Side Stories

禰宜の呆れ

逐社たれ。


アルディミューリは熱にうなされながらも何度もその言葉を伝えたが、目前にいる二人には全く通じていないようだった。


「…なんと言っているでしょう…?チクシャ…?」

若い士官は不安そうな顔を医師に向けた。


「…判らん。東方の言葉なのだろうか…?」

医師はかぶりを振ってそう答えた。


全く、何が「多少は古詩が通じる」だ。目の前の二人はどう見ても医師と士官で、当然ある程度の知識階級であるはずなのに全く通じていないではないか。これほど言葉が通じないと判っていたら何もわざわざこんな西の果てになど来なかったのに。


大体にして治療を施してくれるのはありがたいが、アルディミューリはこの医師がうざったくてしょうがなかった。その黒い髪は一体どうしてそうなったのか?と聞きたいくらいのひどい癖毛で、しかも比較的長いので頭の周りで渦を巻いている。頭そのものより3周りも大きな黒毛が頭を覆っているのだ。おまけにその目がやたら大きく、しかも眼鏡でさらに拡大されているので化け物のように見える。南方の黒人でもこんな人間は見たことがない。


アルディミューリは溜息をついた。全く、やっと姪孫を東社認定できたと思った矢先にこの有様である。苦労を厭う気はないが少しは話がうまく進んで欲しいものだ。


現在の陽社は事実上もう西社や北社と言ってもいいほどの高齢である。一族の誰もが「これは一度土に還るべきか」と諦めていた。アルディミューリ自身もそう思っていたが、彼女は禰宜という立場上、祭祀として政治家として一族を統率して行かざるを得なかった。それが慈尼の一族らしからぬ事だとしても。


そしてようやく顕現した新たな慈尼の存在がさらに彼女に難題をもたらした。何と妹の孫だったのである。禰宜の姪孫が次代の慈尼となればあらぬ誤解を招くに決まっていた。それ故に彼女は公正性を喧伝するため、その次代の慈尼、イューウミェアに対して普通以上の試練を与えざるを得なかったのである。


イューウミェアは実に慈尼らしく大らかにあっけらかんとその試練をこなし、一族の大半からも敬意を集めてようやく東社認定をされたのであったが、その矢先に侵略軍の捕虜になってしまったのである。


アルディミューリは考える。イューウミェアは次代の慈尼というより、少し早く顕現した再臨の慈尼というべきなのではないか。慈尼の一族は慈尼たる者が居なくなるとその地に根を下ろし、新たな慈尼が現れるまでその地で生活する。現在の一族が抱える様々な問題を考えると、イューウミェアは再臨の慈尼というべき存在に思えてしまうのだ。


---


「あっ君、こっちにきてはいかんぞ」

言葉は判らなかったが、医師が誰かに警告したのは判った。顔を向けると肩までのプラチナブロンドをなびかせた少女が不思議そうにこちらを覗いていた。


「……」

アルディミューリは黙ったまま指で修学の印を示した。要するに勉強しろという意味なのだが、この場合はイューウミェアを遠ざけるためのものでもある。また万が一にも感染などしてはいけないと思い言葉を発しなかった。


「おばあさま、大丈夫?」

イューウミェアはそう声をかけた。アルディミューリは優しさに心を絆され──たりはしなかった。彼女はその人生の大半を老齢の慈尼に替わり一族を率いた政治家である。自身の生命などとっくに見限っている。まず慈尼の安全が最優先だった。


再び修学の印を示して姪孫をきつく睨む。イューウミェアはにへらと笑ってそそくさとテントを後にした。やれやれ、あの東社は確かに再臨の慈尼かも知れない。あの大らかさと屈託のなさは今の一族を率いる者としては無邪気すぎる。


---


慈尼の一族は、慈尼の力を信奉する集団がその実態なので、他の人間集団と比べると法令や秩序というものは緩い。それでも掟というものが全くないわけではなく、その中には結構厳しいものもある。例えば「慈尼への参拝禁止」や「慈尼への拝礼禁止」というのは結構な厳罰である。なにせ彼らは慈尼自体を信奉する集団なので存在意義がなくなってしまうからだ。


その中でも最高の厳罰とされているのが「逐社」であり、これは事実上の一族追放と同義語である。しかし過去この罪を課せられた者は存在しない。アルディミューリが自身にそれほどの厳罰を課したのは東社たるイューウミェアに感染させないための覚悟を示すものであったが、残念な事にその覚悟は意味すら伝わらなかったのだ。


これが天罰だとしたら


アルディミューリはふとそんな事を考えた。陽社──当代の慈尼──は身体が弱く高齢で、一族を率いるどころか旅をするのも一苦労だった。彼女は禰宜として陽社に替わって一族を指導した。公正に見てアルディミューリは一流の指導者ではあったが、慈尼の一族という特殊な集団の中に在ってはやはり彼女への批判は多かった。


「慈尼でもないのに」


一族はあくまで慈尼の信奉者集団である。慈尼を敬い、その言葉に従い、当然賽銭を納めはするが、生産を逐一管理されて納税するというのは大きな違和感と反発を持たれて当然なのであった。


