碧奉館の女

@samayouyoroi

碧奉館の女

ソフィアはいつも通り7時ちょうどにその部屋を訪れた。ノックをしてから一拍置いて、失礼しますと言って入室した。どうせまだ寝てるに決まってるのだから。


予想通り部屋は暗く、ベッドには人間の存在を示す膨らみがあった。おはようございます、と声をかけて窓のカーテンを勢いよく開ける。陽の光がベッドにあたり、もぞりとベッドの膨らみが動いた。


「おはようございます」

先ほどまでと違って明確に相手を覚醒させるための声になった。もぞもぞとした動きが大きくなり、上半身が起き上がった。


「…はやくない…?」

ソフィアと同様に毎朝の同じ言葉を吐いた。まあこれがおはようの挨拶のようなものである。日の光で銀色に輝く長い髪はもしゃもしゃになっている。


「おはようございます、ちょうど今7時です」

ソフィアは毎朝の通り3回目の朝の挨拶をしつつ時間を告げた。


「…それが早いよ…」

妙に艶かしい声で、しかし子供のような文句をこねるその人物は中年の女性だった。


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イヴが運んできた煎豆茶を入口で受け取り、それをそのまま彼女に差し出す。彼女は煎豆茶を砂糖もミルクも入れずにそのまま飲むのを好んでいた。


「あ、おいし」

煎豆茶はその味を愉しむ技法として、口を横に広げて音をたてるように飲む方法があるが、同じような仕草にも関わらずそのようなはしたない音は立てなかった。


「今日はなんかあったっけ?」

煎豆茶により少し覚醒したのか予定を確認する。


「いえ、とくには」

ソフィアがそっけなく答える。そもそも予定があるほうが珍しいのだ。


特に気落ちした様子も見せず、あっそ、といいつ何の気なしに髪をかき上げた。


得も言われぬ芳香が部屋を満たす。同じ女性同士であってもその「女」の香気には目眩のような浮遊感と共に強烈な刺激を感じた。


「…碧奉へきほう様…」

ソフィアが行間で苦情を言うと、彼女は一瞬眉を上げ、そして事情を察してからからと笑った。


「もう、慣れてるでしょ、ソフィアちゃあん」

40前後であるはずの中年女性は、艶かしい声と裏腹に子供ような口調でソフィアをからかうのであった。


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もちろん碧奉は彼女の本名ではない。それは彼女が住むこの館の通称だった。本来は西の離れの館ファーウエストハウスという名前なのだが、その用途により何時の頃かこのように呼ばれるようになった。


後宮とは王や皇帝の私的空間であり、必ずしもハーレムと同義ではない。現にこの後宮には王族の子弟も多く居住しており、世の男どもが妄想するような破廉恥な状況では決してない。


しかし国王たるもの。その王統を絶やさぬためにも、より優秀な子孫を残すためにも、寵姫の一人や二人くらい居たっていいじゃない。という男の本音の部分がなくなることはなく、そういった寵姫や愛妾は後宮内でもさらに独立した居住空間を与えられることになる。その中でもここ碧奉館は極めて特殊な館だった。


碧奉とは遠国の古い言葉で「青春を奉じる」という意味だという。本来は若いうちから学業に励む、といったような意味だそうだが、遥かな距離と時間を経て言葉の意味は変わった。常用句として使われることはないが、現在この国では「青春に奉じる」という意味となっている。


つまりこの館は王族男子の初体験のための施設なのである。


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碧奉様を寝室から食堂に誘うと既に朝食の準備はできていた。新たな煎豆茶からもスープからも湯気が立っている。パンも焼きたてで本当に今できたばかりだった。にも拘わらずそこには誰もいなかった。


碧奉様は特に気にすることなく席につき朝食を食べ始めた。ソフィアも同席して朝食を頂く。これは毒見も兼ねている、ということになっているが、あるとき碧奉様から「一緒に食べよう」と誘われ、以来そういう習慣になったのだ。


「今日はどうしようかな」

食べながら碧奉様が独りごちた。


「用もないのに誰かさんに叩き起こされたからひまだなあ」

半目でじとりとソフィアをにらみつける風を装った。


「夜更かしも朝寝坊もよろしくありません」

ソフィアも負けじとぴしゃりと返した。


「お暇でしたら館の財務帳票でもご用意しましょうか?」

朝食を同じ卓で摂り、あまつさえこのような反論をするなど侍女として些か範を超えている。それがこの有様なのは、碧奉様が寛容だからなわけでも、ソフィアが非常識なわけでもなかった。厳密にはこの二人は主従ではないのである。


