碧奉館のほとり
侍従エミュールは気の進まない思いでその男の部屋をノックし、返事を確認して扉を開けた。アポイントメントは取ってあり、また侍従たる権威で気後れする理由は何もない。しかし実直なエミュールはどうもその男が苦手だった。
「お待ちしておりましたよ、侍従殿」
男は微笑を浮かべて歓迎する。少なくとも彼のほうにはエミュールに対して含むことはなさそうに見えた。実際にエミュールと彼の間になにか軋轢があるわけではない。敢えて言えばエミュール側に生理的な苦手意識があっただけである。
男はもう60代の後半のはずだがその外見は妙な精力を感じさせる。頭髪はなく頭は見事に剃り上げている。眼鏡の奥はやたらと大きな目があり顔にも皺が少ない。いや年齢相応に皺はあるのだが、まるで卵のようにつるんとした顔は皺を意識させない。一見したところ40代の前半よりも若そうにすら見えた。
「さて、今日は一体どのような?」
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久しぶりだなあ。
ソフィアは
その時は「あの」碧奉館への出張など割りを食ったとしか思わなかったが、それにより零細とはいえ館長への大出世を果たし、さらに後の横領疑惑とも無縁でいられたのである。人の運命など分からないものだ。
「お久しぶりです!ソフィア班長。あ、館長」
浅黒い肌の侍女が笑顔で迎えてくれた。
「ファイ!久しぶりね、元気だった?」
思わず笑顔で抱擁する。ソフィアがこの邸に赴任したときに一年生侍女として奮闘してくれたファイであった。南方系の浅黒い肌をもつ類稀な美少女であり、また極めて粘り強い性格をもつ彼女は、当時ソフィアが最も頼りにした部下、いや仲間だった。
「今は内務班の主務になったんですよ」
主務とはいわば副班長のような立場で、現場で実際に侍女達を指導する立場である。50人以上の使用人がいる南の池のそばの邸では上級侍女一歩手前といっていい。
「あなただったらすぐ班長よ」
ソフィアは本気でそう言った。少なくとも今のアイリやイヴより遥かに頼りになった侍女だった。
「そうだといいんですけど」
困ったような笑顔を浮かべる。確かに今はそれどころではないだろう。
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昨日、管理者会議の終わりにシーラから南の池のそばの邸の主エヴァンゼリとの面談を打診されたのだ。驚くソフィアにクレーディから説明があった。
「本当は碧奉様との対談をご希望されているの」
なんとなんと、言葉もない。
「でもそれはとても難しい。分かるでしょう?」
シーラが言葉を継いだ。確かに難しい、というより不可能に思える。
まず寵姫同士で対談など聞いたことがない。彼女たちはライバルどころか完全な敵対関係だ。厳密には碧奉様は寵姫ではなく指導員なのだが、今やそんな名目を信じるものなど誰もいなかった。
次いで碧奉様にはあの魔力とすら言える芳香という難問がある。この4年間で幾人の侍女たちがその芳香の餌食となったことか。初日に失神したイヴなど相当ましなほうで、嗅覚が敏感なものだと館に入る前に体調不良を訴える事も多かった。
さらに南の池のそばの邸では去年横領疑惑が発覚したわけだが、その主犯は誰がどう考えてもエヴァンゼリしかあり得なかった。彼女が未だに無事なのは国王の第二寵姫に司直の手を伸ばしづらいという理由しかない。
「でも、どうしてなのですか?」
ソフィアは二重の意味での質問をした。まずなぜ碧奉様と対談を希望されるのか、ついでそれが無理だとしてどうして自分なのか。
「…寵姫としての敵情視察。それで通じるかしら」
クレーディが静かにそう言った。ああなるほど、年下の寵姫である自分を差し置いて、国王ウェルナー2世の寵愛を一身に集める碧奉様の魅力を見極めたいのだろう。
「あなたは
クレーディの無味乾燥な声にソフィアは悲しくなった。かつて多くの王族子女の教育係として畏怖の対象だった彼女は、その資質ゆえにエヴァンゼリのお目付け役として邸長を拝命したのだが、その真摯な熱意は通じなかったのだ。
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邸に入ると左右に5人ずつ配置された侍女が一斉に頭を下げた。おおう。
館長となって3年になるがこんな儀礼を受けたことはほとんどない。太宮にいけば似たような礼は受けるが、それは来訪者なら誰でもそうなので特別なものではない。
なんだか自分がとても偉くなったような気がして、ついついそっくり返ってしまいそうになるのを自制した。調子に乗っちゃダメダメ、ここで偉そうに振る舞っても館に戻ればアイリと夕飯のおかずを取り替えっこするような身なんだから。
「ありがとう。でも慣れないわ、普通にして下さい」
ソフィアは優しくそう言った。若い侍女たちは顔を上げて驚きの笑顔を交わしあう。よし掴みはOK。いつでもウチにいらっしゃい。
客間に通されて煎豆茶を供される。こういう場面では時間通りに来訪してもある程度は待たされるものだ。87連勤も手伝ってソフィアはゆっくりと待つことにした。
懐かしいな。
まさか自分がこの客間に客として座る日がくるなんて想像もしていなかった。別に粗探しをする気はないのだがついつい目は隅々を確認してしまう。ファイの目が行き届いているのか客間に粗相はなさそうだった。が、全体的に暗い影を感じる。
まあしょうがないか。
家というものは生き物である。嬉しいことや楽しいことがあれば家は輝きを増し、逆に悲しいことや不幸があればどうしても色褪せる。主人が横領などしたとすればどうしても陰りがでるのはしょうがなかった。
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30分ほども待たされてようやくファイが案内に現れた。どうという仕草をしたわけでもないのだが、どこか笑顔で謝っているように感じさせるのは彼女の特技だった。そのまま奥の間に通され、両開き扉の先の豪華な部屋にこの邸の主人が座っていた。
