碧奉館の過去
扉が閉まった事を察すると2人は頭を上げて廊下を歩きだした。しばらくは無言だったが、ふいに大柄なほうの女性がぼそりと言葉を発した。
「
痩せたほうの女性がちらりと視線を向け、言葉を繋いで会話を成立させた。
「何故そうと?」
大柄なほうの女性も視線を向け、2人は一瞬目が合った。微笑とも、苦笑とも、冷笑とも言えない微妙な空気が流れる。それ以上の会話は続かず、十字路で無言のまま礼だけ交わして2人は別れた。
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アレクサンドロ・ジェシノの真作を見てソフィアは息を飲んだ。
いったいいくらするんだろう。
下世話な感想に思えるが庶民のそれとはやや違う。上級侍女として当然美術の教養もあるソフィアは美術品を金銭でしか測れないわけではない。
しかし上級侍女だからこそ、こんな名画を借り出す予算を想像して驚嘆したのだ。それは単なるレンタル料だけの話ではない。まず交渉費から始まってずらずらと科目が並び、交渉が成功すればこれまた運搬費など科目が並ぶのだ。
さすが太宮。
これよりは格が落ちるが、かつてとある絵画の借り出しを担当して奔走した記憶からも驚きを禁じ得なかった。
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グレイシー王女8歳の誕生日祝典は豪華に、しかしあくまで「身内」で行われた。その愛らしいやんちゃぶりで庶民からの人気の高い姫君の誕生日ともなれば注目度は高いのだが、国王ウェルナー2世は愛娘の教育のためにも「あまり大きな騒ぎにしないように」と訓示したのであった。
侍女であるソフィアは本来は歓待する側なのだが「あくまで身内の祝い事」という体裁により、ある程度の上級侍女にも招待状が配られた次第であった。
たまには羽根を伸ばすか。ソフィアはそう思って出席することにした。もっとも後宮内の館を預かる身としては行っておいたほうが無難、という理由もあったが。
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「すごいわね」
傍らの友人がソフィアとは違った素直な感想を述べた。
「広報課だとあまり美術品を見る機会がないのよ」
美術に強い興味を持つ友人は、本当は国家財産管理課を希望していたのだ。
「遅ればせながら課長就任おめでとう。シネード」
1年ぶりに再会したシネードはソフィアの同期の友人である。しばらく会わないうちに太宮広報課長になったという。大した出世である。
「おイヤミはお止めください。館長」
笑いながらシネードはそう返した。
「そっちこそおイヤミはお止めください。課長」
ソフィアも笑いながら負けじと返す。
階級はソフィアのほうが上なのだが、なにせこちらは自分を含めてたった5人の零細館長である。太宮広報課長ともなれば100人前後の課員を指揮する大管理職様なのであった。
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「ミシュアは元気?」
シネードはなにげなくそう聞いてきた。
「よく寝てるよ」
ソフィアは冗談めかして本当のことを言った。本当に寝に来てるようなものだしね。そして逆に気になっていた事を聞いた。
「ねえ、私とミシュアってそんなに仲悪そうだった?」
前に会った時に何気なくミシュアの話が出て、今は碧奉館で一緒に働いていると言ったら仰天されたのだ。その時はミシュアに対する驚きだと思ったのだが、別の機会に他の同期に聞くと、どうやら同期の中ではソフィアとミシュアは不倶戴天の政敵同士という扱いだったらしい。
「…まあ、ね」
シネードは一拍間を置いてから、にやりと笑って肯定した。
「キャリアの同期の首席と次席で、性格も違ってたしね」
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壇上ではグレイシー王女への誕生日プレゼンドが渡されていた。8歳とはいえ女というものは空気が読めるもので、変わったものを渡されると大仰に嫌がって会場を大いに沸かせた。生母である王妃は笑いながらたまに注意している。
「たいしたものね」
シネードは半ば以上本気の嫌味を込めて言った。
意外な反応にソフィアは眉を上げて無言でその理由を促した。
「王妃様のご都合でわりと予定が狂うの」
ああ、なるほど。
