クマの家

増田朋美

クマの家

クマの家

いよいよ、梅雨の季節も終了に近づき、暑い日が続くようになった。こうなると、もう絽とか紗とかそういう着物を着ても良いと思われる季節になるのであるが、そういう時は、生きているだけで大変だという言葉が聞こえてくる季節になる。テレビでは、熱中症がどうのとか、暑い服装は避けようとか、そういう放送を盛んに呼びかけるようになるが、こういう暑い時、絽や紗等の、着物が役に立つ季節であることは、あまり知られていない。

その日、製鉄所では、杉ちゃんが、水穂さんにカレーを食べさせようとやっきになっていた。カレーと言っても、由紀子がテレビ番組で見た、病人用のカレーという物であったが。たまたまニュース番組でやっていた、病人でも食べられるカレーというものが、テレビで特集されていて、由紀子はの材料とレシピを、スマートフォンで撮影して、杉ちゃんに作って貰おうという魂胆だったのである。

「ほら、食べろ、由紀子さんが、病人でも食べられる優しいカレーということで、テレビで見つけてくれたんだってよ。」

と、杉ちゃんは、又、おさじを水穂さんの口もとに持っていくが、水穂さんは、反対の方を向いてしまうのであった。

「なんでかなあ。食欲が湧かないということかなあ。僕もよくわからないよ。」

杉ちゃんがいうと、由紀子は、やっぱり、作戦は失敗だったかなと思って、大きなため息をついた。確かに栄養学的には素晴らしいカレーなのかもしれないが、食べさせるというか、食べる気にさせるというのは、できない物だったんだろう。

「こんにちは。」

と、玄関先で女性の声がした。だれだろうと思ったら、天童あさ子先生だった。

「水穂さん具合はどう?杉ちゃんたちも元気でやっている?」

そう聞いてくれる天童先生は、本当にありがたいなと由紀子は思うのだった。もちろん、具合の悪いのは水穂さんであることは、疑いないのだが、それを看病してやっている、杉ちゃんたちも、元気でないと、水穂さんを含め、生活が成り立たないのだということを知っているからだ。

「あら、食事していたの?」

と、天童先生が聞いた。杉ちゃんが、

「おう、由紀子さんが、病人でも食べられるカレーというのを教えてくれてな。それで、見よう見まねで作ってみたが、この通り、食べてくれなくて困っているわけ。」

と、即答した。それを聞くと、天童先生は、そうなのねと言った。

「今日はどうされたんですか?何か、こちらの近くでイベントでも?」

と、由紀子が聞くと、

「ええ、イベントというか、講座があったのよ。直伝霊気の。」

と、天童先生は答える。

「そうですか。じきでんれいきとは、どういうものなんでしょうか?」

由紀子はもう一度聞いてみる。

「ええ、そういうことなら、まず初めに、霊気という物を説明しなきゃいけないわね。霊気は、日本で独自に開発された民間療法なの。戦後、GHQの指導で取りやめになったけど、そうなる前に、西洋にも広まっていたから、西洋で、霊気の技術は広がっていて、西洋の要素をつけて、日本にも持ち込まれるようになったのよ。それが西洋霊気。直伝霊気というのは、迫害されながらも、日本で独自に行われていた治療法で、長らく、門外不出の技術だったんだけど、最近になって、一般の人でも学べるようになった、いわば古くて新しい治療法ね。」

天童先生がそう説明すると、

「それでは、水穂さんがご飯を食べるようにすることはできないでしょうか?」

と、由紀子は聞いて見た。

「幾らなんでも、ご飯を食べさせるようにさせるのは無理だろう。」

杉ちゃんがいうと、天童先生は、

「そうね。ちょっと荒療治みたいに見えるかもしれないけど、やってみようか。それでは、水穂さん布団に座ってみてくれるかしら。」

といった。由紀子に支えてもらって、水穂さんは何とか布団に座った。其れもよろよろして、すぐに倒れてしまいそうな感じだった。杉ちゃんが、ほら見ろ、ご飯を食べないからそうなるんだよというが、天童先生はちょっと静かにしてといった。そして、水穂さんの背中にしばらく両手の平を当て、次に、さすったり、軽く叩いたりし始めた。水穂さんは、だんだんに苦しそうな顔になって、しまいには激しくせき込むので、由紀子は、水穂さん大丈夫?苦しい?と声をかけてしまった位だ。