「ようこそ。ひさしぶりね、ソフィア」
寵姫エヴァンゼリ。年齢はソフィアと同じ31歳。見事な金髪は豊かで長く少しくせがあり、すらりと背の高く豊満な女性だった。特徴的なその厚ぼったい唇は赤く口紅が塗られ、同性からみても魅惑的だった。
およそ世の男どもが単純に想像する「美女」をそのまま具現化するとエヴァンゼリになるだろう。それはどちらかというと皮肉としてそう言われる。つまり「分かりやすい美人」といえば正にその通りの女性だった。
ソフィアは班長として2年間彼女に仕えていたが、その間にエヴァンゼリ個人に対して関心を持ったことはあまりない。美容や健康に対するストイックさはさすがだと思ったが、何事も「いかにも」な行動ばかりで興味をそそられない人だった。
そう考えると彼女が横領したという理由もなんとなく想像がつく。ソフィアが仕えていた頃は既にお肌の曲がり角であり、それが年と共にますます深刻になって美容以外の魅力を得ようとしたのか、或いは将来を見越して隠し財産でも作ろうとしたか。
「碧奉館での活躍は聞いているわ」
いかにも取ってつけたような言葉だった。
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「…アイリちゃん、煎豆茶を煎れるのうまくならないねえ…」
碧奉様は口をへの字に曲げてしみじみとそう言った。イヴがマスク越しにけらけらと笑っている。2人もようやくマスク程度で給仕ができるくらいにはなったのだ。
「あたし茶道とか全然ダメなんですよう」
バツが悪そうにアイリがそう言い訳した。
「だめだよアイリ、もう王宮警備兵見習いじゃないんだから」
イヴが同期の先輩をからかう。
「見習いって言うな!」
すばやく鋭くアイリが切り返す。
王宮警備兵は軍人から選抜されるものと侍女から選抜されるものがいる。アイリはもちろん後者のケースで、そのフィジカルは卓越したものだったが、身長に恵まれなかったアイリは正規兵になれず、王宮警備兵見習い侍女という扱いのまま持て余され、まあそれだけ体力があるならと雑に碧奉館に回されて現在に至ったのだ。
アイリの名誉のために付け加えると、彼女はフィジカルだけではなくデスクワークも得意である。しかし肝心要の侍女としての基本作法が最も苦手なのだった。元々彼女は救命隊員としてのキャリアを思い描いていたが、没落した元貴族の令嬢がそんな危険な仕事に就くには周りの反対が大きすぎた。
「ミシュアちゃんに教えてもらったら?」
碧奉様は何とか全部飲み干してそう言った。
「えー…やんなきゃですかねえ…」
アイリは躊躇した。ミシュアが苦手なのではなく侍女としての礼儀作法そのものにあまり気が進まないのだ。
実は今のアイリは
「やんなきゃ、だよ。アイリ」
イヴが笑いながらも割と真剣に言う。
家庭に強い憧憬を持つイヴは結婚したら退職するつもりである。そのためいつか自分に代わって煎豆茶くらいは煎れてもらわなくては困るのだ。ちなみに今イヴに彼氏はいない。どんな男でも初回デートでマイホームローンについて熱く語られたら引くというものである。
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「にしても南の池のそばの邸になんの用だろうね」
イヴに淹れなおしてもらった煎豆茶を飲みつつアイリはそう言った。
「まさか館長まで疑われてるのかな?」
イヴはそう言ったがもちろん自分でもそんな事は思っていない。ソフィアは館長として当然ながら会計業務の目は厳しく、また自分の金銭には
「ひょっとしたらウチに来たいという人がいるのかのね」
碧奉様も井戸端会議に参加する。年相応にもっとも現実的な意見だった。
アイリとイヴは同時におお、と声を出す。ソフィアだけではなくアイリもイヴも増員は悲願だった。大体にしていくら小規模の館とはいえ職員が5人など異常である。しかも内一人は夜勤、内一人は非常勤なのだ。最低でもあと3人は欲しい。
「もしそうなら休み取ってコンパいこうよ、イヴ」
イヴもうんうんと頷く。後宮では男性との出会いは少ない。しかし侍女という職業は機会さえあればモテモテなのだ。機会さえあれば。
「苦労をかけるねえ」
碧奉様がにへらと笑いながら言った。実は碧奉様はこの状況を楽しんでいた。自身の体香のせいではあるが、居つくのは変わり者ばかりなので接してて面白いのである。とはいえ連勤続きなのはかわいそうなので碧奉様も増員には賛成だった。
あ、いえいえと2人は慌てて否定し、とっさにイヴが話題を転じた。
「それにしてもよく横領なんてしますよね」
イヴは幸福を不正な手段で得れば幸福ではなくなると分かっていた。夢の一戸建てマイホームには苦労やローンを持ち込んでも「穢れ」を持ち込んではならないのだ。
「老後の貯金とかじゃない?」
アイリは適当に意見を述べた。アイリじゃなくても国王の寵愛が碧奉様に集中していることは知っている。「女」で仕事をしていてそれが不調となれば金銭の心配をするのは当然だろう。そこでふと気になったことを聞いてみた。
「そういえば碧奉様って無給なんですよね?」
アイリはあっさりとそう質問した。ソフィアがいれば窘めるところだっただろう。碧奉に関することがタブーなのは2人ともうっすらとは知っていたが、一般侍女が込み入った事情までは知らない。
「そうだよ。でも何も困らないよ」
碧奉様もあっさりとそう答える。
「いえば何でもすぐもってきてくれるしね」
確かにその通りだ。普通は寵姫が欲しいものがあればそれは当然予算に組み込んで申請するものなのだが「如何なる報酬も与えることはできない」とは、逆に備品と見なされれば無条件即時決済が可能であった。
以前イヴが雨漏りに気が付いた時にソフィアにそれを伝えたら、太宮に伝えに行ってそのまま職人を連れて帰ってきたことがある。碧奉様が好む煎豆茶もこんなに美味しいものは飲んだことがない。聞けばもはやブランドですらなく、最高級の畑で採れた中でも希少過ぎて商品にできない豆が運ばれてくるという。
