結婚から33年を経て俄にその考えが間違っている事を思い知らされたのだ。
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「慈尼様が再臨されたのですよ」
つい先程、帰宅して巨大なナップザックに荷物を詰めている妻に向かって何事かと聞いてみたらそう返ってきた。穏やかなアントレーはその言葉の意味を考え、そして遥か昔に聞いた導きの巫女たる存在の事を思い出した。そしてその約束も。
「本当に行くのかい?」
まずアントレーは現実的な質問をしてみた。慈尼再臨に際して一族はその導きに従うというのはミランダ個人の考えではなく当時の慈尼一族の総意であり、その「一族」の中には新世代は含まれていないようなニュアンスを覚えている。そしてあれから33年が経ち、当時の慈尼一族も少なくなり、生き残っている者も高齢者が多かった。旅をするには些か以上に無理のある集団だ。
しかしそんな夫の予測など意に介さずにミランダは「ええもちろん」と答え、ついでのように言葉を付け足した。
「まだ判りませんけどね。慈尼様のご都合もおありかも知れませんし」
そう言われてアントレーはやっと本来するべき質問に気がついた。一体どこで慈尼の再臨などという話を聞いたのか。それそのものが間違いではないのか。しかしこれには反論のしようがない答えが返ってきた。
「東のほうから光を感じましたのでね」
つまり慈尼一族には明確に判る兆候をその身で感じたというのだ。これでは自分には判らないし反論のしようもなかった。
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「お宅もかい」
近くの居酒屋でウォルターと差し向かいに軽く昼食兼昼酒を煽りつつお互いの近況を確認した。ウォルターもまた慈尼一族の女性を娶った男だ。
「まいっちまうよ。いいバアさんが何をいいだすのかってさ」
ウォルターはアントレーほど冷静では居られなく、かなり声を荒げたのだがそれでも妻は全く取り合わず淡々と旅の準備を進めるだけだった。
互いに30年以上も慈尼一族の女性と夫婦生活を続けてきた間柄である。お互いが感じた驚きは口に出すまでもなくよく判った。
夫婦だからといって互いの全てを知っているわけではないが、それ故に察する事や共感する事は多くなる。30年という月日は燃えるような愛を維持するには長すぎる時間だが、
その、もう絡み合って離れ得ないと思っていた葛の根本があっさりと離れるというのである。困惑やら驚きやら怒りやら寂しさやらが湧いてこないほうがおかしい。
「それもあれだよ。娘も連れてくってんならまだ判るけどさあ」
ウォルターの妻エヴァンは娘を連れて行くなどとは一切言わなかった。それどころか自分が旅立った後はそろそろ結婚を考えなさいと余計な一言を言ってさらに問題を複雑化させ、それによってウォルターは鎮火側に回らざるを得なくなり、それでウォルターは逆に口を封じられる形になってしまったのであった。
「うちもそうだよ。ヨシュアを連れていく考えはないみたいだな」
どういう訳か慈尼一族は第二世代以降を同族と見做していないようである。いや第一世代でも伴侶たるヨシュアやウォルターすら蚊帳の外扱いだった。年齢的に考えれば第二世代以降の若手が居たほうがいいに決まっているのに何故なんだろう?
