看板娘と名探偵・後

あっけにとられるエレナの顔をじっと見つめ、カタリナは小さく頷いた。

作業台の上にある先程作った薬湯の残りを一人分だけカップへ注ぎ、彼女はそれをエレナへ差し出す。


「……という予定でしたが、まずはあなたも薬を飲みましょう。軽症ですが、少し痺れが出ているようですから。

店内の客には事情を説明し、開店の看板も下げてきましたので、そちらもご心配なく」


緊張のせいで気付いていなかったが、言われてみればなんだか口の中に痺れるような感覚があった。

ありがとうございます、と頭を下げ、エレナは受け取った薬湯を飲む。

そういえば、自分もスープの味見をしていたのだから、少しとはいえ毒を口にしていたのだと彼女はやっと思い至った。

薬はすぐに効いてきて、先程まで感じていた体の違和感は徐々に治まってくる。

それにつられたのか、エレナの心も少しだけ平静を取り戻すことができた。

カタリナはそれを見計らい、厨房を見回してから彼女へ質問を投げかける。


「いつも昼は一人で?」

「はい、夜の営業と昼の仕込みは母にも手伝ってもらうんですけれど、いまの時間帯はわたし一人で……」

「なるほど。このスープはいつから作っているものなのですか?」

「今日の……、ええと、午前中です。具材は昨日から煮てあって……。でも今日は港の組合からスープの予約があったので、昨日から仕込んでいたぶんを朝にそちらへ渡しました」

「なるほど。時間帯から見てあちらでも昼食を食べている頃でしょう。なんの騒ぎも連絡もないということは、おそらく先に作ったスープに問題は無かった」

「……だと、思います」


不安げな顔でぎゅっとエプロンを握るエレナに、カタリナは小さく頷く。

落ち着いた瞳の才女は先程から店の中の様々な場所へ視線を向けているが、エレナには彼女がいったい何を探しているのか、どうやって事件を解決するつもりなのか、まるでわからない。

ちらりと少年へ視線を向ければ、一応身分を隠すつもりがあるのか名乗りはしない彼は、エレナを安心させるようににこりと微笑んだ。


「大丈夫ですよ。きちんと調べれば、きっと本当のことがわかりますから」

「あ、ありがとうございます……」


もしこの少年が自分が思う通り王子なのだとしたら、と思うと緊張のあまり表情がこわばり、エレナは引きつった笑顔で礼を返した。

そんな二人の様子に構わず、カタリナはスープ鍋とかまどの周囲を見て回っている。


「あなたがスープの味見をしたのはいつごろですか?」

「二時間くらい前と……、あと、お客さんにスープを出す直前です」

「量は」

「二回とも、一口くらいで……」

「そのぶん症状が軽かったのですね。今日は何か変わったことはありましたか?」

「か、変わったことですか?」


そう尋ねられても咄嗟になにも言えず、エレナはあたふたと無意味に両手を揉み合わせる。

ただでさえ過度なストレスがかかっているのだ。思い出そうとすればするほど、どんどん記憶があやふやになってしまう。

見かねたカタリナはエレナの肩を軽く叩き、深呼吸をするようにと促した。


「そう、ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて……。大丈夫です。今日の朝からの行動を、順に話してみてください。おおよそのところで結構です」