「もし碧奉様がもっと広い館に住みたいって言えば通りますかね?」
イヴも興味本位で聞いてみた。
「前に陛下からもそんなこといわれたけどめんどうだよ」
碧奉様はソフィアすら聞いていないことをあっさりと答えた。
「プールなんかあったってわたし泳げないしみんなだって大変だろうしさ」
確かに。2人はうんうんと頷いてしまった。ソフィアがいれば叱っていただろう。
主たる居候と、ようやく新米から脱却しつつある2人の侍女ののん気な会話はとめどもなく続くのであった。
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「散らかっていますが、どうぞ」
アレクサンドロ・ジェシノは与えられたアトリエに侍従エミュールを招き入れた。グレイシー王女の肖像画ももうすぐ完成なので一度見たいという。
「これはすばらしい」
エミュールは素直にそう感嘆した。肖像画はとても美しかった。素人目にはもう完成といってもいい。しかしその絵画の周りにあるものがよく分からない。
「しかし、これは一体なんだね?」
その中のひとつを手に取りジェシノに聞いてみる。絵筆の試し描きにしては量が多すぎるし、何が描かれているのかさっぱり判らない。
「ああ、それは」
ジェシノが苦笑した。
「王女の感情をイメージしたものですよ。それがなければ絵は完成しません」
南洋芸術とは言わなかった。知名度は低いし、知っていたら何を言われるか分かったものではない。
「ひょっとして、これが南洋芸術というものかね?」
これがそうなのか。どうしてこんなものがこの絵画になるのやら。
「ご存じでしたか」
ジェシノはやや驚いた。およそ芸術など全く興味なさそうに見えたのに。
エミュールはもうひとつを手に取ってしげしげと見比べた。少し角度を変えたり、離してみたり、逆に近づけて目を凝らしてみた。
「私には分からない世界だ」
エミュールはそう言った。馬鹿にするでも否定するでもなく、無理に分かったように語るでもない。ジェシノはエミュールの実直さに好意をもった。
「みなさんそう言います」
苦笑しつつジェシノは肯定した。分からないなら分からなくていい。
「これはまだ必要なものなのかね?」
エミュールはジェシノにそう聞いた。
「いえ、邪魔でしたら片づけますが」
ひょっとしたら侍従殿はこれらを置いていくのかと危惧しているのかも知れない。そんなことはしないが取り急ぎもう必要がないことも確かだった。
「もし障りがないのなら何点か借りていきたいのだが」
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「体香、ねえ…」
エヴァンゼリは呆れたように独りごちた。
「特徴的なところではそうなります」
ソフィアは注意深くそう言った。
「彼女の体香の噂は知ってるけど、それだけなのかしら」
いや多分違うと思います。心の中での即答は無論口にはしなかった。言って伝わるものでもないし、仮に伝わったところでどうしようもないことだろう。エヴァンゼリに魅力がないのではない。碧奉様が異常なのだ。
ふう、と息を吐き、エヴァンゼリはまっすぐソフィアを見た。
「ソフィア、私は困っているの」
いやまあ分かりますけどね。
「誰も直視しないけど大問題なのよ」
どういうことですか。
「このまま陛下が御歳を召されたら御世継ぎはどうなると思うの」
なんかすごい視点の意見がでたぞ。しかし考えれば確かにそうだ。ウェルナー2世にはグレイシー王女しか子供がおらず、恐らくもう国王夫妻に子供が産まれることはないであろう。
最初の寵姫であるマーガレットはまだ後宮内に住んでいるが、流産により精神に異常をきたしたという噂がある。横領の噂はその後の話で詳しい事は誰も知らない。碧奉様が子を宿すというのは些か難しいだろう。そう考えると現状で御世継ぎを産める可能性が最も高いのはエヴァンゼリなのだ。
しかし後継者ということなら何も直系に拘ることはない。現にウェルナー2世だって先代国王の子供ではない。まあ息子がいれば揉めなくていいとは思うが。
そう考えを巡らしたが、エヴァンゼリにすれば「自分の子供が」後継者になるかならないかが大問題なのは違いない。まさか寵姫が他の王位継承候補者を支援などするわけには絶対にいかない。事実がなくても不倫を疑われるのは目に見えてる。
「ソフィア、あなたの立場を逸脱させるつもりはないわ」
エヴァンゼリはそう言った。
「でも彼女はあくまで『碧奉』でしょう?」
本来寵愛や懐妊とは無縁の存在だろうという意味だ。まあそうですね。
「…そうは申されましてもお二人の時間を窺い知ることは…」
ソフィアも丁寧に、根気強く、予防線を張り続けた。まさか碧奉様と一緒にいるのが一番落ち着くからじゃないですかね、などと言えるわけがない。
エヴァンゼリは再びふう、と息を吐いた。
「やっぱり直接会うしかないのかしら」
エヴァンゼリはそう独りごちた。ようやく終わりそうでほっとした。しかしさすがにここまで食い下がられては少しくらいヒントを与えないとかわいそうだ。
「…私が思うに、陛下は御多忙ですので御気を休めたいのではないかと…」
一瞬エヴァンゼリははっきりと眉が吊り上がったが、すぐに平静になるとやや考えるそぶりを見せた。
「…あなたの意見は承ったわ。今日はありがとう」
侍女ではないのでごきげんようという定型句は言わないエヴァンゼリであった。
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ふー参ったまいった。
ようやく解放されてほっと一息つくソフィアであった。
それにしても不思議なものだ。あの精力が強そうなウェルナー2世と、肉食系美女の生きた見本とも言えるエヴァンゼリの間に子供ができないなんてあるんだ。対消滅というやつだろうか。
「ソフィア館長、お疲れ様でした」
振り向けばファイが見送りに来てくれた。笑顔の中にやや沈鬱な気配がある。
「…ご主人様からなにかひどいことを言われませんでしたか?」
ファイが心配そうにそう言ってくれた。それはつまり、邸の中ではかなり頻繁にそういうことがあるのか。