国王夫婦の仲がなんとも微妙なのは知っていたが、やはりそれは王妃側に問題があるようだった。
「昨日、突然の体調不良ということで競馬の式典をお休みなさったのにね」
具体的なことは分からないが、それは広報課としてかなりの痛手だったのだろう。最後のプレゼントも終わり、そろそろ散会の時間だった。
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館に戻ると居間でミシュアが寝ていた。まだ10時だぞ。
とはいえ別に起こす理由もなく、またシネードとの会話でなんとなく気後れしたソフィアはなるべく物音を立てないように食堂に向かおうとした。ら、起きた。
「…おかえり」
マイペースなミシュアは起き抜けでもさほど印象が変わらない。天然の利点だ。
「ああ、ただいま。起こしちゃった?ごめん」
気後れしたまま、普段よりは少し丁寧に挨拶を交わした。
だいじょうぶ、と小さく返してミシュアは立ち上がった。自室にいくのかトイレなのか。変わり者の同期首席はすたすたと居間を出ていった。
同期の次席、などと言われても嬉しいより気恥ずかしさが先に来る。上級侍女などさほど採用数が多いわけでもなく、定数割れなどものともせずに叩き落としてくるので、ソフィアのキャリア同期はわずか7人である。
そういった中でミシュアの存在は際立っていた。ペーパーテスト全教科100点は空前の記録であり、不作続きの中でやっと現れた俊才と呼ばれた。そして現在、大陸歴1359年度は前後10年で1番の大不作と言われる始末だった。
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ばたん。
物音がした。一瞬緊張するがすぐに理由に思い当たってやれやれと向かう。
予想通りミシュアが倒れていた。傍らには事実上の我が主、碧奉様が手を差し伸べようかとおろおろとしている。
「大丈夫です。ご心配おかけしました」
ソフィアはそう言って行間で部屋に戻ることを促した。
「ごめんね。ばったり出くわしちゃって」
よくその体香が取り沙汰されるが、その不思議な美貌だって充分に凶器なのである。
一見ただの老け顔のおばちゃんに見えて、しかしパーツ単位で見るとまるで少女のようで、改めて全体を見直せば絶世の美女になっている。そして脳内でそんな目まぐるしく認識の再構築をしている間に芳香が襲ってくるという天然の罠だった。
本人はこれ目当てなので大丈夫です。
そう言いかけてやめた。数多の侍女を失神に誘ってはいるが、碧奉様自身は至ってノーマルであり、そんな変態性癖を持つ侍女がいると知れば嫌だろう。ミシュアはいつも通りの無表情のまま、目だけひっくり返っていた。
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碧奉様を自室に誘った後、ミシュアを気付けてこちらも部屋に押し込み、ソフィアはようやく食堂で水を飲めた。お酒は苦手なのである。
「…別に仲悪いつもりはないんだけどね」
なんとなくひっかかってしまったミシュアとの関係を思った。
-優秀だが扱いづらい-
それがやがて聞こえてきたミシュアの評価だった。
上級侍女なのに毎日定時上がり。休日出勤は一切せずに有給消化率も高い。交渉事はまったくダメ。しかしデスクワークは早くて正確。侍女としての技能は優秀で茶道も香道も師範代級。だが物怖じせずマイペース過ぎる。全く仰る通り。
そのためシュアはいわば助太刀専門の侍女として後宮内を渡り歩くことになる。それはそれで適切な処遇のように思えた。そしてミシュアは一時的な助太刀として碧奉館に回され、以来ずっとここに腰を据えているのだった。
いつも一緒にいたわけではないが、ミシュアの印象は今と昔で全く変わっていない。変わったのは助太刀専門から夜勤専門になったくらいである。
-忙しそう-
以前さりげなくミシュアに自分のことをどう思っているかと聞いた時の回答である。そうじゃなくて。
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「へえ、ジェシノって今そんな有名なんだ」
翌朝、いつもの定形会話を終わらせ、朝食中に昨夜のパーティの様子を話していたら意外なところが引っかかった。碧奉様は作詩はお上手だが、絵画に関してはこれまで聞いたことがない。ふと興味を惹かれた。
「ご存知なのですか?」