「は、はい……。

今日はまず、いつも通り店の掃除をして、それから作っておいたスープを鍋ごと運び出してもらって……」

「その時はあなたも立ち会いましたか?」

「はい。よくお店に来る常連さんです。店の中のものは、スープ鍋以外触らなかったと、思います」

「そうですか。ありがとうございます、どうぞ、続けて」

「それからは……、準備しておいた具材を新しい鍋に入れて、味付けして煮込んで……。母にも手伝ってもらって、昼の営業で使う食材の仕込みをしました」

「ちなみに具材はどうやって保管を?」

「この保冷庫です。スープの具は朝出したぶんもこの鍋のものも一緒に下準備をしたので、品質自体はどちらも変わりなかったんじゃないかと……」


食材がいっぱいに詰まった、大きな箱型の保冷庫を開けて見せ、エレナはそう答えた。

自信なさげに語尾が小さくなる言葉を聞きながら、カタリナは微かに頷く。


「おそらく……、下準備の時点では問題無かったのではないかと考えています。どうぞ、続きを」

「はい。下ごしらえが終わってからは母と一緒に一休みして、その後一度スープの味見を……あっ」

「何かありましたか?」

「は、はい。ええと、一瞬かまどの火が緑になったんです」

「緑に。炎色反応でしょうか」

「あ、えっと、よくわからないですけど……。殺虫剤の欠片が入ってしまったときに似ていて……」


カタリナはしどろもどろになるエレナに頷きかけ、それからライアへちらりと目配せをした。

何をするでもなく黙って二人のやり取りを見ていたお忍びの王子様は、いっそ場違いと言えるほどに穏やかな微笑みを浮かべる。


「ヴォルフは店内から厨房までの距離なら感知可能範囲内です。魔法の影響ではないと考えて良いかと」

「なるほど。……優秀な従者をお持ちでいらっしゃる」

「本人の努力の賜物です」


エレナはあずかり知らぬことだが、視線の通らない壁越しの状態で魔法が使われた気配を探知するのは、十分に習熟した魔法使いでなければ難しい技術なのだ。

王族付きの従者といえど、まだ15にも満たないヴォルフがこの技術を習得しているのはかなり珍しい事なのである。

本人のいないところでヴォルフの株が上がったことはさておき、カタリナはかまどの中の熾火を数秒眺め、それから少し離れた場所に積んであった薪へ視線を向けた。


「ここへ置いておく薪を補充しに、一度外へ行きましたね?」


当たり前のようにそう言われて、エレナは慌ててこくこくと頷く。

自分でも忘れていたことを、この人はどうしてわかっているのだろう。気にはなるが、思い出すのに精いっぱいで、エレナは疑問を尋ねる余裕もない。


「えっ? あっ、は、はい」

「それは炎が緑になる前だった」

「……そうです。いつもは営業が終わってから次の日使う分を入れておくのですけど、スープの仕込みを多くしたから備蓄の薪が減っていて、店を開く前に足しておこうと思って。

だから、薪を足して、炎の色が一瞬おかしくなって、その後店の前に看板を掛けに行って……。それからすぐお客さんが入り始めたので、注文を取ったり料理をしたり、いつもと変わらないことをしていました」