「大丈夫よ。大丈夫。頑張って吐き出してご覧。危ないことにはならないから、頑張って。」

と、天童先生は優しくなだめながら、水穂さんの背中を撫でてやっている。水穂さんは、激しくせき込み続けるままであったので、由紀子の方が心配になってしまう。天童先生から、何か拭くものないかしらと、聞いて、杉ちゃんが手ぬぐいを渡すと、天童先生は、水穂さんの口もとに、それを当てた。

と、同時に、赤い液体がものすごい勢いで、水穂さんの口からあふれ出た。

「よしよし、たまっていたものは取れたかな?」

天童先生がそういうと、水穂さんのせき込むのはだんだん小さくなって、最終的には止まった。本来なら、薬を飲んで眠ってしまうのが常であるが、今回は眠らないで、座ったままでいる。

「はい、たまった物が出たから、ちょっと、食べてみようか。はい、カレーをどうぞ。」

杉ちゃんが、それに乗って、おさじを水穂さんの口もとに持っていくと、水穂さんはやっとカレーを口に入れてくれた。天童先生は、まだ水穂さんのそばに居たが、二口目も、三口目も何もこわがらずに口にしてくれた。それを繰り返して、カレーのお皿は空っぽになった。

「どう?うまいもん食べて、少しは、ましになったか。」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ、普段は味がしないんですけど、今回はちゃんとカレーの味がしました。」

と、水穂さんはちゃんと答えるのだった。同時に、又玄関の戸がガラガラっと開いて、

「こんにちは、影浦です。往診に来ました。」

と、医者の影浦千代吉が入ってきたのであった。製鉄所の玄関は段差がないので、誰でもすぐに入っていくことができてしまうのだ。影浦は、布団に横にならせて貰った水穂さんの姿と、カレーのお皿が空っぽになったのを見て、

「おお、久しぶりに食事をしてくれたんですね。何か食べようと思ってくれたきっかけがあったんですか?」

と、彼に聞く。

「いやあね、気持ち的なきっかけがあったわけじゃないよ。そうじゃなくて、この天童先生が、何とか霊気という、民間療法をしてくれただけで。」

と、杉ちゃんがあっさり答えるのであるが、由紀子は影浦先生にいうのはまずいのではないかと思った。医療従事者は、こういう民間療法を嫌う傾向がある事を由紀子は知っていた。でも、影浦先生は、にこやかに笑った。

「そうですか。其れは良かったですね。霊気は、日本だけではなく、世界的に認められている、民間療法です。英語の新語辞典にも、しっかりReikiという単語で掲載されていますから、国際的にも評価が高いんですよ。そんな治療をしてくれる人がいてくれるなんて、水穂さんも心強いですね。」

「へえ、影浦先生は、民間療法の事を悪く言わないんですか。」

と、杉ちゃんがいうと、

「いいえ、言いませんよ。僕たちは逆にこういう民間療法をしてくれるヒーラーさんたちには感謝したいくらいです。精神疾患を、医者が直すということは、できやしないんですから。それをやってくれるのは、霊気とか、ヒプノセラピーとか無いと、できやしませんよ。医者はただ、症状を和らげるだけ。何の役にもたちはしません。そういうところは西洋医学の大きな弱点なのかもしれませんね。水穂さん、一体どんな霊気を施術して頂いたんですか?霊気というと、色んな流派があって、人によって得手不得手がありますからね。」

「えーと、えーとね。直伝霊気だ。ここにいる天童先生が施術してくれたんだ。今僕やっと思いだしたよ。」

水穂さんの代わりに杉ちゃんが言った。

「そうですか、直伝霊気は、いわゆる西洋式霊気よりも強力であると言いますよね。西洋式霊気というと、症状をいやす目的で行われるようですが、直伝霊気というと、症状をとめる目的で行われていたようですし。」

「はあ、なるほどねえ。そもそも、水穂さんの体に、何をやったんだ?ただ、体を撫でているしか、見えなかったけど?」

影浦先生の話しにあわせて、杉ちゃんが聞いた。杉ちゃんは、どんな事でもそうなのだが、なんでも質問して、首を突っ込む癖がある。

「ええ、ただ、水穂さんの体が持っている、余分な物をだそうという、力を引き出しただけの事よ。霊気なんてそんな物よ。ただ、体を撫でて、水穂さんが体にたまった物を吐き出してくれるように促しただけよ。」

「はあ、ヒーラーとかそういうひとは、いつも答えがあいまいなんだよな。薬と違って、何々という成分が何々という病原体をやっつけたという、具体的な答えがえられないんだ。」