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男性の初体験というのはその後の女性観、人格形成の上でも極めて重要である。それを境に良かれ悪しかれ人が変わってしまうというのはままあることで、そのため正しい性知識、正しい性教育というものは、たとえ滑稽に感じても決しておろそかにできるものではない。ましてや王族男子に於いては。


またこの館は建前上あくまで教育施設なので、のちに痴情や怨恨などはあってはならない。そのため着任する者は一時的に全ての個人情報が停止される。財産も、人間関係も、戸籍も、名前すらも。それが「碧奉」なのである。


在職中も同様で、寵姫や侍女と違い後宮内の一切の立場を得ることはない。従者も配置されず、形式上は碧奉館の居候という扱いになる。実際には碧奉館担当班が事実上の従者ではあるが。


もちろんそんな非人道的な措置が長く続くわけがなく、その在職期間は長くて一週間程度であると言われている。またこの極めて特殊な職務の性質により、碧奉に関する事は国家機密として扱われ、具体的な採用基準や方法などは一切不明となっている。


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「いや?そんな面倒なかったよ?」

当代の碧奉様はあっけらかんとそういった。


「え、なんか、やらないか?っていわれて、あ、やりますって」

国家機密です。


さすがの碧奉様もそれ以上は言わず、時事報(新聞)を読みながらもぐもぐと朝食を食べている。異常な職務に就いている謎の中年女性はなんの屈託もなさそうだった。


「在職一週間程度」のお題目はどこへやら、当代の碧奉様は約20年に渡りこの職務を続けている大ベテランである。その間に幾人の王族男子を昇天させたかといえば、なんとたった一人である。


そのたった一人、国王ウェルナー2世は青春のみぎりにこの館を訪れ、以来ありとあらゆる手段を用いて当代碧奉をここに縛り付けているのであった。


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碧奉様は若く見えるわけではない。正確な年齢は分からないが、着任期間から換算すれば恐らく40歳前後くらいだろうと予測できるだけで、仮に40歳だとすればむしろそれより老けて見える。かつてはプラチナブロンドだったその髪はいまや白髪といったほうが適切で、顔にも年相応の皺もある。


しかしそれでも今なお彼女は異常な美貌を保っていた。いやそれも正しくない。保つとか保たないではなく、年齢や老化と一線を画した正体不明の魅力があり、さらにその屈託のなさと、甘い声と、得も言われぬ体香が相まって異様な魔力を醸していた。


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「じゃあ作詩と畑いじりでもしよ」

碧奉様はそういって庭のほうを見た。見て感じたものを書くのでとりあえずは紙も筆も必要ない。もし何も浮かばなかったらそのまま畑いじりに移行するつもりだろう。


作詩は彼女の趣味のひとつであり、その表現力は相当なものである。能力だけなら後宮内の古文教師も充分務まるだろう。ただしその魔力と性格から指導者には全く向いてなさそうだが。


「では」

一礼してソフィアは退出した。


ここまでは碧奉様のお相手をする時間で、次は管理者として家政を執り仕切らなくてはならない。


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事務室にいくとアイリが1人でデスクに座っていた。アイリは目礼すると口角を釣り上げてトイレの方を指差した。水が流れる音がしてイヴが出てくると慌てて礼をする。その顔が赤い。はいはい。


碧奉館に着任して3ヶ月、イヴの成長は目を瞠るものがあった。着任当日に廊下で碧奉様と出くわしてそのまま失神した時はまたダメかと諦めたものだったが。


碧奉様の色香、いや魔力は、何も男性だけを虜にするものではない。その無臭の甘い香りはまるで鼻腔から直接脳を刺激するようで、むしろ女性のほうが被害に会うことが多い。


にやにやと余裕そうな表情を浮かべてるアイリも、去年着任したときは太宮たいぐうに戻りたいと何度も訴えてきたものであった。


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業務確認を終えると3人ともデスクワークを始めた。来月の予算をまとめつつ上がってきた資料にミスがないか確認して諸票に書き込むだけだ。むろんアイリもイヴも太宮での業務経験があるのでうっかりミスでもなければ何の問題もない。