「わかりました。ありがとうございます。やはり部外者の犯行のようですね」


一人で納得するカタリナに、エレナは気になりつつも声を掛けられない。

なにせ、ずいぶん友好的に対応してくれてはいるが、一応これは現場検証であり事情聴取なのだ。

しかしながらそんな場面になぜか同行している王子は、年相応に子供らしくそわそわとしながら、遠慮なくカタリナに話しかけた。


「カタリナさん。何かわかったのですか? よければ推測を聞かせていただけると嬉しいです! エレナさんも安心するでしょうし」


そう言われれば、断るのも気が引ける。

カタリナは躊躇いがちに口を開いた。


「……ああ、勿体をつけるつもりはないのですが、あと二ヵ所確認したい場所がありまして。

すみません。火箸か……もしく灰かき棒かなにかを貸していただけますか」


頼んだものをエレナから受け取ると、カタリナは服が汚れるのも構わず身を乗り出し、かまどの裏を覗き込んだ。

そこから火箸を使って取り出されたのは、一本の濡れた藁だ。

それに薄い皮手袋をした手で触れ、指先についた液体を、カタリナは躊躇なく自分の舌の上にのせた。

ぎょっとする二人に構わず、冷静な薬師はそのまま暫く目を閉じて舌先の感覚に集中する。

うがいをして液体を洗い流し、残っていた薬湯を飲み終わると、カタリナはようやく口を開いた。


「あとは、外の薪置き場を見せてください」

「はい、こちらです」


店の裏口を出たすぐ横の壁沿いに、枯れた枝や細く割った木が積まれ、端のほうには藁を巻いた塊も置いてある。

崩れにくいよう上から順に薪を取っていくため、積まれた形は上辺がなだらかに傾いた長方形状だ。

カタリナはエレナが午前中に薪を取っていった場所のすぐそばに立ち、薪の表面から糸くずのようなものをつまみとる。

再び厨房内に戻り、それを火にくべた途端、燃え上がった糸くずは緑色の光を発した。


「あっ、これです!」


記憶とぴったり合う光景に、エレナは状況を忘れて興奮に頬をほの赤く染めた。

ほんのわずかな間の調査だけで次々物証を見つけ出す手腕はまるで魔法のようで、こんな時でなければ、推理小説を読んでいるような気持ちで楽しんでしまったかもしれない。

つい大きくなってしまった声に恥じいってエレナが口元を押さえ、ライアがそんな彼女を微笑ましそうに見つめた。

いっぽう二人と違って浮かない表情のカタリナは、気が乗らないながらも二人のために自分の推理を話し始める。


「犯人は今日この店にスープの注文があったことを聞き、犯行を決めたのでしょう。

理由は薪を補充するタイミングが読みやすいからです。

まず、持って行くだろう位置の薪に、先程のホウ酸をしみこませた糸くずを混ぜておく。

そして火に異常が出て店員の目がそちらへ向いた隙をつき、鍋の近くの換気窓から藁を差しこみ、毒を混ぜる。

糸くずは薪を縛っておく麻糸と同じ素材ですし、ホウ酸も殺虫剤として広く使用されているものです。

藁も火を熾す際や火力調整に使いますから、床に落ちていたとしても不審ではありません。こうしてすぐに見つけられなければ、掃除の際に他のごみと一緒に捨てられていたことでしょう」


淡々とした言葉に、エレナは額にじわりといやな汗をかく。

あの瞬間、自分がかまどの周りを見ていたあいだに、壁を隔てたすぐそばには毒を仕込んだ犯人がいたのだ。

そう思うと急に見知らぬ誰かの悪意を近くに感じて、背筋がぞっと冷たくなる。

けれど、とエレナは思い直した。

いま自分は、一人で頑張らなくてもよいのだ。こうして少なくとも、二人の味方が協力してくれているのだから。

直視するのは気が引けて、ちらりと横目にライアの様子を見てみると、少年はエレナとは対照的に歳に似合わぬ落ち着いた様子で考え込んでいた。


「なるほど。犯行の際に用いた仕掛けは暴けたわけですが、カタリナさんはまだ気にかかることがあるのですね?」


自分を見上げてくるライアに、カタリナは思考に意識が割かれているのか、どこか焦点のあわない視線を返す。


「ええ。ちぐはぐ……、というか……」

「というと?」

「道具立ての繊細さのわりに、行動が杜撰すぎるのです。

そもそもこの店は昼間は彼女一人でやっているのですから、料理を出しに行ったタイミングを見計らって毒を入れれば、ホウ酸を薪に仕込むなどという不確実な方法で目を逸らさせる必要はない」

「それは確かにそうですね」

「……おそらくこれは、本来この店を標的として考えられた手段ではないのでしょう。

これが厨房に複数人が出入りし、なおかつ裏口が目立たない路地にあるような立地の店なら、まだ仕掛けの意図もわかるのです。

けれども、この町は斜面に張り付くように家々が建っている。そのため比較的広い港近辺ならまだしも、店の周りに身を潜められるような路地裏がほとんどない。

しかもいまは昼時ですから、どんなに人目を忍んだところで、町中に聞き込みをすれば犯行時刻にこの近辺で怪しい人間を見たという目撃情報は見つかるでしょう」

「別の街で行われた犯罪を流用した、あるいは計画者と実行者が違う、ということですかね。組織的な犯罪の可能性もあります」

「組織的な?」

「例えば地上げ屋、というものでしょうか。しかも正規の意味ではなく、いわゆるマフィアのような部類の。

店の評判を下げて得をする人間となると、怨恨か嫉妬、あるいは過度な執着かと思っていたのですが、単純に金目当ての犯行かもしれませんね。そのほうが対処が楽ではあります」


高貴な少年の口から出るには俗っぽい言葉の数々に、カタリナとエレナは目を白黒させた。

しかしライアはそんな二人の様子には頓着しない。そのマイペースさがある意味王族らしいとも言え、雲の上の人間というのはこういうものなのか、とエレナは内心奇妙な納得を覚えた。


「もしそうだとしたら、むしろ解決は簡単です。手っ取り早く犯人をおびき出せる方法が一つありますが、どうしますか?