まあ時事報とか読んでるから名前だけ知ってるだけなのかもだが。と、思ったら予想外の回答が出てきた。
「昔は南洋芸術にかぶれててさ、わけわかんないのばっかり描いてたんだよね」
ソフィアの知見が低いだけなのか、それとも個人情報なのか判断がつかない。
改めて思うがこの女性は「碧奉様」となられる前は一体どういう人だったのだろう。この異常な美貌と体香ではとても普通の生活者ではないと思うが。
つい視線が止まってしまい、それに気がついた碧奉様はにへらと笑った。
「少しはそういう事も勉強しなさあい。ソフィアちゃあん」
かわされたのか、はぐらかされたのか、単にからかわれたのか。
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「ええと、写実画で有名な人ですよね」
事務室でイヴにアレクサンドロ・ジェシノの事を聞いてみたら、一応は知っている、という程度の回答だった。次いで出た言葉はいかにもイヴらしかった。
「そんな人なら家なんて一括で買えるんでしょうねえ」
ちまちまと資料をまとめながらぽつりと、しかし万感の意をこめてそう言った。一戸建てマイホームを夢見るイヴは、侍女としての最低限の教養として以外には芸術など全く興味がなさそうだった。
意外とそういうことに詳しそうなアイリは今日は休みである。こうなってくると逆に気になってくるものだ。あとで図書館でも行ってこよう。
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アレクサンドロ・ジェシノ(1316-)旧東エレア出身。雲雀の暦を代表する写実派の画家、王国騎士。1355年シルバースプーン賞受賞。1360年ウェルナー2世より王国騎士勲章を授与。
現代人なのであまり大した情報は書いていない。関連書籍も流し読みしたが南洋芸術に関する事は載っていない。まあウケなかったから載せてないのかも。確かなことは、関連書籍にも書いていない情報を碧奉様が知っていたということである。
いやいやまてまて、それそのものがホラという可能性もある。
ソフィアはサボっているわけではない。あくまで館長としての情報収集である。まあ現実には午前中にデスクワークを終わらすと特にこれといってやることもなく、63連勤ともなれば多少は息抜きもしたくもなるというものである。もっとも住み込みのソフィアは休みでもさほど生活は変わらないのだが。
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戻るか、と思ったらなんと昨日に引き続きシネードとばったり出くわした。会うときは会うものだ。お互いに驚きの笑顔と挨拶を交わす。
「あら、ジェシノに興味がでたの?」
ソフィアが持つ書籍に気が付いてそう聞いてきた。
「ああ、ちょっと」
隠すほどのことでもない事は返って説明しづらいものである。そういえばシネードなら知っているかもしれない。
「ねえ、ジェシノって南洋芸術をやってたの?」
逆にソフィアは聞いてみた。
「あー…どうなのかなあ…?」
あら、シネードも知らないとは。
「売れる前はいろいろ挑戦してたというからやってたのかもね」
なるほど、現実的な話に繋がってきたぞ。碧奉様が本当に若い頃のジェシノを知っていたとしてもパトロンだったとは限らず、たまたまある時期の彼を知っていただけなのかも知れない。街角で自分の絵を売る売れない画家など珍しくもないし、ジェシノなどという発音しづらい名字なら記憶にも残るだろう。
「ジェシノに興味があるなら朗報よ」
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写実派の大家に8歳の女の子の肖像画を描かせるというのは、まあ王族の姫君ならアリかな。そもそも芸術家にとってパトロン獲得は就職活動のようなものだ。
シネードが図書館に来たのはジェシノの資料を確認しにきたのだという。丁度いいので持ってた書籍をそのまま渡した。
「じゃあがんばってね」
身軽になったソフィアはそのまま帰ろうとしたら小声で呼び止められた。
「ちょっといい?」
シネードはそのままソフィアを棚の後ろに引っ張る。なになに。
棚の影に移動するとシネードは小声でぼそりといった。
「碧奉様に隠し子がいるって噂が」
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これはいったいどういうことなんだろう?