「そんなことが頻繁に?」
ソフィアは心配になって確認した。ファイは小さくこくりと頷く。
「…上級侍女も若い子も怖くてみんな近寄らなくて…」
なので内務班主務のファイが矢面に立たされることが多いのだという。かろうじて面と向かって言い返せるのは邸長のクレーディだけなのだが、それこそ火に油を注ぐような事態になるのでかえって頼れないとの事だった。あっちゃあ。
「…碧奉館に来る?」
同情と実利を兼ねてそう聞いたが首を横に振る。
「今、異動をしたらいろんな人に迷惑がかかります」
いい子だなあ本当に。
「判ったわ。でもどうしても耐えられなくなったらウチにいらっしゃい」
ソフィアはファイを抱擁してそう言った。
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憂鬱な気持ちを払拭するためにソフィアは馬車を断りしばらく歩くことにした。もし疲れたら回遊馬車にでも乗ればいい。
後宮とは呼ぶが実際には王宮である。元々ここは王国の前身であるリングフォード公国領の城塞都市がその礎であり、独立宣言と同時に旧主エレアへの侵攻で領土が拡大したので城塞をそのまま王宮としたという歴史がある。
本来後宮とは太宮のことなのだが、2代目王妃エトワールの「家庭に不倫を持ち込むな!」の一言で寵姫たちは王宮内の邸宅に住むようになった。それにより侍女たちは寵姫が散らばった地域全体を「後宮」と呼び表すようになったのだ。
後宮という名前の都市を歩きつつソフィアは考える。あれじゃ次は高級香水でも買いまくるだけじゃないかな。あんな寵姫にファイが仕えるなんて本当にもったいない。勘気を受け流すだけならミシュアなんか適任だろうに。途中で寝ちゃいそうだけど。
大体にしてエヴァンゼリは横領の事なんてこれっぽっちも引け目を感じてるように見えなかった。一体全体どういう教育を受けてるんだあの人は。
後継者問題については盲点だったが、先に思った通り別に息子じゃなくてもいいのである。というより我がリングフォード王家は直系が国王になるほうが珍しい。
それよりファイを始めとしてあの若い侍女たちを引き受けられないだろうか。もちろん半分は務まらないだろうが半分も残ってくれたらアイリにもイヴにも自分にも2連休すら与えることができる。2連休!なんて甘美な響きだろう! 1日遊んで寝て起きてもまだ休みなのだ!
ああそんな贅沢は言わない。せめて1日、いや半日でいいから休みが欲しい。3ヶ月近く休んでないなんて異常だよ。バーゲンに行って今度こそアリオ・サリオのスーツを買うんだ。あとパンプスも。もう支給品のだっさいローファなんていやだ。
疲労のピークに達したソフィアは妄想で欲望を爆発させるのであった。
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「これでいいのかね?」
エミュールは先日訪れた部屋に再び訪れて男に絵の束を渡した。男は絵の束を確認して満足そうに頷いた。
「これです。どうもお手数を」
眼鏡越しの目が興味深そうに輝いた。
そう、どうもこの目が苦手だ。知的好奇心といえば聞こえがいいが、なにかどうも、同じような好奇心で人を切り刻むイメージが重なる。
男はエミュールの内心など全く忖度せず絵の束を1枚ずつ確認している。時に一人で頷いたり一人でにやりとしている。全く、研究者というものは訳がわからん。
「それで何かが判るのかね?博士」
エミュールは質問したがそれは間をもたせるためでしかない。心理学の権威であるロランド博士が無駄にこんなことをするわけがない。
「ええ、とても興味深いですよ」
この男はメスで人を切り刻みながら同じことをいいそうだと思った。
「王女はなかなかに
ロランド博士はそう独りごちた。いや診断結果を伝えたのかも知れない。エミュールが黙っていることなどおかまいなしにそのまま続ける。
「8歳の少女とは思えない強かさだ。家庭内不和は何よりも独立心を育みますな」
楽しそうにそういうロランド博士にさすがに不敬を感じた。
「言葉を慎み給え。宸襟を覗き見るような発言は看過できぬぞ」
実直なエミュールは誰よりも国王夫妻の仲をよく知っており、それにより密かに心を痛めているのだ。その理由の一旦が自分とこの男にあると思えば悔悟の念と共に不快感が湧き上がるのであった。
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ふーつかれた。
疲れている時ほどかえって張り切ってしまうタイプの人間というのはいる。ソフィアは結局回遊馬車に乗らず片道2時間以上の道程を歩ききってしまった。
館に戻ると何やら慌ただしい気配がした。
「あ、館長!大丈夫でしたか!?」
イヴが声を上げ、その声でミシュアとアイリも飛んでくる。なになに。
「ソフィアちゃん!?大丈夫だった!?」
なんと普段は侍女たちに気を使って部屋に引きこもりがちの碧奉様まで出てきた。
「どうしたの、何があったの?」
当然の質問は予想外の回答を引き出した。
「ついさっき南の池のそばの邸に強制捜査が入って逮捕者がでたって!」
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「ちゃんと掴まっててくださいよ!ハッ!」
アイリと2人で馬に跨り大急ぎへ太宮へ急行する。馬車なんか手配している場合じゃなかったので馬だけ借りてきたのだ。
アイリは人通りの少ない道を選んで素早く安定して馬を進める。さすが元王宮警備兵見習い、乗馬ができるなんて大したものだ。
普段なら馬車でも40分はかかるところを僅か15分で到達し、アイリに馬を任せて大急ぎで王宮警備詰所に赴く。詰所のほうも大わらわだった。
「ソフィア!」
振り向けばそこには邸長クレーディがいた。ああ、と一息ついた。逮捕と聞いてまず心配だったのはクレーディだったのだ。
「大丈夫でしたか!?逮捕者が出たと」
お互いの手を取り合って無事を確認し、ソフィアは当然の質問をした。
「…ファイが…」