もちろん作戦が上手くいかなかったとしても、この店の名誉は僕が責任をもって守ると約束します」


そう言ってにっこりと微笑む幼い王子は、なぜだか年齢のわりに随分と頼もしく見えたと、のちにエレナは母に語ったという。

こうして急遽王子の思いついた作戦に乗ることとなったエレナは、常連客たちへカタリナと共に事情を説明した。

店内に引き留められたままだった彼らは快く協力に応じてくれたし、王子の部下であるヴォルフとギルベルトは当然彼の指示を聞く。

自然さが重要です、と王子はエレナに念を押していた。

なにも気付かず、ただ食中毒を出してしまったことに怯える店員のふりをしなければ、犯人をおびき出せないというのだ。

元々不安と焦燥でいっぱいになっているエレナとしては、正直演技をするまでもない。

食中毒自体もそうだが、人生の中でまさかお目通りが叶うことがあるなどと思ってもいなかった地位の人間から、直接指示を出されて何かをするなんて、それ自体がとんでもないストレスだ。

大丈夫、大丈夫、と心の中で唱えながら、エレナは今日と明日の営業を休止する、という旨を書いた紙を手に、店の入り口から外へ出た。

ドアに張り紙をしていると、急な閉店に様子を窺っていたらしい近所の人々が、エレナに話しかけてくる。


「エレナちゃん、今日はやってないのかい?」

「あっ、いえ、その、実は食中毒が出てしまって……」

「おや、……まあでも、大事にはならなかったんだろう?」

「はい、ちょうど薬師さんが居合わせてくれて……。お客さん達には、店の中で休んでもらってます」

「そりゃ不幸中の幸いだね」

「はい。それで、明日まで店の食材を点検したり、いろいろすることになって」

「そうかい。まあ、大変なことだけれど、気を落とさないでね。エレナちゃんが頑張ってるのはみんなよく知ってるからさ」


向かいに住む長い付き合いのおばあさんにそう言われ、エレナは思わず涙ぐんでしまった。

それを皮切りに、店に来るつもりだった人々や近隣住民が次々に店の様子を尋ねたり、慰めの言葉を掛けてくれる。

べつに嘘をついているわけではないのだが、なんだか悪いことをしているような気がして、エレナは落ち着かない気分になってしまう。

変化が起きたのは、そんなやりとりを始めて5分も経たないうちだった。


「おいおい。食中毒だって? いったい何に当たったんだよ?」


この辺りでは見かけない顔の、いかにもガラの悪い中年男性が、エレナを囲む人だかりの向こうから大きな声でそう言ったのだ。


「か、貝です。毒があったみたいで……!」


幾分距離があるために、エレナも声を張らざるを得ない。

男は返事を聞くとあからさまに怪訝そうな顔をし、大げさな身振りでますます声高になる。


「貝だぁ? 他の店は大丈夫だってのに、この店だけまずいもんを仕入れたのかい」

「そ、それは」

「なんだよ、漁港の組合がここにだけ質の悪いもんを売ったのか? それともまさか、モグリの業者から買ったのか? ひどい店じゃないか。程度が知れてるね」

「そんなこと……!」


エレナは思わずぐっと喉を詰まらせた。

涙がじわりと滲んできて、言い返したいのにうまく声が出ない。

事前にこういう輩が現れるかもしれないと言われてはいたけれど、いざこうして糾弾されると、喧嘩にすら慣れていないエレナはどうしても身が竦んでしまう。

店の評判を下げて営業できないようにして、土地や建物を安く買い叩く気だったのだろう、というライアの推理を聞かされたとき、エレナの胸の中に浮かんだのは純粋な疑問だ。

どうして日々をただ真っ当に生きているだけの人間に、そんな仕打ちができるのだろう。

エレナには悪事で金儲けをしようという人間の心理がまったく理解できなかった。

そして、こうしていざ面と向かって犯人、あるいは犯人と同じ一味だろう男と対峙すると、最初に感じた怯えが段々と怒りに染まっていくのを感じる。

自分はともかく店のことを悪く言われるのは、体調を崩すほど働いた母や、亡くなった祖母や父を侮辱されているのと同じだ。

荒れた手をぎゅっと握りしめ、エレナは勇気を振り絞った。


「そんなことありません! うちはいつもきちんとした品だけを仕入れて、丁寧に料理をしてるんです! わざと質の悪いものを使うなんてことはありません!」


自分で思っていたより大きな声が出て、エレナは我に返り顔を真っ赤にした。

そうはいっても、食中毒が出たのは一応の事実なのだ。たとえそれが仕組まれたものであっても、だ。

なんだか言い訳をしたみたいじゃないだろうかと内心後悔するエレナだったが、返ってきた言葉は無礼な男からのものではなく、自分の周囲を取り巻く町の人々からのものだった。