これが天罰だとしたら


アルディミューリは考える。もしこの苦境が、自分が行ってきた政治的判断に対する罰なのだとすれば、その罰を与えてきた神とやらの胸ぐらを掴んで張り倒してやる。ふざけるんじゃないわよ。


---


近衛少尉でありこの護送班の班長であるエミュールは忙しかった。この護送班は独断とまでは行かないにしても結構強引に進めた話であり、戦地と王都に対して随時説明をする必要があったのだ。


「班長、東エレア方面軍からの手紙です」

年上の下士官がそう言って手紙を渡してきた。


「ああ、そこに置いておいてくれ」

エミュールはやや腰を低くしてそう頼んだ。下士官は近衛兵ではなく陸軍の人間なので、本来の任務を逸脱しつつあるこの状況ではあまり強くは出れなかった。


「…班長、少しよろしいですか?」

下士官はためらいがちにそう言葉を発した。


「…なんだね?」

エミュールもやや緊張して言葉を促した。言いたい事は判っている。


「…本作戦に関して、我々は当然少尉殿の指揮に従います。従っています…」

そこで下士官は口を閉じた。つまりあんたが言い出した事なんだから何かあっても我々に責任はありませんよ、と言ったのだ。


「…勿論だ…」

エミュールはやや緊張の面持ちでそう返すしかなかった。


──ああ、やはり独断が過ぎただろうか──


とは言えエミュールはこれ以上の戦闘などしたくはなかったのだ。東エレアの状況はもはやゲリラ戦の様相になってきている。これでは直接戦闘など続けるだけ無駄であり、停戦交渉に移行する段階なのは現地に居る人間なら誰でも判っていた。


とはいえそれは新任の近衛少尉如きが口を出すことでは決してない。勿論エミュールは口など出していないが、代わりにヘンリー1世の大御心を察してこの独断に近い行動を取ったのである。しかしその成果を考えると憂鬱だった。


──それでは誘拐と同然ではないか!──


近衛師団のアンドレア連隊長の手紙は相変わらず厳しいものだった。大佐と新任少尉など本来は口を交わす事もないのだが、アンドレアはよほどエミュールが気に入らないのか、任官してから僅か半年の間に何度叱責を喰らったことか。士官学校ですらこんなに叱責されたことはなかったのに。


---


セルゲイ医師は診療を終えて水場に向かった。患者はウジル熱の亜種と思われるのでうがいや手洗いは欠かすことはできない。しかし暑いなこの頭。


まだ若いセルゲイ医師には当然洒落っ気がある。天然の癖毛を少し伸ばしてオールバックにしようと思っていたのだが、思っていた以上に癖毛はひどく、しかし戦地で床屋などには行けないので放って置いたら大変な事になってしまった。ああもう、これならスキンヘッドにしたほうがましだな。


水場でうがいをしていると、保護したプラチナブロンドの少女があてがわれたカップを差し出してきた。


「ん?なんだねこれは?」

水が欲しいのだろうか?しかし樽に入っている水は誰が飲んでも良いし、少女が掬えないほど高い位置にあるわけでもない。


少女はカップを指差し、次いで患者の老婆が居るテントを指さした。


「…あの老婆に水をやれと…?」

別に水を与えていない訳ではない。むしろ他の人間より多く水を与えている。どういう事だろう?この少女は老婆が水を与えられていないと勘違いしているのか?


「シハイ、サカヅキ…」

少女はそう言った。シハイ?サカヅキ?


セルゲイ医師はその言葉の意味を何となく悟った。つまり水そのものではなく、彼女が老婆にカップを渡す事そのものに何か意味があるのだろう。シャーマニズム的な理由なのか、または家族としての労りの気持ちなのかは判らなかったが。


「判った。渡しておくよ。…エマ」

セルゲイ医師はとりあえず彼女をエマと呼んだ。彼女の名前と思わしき単語は正しくは聞き取れなかったのだ。エマと呼ばれた少女のほうは、それが自分を呼び表す言葉だと分かったのかどうか、とりあえずにへらとした笑顔を見せた。


---


「婆さんや、お孫さん?かな?あの少女からの贈り物だ」

勿論セルゲイ医師の言葉はアルディミューリには判らない。しかし彼女はそのカップの意味をすぐに理解した。


──賜杯──


なんという事だろうか。アルディミューリの手は震えた。


「おい婆さん大丈夫か?」

老婆の変容を察してセルゲイ医師は少し声に緊張感を込めた。老婆は手が震え、顔がさらに紅潮していた。


全く!なんという東社か!賜杯など百年早い!賜杯がどれほど重要な意味を持つかとあれほど教え諭したのに!ええい忌々しい!熱など出している場合ではない!今すぐ飛んでいって説教してやらねば!


翌日の夜明け前、半世紀以上に渡って慈尼の一族を導いた禰宜アルディミューリは身罷った。その顔は穏やかとは言い難いものではあったが、熱病の苦しみというより、何かに怒り心頭という趣きに見えたのは護送班の引け目だったのだろうか。


彼女の孫と思わしき少女はその死に顔を見て少し泣き笑いをし、不思議な印を切って死者を弔ったようだった。


そして東社イューウミェアはこの後、永くその尊い立場でも尊貴な名前でも呼ばれる事もなく、非常に奇妙で豊かな人生を送ることになる。

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