クレーディは沈痛な顔でそう言った。ソフィアは眉が跳ね上がる。
「ファイが!?」
そんな馬鹿な。内務班で横領などできるわけがない。
「もちろんファイは何もしていないわ」
クレーディは沈痛な面持ちのまま説明を続けた。
「ただ、エヴァンゼリ様と最近一番近しかったのが彼女だったの」
それは順序が逆なのではないか。ソフィアはそう思った。横領の疑惑が発覚したからエヴァンゼリが荒れて誰も近づかなくなったのでは。そう言うとクレーディは頷きつつも小声でとんでもない事を言った。
「…去年の一件だけじゃないみたいなの…」
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「エヴァンゼリ様は投資で大穴を空けていたみたいなの」
小さな会議室を借りて内密に話を聞いたが初手からすごい話が出た。別に寵姫だからといって投資に手を出してはいけないという法律はない。それは個人の自由だ。ただ外部の人間が思うほど寵姫はお金など持ってはいない。
しかしその勝手な思い込みがとんでもない架空の信用を生み出し、結果として横領に手を出さざるを得ないところまで追いつめてしまったという。
「去年の件はパーティ費用の名目だった。おかしいとは思ったけど」
パーティ費用としてはいささか酒代が多すぎるとは思ったが、エヴァンゼリと巧くいかなかったクレーディはお目こぼしの意味も含めてそれを承認したという。
「それでも開催されれば問題はなかったんだけど」
結局そのパーティは開催されなかった。用意した酒は一旦酒蔵にしまうという事になったが棚卸であっさりと横流しが露見したという。
クレーディは自らその不始末を太宮事務次官シーラに報告した。シーラは事件を管理者会議上で公表しつつも、しかしクレーディの辞職願いを認めなかった。
「不始末から逃げては責任を取った事にはなりません」
そこからはシーラも南の池のそばの邸への監視を強化した。管理者会議でわざとつらく当たっていたのは、逆にクレーディを庇ってくれていたのだという。
しかしエヴァンゼリはその常識外れの思考から、普通では考えられないさまざまな抜け道を駆使して横領を続けていたという。
まず下賜された宝石や高級装飾品はいの一番に売りに出された。それも尽きると邸内の模様替えを指示してその混乱に乗じて高級家具を密かに運び出した。酒蔵や倉庫、あるいは金庫に保管している有価証券や金銭にまで手を付けた形跡もあるという。
「こうなってくると会計担当より内務班のほうが疑われて…」
それはもう横領じゃなくて窃盗じゃない。
「なぜ気が付かなかったのですか?」
ソフィアはそう聞いた。下賜された宝石などはともかく、家具や倉庫の中ならそれは邸長の管理責任である。
「言い訳になるけど、隙を突かれたとしかいいようがない」
最初の事件後、会計業務の監視は極めて厳しく行った。担当者を更迭してクレーディは自ら会計班長を兼務したのだが、それに集中しすぎて家具を持ち出すなどという想定外の行動に考えが及ばなかったという。
その後の主導権は完全にエヴァンゼリが掌握した。一体なにをやらかすのか分かったものではない、という疑心暗鬼で監視を強めたが、何をしでかすか分からないとなると、かえって何をしても目くらましになってしまったのだ。
「今だから言うけど、今日あなたに来てもらったのは私がそう誘導したの」
邸の中にいる寵姫を掣肘することはできない。しかし来客があれば少なくともその間は寵姫本人は何もできない。僅かな時間にクレーディは可能な限りの財産確認をしていたという。そうか、だから私が訪れても挨拶にすら顔を出さなかったのか。
「ファイはどうなるのですか?」
ソフィアが最も心配なのはファイだった。
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30分の面会が許可されクレーディとソフィアは取調室でファイと対面した。ファイは冷静だったが眉根が寄り明らかに怒っていた。
「おふた方も私を疑っていますか?」
冷静に、しかしはっきりと怒りを込めて彼女はそう言った。
「そんなことはありません」
クレーディは冷静にそう言った。
「ファイ、知ってることを話して。あなたが横領なんてするはずない」
ソフィアはそう懇願した。そうするとファイの緊張は崩れその目に涙が浮かんだ。
「…あの人は…」
ファイはそういった。もうエヴァンゼリをご主人様などと呼びたくないのだろう。
「…最初は確かに私を引き込もうとしたんです…」
ファイはそれを断り、逆に必死に説得したという。しかしその思いは届かなかった。
「あとは何かにつけて呼び出されて、やたら私をなじりました」
今にして思えば、それは自分を引き付けておくためだったのかも知れない。ファイはそう言った。
「じゃあ協力者の目星はついてるの?」
クレーディはそう聞いたが答えは否だった。
「…誰か、というのは分かりませんが…」
一人ではないかも知れない。ファイはそう言った。
「何故そう思うの?」
クレーディは根気強く質問した。
「指示が変だなって思うことが多いんです」
例えば邸内清掃でも、なぜこんなところにこんなに人を配置するのだろうとか、逆にあちらはやらなくていいとか、それは内務班だけではなく給養班や資材班の一般侍女たちもそう感じていたという。
重大な告白だった。これが事実だと判明すればファイの無罪を証明することになるかも知れないが、逆に上級侍女も関わっているという事にもなる。
「そろそろいいかしら?ソフィア」
ソフィアの同期であり、王宮警備隊内偵班長のミーシャは面会終了を促した。
「まだ時間はあるはずでしょう!?」
ソフィアは立ち上がって声を強めて反論した。この石頭はそういう事は厳守する人間ではなかったか。
「これは大変な嫌疑なの。私たちより先に情報を引き出されては困る」
ミーシャの眼鏡の奥に苦い思いを感じた。上から言われたのか。
「…誰からの指示なの? 私は
ソフィアらしくもなく権威を笠に着た。これでも侍女の階級ではNo3だ。
ソフィアの必死の抵抗は、しかしミーシャに通用しなかった。