「そうだぞ、エレナちゃんちはばあさんの代から続く由緒正しい店なんだ! そんなことするわけないだろう!」

「だいたいあんたこのへんじゃ見ない顔だね。よく知りもしないくせに滅多なこと言うんじゃないよ!」

「ナマモノ扱ってりゃたまにはそういうことだってあるんだよ。この子が普段からどんなに熱心に働いてるか、お前は知らないだろう!」


当たり前のように店と自分を擁護してくれる声に、エレナはぱちぱちと目を瞬かせた。

思うように成果を出せなかった男は舌打ちをし、くるりと踵を返してその場を後にしようとしたが、当然そうはいかない。進行方向にはギルベルトが待機しており、道を塞ぐように立ち塞がった。

元々魔獣相手に戦う騎士であった彼は、威圧感のある外見とはうらはらに、その気になれば一切の気配を断って人込みに紛れることも出来るのだ。

むざむざとしっぽを出し、ギルベルトの迫力に圧倒されて足止めを食らう男の背後へ、静かな足音がカツカツと響いた。


「……あなたには傷害の容疑がかかっています」


重く静かな声に、弾かれたように男が振り向く。

そしてそこにいるのが大人しそうな女だとわかると、口をへの字に曲げて渋面を作り凄んでみせた。

睨みつけられたカタリナは一切動じることなく、冷徹にすら感じる落ち着いた視線で男を見つめ返す。


「薪にホウ酸で細工をした糸を混ぜ、炎の色を一瞬変えることで店員の目を逸らした隙に、スープに毒を混ぜましたね。毒を持ち運ぶために使用した藁も見つけました。

今回は軽症で済みましたが、場合によっては死者が出る可能性もあった。到底看過できるものではありません」


淡々とした声はまっすぐで淀みがない。

カタリナは代々続く由緒正しい家柄と、平民にも分け隔てなく接する誠実さから、この町ではいい意味で有名な人物である。

そんな彼女から糾弾された男へ向けられる町民達の視線は、当然ますます厳しいものになった。

しかしこの男とて、今まで犯罪で食ってきた身だ。

ここでハイそうですと素直に屈服してやるような素直さは持ち合わせていない。


「なんのことかわからねえな。その、糸と藁だって? それが店にあったとして、確実に俺がやったと言える証拠はあるのかい。無いだろうよ。

それにお嬢さん、格好からして貴族なんだろうが、捜査権があるような仕事に就いていらっしゃるんでしょうかねえ。

この国じゃあいくら貴族だとはいえ、権限のない人間が現行犯でもない平民を逮捕する、なんてことはできなかったと、俺は思いますがね」


往生際の悪い態度に、カタリナは鋭い隻眼をわずかに細めた。

しかし男の言っていることも間違ってはいない。この国では貴族の権限が厳格に定められていて、いくら地位があろうとも気ままに振舞えるわけではない。

カタリナがこの場で男を捕まえられないというのは、その通りなのだ。

とはいえ、神殿が所有する女神の鐘を使えばこの男が嘘をついているかどうかはすぐに分かるため、既に顔も割れたいま、この場から逃げようが男が捕まるのは時間の問題と言えた。

それまでにどれだけ足掻けるかは、この男が関わっている犯罪組織の大きさにもよるだろう。

ため息をついたカタリナは、ちらりと横目でエレナの様子を窺う。

血の気の引いた顔をした彼女は、それでもぎゅっと気丈に唇を引き結び、溢れそうになる涙をこらえてカタリナ達を見つめていた。


「……気がすすまない手ですが」


ぼそりと小声で呟き、カタリナは再び視線を男へ向ける。


「ときに、あなたは今日この店に、とある大変高貴な方がいらっしゃっていたことはご存じでしょうか?」

「……あ?」

「昨日から領主館に逗留しているさる人物は、この町の家庭料理を食べてみたいとおっしゃいました。ですので、私が今日、この店へお連れしたのです」


話の着地点が見え始め、だんだんと男の顔から血の気が引いていく。

どうやら随分身分の高い人間が来たらしいということは、男も知っている。なにせ乗ってきた馬車や馬が話題になって見物人がくるほどなのだから、話題を耳にしないほうが難しいというものだろう。