こんな楽な仕事で館長と呼ばれるようになったのは運が良かったと思う反面、いややっぱりそうでもないなと思った。普通、館長となるのは早くても40代前後である。28歳のときにソフィアが館長となれたのは能力だけではなく、体質的に碧奉様の色香に耐えられるからであった。


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「だから鼻呼吸しちゃダメなんだって」

デスクワークを終わらせそのまま雑談タイムに入ると、アイリは偉そうにイヴにそういった。


「近づくときは鼻に綿を詰めてなるべく呼吸しない。これだけで大分違うよ」

「ちょっとうっかりしてただけだよ、もう」

ここ碧奉館ではアイリが先任であるが、侍女としては同期の2人は仲がよかった。


-慣れちゃえば全然らくだよ。手当もでるしさ-


アイリはそうイヴに言って引き込んだのだと言う。それは嘘ではない。しかしいくら楽であっても15連勤後に半日しか休みが取れなかったアイリは個人的な事情からも増員に積極的だったのだ。


その線の細さに似合わずわりと金銭に抜け目のないイヴは、躊躇しつつも碧奉館勤務に応募してきたのであった。ソフィアは5分の面談で採用を決定し翌日からのシフトに組み込んだ。


その特殊な事情により碧奉館は慢性的に人員不足であり、例え僅か一日でも増員はありがたかった。溜まりに溜まった侍女たちの有給や代休を消化させなくてはまた人事から注意されることになる。


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「あと天気も重要よ」

ソフィアも経験からの注意点を述べた。


「風の強い日は当然だけど、雨の日や湿度の強い日も要注意ね。香りが滞留してて屈んたときにドカンと来ることがあるわ」

2人はひえぇと声を上げた。半ばは笑い話、半ばはかなり真剣な情報交換だった。別に親や彼氏に見られるわけでもないが、仕事中にオーガスムに達して失神など外聞のいい話ではない。


碧奉館は経理面では極めて健全かつ業務コストが低い。なにせ他の館や宮と違ってパーティというものがないからだ。また職場としての人間関係も悪くない。同じ驚異を共有する言わば戦友同士なので。


しかし人事面・組織面では相当に難儀な職場だった。後宮に勤めれば誰でもすぐに碧奉館のことは耳に入る。最初は下方面の笑い話のように思っていても、臨時出張した同僚がそのまま入院だの退職だのと聞けば笑いも引きつるというものである。太宮勤務の侍女の中にはこの館を「激エロ館」と言い放つ者もいた。


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「じゃあ午後から掃除よろしくね」

はい。と2人は答えた。


ありがたく、そして申し訳ない。


館内清掃がたった2人など普通ではない。いくらさほど大きな館ではないにしても客間も食堂も使用人エリアもあるのだ。まあその大半は清掃範囲から外してあるので2人とも適度に休みながらやるに決まっているのだが。


ソフィアはふたたび碧奉様の様子を伺いに行った。今日は何の閃きも浮かばなかったようでストローハットをかぶって庭の小さな畑をいじっている。


「碧奉様」

ソフィアが声をかけると、はあいと声が返ってきた。


「これから清掃を行います。私は会議ですのでよろしくお願いします」

つまり掃除が終わるまで畑をいじっててね、と言ったのだ。


再びはあいと軽い言葉が返ってきたので背中に一礼して退出した。


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週に一回太宮で行われる管理者会議は緊張感に満ち溢れていた。出席者は獲物を狙う猛獣のような目で、しかし姿勢と態度だけは極めて正しく、また余計な口など利かずに会議に参加していた。その会議の中で積極的に言葉を紡ぐのは最上席の太宮事務次官シーラだけだった。


南の池のそばの邸メゾンデサウスポンドの予算はちょっと高いんじゃないかしら」

軽い質問のようなその声は、しかし予算組み直し命令だった。


「…来週には改めたものを…」

誰も声にも態度にも出さないが、同情と冷笑の空気が渦巻いた。


おお怖わ怖わ。


館にいれば館長としてそれなりの態度を示しているが、この会議では31歳のソフィアなど子供ですらない。ただのお味噌である。オミソってなんだろう?