「杉ちゃん、そんな事言わないでください。精神疾患というのは、みんな具体的な物があるわけではありません。足に大きな腫瘍があるとか、そういう物とは違って、そもそも病原体というものが、うごかない物ではないんですから、治療だって具体的な物でなくたっていいんです。そういう分野があっても良いはずです。なんでも0と1だけで解決できる社会になったら、其れこそ大変ですよ。」

杉ちゃんがそういうと、影浦先生がそれをとめた。実は由紀子も、天童先生の説明に納得できないようなところがあったが、影浦先生がそう言ってくれて、自分は水穂さんが良くなってくれたから、良かったことにしようと考え直した。こういう人がいてくれた方が、世のなかは楽になれると思う事も必要なのだ。

「天童先生。ありがとうございました。これをお納めください。」

水穂さんは、天童先生に、お金を渡そうとした。いつもよろよろしている水穂さんが、この時ばかりは、しっかりしているのに、由紀子も驚いたのだった。

「いいのよ。あたしはまだ勉強中で、直伝霊気に関しては、師範免許をとったわけでもないんですから。」

と、天童先生がいう。師範制度があるのか、と由紀子は驚いた。でも、茶道も邦楽も師範制度がある事を思いだした。できれば、その制度を使って欲しくないなと由紀子は思うのだが、気にしないようにしようと思った。師範制度というものは、由紀子はあまり好きではない。家元の先生に服従しなければならないとか、そういうところが嫌いだった。でも、日本の伝統文化というものは、必ず師範制度がついて回るのである。

「そうなんだねえ。いずれにしても、水穂さんの事を、よろしく頼むよ。天童先生のような人が、水穂さんには必要なんだからなあ。」

杉ちゃんの方は、師範制度なんて気にしないようであった。

「そうですね。僕も頻繁に来てやって欲しいと思います。薬は、どうしても副作用が出ますしね。こういう民間療法は、薬のように直接的に効くわけではないですが、副作用もさほど強くないですからね。」

影浦先生もにこやかに笑っている。当人である水穂さんのほうは、もう疲れ果ててしまったのか、それとも霊気の効き目が出たのが不詳だが、静かに眠ってしまっているのであった。

其れから、二三日たったある日。

駅員の仕事をし終わって、自宅へ帰って来た由紀子は、何気なくテレビをつけると、ちょうどニュースの時間だった。

「次のニュースです。今日、静岡県富士市の富士川から、女性の水死体がみつかりました。近くに落ちていた鞄の中から、免許証がみつかったため、身元は、富士市在住の、宮川英子さんと断定され、警察は、事件と事故の両面から捜査を開始しました、、、。」

よくある事件のニュースだが、由紀子の耳にはこのように聞こえてきたので、テレビをとめることができず、そのまま聞いてしまった。

「関係者への取材に寄りますと、宮川さんは、精神疾患に罹患しており、治療のために、霊気療法を受けていたということです。警察は、この霊気療法士が、何か事情を知っていると見て、原因を調べています。」

もしかしたら、天童先生の事かと思ったが、テレビに映った映像は、天童先生のサロンではなかったので安心した。その家は、塀で囲まれておらず、まさしく、むき出しでたっている家で、玄関先に、クマの家と貼り紙がしてあった。由紀子は、テレビに映っている映像が、何処を刺しているのかピンとこなかった。でも、富士市であることに間違いなかった。だって、テレビの映像には富士市と書いてあるのだから。その日は、もうそれ以上テレビを見ることはしなかったので、由紀子はその映像の事を忘れてしまったのである。

それから、さらに数日たったある日の事だ。由紀子は須津にある、洋品店に用があって、須津へ車を走らせた。洋品店の指定された駐車場に車をとめ、店に向って歩き出したところ、何か見覚えのある小さな家が見えてきた。確かに、周りを塀で囲まれているわけでもないし、植木などで目隠ししている事もない。そして、玄関ドアには、クマの家と書かれた貼り紙が貼られていた。これが、あの、テレビに映ったクマの家だろうか?由紀子が足をとめて、眺めていると、ギイという音がして、貼り紙をされた、ドアが開いた。一人の女性が、その中から出てきた。この人が宮川さんの事件をしっているという女性なのだろうか。

「あら、初めまして。お客さんヒーリングがご希望ですか?それではどうぞお入りください。」

と、女性は、由紀子を見て自分の来客と間違えたのだろうか、そんなことをいって、由紀子に家に入らせるようなしぐさをした。

「あの私、ここではなくて。」

由紀子が言いかけると、

「いいのよ。今は無料モニターを募集しているの。あなたも、ずいぶん疲れた顔をしているわね、悩んでいることは、霊気で必ず見つけ出せるから、必ず何かみつかるわ。それでは、よろしくね。」

