看板娘と名探偵・前

店内の土埃を箒で外へ掃き出し、まだ夜の気配を残す明け方の空を眺めながら、エレナ・ドゥランは大きく伸びをした。

エレナの家は、三代続くレストランだ。

といっても、老舗なんて言われるような格式のある店ではない。

出しているメニューはこの町ならどこでも食べられるような定番の家庭料理と、それから長年店をやっている中でうまれたいくつかの創作料理くらいのもので、丁寧ではあるが凝ったことはしていない。

つまりは下町の小さな食堂で、常連たちからは気負ったところのない穏やかさが良いのだと、それなりの人気を得ている。

朝起きて身支度を整えた後は、こうして掃除をするのがエレナの一日の始まりだ。

幼い頃は同じように毎日掃除をしていた祖母のかたわらで、手伝いとも言えないような拙い真似事として。幾分大きくなってからは母に教えられてしぶしぶと。そして今は自分の仕事として進んで行っている日課だ。


反抗期にはつまらなくて面倒なことだと思っていたこの地味な作業が、いまのエレナは嫌いではなかった。

昼間は濃い影を作る眩しい日差しも、早朝には穏やかに周囲をうすく照らしていて、空気も涼しく心地よい。

風に乗って僅かに聞こえてくる朝の早い港の喧騒も、そこかしこの店や家から聞こえ始める誰かの暮らす物音も、どこか胸の中をくすぐって柔らかくするような温かさがある。

床を掃き清め、テーブルの上を拭いた後は、昨日から仕込んでいた魚介とトマトのスープの味を見たり、今日使うぶんの食材の下ごしらえをしていく。

時間が経つにつれて、徐々に明るくなっていく日差しが店内へ差し込み始め、風に揺れる日除けが柔らかい色の影を作る。それがゆらゆらと揺れる様子を目を細めて眺めながら、エレナは手際よく開店準備を進めていった。


エレナがこうして一人で店のことをするようになったのは、最近のことだ。

昔のこの店は、祖母とエレナの両親が切り盛りしていた。

その頃は店の大きさのわりに人手が多かったから、港のほうへ露店を出し、父親がそこで軽食などを売ることもよくあったのだ。

隣町での仕入れへ向かう途中に父親が事故で亡くなってからは、そちらは観光客の多い時期に祖母が行くくらいになってしまったけれど、エレナは活気のある港を行きかう人々へ料理を売るのが好きだった。

エレナは料理も客商売も、たくさんのことを祖母から学んだ。

魚介類をうまく食べるための下処理やそれぞれの野菜の切り方。肉体労働者の多い港で売るのと店で売るのとでは、多少料理の塩加減を変えたほうが良いこと。それから祭りの日に売る特別な料理や焼き菓子の、我が家伝統のレシピも。

それは母も同じことで、そして祖母もまた、同じように彼女の母から多くの料理を学んでこの店を開いたのだという。


エレナが尊敬する祖母が病に伏したのは、去年の初夏のことだった。

原因と言えるほどの原因もなく、言うなれば老いと、そして長年の労働のせいで、要するに寿命だったのだろう。

それでも彼女はなにより料理と、それをふるまって客を笑顔にすることを愛していたから、寿命の間近まで働きづめでいることはきっと不幸ではなかったのだと、エレナは思う。

祖母の看病をしながら店も切り盛りすることになった母は良く働いてくれたし、エレナも当然これまで以上に精力的に働いた。

それでも以前と比べて客足は多少落ちたし、祖母の病状も良くはならない。

店の客達は祖母の料理の味を求めてくるのだし、祖母の体調不良はもういい年なのだから両方仕方がないことではあったが、エレナは簡単に納得することはできなかった。

なにせエレナにとって、この店は人生そのものなのだ。


エレナはこの港町の外のことをほとんど知らない。

せいぜい近隣の町へ野菜や肉の買い付けへ行ったり、行商人から話を聞く程度のものだ。

それを勿体なく思う時もあったし、別の生き方を夢想する日もあったが、それでもエレナにとってはこうして下町の食堂で働く生き方が人生の、世界の全てだった。

だからエレナが店のために、そして店を支えてきた祖母のためになにかをしたいと思うのは当然のことと言える。

エレナが一番に考えたのは、祖母の味を守ることだ。

勿論レシピは知っているが、それでも祖母個人の細かなクセや味の調整全てを知っているわけではない。

病床の祖母の体調がいい時に詳しいレシピを聞き、自分以上に長く彼女の背中を見てきた母とも協力して、エレナは店の味を継ぐための努力を続けた。

そうして、店の常連たちに、今日はおばあさんが料理をしたのかい? と尋ねられるほどになったのは、祖母が亡くなる前日のことだった。

はしゃぐエレナが母とともにその話をした後、祖母は嬉しそうに頷いて、それから眠るように息を引き取った。


祖母を安心させられたことと客足が持ち直したこと自体は良かったのだが、母とエレナの二人で店をやっていくのは、難しいことだ。

介護と仕事の両立で母が体を壊したのは、祖母が亡くなってすぐのことだった。

おそらく張っていた気が緩んだせいなのだろう。

話し合って、厨房はともかく会計や配膳には人を雇おうと決めたものの、身元のしっかりした、しかも忙しい食堂ですぐに立ち働けるような人間がそう簡単に見つかるということはない。