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列席する女性管理職はみな年上なだけではなく、それぞれがその豪腕で宮長だの邸長だのという顕職を勝ち取った猛者ばかりである。碧奉館とは違った意味で、いやこれこそが本来上級侍女たちの戦場なのだ。


前述したソフィアと侍女の業務風景など通常ではあり得ない。まず館長は普通一般侍女と同じ事務室で執務などしない。それどころか日常的に言葉を交わすこともない。侍女にはまず一般職と上級職があり、その中で12の等級に細かく分類され、宮長や館長というのはその2番目から3番目に位置する上位職なのである。


さらに宮長や館長の中にも明確な序列がある。最上位が宮、次いで殿、邸と続いて最後が館となっている。さらにさらにそのそれぞれの階級の中でも居住者の立場や歴史的経緯より格差があり、その最上位が後宮本庁「太宮」なのだ。


太宮にも宮長という役職はあるが、それは形式的に王妃が就いているだけで、事務仕事など一切関与しない。自分がそんな役職に就いている事を知らない王妃もいる。一応最高管理者として決裁することになってはいるが、大方の王妃は数字だけ確認して捺印するだけ、ひどい場合は次席のものに決裁を代行させたりする。つまりシーラは現在の後宮の独裁者なのだ。


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予算確認は続く。

さすがに南の池のそばの邸のようなことはなかったが、細かい質問や指摘は多く、その都度管理者達はそれに回答、訂正、或るいはさりげない反論を展開していた。


碧奉館では午前中の僅か2時間で終わらせた来月度予算編成であるが、他の宮殿では残業など当たり前、パーティの予定など入れば休日返上の上に徹夜など極々当然の事である。碧奉館に入る前のソフィアも他の宮殿で何度も徹夜の経験がある。


それを一目でやりなおしを命じられたらたまったものではない。管理者としての沽券にも関わる大事件である。まあ南の池のそばの邸は去年横領が発覚したのでシーラの目も厳しくなってはいるのだが。


「相変わらず西の離れの館は分かりやすいわ」

予算確認の最後でシーラはそう微笑んだ。周りから小さいがはっきりと失笑が聞こえた。なにせ紙1枚なので。


お味噌扱いのソフィアであるが、この重すぎる会議の清涼剤として割とシーラからの友好度は高い。信頼度ではないが。


「ではまた来週、ごきげんよう」

シーラの声に対して一斉にごきげんようという声が上がり、皆即座に立ち上がった。南の池のそばの邸のクレーディに声をかけようかと迷ったが、彼女は目もくれずさっさと会議室を出ていってしまった。かつての上司の立場は苦しいものだった。


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碧奉館に戻り一息つく。ふーつかれた。


会議の緊張感が解けるとソフィアは疲れを自覚した。何せ何連勤なのだか自分でも分からない。碧奉館の特殊な事情により本来の意味で「侍女」が務まるのはソフィア本人しかいないのだ。侍女たちに負担をかけて申し訳ないけど私だって休みたいよ。


彼女は確かに疲れていた。出かける前になにがあって、ここがどこで、今が何時くらいなのかをすっかり失念していたのである。


ふわりと香りが漂ってきた瞬間、彼女は自分の油断を悟った。

しまった!


一瞬で達してソフィアはのけぞった。目が裏返り、口が開き声が漏れた。身体の震えが止まらない。ああそういえばアンリとはどれくらい会ってなかったっけな。まだ寒かった気がしたけど。あれ?別れたんだっけ?


ぼんやりとした思考が徐々に覚醒し彼女は我に返った。それとともに怒りが蘇った。


ふん!あんな自分勝手な男なんか忘れたわよ!


アンリとは割と相性がよかったが、しかし碧奉様によって本当の歓びを知ってしまった後では単調な体操になってしまった。それでも夫候補として交際を続けていたが、館長就任と共に休みが取れなくなったのである。


ある日まったく突然休みを取れたのでアンリのアパートでサプライズデートと洒落込もうとしたら、ベッドの上で「体操」しているアンリにこっちがサプライズを受けてしまった次第であった。


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「あれ、おかえり」

忘れかけていた懐かしい痛みを思い出させてくれた女性は意外そうにそういった。


ソフィアですら眼前で髪をかきあげられただけで目眩を覚えるほどの芳香は、汗をかいた後に特に強く、そこに超高級な洗剤や入浴剤と合わさると正に凶器となった。彼女専用の浴室はこの居間の近くであり、その芳香による被害を抑えるためにこの居間を経由して外へ空気が流れるように換気経路を作ったのはソフィア自身だった。


「…もどりました…」

素早くハンカチで鼻をガードしてそう答えた。なるべく冷静な声を出そうと務めたが、それはいかにもわざとらしく不機嫌な、そしてかすれた声になってしまった。その道のベテランの目がごまかせるはずがない。