「ディア・リングフォード邸館管理官に王宮警備隊内偵班アルガーノ大尉が申し上げます。本件は邸館管理の職責ではなく司法に関わる重大事案です。どうかご理解の上ご協力をお願い致します」
---
大騒ぎだな。
ロランド博士は自室でワインを飲みつつ高みの見物としゃれこんでいた。
寵姫の横領疑惑などロランド博士にとってはローカルニュースでしかない。好きにしたまえ。無駄な石が消えて丁度いい。
ロランド博士の目的はふたつある。ひとつは単純に今の立場を維持し続けることだ。これ以上の出世や金など興味はない。王宮内での権威を保てればいい。
もうひとつ、こちらこそロランド博士の本当の目的であり、最初の目的の手段であり、生涯の研究課題でもあった。
ロランド博士は悪人ではない。人を殺したこともなければ、貶めたことも、騙したこともない。ただ彼には強い研究意欲があり、その研究課程に於いて、それまでの研究成果を行使したに過ぎなかった。
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太宮事務次官執務室には3人の上級侍女が集まっていた。事務次官シーラ、北宮長アイーシャ、南宮長イデア。後宮での最高権力者が集結したと言っていい。
「まず、クレーディは邸長の任を解きます」
シーラは淡々とそう言った。
「取り急ぎクレーディは事務次官秘書室付とし、追って処遇を検討しましょう」
アイーシャとイデアは頷いた。
「次いで、第三者調査委員会と、南の池のそばの邸運営委員会を設置します」
シーラは言葉を続ける。
「三宮から参事以上の者を4名ずつ選抜し、それぞれの委員会に参加させましょう。編成は私が行います。アイーシャ、あなたは調査委員会の委員長をお願い致します。イデア、あなたは運営委員会の委員長をお願い致します。選抜された委員は翌朝7時に第一会議室に集合させて下さい」
両宮長は承知しました、と返答した。
「ここまでで何か補足はありますか?」
シーラは両宮長に訊いた。
「王宮警備隊は如何致しますか?」
イデアはそう質問、いや確認した。答えは判りきっている。
「私が交渉します」
シーラはそう答えた。厳密には王宮警備隊はシーラの配下ではないのだ。しかしシーラが交渉に赴くと言えば、いや聞こえさえすれば件の主務の身柄はこちらで預かることができるだろう。予断はできないが、たかが一主務が横領などできるはずがない。仮に何らかの幇助の事実があっても処遇を決めるのは後宮でなくてはならない。
「他には?」
シーラの声に両宮長は無言で答えた。
「何か情報があれば」
一拍置いてさらにシーラが発言する。
「エヴァンゼリ様の負債は約200万ディードとの情報があります」
アイーシャがそう発言し、さら言葉を続けた。
「内、補填したのは15万ディードほどと」
そこまで発言してアイーシャは口を閉じる。
「寵姫ってずいぶんとお金持ちなのね」
シーラの発言にアイーシャとイデアが笑った。この3人は言わば三つ巴の政敵同士なのだが、それ故にゲームのルールを無視したエヴァンゼリへの蔑みは大きかった。その気持ちを整理し、冷静に対応するためにはこの場で感情を吐き出しておいたほうがいい。ちなみに15万ディードとはそれぞれの年俸に匹敵する金額である。
そして彼女たちはそれ以上エヴァンゼリへの言及をしなかった。それは後宮の責務ではなく陛下が決めることだ。
こんこんとノックの音がした。シーラもテーブルをノックして入室の許可を与えた。失礼します、とシーラの秘書室長が入室して要件を告げた。
「エミュール侍従がお見えになっています」
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エミュールという男は実直ではあるが、密かに侍女たちから
ましてやこの状況でエミュールが事務次官執務室に来るなら内容はほぼ把握できる。エミュールは軽く一礼し、直立したまま来訪の要件を申し述べた。
「玉意が」
3人の最高権力者たちは立ち上がり頭を垂れた。侍従と3人のどちらが上ということはない。4人は玉意とそれぞの立場に対して頭を垂れたのだ。
「エヴァンゼリを愛妾とし、
寵姫からの降格と邸退去、ほぼ推測と変わらない内容だった。違うのは異動命令という一言で、つまりそれは事実上の軟禁を意味していた。
「異動命令」
アイーシャは一言それだけ口にした。玉意に対して反論はできない。なので復唱の体でその本意を確認したのだ。
アイーシャは軟禁に同情したのではない。異動命令とはそれ自体が罪状であり贖罪に当たるので、肝心の横領による補填責任を問わないという事か。
「資産運用会社への補填は王室から行うとのことです」
それはつまり、エヴァンゼリが使い込んだ酒や家具や有価証券などは後宮で補填しろという意味か。アイーシャがそう問うとエミュールは苦しげに答えた。
「…エヴァンゼリ様が個人で補填できると思われますか…?」
4人は押し黙った。もちろんそんな事ができるわけがない。ただ言ってしまえば自分の女だろう。全て王室財産で何とかするべきではないか。
「玉意を賜りました」
アイーシャとイデアの不満を察し、シーラは敢えてそう言った。シーラも2人と同じ気持ちだったが、ここで不満を言えば混乱は大きくなる。なにより現実問題として王室財産の実権は王妃が握っているのだ。資産運用会社への補填だけでも国王夫妻間で大変な悶着になるであろう。これ以上宸襟を騒がせればこちらが不利になる。
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落ち着かないまま3日が過ぎた。
後宮は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなっていた。まずファイとの面会後、クレーディはソフィアに別れを告げた。今はまだ無事だが管理責任を問われないわけがない。
「私の元からこんなに早く邸館管理官が出たのは名誉だと思っているわ」
クレーディは優しく微笑みソフィアを抱擁した。思わず涙が出てしまった。翌日の昼にはクレーディが更迭されたという情報が耳に入ってきた。