ソフィアは順を追って考えをまとめようと試みたが全くまとまらない。考えようと思っても感情が渦巻き、碧奉様が鬼母になったり虜囚になったり、ウェルナー2世が暴君になったり退位させられたり、自分が館長をクビになったりしていた。
その根底にあったのは怒りだった。イヴほど明確な家庭への憧憬はないが、ソフィアもまた極めてまっとうな家庭に育った女性として、どのような形であっても我が子を捨てるなど絶対に許容できなかった。
パニックのまま館に戻り、ずんずんと物音を立てて碧奉様の部屋に向かう。
「失礼します!!!」
言うなり部屋を開けた。ばあんという音に作詩中の碧奉様が飛び上がった。そんな反応などものともせず眼前に向かう。え、え、と慌てる碧奉様を睨みつけた。
「碧奉様、お子様がいらっしゃるのですか?」
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「…すいませんでした…」
ハンカチで鼻をガードしてソフィアは謝罪した。
「あ、あは!ひー、ひー、く、くるしあははは!」
碧奉様は笑い転げていた。ひー、ひー、という呼吸音が聞こえる。一息つくと先程の言葉を繰り返した。
「ど、どこの世かあはは!子持ち女を寵姫にする王じさあはははは!」
戦国時代とかにはいましたけどね。
笑いとは緊張感の爆発である。来駕以外はほぼ何の用事もない碧奉様は、鬼のような顔のソフィアから充分な緊張を得て、続く言葉が強力な火力となって副交感神経を刺激されたのであった。
ソフィアは自分の愚かさを反省していた。まず侍女として、館長として、その噂そのものの出所や信憑性を確認するべきところを、パニックをそのまま碧奉様にぶつけてしまったのだ。
その報いはしっかりと受けた。緊張と弛緩と爆笑によりその芳香は普段をしのぐ凶器として無防備のソフィアを襲い、怒れる侍女は怒り顔のまま失神した。その急転直下もまた碧奉様の副交感神経を大いに刺激したのであった。
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「だれがそんなこといってたの」
ようやく笑いがおさまると涙を拭きながら碧奉様はそう聞いてきた。もちろんその涙に悲しみは一切含有されていない。
「その噂たぶん気にする必要ないよ」
経緯を正直に言うと碧奉様はあっさりと看過した。
「そんなの前にあった陛下の隠し子騒ぎと一緒だよ」
そういえば4年ほど前にそんな事があった。あれはどうなったんだっけ?
当時はまだ班長としてここ碧奉館で悪戦苦闘していたソフィアはそんな醜聞を気にしていられなかった。そういえばそのうち聞かなくなってたな。
「さて、と」
この話題は終わり、といった感じである。
「詩がめちゃくちゃになったお詫びはなんにしてもらおうかなあ」
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「ぷはあ、うめえ」
我らが主はわざとはしたない言葉で久々のビールを愉しんでいた。
「おばちゃんこの1杯のために生きてるようなもんだあ」
ちょっとそこの寵姫ー。ああ名目上は先生だっけ。
強くないのにお酒が大好きなのである。2杯のビールでもう真っ赤だ。目もとろんとして普段とは違った怪しい色気を醸している。
「…5月の填星が天の川にかかるのは夜8時でしょ…」
なにやら意味不明な事を言い始めた。少し寝てもらったほうがよさそうだ。
館長、おねがいします。とイヴは多分そう言った。その顔はもうタオルの塊であり、その隙間から呼吸用のホースが外へと伸びていた。
ソフィアも準備と覚悟はできていた。すでに運動着に着替えてあり、その手には軍手をはめ、その腕には厚手の毛布を用意し、鼻にはぎっちり綿を詰め、マスクは3重にナプキンは2重に装着していた。まさか主人を酔いつぶれたまま放置するわけにはいかないのであった。