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「来たい人が来ればいいのですよ」
ヨシュアの疑問にミランダはあっさりとそう答えた。
「しかし、君の世代前後ばかりなら旅が難しくはならんか?」
ヨシュアは当然の質問をした。そしてさらに根本的な質問をした。
「そもそも君たちのような慈尼を直接知る人間以外に同行者が居るのか?」
その質問にもミランダはあっさりとええ居ますよと答えた。そう言われてもどういう意味だか判らないので重ねて質問すると多少は説明らしい回答が返ってきた。
「そもそも慈尼の一族というのは慈尼様に導かれた人たちなのです」
つまり血統的な意味での一族ではなく、あくまで慈尼の導きを感じた人たちが集まった集団なのだという。なので例えば一族の血縁者であっても慈尼の導きを感じなかったら無理についてくる必要はない。逆に慈尼の導きが必要な人間なら説明すら必要なく自然とついてくるという。
「あなたやヨシュアは慈尼様の再臨を感じなかった。それはあなたたちには慈尼様の導きが必要ないという事なのでしょう。それは幸福な事です。今現在幸福な人がなにもわざわざ今の生活を捨てて旅の苦労を背負う必要はないでしょう」
それは自分との生活に不満があったという意味なのだろうか。そう聞くとそうではないですよ、という答えが返ってきた。
「慈尼様のお側に居たものなら大体の人がまたお側に寄り添いたいと思うものです」
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いったい慈尼とはどんな人間なのだろうか。アントレーは日増しにその疑問が強くなった。可能なら一目見てみたいと考えてミランダに相談したところ
「ええ構わないと思いますよ」
とこれまたあっさりとした回答が返ってきた。ただし当代の慈尼様はご自身が慈尼であるという事を知らない可能性があるし、知ってても現在の生活を維持したいというご希望があるかも知れないので必ず会えるかは判らないとも付け加えた。
「そういうものなのかね?」
アントレーは不思議に思ってミランダにそう聞いてみると、長い歴史の中でそういう例もいくつかはあったらしい。
「慈尼様のお力が顕現する条件はよく判らないのですよ」
ミランダはそう答えた。遡ればおそらく過去の慈尼の血統に連なる者だとは思われるが明確にそうとは判らないケースも多く、それも実は慈尼自身の血統ではなくその兄弟姉妹の血統の者が顕現するという事もあるそうだ。なので慈尼の血統だと思われていなかった血筋から突然その力の発現者が現れる事もあり、当然彼女は自分が慈尼だと思っていない事もあるという。
「そして慈尼という自覚のないままご成婚されてたりする方もいますしね」
そうなるとさすがに旅は難しい。無自覚の慈尼が結婚するとその家庭は非常に幸福度が高く、慈尼自身もそうだが夫たる人が断固として妻の旅など認めないからである。誘拐や詐欺事件として告訴された例もあるそうだ。
「そうなると旅に出るのは難しいですねえ」
ミランダはそれでも相好を崩さずにこにことそう言った。
「そうなったら君たちはどうするのだ?」
アントレーがそう聞くとこれまたあっさりした答えが返ってきた。
「可能ならお近くに引っ越しますね。それが無理でも礼拝や参拝はします」
そしてまた新たな慈尼が生まれるまで待つという。待つというより自分たちが慈尼の傍に居れればいいのであって新世代の慈尼や信奉者に対して集団の在りようを強制するつもりはないという。
「それはその世代がどうするかを考えればいいのですよ」
アントレーはなんとなく、誰から教わるでもなく日当たりのいいところに集まる猫の集団を連想した。実際そういうもののように思えてくる。
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その日、アントレーはミランダや数名の慈尼一族の人々と一緒に王宮の東側にやってきた。集団の中にはヨシュアやウォルターも居る。
とにかく一度拝謁して可能ならご意向を伺おうという話になったのだ。一団の中に慈尼の現住所を知る者は居なかったが、慈尼一族の人々はまるで通いなれた寺社に参拝でも行くようにするすると迷わず進んでいき、あっさりと目的地に到達した。
セルゲイ医院
結構大きいが個人病院のようだった。アントレーは変わった名前の病院だなと思った。セルゲイというのは姓ではなく名前だと思うのだが、病院名に姓ではなく名前のほうを冠するというのはやや珍しい。そう思っていると玄関から一人の男が現れた。男は医院の中に向かって大声で何かを叫んでいるが別に怒っているような気配はない。どうも離れたところに居る相手に何かを言っているようだった。