冷や汗をかき始めた男を真っ直ぐに見据えて、カタリナは容赦なく話を進める。

彼女にとって優先すべきは当然ながら男の精神状態などではなく、愛すべき隣人の心の安寧なのだ。


「あなたが毒を盛ったスープは、その方のテーブルにも運ばれる予定でした。

……これはあくまで善意からの提案ですが、高位貴族の暗殺容疑で捜査が始められる前に、自首することをお勧めいたします」


店の食品に毒を混入するというだけなら、重罪ではあるが実際に出た被害の軽さを鑑みて、極端に重い罰は課せられない可能性がある。

しかしこれが権力者に対する暗殺未遂となれば、仮に男の背後にどれほど大きな犯罪組織があったとしても、庇い立てすることは難しいだろう。

良くて終身刑、十中八九死罪になるであろう罪状だ。


「そんなつもりじゃない! お、俺は指示されてやっただけで……!」


先程までのふてぶてしさをすっかりなくして喚き散らす男は、すぐにギルベルトに取り押さえられ、駆けつけたこの町の警備隊に引き渡される。

白昼堂々の逮捕劇に、周囲に集まっていた野次馬や近隣住民が歓声を上げた。

店内で待機していた客達も出てきて、よかったよかったとエレナの肩や背中を優しく叩く。

緊張で固くなっていた彼女の顔は、これでようやく本来の柔らかな表情を取り戻した。

エレナはしきりにカタリナに頭を下げ、何度も何度もお礼を言う。


「ありがとうございます! 本当に……、どんなにお礼を申し上げても足りません。きっとこのご恩はお返しいたします!」

「いえ、私は当然のことをしたまでですから」

「でも……」

「……どうしても、とおっしゃられるなら、おばあさまのスープのレシピを教えていただけますか。もちろん口外はしないと誓います」

「え、それは、はい。構いませんが、本当にそんなことでいいんですか……?」


納得がいかない様子のエレナに、カタリナは一瞬口籠り、それから静かに言葉を紡いだ。


「……昔のことです。

私がまだ四つか五つの頃、家をこっそり飛び出して、一人で町を散策したことがありました。

もっとも、分別も知識もない時代の事ですから、すぐに迷子になって……。おまけに子供の足では歩き回るのも難しく、港ですっかり座り込んで泣いてしまったのです。

そんな時声をかけてくださったのが、あなたのおばあさまとお父さまなのですよ」

「えっ」


エレナは祖母と父が迷子の貴族のお嬢様を助けたなんて、そんな話は聞いたことがなかった。

けれど優しいあの二人なら、小さなレディの失敗を隠してあげようと、誰にも話さずにいてもおかしくない。

驚くエレナにカタリナは唇の端だけで小さく笑いかけ、思い出話を続けた。


「泣いて腫れた目を水を含ませたタオルで冷やし、それからおばあさまの隣に座って、温かいスープをいただきました。初めて口にする屋台の串焼きや、甘い焼き菓子も。

優しくて、美味しくて、お腹がいっぱいですっかり心が落ち着いたのを覚えています。

その後は家まで送っていただいて……、私を泣いて叱る父にとりなしてもいただいたのですよ。

あの時の恩を返しただけなのですから、本当に気にしないでください。

あなたのご家族の善良さと勤勉さがあなたを助けたのだと、そう思っていただけませんか」


カタリナの言葉に、エレナの堪えていた涙があふれだした。

しゃくりあげる彼女の背中を撫でる手の柔らかさと暖かさが、余計に涙を誘ってしまう。


「ず、ずっと、ずっとここでスープを作っていますから、また、食べにいらしてくださいね」


泣きながら、それでも嬉しそうに笑ってそう言うエレナに、カタリナもまた、いつもは氷のように硬い表情を少しだけほころばせて微笑み返す。


「ええ、また」


突然の事件から知ることになった思いもよらない縁は、張りつめていたエレナの心に、優しく染み渡った。

良いことだけではないが、つらいことだけでもない人生を、エレナはこれからも歩いていくだろう。

けれど彼女の周りには常に、美味しい料理と、温かな人たちがそばにいるのだ。

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