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碧奉館でソフィアが奮闘している頃、北宮では二人の女性が会話を始めていた。
「やはり信憑性は低いようです」
40代の半ばほどの女性は立ったままそう報告した。
「でしょうね」
大柄の女性は無表情にそう返した。
立ち上がって窓から宮を見渡す。その名の通りまさに宮殿である。太宮を例外とすると、ここ北宮と南宮は最も格式の高い住居だった。この宮の長ともなればその権威は凄まじく、主人以外では王族すら影も踏めぬと言われている。もちろん聡明なアイーシャはそんな危険な権威を振りかざすことはしなかった。
「たまには外からの空気を感じるのも悪くはないでしょう」
宮長アイーシャはそう独りごちた。別に悪意があったわけではない。こんなくだらない事の相手をしていられなかっただけだ。それは南宮のイデアも同様で、二人は僅かな時間で小さな回避策を共有して実行した。ただそれだけであった。
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「何回イった?」
思わず顎が腕から落ちてしまった。
「…あんたねえ…」
物怖じしないにも限度があるでしょ。
碧奉様に毛布をかぶせて、そのまま背負って寝室につれていき、ベッドに寝かし、浴室で身体を流し、着替えてやっと座った矢先のストレートだった。
「やってみたい」
ずずりと煎豆茶を飲みながらミシュアは言った。
「あんた死ぬよ」
後悔はしなさそうだけど。
「館長と班長って仲いいですねえ」
イヴがけらけらと笑ってる。強くなったわね。
待ってた訳じゃないけど丁度いい。シネードから聞いた噂について2人に情報共有しておこう。
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「碧奉様ご自身を貶めるものじゃないね」
ミシュアはあっさりと言った。眉をあげて続きを促す。
「仮に子供が居ようと碧奉様にダメージはない」
言われてみればその通りだ。なにせ碧奉様はいわば幻の存在なのだ。
「じゃあなんでなんですか?」
当然の質問をイヴが発した。
「…狙いは別、なのかもね」
ミシュアは少し優しくそう言った。
「一番考えやすいのは、本当の狙いは陛下」
なるほど、とイヴが言った。この2人がこんなに仲がいいとは知らなかった。
「…でも、なんか」
イヴが感じた疑問をそのまま口にした。そう、なにかおかしい。
「ただの感想だけど」
ミシュアはさらに言葉を続けた。
「犬にボールを投げたような感じがする」
どうゆうこと?ソフィアもイヴも無言で先を促した。
「ボールを投げる、犬がそれを追う、その隙になにかをする」
2人揃って眉を上げた。
「囮ってこと?」
ソフィアが確認するとこくりと頷いた。
「分からないけど話が雑すぎる」
そうか、そうだ。確かに雑な話だ。寵姫なら隠し子くらいいてもおかしくない。その真偽はどうでもいい。要は注意がそちらに向けばいいだけなのかも知れない。
しかしさすが同期首席、空前のオール100点だと見直した。冷静で明快で論理的なのに決して理屈倒れじゃない。何より無理に結論を出そうとしないところがとても良かった。仮にこの予想が外れててもこの分析力と推測力は大いに評価したい。
イヴに対する態度も驚いた。目下のものなど目の端にすら引っ掛けないような人間だと思っていたのに。むしろ自分の人を見る目のなさが恥ずかしい。今日は自分の至らなさを痛感させられる日だが決して悪い気分ではなかった。
ミシュアはうーんと伸びをした。珍しくたくさん話して疲れたのかな。と、思ったら例の無表情うっとり顔になっていた。この変態。
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2日後の管理者会議では終了間際になんと後で執務室に来るように命じられた。え、私なんかやっちゃいました?