そして扉を閉めて出てきた男にミランダが声をかけた。
「お時間を頂きたく。つかぬことを」
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「ええ確かにエマは慈尼の一族の人間です」
その男、セルゲイ医師はあっさりとそう認めた。
異相といってもいい男である。頭はつるつるに剃った丸坊主で目がやたら大きく、しかもその目が眼鏡で拡大されているので眼鏡より目が大きいような錯覚に囚われる。顔立ちそのものは整っているのだが鋭角的過ぎて悪魔の彫像のようにも見える。
「私達は慈尼様の導きに従う者です。お会いすることはできませんか?」
ミランダがそういうとセルゲイ医師はやや言葉を濁した。
「お会いするのは全く構いませんが…いやなんと申しますか…」
セルゲイ医師はなんと言うべきか迷っているようだった。
「身体の具合が悪いのかい?」
ウォルターは横から口を挟んだ。
「エマの身体は健康です。が、むしろ貴方達が…いやなんと言えばいいのか…」
セルゲイ医師はなるべく尾籠な言葉を使わずに説明してくれた。つい先月にエマは女性として身体が大人になった。そしてそれと同時に大変妖艶な体香を放つようになったのだという。それは、もう、とても普通の人間が傍に寄れないほどに…
「会うのは構わないですが男性や若い人はやめたほうがいいでしょう」
セルゲイ医師は微苦笑を浮かべつつそう言った。
そうなるとまずアントレーやヨシュアやウォルターは会う事はできない。慈尼の一族の中で少し話をしてミランダとエヴァンが会うことになった。
「じゃあいってきますよ」
ミランダとエヴァンはそう言って病院の中に入っていった。
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「いやあれはすごい」
中からでてきたエヴァンはまずそう言った。
「私がもっと若かったら卒倒してしまいそうだったよ」
そう言うと慈尼の一族の男性からもからかい半分でじゃあ俺も会ってみたいな、という声が上がった。俺も若さを取り戻したいもんだぜと別の男が言うと、あんた慈尼様を押し倒す気かい!?とその妻君に耳を引っ張られた。ここらへんに関して慈尼の一族はどこか大らかで不敬には当たらないらしい。
「慈尼様はなんと?」
最高齢の長老がそうミランダに聴いた。ミランダはにこにこ顔の中にも少し残念そうな表情を含めて伝え聞いた事を皆に話した。
「行きたくてもこれじゃあねえ、と」
体香を少しでも抑えるためにだぶだぶの服を着たエマは、両手を広げて押し上げるようなポーズを見せた。ご自身でもお手上げとの事らしい。
「じゃあしょうがないのう」
長老がそういうと慈尼の一族はだなあとあっさりと同意した。これでこの高齢者たちの旅の話はあっさりと終わったらしい。やれやれ。
そして最後に慈尼の一族は両膝をついて不思議な印を切った。地丘を合わせて右掌を上に、左掌を下に向け、それを何度か交互に上下を入れ替え、最後に両掌を上に向けた状態で左右の指を合わせて瞑想したのである。初めて見る仕草だった。
「また参拝をしたいのですが構いませんか?」
ミランダがセルゲイ医師にそう言うとそれは承諾された。というより。
「構いません。ついでにエマの身辺の世話をお願いできませんか?」
なにせ初潮がきたばかりの14歳の少女である。それだけでもセルゲイ医師には手に余るしあの体香もあってとても近づけない。むしろ願ったりであった。
「ええもちろん」
ミランダもそう快諾した。慈尼の一族にとってもこれは喜ばしい事である。もちろん近づけるのは限られた女性になるだろうがそれでもより一層慈尼の息吹を感じる事ができる。そしてその世話係の第一人者は自然とミランダという事になった。
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後にミランダからエマ──東社にして再臨の慈尼たるイューウミェアの身辺の世話を託される事になるソフィア・ディア・リングフォードはこの当時まだ4歳。彼女自身がまだ誰かから世話をされる必要がある年齢である。
碧奉館の女 @samayouyoroi @samayouyoroi
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