それと同時に第三者調査委員会と運営委員会が設置されたという情報も聞いた。南の池のそばの邸には当然王宮警備隊の内偵班が捜査に入っており、3つの外部組織に囲まれて邸内の情報は一切遮断された。
代わりに様々な噂や憶測が飛び交った。エヴァンゼリが既に逮捕されたという噂や、南の池のそばの邸が廃邸になるといういかにもありそうなものから、中にはある程度は事実を織り交ぜたものもあった。
例えばエヴァンゼリは元従者のソフィアを頼って碧奉館に潜伏しているとか、そもそも逮捕直前にソフィアが邸を訪れているので隠し財産はソフィアが持っているとか、いやソフィアは内偵班の知人から逮捕の情報を得てエヴァンゼリを逃したのだとか。なんで私が悪役なのよ。
「ソフィアってそういう星だよね」
マイペースな同期は煎豆茶をすすりながら他人事を評するのであった。
中には無視できない噂もあった。横領を幇助した侍女は既に獄中で謀殺されたとか、いや実は彼女こそが真犯人で秘密裁判が行われているとか、そもそもソフィアとその侍女が共犯だとか。私なんか恨まれてるのかな。
ひとつ確かなことは、ソフィアを筆頭に碧奉館の職員は出歩くのが非常に困難になったという事だ。しょうがないので鋼鉄の精神を持つ夜勤と非常勤の2人に出先の用事や日々の買い出しをお願いする次第だった。
「いろいろありますねえ」
ミランダは微笑みながら、年齢を感じさせないキコキコとした歩調でせっせと買い出しに行ってくれるのであった。
碧奉様やソフィアだけではなく、帰るに帰れなくなったアイリやイヴも館内で引きこもりとなってしまい、不安と運動不足により館は憂鬱な気分に包まれた。
「あーもう、せっかく乗馬のカンが戻ったのに」
体育会系お嬢様のアイリは乗馬が好きだったのだ。
「いいんだ、私、家が好きだもん」
イヴは両膝を抱えて毛布をかぶって壁に向かってそう話しかけていた。
太宮事務次官から招集がかかったのはそんな時だった。
---
前回訪れた時は恐怖でがんじがらめになっていたが今回は違う。ファイやクレーディの事を思えば怖いなどと言っていられない。ずんずんと廊下を進み裁きの門に到達する。王宮警備兵に用件を伝えて、でもやっぱり少し怖いのでしおらしく入室する。
「今日はずいぶん元気そうで安心したわ」
シーラは微笑んで出迎えてくれた。ソフィアを応接に誘い、世間話から会話をするのはさすが事務次官の貫禄であろうか。
「それにしてもあなたは同期に恵まれているわね」
どこがですか。
「広報課長があなたの悪い噂を聞きつけてここまできて釈明してくれたわよ」
シネード、あなたいい人なんだけどさあ。
「内偵班長もとてもよく協力してくれたわ」
あの石頭のミーシャが?
「話が前後しちゃったわね。ちょっと説明しましょう」
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まずクレーディは邸長を解任されて事務次官秘書室付になったという。ただし階級は据え置きで処遇については落ち着いたら再考するとの事だった。
「彼女にはつらいことだけどこれも試練だと思ってもらいたいわ」
しょうがないことだけど辛い話だった。クレーディが悪いわけではない。あまりにも運が悪かったとしか言いようがない。
「それで件の主務のことだけどね」
ソフィアは緊張した。一番気を揉んでいる事だった。
「彼女はおそらく何も関与はしていない」
ですよね!?そうですよね!そうに決まってますよね!
「でもそれを証明するには少し時間がかかるわ」
そこはアレですよ、シーラ閣下のミラクルパワーでひとつ。
「それに彼女にはもう帰るところがないの」
え、本当に南の池のそばの邸が廃邸に?そう聞こうかと躊躇しているうちに次の言葉が継がれた。
「南の池のそばの邸はしばらくあのままになると思うわ」
そうか、そりゃそうですよね。
具体的な事は分からないけどエヴァンゼリがあの邸に住み続けれるはずはない。かといってあれほどの不始末を出した邸に住みたいという人がいるわけがない。となると今の侍女たちは主不在のまま、参考人として取り調べを受ける日々が続くのだろう。そんな所に戻れるはずがない。
「そこでねソフィア、
保護観察という名目で彼女をお願いできないかという話だった。はい喜んで!
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「ファイ・アザールと申します。よろしくお願いします」
5人の職員は笑顔と拍手で新メンバーを迎えた。普段なら即日辞退もしょっちゅうあるのでこんな事はしないのだが、事情が事情だけに逃げ場のないファイへの歓待は熱く温かいものだった。ようこそ碧奉館へ!
「立場はそのまま主務、つまりアイリとイヴの指導員を兼ねてもらうわ」
ソフィアはそう言った。別にアイリもイヴも異論はない。5歳年上でソフィアが認める侍女である。第一ウチには階級などあってないようなものだ。
「歓迎会はじまった?」
さてさて最初の洗礼だ。碧奉様には少し間を空けて来てもらうようにお願いしていたのだ。こういうことは最初に経験しておいたほうがいい。
ばたん。
予想通りの展開に先任の4人は温い微笑みを浮かべる。びっくりしちゃった? びっくりしたよね? これがしばらく続くんだよ。慣れって大切だよね。
先任の内の1人も目がひっくり返って倒れているけどまあ別にいいか。
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「…噂には聞いてましたけどこれほどとは…」
ファイはその浅黒い顔を真っ赤にしてそう言った。イヴが渡したマスクをすぐに装着して何とか碧奉様に着任の挨拶をしたのはさすがだった。
「ごめんねファイちゃん。苦労かけるけどよろしくね」
碧奉様は申し訳なさそうな、でも嬉しそうな表情でファイに挨拶を返した。ふとファイが何かを思い出したように碧奉様を見つめて不思議な質問をした。
「…ひょっとして、あなたはジーニーですか?」
微妙な間が生まれる。ジーニー?