太宮事務次官執務室へ道のりは緊張でとても遠く感じた。こんなに緊張したのはキャリア試験合格発表日以来だった。胃がキリキリする。
執務室の扉はまさに裁きの門に見えた。実際に大きいのだが、その時のソフィアには高さが30mくらいあるように感じられた。吐きそう。
巨大な両開きの扉が開くとそこにはさらにもう一つ両開きの扉があり、2人の女性警備兵が不動の構えで立っていた。身体検査を受けると遂にその扉が開く。熱が。
その広さとは裏腹に無機質極まりない執務室には恐怖を感じた。巨大なデスクと応接セットはそれなりに良いものだったが、その部屋の権威に比べれば安物といってもいい。目眩が。
そしてそこには、週に一度はお目にかかっているはずの太宮事務次官シーラ閣下がご着座おあそばれておられますように拝察した次第であるように愚考した次第でありました。トイレに。
「ごきげんよう、ソフィア」
すいません体調が悪くて胃痛で吐き気で熱で目眩で生理で。
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「大した話じゃないの」
ソフィアを応接に誘ってシーラは優しくそう微笑んだ。
「あなたが頑張ってくれているのは知っているわ。苦労させてごめんなさいね」
シーラは優しく接してくれた。それが怖い。
「…ありがとうございます…」
ソフィアは引きつった笑顔でそう答えるのが精一杯だった。
「最近妙な話があってね」
背中に汗と鳥肌を同時に感じた。
「この王宮に母親がいるという子が来てね」
意識が遠ざかる。ぇえ碧奉様、子供いないっていってたじゃないですかぁ。
「まあそれはもう終わったんだけど」
意識が覚醒する。終わった?
「困ったのは、その母親が碧奉様だ、という噂があったのよ」
ああはい、なにやらそのようなさがない噂があると言ったような話を耳にしたように思う次第であるように思います。
「その噂を知っている?」
表情は全く変わらないが、なにかが変わったような気がした。辻斬りに遭うときってこんな感じなのかな。
「…耳にはしておりました…」
正直に言う。これはもうお見通しだろう。シーラは重ねてにこりと微笑んだ。
「あなたが誰から聞いたのか、それは聞かないわ」
それってもう全部知ってますよね。
「話してくれてよかったわ。ごきげんよう」
シーラは慈母のような微笑みでそう言い立ち上がった。一瞬気が付かなかったがどうやら用は終わったらしい。ソフィアは立ち上がると裏返った声で定型句を返し深々と頭を下げて退出した。
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執務室の扉が閉じるとソフィアは20kgも体重が落ちたような気がした。へえ、血の気が抜けるって、こういう感じなんだ。呆然としたままソフィアはそんな事を思い、とぼとぼと廊下を戻っていった。
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シーラは机に戻り執務を再開した。膨大な書類を確認する目には全く油断はない。が、彼女は別のことを思い出していた。
-元気でいい子ですよ-
その顔に優しい微笑みが浮かんだ。
師と仰いだ人の最後の弟子だ。少しずつ鍛えていかなくては。
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馬車の中でイデアは今回の一連の事柄を整理し分析していた。評価は「7」だった。アイーシャとの連携、広報課の脇の甘さを確認できたのは収穫だったが、シーラの動きが予想以上に早かったことなどがマイナス要因だった。しかしシーラが健在であるということは、考えようではアイーシャとの太宮事務次官レースを一時中断できるという事でもある。敵の敵は味方だ。とりあえずは。
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ふらふらのまま庭園のベンチにたどりつくとソフィアはへたり込んだ。もうダメ疲れた。今日は半休取って寝よ。
「ソフィア!」
放心状態のまましばらくそうしていたら背後から声をかけられた。目を向ければシネードと、見知らぬ男性がいる。
「ああ、すいません友達で」
シネードが傍らの男性にそうソフィアを紹介した。
「この前はごめんね。お詫びじゃないけど、こちらジェシノさん」
碧奉様に隠し子がいるという噂のことだろう。ちょっと死にかけただけだから大丈夫。そう思って一瞬反応が遅れた。え、ジェシノ?