「ああ、ごめんごめん」

口ではそういいつつ、にへらと笑う碧奉様なのであった。


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クレーディよりは遥かに滑稽な理由で「管理者の沽券」を守るための着替えを終わらすと、ミシュアが換気経路用のカーテンを外していた。ああもうこんな時間か。


「ああ、おはよ」

ソフィアに気がつくと軽く挨拶をしてきた。


夜勤専門のミシュアはソフィアの同期であり、黒髪の美人であり、既婚者であり、そして変態だった。


他の侍女と違って碧奉様耐性が強いわけではなく、現在の碧奉館担当侍女の中でもダントツの失神率を誇る。にも関わらず逆に癖になってこの館勤務を続けていた。しかしさすがに直に接するのは返って邪魔になるので、侍女としては珍しい夜勤専門として働いているのであった。


元々予定などないに等しい碧奉館では本来夜勤など何の仕事もない。しかしだからといって人が居ないわけにはいかず、またアイリやイヴが居つくまでは会計業務を一手に引き受けてもらっていたのであった。


今はほとんど寝にくるだけなのだが、それはそれでシフト上便利な存在でもあった。現状アイリやイヴに丸1日の休暇を与えることは難しい。しかし夜間の12時間は彼女が居るという形式にすれば半休で実質1日分の休暇を許可することができるのだ。まあその分未消化の有給と振休が積み上がっていくのだが。


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ミシュアはカーテンを外した後をぱたぱたとハタキで叩いている。時々手が止まるのは、極僅かな芳香を愉しんでいるのだろう。変態。旦那いいのか。


ふとミシュアがあ、と声を上げる。


「ソフィア、本務だ」


ぎょっとして窓を見ると、まだ遠くだったが確かに見慣れた馬車と白い旗が見えた。アイリもげっと声を上げる。


「アイリ、ミランダさんに連絡して。大至急よ」


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「暁陽、益々山河を照らし、睦光、潮を満たす。填星が天河を渡り輝きを弥増す。宸襟も斯くの如し、我が意を体せよ」


何をいってるかはさっぱり分からないが、何の用だかはもうとっくに分かっていた。


コホン、と咳をして侍従エミュールが補足した。


「あー、つまりだな。今夜21時に碧奉館、じゃなかった何といったかな…? ああそう、西の離れの館に来駕の栄誉を賜う、ということである。粗相のないようにな」


「鳥髭」とあだ名されるエミュールはまじめな男だった。碧奉館じゃなくても国王使者の旗を掲げた馬車が寵姫の住居にやってくれば言われなくったって何の用だか分かる。それでもまあ形式というものが必要ということも分かる。しかしそんな格好するならもうちょっとやりようがあると思うのだが。


エミュールは完全武装していた。白い全身防塵服にフードをかぶり、さらにそのフードの中でほとんど仮面といってもいいくらい巨大なゴーグルとマスクをしている。さらに滑稽なのはその防塵服の上に侍従を示す腕章をくっつけていた。腕に通しているのではない。防塵服の上からでは腕章が通らないのでテープで止めているのだ。


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碧奉様が勅書に頭を下げる。離れているがその勅書が訂正だらけなのが透けて見える。つまり最初の訳のわからない玉意は、右筆などに文章を考えさせたのではなく、陛下自身が書きなぐったものを、清書もせず裏紙も貼らずにそのまま玉璽だけ捺してもってこさせたのだ。どんだけ溜まってるのよ。


光栄です、陛下アイ・フィール・オナード、ユア・マジェスティ


いつもの定型句であるが、普段の碧奉様からはとても想像できない美しい言葉で玉意を賜った。その甘いかすれ声も相まって聞くだけでぞくりとする。


碧奉様の背後には館の全職員が集まっていた。

館長のソフィア以下、ミランダ、ミシュア、アイリ、イヴ。それで全員である。そしてただちに準備と避難をしなくてはならない。


現在18時過ぎ。時間はなかった。


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「敵」がやってくるまであと2時間半、侍女たちは総出で「戦闘準備」を始めた。