碧奉様はなんと答えて良いの分からないといった表情でファイを見つめ返している。
「…ええと、それはどういうものなのかな?」
碧奉様はファイの質問を確認する質問をした。
「すいません、ふとそんなことを思っただけです。お忘れ下さい」
---
「ファイさん、ジーニーってなんですか?」
洗礼が終わって碧奉様に部屋にお戻り頂いたあと、イヴは当然の質問をした。
「ええと、なんていったらいいのかな」
ファイはどう説明すれば伝わるのか頭の中で整理しているようだった。
「ええと、なにか、なんというか、そういう人」
全く分からない。明晰なファイにしては珍しいことだ。当然それでは伝わらないことは分かっているので具体的な例を説明してくれた。
「私が住んでいた村にそういうお婆さんがいたんです」
お婆さんといってもファイの祖母のさらにその祖母といったくらいの大変な年寄りだったという。もちろん彼女の名前ではない。しかし村中の人が三人称で彼女を言い表すときはジーニーと呼んでいた。
「言葉では説明できない不思議な何かがあったんです」
その老婆は別にお金持ちでも権力者でもなかった。でも村中のみんなから慕われていた。なぜ慕われていたのかは巧く説明できないが、会えばみんな彼女の事が好きになったという。
「私もそうでしたが、特に子供たちが大変よく懐いてて」
彼女の家にはいつも子供たちがいたという。かといって別に子供たちと一緒に遊んだりあやしたりするわけではない。庭先で日向ぼっこをしつつ居眠りしているだけなのに、何故か子供たちは起こしたりイタズラしたりもせず、その周りで遊んでいた。
「んー、よくわからない」
アイリは当然の感想を述べた。
「碧奉様はそのジーニーのお婆さんと似ていたの?」
ソフィアも質問する。ひょっとして碧奉様のご親族?
「いえ、顔立ちや雰囲気が似ているというわけではないんです」
ただ、そのジーニーと呼ばれる人が持つ何かを感じたという。
「そのお婆さんには子供も孫もひ孫もいました」
でもその人たちはジーニーじゃないという。ますます分からない。
「…シャーマニズム的な何かなのかな…?」
ミシュアはその知識からの予測を口にした。いいから着替えてきなさいよ。
「でも、碧奉様ってそんな呪術みたいなことしませんよね?」
アイリもまた当然の感想を述べた。まあねえとミシュアも同意する。
「ミランダさんは何か知っていますか?」
イヴが最年長侍女の知識を頼ってみた。
「ジーニー、というのは聞いたことがありませんねえ」
ミランダはにこにこと微笑みを浮かびながら、しかしあっさりと答える。
「すいませんお騒がせしちゃって、この話はお忘れ下さい」
どこまでも真面目なファイなのであった。
---
ファイ、アイリ、イヴがそれぞれ仮の個室で休み、ミシュアがいつも通り居間で座ったまま居眠りを始め、ミランダがキコキコと帰っていくと館は静かになった。
ちびちびとワインを舐めていると碧奉様がやってきた。最近この時間は2人で少しお酒を飲むことが多い。
「くはあ、おばちゃん以下略」
それ定型句だったんですね。
「なにはともあれ増員おめでと、ソフィアちゃん」
碧奉様はグラスを差し出しちん、と音を立てる。
「ありがとうございます。まだ慣れていませんがファイはきっとお役に立つと」
そんなこといいからちゃんと休みなさい。と言ってくれた。はい本日で晴れて90連勤となりました。丸3ヶ月です助けて下さい。
とはいえファイが慣れるまではまだまだ休むことはできないだろう。ファイは労働力としてならミシュア、アイリ、イヴを足したよりよく働いてくれるだろうが、なにせ碧奉様に不慣れという最大の課題がある。
「たった一人でも救われてよかったよ」
碧奉様はそう言ってくれた。南の池のそばの邸に知り合いは居ないはずだが、心優しい碧奉様は密かに心配してくれていたのだ。
「言葉って不思議だよねえ」
ふいに碧奉様がそう言った。
「碧奉っていう言葉がこの国だと王族の初体験の相手なんて最初は笑っちゃったよ」
碧奉様はさらりと重大な事を言った。碧奉様はこの国の人ではない?
「こんな広い城塞を後宮と呼んじゃったりね」
ソフィアは冷静を装いつつ疑惑を確信した。そうだったのか。
「…ジーニー、かあ」
そして最も新しい謎の言葉に言及した。
「
ジニ?
「慈しむ尼僧って書いて慈尼」
それは漢字と呼ばれる遠国の文字の文法だろうか。理解が追いつかなかった。
「…そのジニ、というのはどんなものなのですか?」
ソフィアはどきどきしながら訊いた。なにか極めて重大な話のように思えた。が、碧奉様はにへらと笑ってその質問をかわした。
「いくら忙しくても少しは詩文の勉強くらいしなさあい、ソフィアちゃあん」
そう言うとじゃあお休み、といって自室に帰っていく碧奉様であった。ええ、ここまで話を振っといてそれはなくないですか。
独りになったソフィアは予算修正の事を思い出した。エヴァンゼリが横流しした後宮財産は各宮殿邸館で分担するという話だった。
ソフィアも予算修正をしなくてはならないが、元々生活費くらしかかからない碧奉館の負担は軽く、修正もすぐに終わるだろう。大変なのは三宮で、それぞれ参事以上の上級侍女を4名も出張させているので、今頃居残った上級侍女たちは総出で対応に追われているだろう。本当に人の運命など分からないものだ。
夜空を見上げると太白が大きく見えた。
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