「アレクサンドロ・ジェシノです」
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思ったより普通の人ね。ソフィアのジェシノに対する第一印象はそれだった。南洋芸術云々より芸術家に対する偏見である。
黒のスーツに細身の身体、白髪交じりの黒髪、剃り残しのような薄い顎鬚。画家というより画商のようだった。
ソフィアも折り目正しく挨拶と自己紹介をする。それで立ち去ってもらえるかと思ったらシネードが余計なことを言った。
「彼女あなたのファンなんです」
いや違うって。今更気づいたがシネードは割と勘違いしやすいのかも。
これは困った。ファンだということになればもっと大仰に感激したりしなくてはいけない。もう疲れてるのに。と、思ったらジェシノは何やら悲しそうな表情になった。
「ありがたいのですが、今の僕の絵はただの商品です」
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気落ちした芸術家はそのままベンチに座って自らを語り始めた。
「写実画は学生時代からほとんど進歩していません」
謙遜、というより主観的にそうなのだろう。とてもそうとは思えないが。
「写実画というのは、対象の表面をなぞっているだけに思えて」
内面や本質を表し切っていないという。
「なので随分と試行錯誤したのですが、なかなか評価されなくて」
それは本人としてはとてもつらいだろう。ソフィアは少し同情した。
「妻とも結婚したかったし、あるとき写実画を描いたらそれがね」
本人は不幸かも知れないが本当の天才だろう。自分が卑下する画法であれだけの表現ができるのはすごいことだ。
「お金に関しては随分と恵まれました。それはありがたいです」
自嘲的な笑いを浮かべた。なんとなくかわいそうになってつい水を向けてしまった。
「やはり南洋芸術こそが真の芸術と?」
ここで少し本音を吐き出したほうがいいだろう、そんな気持ちも手伝っての質問だったが反応は予想外だった。
「…あなたは、サー・セルゲイのお身内?」
どちら様ですか。
「なぜ僕が南洋芸術をやっていたことを?」
しまった個人情報だった。説明しないわけにも行かないので少しぼかして回答した。
「知人があなたの昔の絵を知っていて、少し聞いたことが」
答えてから少しどきりとした。つまり碧奉様はこの芸術家とかなり近しい関係だったということだ。仕えて4年、ついに碧奉様の正体を垣間見る時が来たのか?
「…バカにしてたでしょ、その人」
ええ確かに。心の中での即答はもちろん声には表さなかった。
「シルバースプーンを獲るまでは皆そうでしたよ。面と向かって絵がうまくなった、なんていう人もいましたよ。ハ!それはただのイラストなのに!」
芸術家は一瞬激高した。しかしその高ぶりはすぐに収まった。
「まあそのおかげで王宮でしばらく食いつなげそうですけどね」
冷静、というより皮肉な、自嘲的な笑いを浮かべた。
「すいません少し気が高ぶって」
ジェシノは冷静に謝罪した。そうか、画商のように見えたのは勘違いではないのだ。彼は本当に自らの絵を売りさばく画商として振舞おうとしているのだ。
「こちらこそ失礼を」
ソフィアも丁寧にお詫びをした。期せずとも古傷をつついてしまったのだ。
---
苦悩する画家と別れたソフィアはやや残念な気持ちだった。今の話を総合すると碧奉様は大多数の一人で、少なくともジェシノの記憶に残っているわけではなさそうだ。つまり自分の予想に近い関係だったのだろう。
まあ碧奉に関することは国家機密だしね。
「碧奉に関すること」が、着任前の個人情報にまで及ぶのかは微妙なところだったが、まあ知ったところで何があるわけでもない。碧奉様は碧奉様だ。
---
―ほう、君はこんな絵も描くのか―
セルゲイ氏は意外そうにその写実画を眺めて言った。
―ここでの仕事ももうすぐ終わる。よければこの絵を人に紹介したいのだが―
芸術の理解者であったセルゲイ氏だが、彼は本当に気に入った南洋芸術は人目にふれさせることはなく、逆に彼にとっても自分にとっても価値の低い写実画をこそ商品として売り出すことを提案してくれたのだ。
―君には感謝している。大した報酬もやれずに済まないとも思っている―
だからせめて写実画を売り出す手助けくらいはしたいのだという。
セルゲイ氏の依頼は少し変わっていた。娘の絵を描いて欲しいということだったが、直接は会わず、彼女に気が付かれずに描くというものだった。それも1枚ではなく週に1回、しかも昼から夕方までで描ける限りでいいという。