まず食事の準備である。ほぼ無人になるのでシチューなどの簡単にすぐ食べられて、それなりに見栄えするものを作らなくてはならない。これはミシュアを充てた。


浴室および移動が想定される経路の清掃には昼に引き続きアイリとイヴを充てた。「…え、さっき碧奉様が入浴されてましたよね…」だから2人がかりなの。


肝心の寝室の清掃・整頓はソフィアとミランダが担当した。さすがのソフィアもちゃんとマスクをして万全の準備を整える。


「毎度まいどのお祭り騒ぎですねえ」

にこにこと笑いながらミランダがてきぱきと働いてくれる。


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よし、OK。


ソフィアは整頓された部屋を見て満足した。ソフィアのような侍女は実際には官僚なのだが、侍女としてのその腕前は鈍っていなかった。1流ホテルもかくやと思わせる見事な仕事だった。


ごはんできたよー

調理場からミシュアの声が聞こえる。お母さんか。


アイリとイヴの反応がないので見に行ったらこっちはあと少しといったところだった。肝心の浴室に手を焼いている。エミュールほど厳重ではないがマスクの上にタオルを巻いている。


「…すぐ濡れて滲みちゃうんで…」

それがどっちの意味だかは敢えて確認せず「急いで」と急かした。


10分ほどもかかりようやく2人が清掃を完了させた。確認するとまあそれなりに。少なくとも素人が見ておかしいと思うところはない。洗剤のラベルがやや傾いていたが今回は見逃しておこう。


マイペースなミシュアの料理は確認するまでもない。あんな変わり者のくせに同期の首席だったのだ。


「よし、じゃあミシュア、アイリ、イヴはただちに避難!じゃなかった退出! ミランダさんは残ってください!」さすがに来駕時に館長まで不在というわけにはいかないのだ。


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白い馬に牽かれた馬車は、豪華ではあるが割と平凡なものだった。過剰な装飾などはなく、権威を示す最低限の装飾だけで、それよりも乗り心地や防御性能を重視しているようだった。


馬車が停まり扉が開く。出てきたのは鳥髭ことエミュールだった。先程とは違いちゃんと燕尾服姿である。まあさっきも着てたんだろうけど。


絨毯を投げて道を作るなどという大時代で無駄なことはせず、至尊の存在はそのまま降りてきた。


7代国王ウェルナー2世、御年37歳。短めの金髪は軽くワックスでセットしてあり、スーツの上からもはっきり分かる筋肉質な身体は軍人のようにも見える。しかし実際には文治の人で軍隊経験はない。その身体とはやや不釣り合いな、はにかんだような顔は後宮でも人気であるが、今その目は血走っている。


決して暴虐な人でも暗愚な人でもなかったがなぜか女性関係での問題が多い。王族同士で結婚したのだが、家格では王妃のほうが上なせいか今ひとつうまく行っていないという噂がある。前例に従い2人に抑えた寵姫はどちらも横領の疑惑が持たれ、その一人が南の池のそばの邸の主人であった。過去には国王の隠し子を生んだという女性が出てきて大問題になったこともある。女癖が悪いと言うより女難の星に生まれたと言うべきであろう。


ソフィアとミランダは玄関の外で無言で頭を下げて出迎えた。館長としては居なくてはいけないが、所詮単なる使用人でしかない侍女が国王陛下に言上することなど何もない。ただの置物として体裁を整えているだけだ。


ウェルナー2世は精一杯威厳を保とうとしていたが、その顔は怒ったように赤く、その歩調は早く、その下半身は滾っていた。


館に入った瞬間に爆発するんじゃないかしら。ふとそんなことを考えしまい、一瞬こちらが爆笑の発作に襲われたがさすがにそれは抑えきった。


ミランダが無言で扉を開ける。目であとは頼むと伝えてソフィアも退出した。


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翌朝6時、仮宅でソフィアは目を覚ました。


ソフィアは碧奉館の住み込みなので自宅というものはない。しかし今回のようなことがしょっちゅうあるので館の近くに仮宅を用意しているのだ。窓から館のほうを見ると丁度馬車に馬が繋がれ始めていた。もうすぐね。


生真面目なウェルナー2世は来駕の際はほぼ必ず21時に来て翌朝7時前には帰っていく。それは館の侍女たちのスケジュールへの影響を考えてのことなのか、あるいは王妃との確執でそうなのかは知らないが。


碧奉館の自室より狭い仮宅はほぼベッドとトイレしかない。浴室もなければ煎豆茶を煎れるサイフォンもコンロもない。着替えすら入れるところがないので準備していない。なので目が醒めたら居ても何もできないのだ。とりあえず昨日の服を着て、国王が帰ったタイミングで館に戻ってから朝の準備をしよう。