と、彼女は強引に、家の中に由紀子をいれてしまった。というか、正確には、由紀子は無理やり入らざるをえなかったという事になってしまったのである。女性が、自身に満ちた強そうな感じの女性なので、そうせざるをえないのだと思ってしまったのだった。由紀子は、とりあえず家に入らされて、玄関のすぐ近くにある部屋に連れていかれた。とりあえず、テーブルに座らされて、由紀子の前に、お茶が置かれる。

「えーと、まず初めに自己紹介しますね。私は、ヒーラーの、山川久満子です。」

そう言って彼女は名刺を取り出した。久満子という名前からクマの家という店名を考えていたのであろうか。それとも、家じゅうにかわいらしいクマのぬいぐるみがおいてあるのが、クマの家の語源なのかもしれないと思った。由紀子は、名前を聞かれて、自分の名前、つまり、今西由紀子と名乗り、職業は、岳南鉄道で駅員をしていると正直に答えた。

「じゃあ今日やってきた理由、なにについて悩んでいるのかとか、どんな症状があるとか、そういうことを言ってください。」

と、久満子さんに言われて、由紀子は彼女の顔を見た。物腰はやわらかく、悪い人という感じではなかった。むしろ、彼女も何か訳があってこの仕事についているのではないかと思われる位である。

「ええ。具体的に体の症状があるというわけではありませんが、好きな人が居て、その人にどうしても思いが通じなくて、困っていることが一番の悩みです。」

と、由紀子は答えた。

「そうなんですか。片思いなの?それとも彼にはちゃんと、話したことがあるの?」

優しい口調で、久満子さんは聞くのだった。

「いいえ、私が、彼の事を思っているだけで。彼にはちゃんと話したことはありません。でも、彼は、私の事を、しっかり見てくれている人だとは思っています。」

由紀子がそういうと、

「其れだからダメなのよ。もっとまえむきにちゃんと進まなきゃ。それは、日本人らしい言い方だけど、今の時代には合わない言い方でもあるわよね。そうじゃなくてちゃんと、好きだって彼に言わないとだめよ。すくなくとも昔みたいに、目で見ただけで、好きになったという時代は終わったのだし。そうじゃなくて、今はちゃんと、彼に好きだと言わなくちゃ。」

と、久満子さんはそういうのだった。由紀子は少し意外そうに彼女を見てしまったのであるが、

「でも、あなたも、そういう事でずいぶん悩んできたんだろうし、今日は、十分癒されて帰ってね。じゃあ、施術をはじめるわ。椅子に座ったままでけっこうだから。ここで目を閉じて座って。」

久満子さんは、由紀子を部屋の真ん中にある椅子に座らせた。由紀子はその通りにした。

「全身をまんべんなくヒーリングさせて貰うわね。じゃあ、目を閉じて座ってて。30分もかからないから。ただ、あなたが持っているエネルギーを引き出すだけの事よ。それを、引き出すのがヒーラーの役目。あとは、自分で頑張るの。それを忘れないでね。」

「はい。」

由紀子は、彼女のいう通りにした。それから、30分ほど、久満子さんに、肩や背中などを触られているような感触があった。そのうち、なんとなく体が暖かくなって、何とも言えない気持ちよさを感じた。これが、水穂さんのやってもらっていたのと同じものだろうか、それとも、天童先生が話していた、別の流派だろうか?

「終了よ。目を開けていいわ。」

由紀子が目を開けると、周りの世界はなんとなく明るく見えるような気がした。でも、由紀子が退官したのはそれだけだった。由紀子は霊気なるものを体験して、感想を書いてくれと、紙と鉛筆を渡されたが、どう書こうか迷ってしまったほど、何かが得られたということはなかった。水穂さんも同じだったのだろうか、それでは、何の意味もないじゃないかと、いおうとしたその時、

「はい、山川です。ああ、その件ならお断りしたはずです。今は施術中なんで、やたらと迷惑電話をかけてこないでください。失礼いたします!」

と、久満子さんが、電話で何か話しているのが聞こえてくる。ということは、久満子さんのもとへ取材が殺到しているのだろう。由紀子は、こういう仕事というのは、人の批評に左右されてしまうのだということを、ちょっと知った気がした。多分きっと、久満子さんは、宮川さんの死に責任があるのではないかと詰問され続け、それを払拭するためにこうしてモニターを集めているのだろう。由紀子は、それをおもって、久満子さんに感謝の気もちを著すことにした。


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クマの家 増田朋美 @masubuchi4996

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