それでは大雑把にしかならないと言ったが、パッションをこそ見たいのだと言われた。そう、南洋芸術はパッションを描くことこそがその本質である。セルゲイ氏こそ芸術の理解者だったのだ。
描きあがった絵についていろいろと質問をしてくれたのも嬉しかった。特にパッションを感じさせる部分は大変興味深かったらしい。
―君の目から見た娘はずいぶんと温和なようだな―
彼はにやりと笑ってそう言った。あれほど美しい娘でも家族ならばいろいろとあるのだろう。
大した報酬ではなかったが充実した仕事だった。あれほど充実感を得た期間はなかったと言ってもいい。最後に写実画を描いたのは気まぐれというより、仕事とはいえ隠れてその内面を覗いたお詫びのようなものだった。
それが写実画家としてのジェシノの出発となった。思うところはあるが金銭面ではありがたい話だった。その時の絵は今は陛下が所有しているという。
---
「もったいなーい。サインは無理でも握手くらいはしますよねえ、普通」
アイリがしみじみと残念そうに言った。
「別にただの普通のおじさまよ」
ソフィアはそう言った。その内心を聞いてもう少し人間味を感じはしたがそれを言う必要はないだろう。
「でも握手したら金運あがりそう」
イヴは別角度の残念さを呟いた。
退勤前のアイリとイヴの業務日報、という名の雑談タイムは大体いつもこんな感じだった。我ながらゆるい館だなあと思うが、暇さに加えてしょっちゅうお互いのオーガスムを見るという異常な日常では鯱張るほうが恥ずかしい。
では、ごきげんよう。という定型句を交わして2人は事務室から首を覗かし、碧奉様が居ないことを確認してから退勤した。
結局半休は取らずじまいだった。まあ館に戻ったらもう5時に近かったのでもういいかと思ったのだ。もう少し経てばミシュアが会合から戻ってくるしそうすれば引き継いで終わりだ。65連勤かあ。
---
「じゃああとはお願いね、ごきげんよう」
ミシュアと定型の挨拶を交わしてやっと終わった。はーつかれた今日はもう寝よう。と、思っていたのだが、いざ終わると少しくらいゆっくりするか、という気になった。これはこれで疲労の現れなのだが。
ワインをちびちびとやりながらぼーっと庭の風景を見ると碧奉様がやってきた。
「あれ、めずらしいね」
ワインを飲むソフィアを珍しそうに見てる。
「どうされました?」
ちょっとバツが悪かったので間をもたせた。
「いや別に、あ、でもせっかくだから私も飲む」
え、どうしよ。でも自分が飲んでて主人にダメとは言えないか。
---
「かはあ、おばちゃんこの1杯のために生きてるようなもんだあ」
「あまり勢いよく飲むのはよくありませんよ」
注意が効いたのか、この前の反省なのか、ちびりちびりと飲む碧奉様だった。そういえば一緒に飲むのは初めてだ。
「そういえば、ジェシノさんとお会いしました」
「へえ、どんな感じだった?」
「今の自分はただの画商だと卑下なさっておられました」
「…へえ…」
少し間が空いた。さて会話をつなぐべきか、変えるべきかと思っていたら碧奉様が言葉を継いだ。
「可哀想なおっちゃんなんだよね」
意外な言葉が出てきた。そのまま次の言葉を待つ。
「南洋芸術なんていうけど、あれって感じたことをそのまま描くだけなんだ」
碧奉様の見解に耳が傾く。
「だから芸術としてじゃなくて違うことで便利だったりするのよ」
碧奉様は庭に目を向けているが、違うものを見ているように感じた。
「どういうことですか?」
思わず言葉をせがむ。
碧奉様は庭を見ていた。言葉を選んでいるような、別のことを考えているような、或いは何も考えていないような。
―きれいな人―
本当にソフィアはそう思った。子供っぽいくせに円熟した女性の美しさを兼ね揃え、さらにその奥にはそれとは違う、どう説明していいか分からない謎の美しさがある。
この美しさを何と表せばいいのだろう。言えるのは寵姫だの愛妾だのといった存在とはなにかがはっきり違う。そうだ、碧奉様は「きれい」なのだ。本質的なところで決して汚れていないような。
そしてそのきれいな人は、唐突に寝てしまった。ああ眠かったんですね。
さて、と。
ソフィアは立ち上がった。形式上は退勤しているが最後にひとつ大仕事ができてしまった。運動着に着替えてこよう。
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