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「おはようございます」

ミランダが出迎えてくれた。


「おはようございます、昨日もありがとうございました」

ソファアは年長の部下に丁寧に礼を言った。


御年82歳。後宮侍女最高齢のミランダは、同時に本務決戦兵器でもあった。


60年以上も後宮で侍女として勤めているにも関わらず、何故か最下級の「女中」であるミランダは謎の女性だった。侍女としての腕前はソフィアが見る限りスペシャリストと言っていい。年齢に比例して目は弱くなっているがその頭脳は明晰で、財務諸表でも何でもあっさりと仕上げてみせる。ソフィアもそうだがアイリもイヴもミシュアですら彼女のさりげない指導を受けたことは一度ならずある。


噂では先々代国王の寵姫だったとか、いや侍従武官だったとかいろいろあるがはっきりとしたことは分からない。何より彼女は碧奉様の魔力を完全無効化する唯一の存在だった。なんと碧奉様の背中を流すという離れ業をやってのけたことすらある。


小さな身体に大きな鼻、それとゼンマイ仕掛けの人形のようなキコキコと音が聞こえてきそうな独特の歩き方が極めて特徴的で、名前を知らなくてもその特徴を言えば大体の人が「ああ、あの人か」と特定可能な名物侍女であった。


ソフィアが館長になれた最大の理由は碧奉様の魔力への抵抗力が高かったからだが、それを理由に館長に推してくれたのがミランダであったという。誰に?


本当なら彼女こそ碧奉館館長にふさわしいのだが、年齢を理由に辞退し続けているのだ。今もずっと。たまに打診しても答えは変わらない。


「まあ忙しいときは」

そういって非常勤の、というより本務時専任スタッフという特殊な立場で働いているのだ。言うまでもなく最重要スタッフだった。自分以上に。


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「じゃあ後はおねがいしますよ」

そういってミランダはキコキコと帰っていった。ただ歩いているだけなのに妙におかしく感じるのはソフィアだけではない。


以前は事後の対応も全てやってくれていたのだが、徐々にそこから手を引いているのは、さりげない指導であった。


「お疲れ様でした」

部下であり、恩人であり、ある意味で師匠でもある人に軽く頭を下げて見送った。


さて、と。


鼻に綿を詰め、マスクを二重に装着し、さらにその上にタオルという重装備を確認しソフィアは気合を入れた。いざ碧奉様を起こしに参らん。


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もう、見える。


いつもの通りにノックをし、いつもの通りに一泊置いて軽く声をかけ、いつもの通りに入室したその部屋は、いつもの通りではなかった。


自分の経験から照らし合わせても逢瀬の結果としてはさほど異常な状況ではない。真剣勝負の結果は得てしてこんなものだろう。しかし綿とマスクとタオルをしてなおその芳香、いや淫臭は凄まじかった。瞬く間にタオルやマスクが汚染される気がして、さらにその上に予備のタオルを巻きつけた。


もごもごとおはようございます、と声をかけ、反応も確認せず即時にカーテンと、そして窓を開けた。たまに近隣邸宅から苦情がくることもあるが今はそんな事を気にしていられない。


もぞもぞとベッド膨らみが動いて上半身が起き上がった。さほど大きくはないが見事な乳房が丸見えである。そりゃまあ、ね。


「おはようございます」

はっきりとした口調を意識したつもりだったが、自分でも聞き取りづらかった。


「…はやくない…?」


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普段の手順とは違い煎豆茶が運ばれてくることはなく、ローブだけ羽織わせてそのまま浴室に誘った。浴室に入るのを確認してソフィアは自ら煎豆茶と朝食の用意に向かった。今はソフィアしかおらず、またいくらなんでも事実上の主人に対して温め直した煎豆茶やら冷えた朝食を出すわけにはいかなかった。


ミシュアが用意した料理は夜食として少し食べられたようで、シチューもローストビーフも半分以上残っている。今日の侍女たちの朝食はこれでいいか。


本務、ねえ。


お湯を沸かしながらふとその言葉を思った。正式な言葉ではなく言わば隠語である。誰が言ったのかは定かではないが、とある寵姫が自らの役目をそう表現したという。それがいつしか言葉の意味が変わり、従者達の一連の対応を指す言葉となった。


来駕とは「国王が臣下の元にやってくる」というほどの意味なのだが、それはあくまで寵姫が賜る栄誉であり、その従者たちには本来何の関係もない。しかし実際問題として睦事の相手だけしていればいい寵姫と違い、むしろ従者のほうが大変なのだ。


相手は至尊なる存在なので、警備は当然、ありとあらゆる状況を想定して決して粗相があってはならない。清潔な寝室、浴室、飲み物、食事、太宮や場合によっては外部への連絡網、万が一を想定しての脱出経路や避難場所、そして何があっても即時対応できる従者。


にも関わらずそれは極めてプライベートな時間なので決して宸襟を乱してはならない。そんな矛盾した状況に対応しなくてはならないのだ。そこまではどこでも一緒だろうが、ウチは名にし負う碧奉館なのである。ミランダがいなかったら20年も前に破綻していただろう。


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「もう、つかれちゃったよ」

浴室から出てきた碧奉様はそう独りごちた。はいはいお疲れ様。


煎豆茶を淹れて差し出す。ここからは毎朝のスケジュールに沿うつもりだ。寝室ではなく食堂だが。


「あ、おいし」

昨日と変わらず口を横に広げて芳香を味わう。実は碧奉様も意識して同じように振る舞ってくれているのかもしれない。


ふと、この女性のことが気になった。一週間というお題目で20年もこんなところに縛り付けられて不満はないのだろうか。


「…ご不便は、ないのですか?」

碧奉に関する事は国家機密であり、それは聞くことはできない。しかしあくまで従者として居候に、いや主に、その気持ちを伺うのは職責の内だった。


従者としての範囲でのギリギリの質問に対し、碧奉様は行間の質問を察し、その機密に触れない範囲での回答をしてくれた。


「そりゃあ、たまにはでかけたいけどね」

音もなく煎豆茶を飲みながらそう言った。


「昔いろいろあっちゃったからね」

子供のようにてへ、と笑ってみせた。


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今なおその色気と芳香によるさがない噂(と実際の影響)は強いが、自分が後宮に勤める前、まだ若かしり頃の、全盛期の碧奉様の伝説はいくつか聞いたことがある。


曰く、笑顔ひとつで10歳の少年を精通させた。

曰く、結婚式で誓いの前に夫婦を離婚に追い込んだ。

曰く、ダンスパートナーの座を巡って暗殺事件が起きた。

曰く、碧奉様により失神した侍女が自殺未遂を起こした。

曰く、いや自殺未遂ではなく無理心中を図った。


どれが本当でどれが嘘だかは分からない。また仮に客観的な事実であっても具体的な状況は分からず、どれほど脚色されているのかも分からない。しかし火のないところに煙は立たないのも確かであった。


事実としてソフィアが知っているのは、碧奉様が通常往来できるのはこの館と庭だけであった。周辺地域すら無許可ではダメなのである。


完全に禁止されているわけではないが、その許可には最終的に太宮事務次官の決裁が必要であり、かつ外出時にはレベル4警戒態勢が発動される。以前一度だけ外出申請をしてみたが、2ヶ月に渡る審査を重ねても遂に裁可されることはなかった。その申請は太宮事務次官まで達しなかった。


---


「男ってさ、なかなか奥さんとかに甘えられないんだよね」

碧奉様はあっさりと、そして深い言葉を言った。


まだ未婚のソフィアはそんなことを考えたこともなかった。ただ言われてみれば、なんとなくは察するものがある。少なくとも国王ウェルナー2世に関しては。


具体的な事は知らないが、ウェルナー2世夫婦の仲が睦まじいという話は聞いたことがない。基本的には外遊などは共にするが、それも独りで向かう事も多いと聞く。2人の寵姫に関しては前述の有様で、気を休めるどころではないだろう。


そう、考えてみるとウェルナー2世が本当に気を休められる相手は碧奉様しか居ないのかも知れない。地位にも、権力にも、金銭にも影響がなく、名前すら持たない幻の女性。そして初めての女性。


だから20年もこんなところに縛り付け、かつ寵姫への認定もしないのかも知れない。それは幻の女性が、現実の女になってしまうから。


それこそ非人道の限りであり、また碧奉の特殊性から、逆にどのような恩賜も与えることはできない。この問題は格好の攻撃材料であり、王族からも議会からも厳しく指摘されているという。そのような渦中にあって碧奉様自身がどう思っているのか。


そういう意味を込めてじっと碧奉様を伺ったが、口にしたのは違う言葉だった。


「アンリってだあれ?」

そんな人は知りません。心の中でそう答えた。

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