それでも祖母の代からの人脈を使って、人手を増やしたいという話を方々でしているから、いい人が見つかるまでにそう時間はかからないだろう。

けれど、それまで店を支えるのはエレナの仕事だ。

今日は港の組合からスープを大鍋ごと欲しいという予約が来ていて、昨日仕込んだものの他に、店を開ける昼までにもうひと鍋作らなくてはならない。

先に組合へ届けるぶんの味見を済ませ、いつも通りに仕上がったスープに頷くエレナに、店の入り口から声がかかった。


「エレナちゃーん! 頼んでいたスープはできたかい!」


港町の男らしい大声で呼びかけるのは、いつも店に来てくれる常連の漁師だ。

なんでも昨日から港の馬車預かり場に大きな馬車が来るとかで、普段よりも厩舎やらなにやらの人手を増やしているらしく、顔の広い彼はそこでの昼食の手配を任されたらしい。

ぱたぱたと軽い足音を立ててエレナが厨房から店内へ出ると、よく日に焼けた顔に気持ちのよい笑顔を浮かべて、壮年の漁師が軽く頭を下げた。

エレナもそれににっこりと笑い返し、片手で厨房を指し示す。


「ああ、トンプソンさん。できてますよ! どうぞ持っていってください」

「じゃあお邪魔するよ。スープはこの店のが一番だからね」

「ふふ、ありがとうございます!」


トンプソンと連れの男が厨房に入り、大鍋に入ったスープを危なげなく持ち上げて店の外へ運び出し、小道に置かれた台車へ積み込む。

台車には他にもいろいろな店から買い求めてきたらしいパンや総菜などが積まれていて、エレナはぱちぱちと目を瞬かせた。


「あら、こんなに入り用なくらい、たくさん人がいらっしゃるんですか?」

「いやあ、働くやつはそこまで増やす予定じゃなかったんだけれどね。

ほら、昨日領主様のところへ、かなり身分の高いお方がいらっしゃったらしいだろう。その人が港に預けていった馬と馬車が随分良い品だって噂になってなあ。勉強になるからって他の街からも見物人が大勢来たのさ。そいつらのぶんまで調達していくことになったんだ」

「へえ……、そうだったんですね」


トンプソンの話を聞いて、エレナは昼に入っていた予約のことを思い出した。

今日は珍しく、領主家付きの薬師であるトゥリーナ家のカタリナが、数人ぶんの予約を入れていたのだ。

貴族でありながら町の薬師たちとも付き合いのある彼女は、祖母の介護や母の看病で薬を買求めることの多いエレナにとって、身分は違えどそれなりに親しみをもっている存在だ。

何度か店にも来てくれた彼女が、この町の家庭料理を食べたいという客人を伴って店に来ると予約を入れてくれたとき、エレナは誇らしい気持ちになった。

ほかに有名店や高級店もある中で、自分たちの店を選んでくれたということが嬉しかったのだ。

貴族であるカタリナが連れてくる客となれば、きっとその相手も貴族なのだろう。

昨日町を訪れた領主の客については既に噂になっていて、館へ向かうところを見かけたという話も聞いているが、エレナは店の仕事が忙しくて見物に行くような暇はなかった。

まさかね、とエレナは小さくひとりごちる。

さすがに王族などという大物がやってくるなんて、この時のエレナは想像すらしていないのだった。


トンプソンを見送り、エレナは店で出すぶんのスープの仕込みを始める。

あらかじめ具材を柔らかく過熱しておいたので、あとは味付けをし、昼まで煮込むだけだ。

この時間帯はエレナのほかに、少しずつ体調が良くなってきている母親のコニーも厨房に立つことができる。といってもずっと忙しく立ち仕事をすることは難しいので、彼女がいるのは仕込みの間だけだ。

それでも、たくさんの食材をエレナだけで下ごしらえすることは難しいため、随分と助かっている。

昼の営業時間までに余裕をもって準備を終え、エレナは額に軽く浮いた汗を拭って、厨房の片隅の椅子に腰かけた。

同じく座って一休みしているコニーが、エレナに白湯の入った木のマグカップを渡し、囁くような優しい声で話しかける。

体調を崩す以前と比べてコニーの声は張りを無くしていて、そのことがエレナは少しだけ寂しかった。


「保冷庫、新しくして良かったわね」

「そうね。ドアがしっかり閉まって、前のに比べてずっと冷たさが長持ちするから助かってるわ」


大きな箱型の保冷庫は、上段に氷を入れて中の食材を冷やす仕組みだ。

沢山の海の幸を水揚げするこの町では氷の需要が高く、本来は高級な大きな氷も、魔法使いが大量に作るぶん安価になっている。

この保冷庫へ下味をつけた肉や魚、すぐに盛り付けられるようカットした野菜を詰め込んでおいて、注文が来るたびエレナが料理してすぐに出せるよう工夫しているのだ。

これがなければ、エレナだけで店を回すことは不可能だったろうし、店を存続させることも難しかっただろう。

安い買い物ではなかったため店の財政は些か苦しくなったが、そのぶんは自分が頑張ればいいとエレナは思っている。

しかし母のコニーとしては、娘に犠牲を強いているようで心苦しく思うのも当然のことだ。

コニーは遠慮がちに視線を落とし、荒れた指先を無意味に擦り合わせた。


「……ごめんねえ、お母さんの体がもうちょっと丈夫なら……」


そう言って肩を落とす母に、エレナは明るく笑顔を向けた。


「なに言ってるの! ちょっと体が弱いかもしれないけれど、それでもお母さんはわたしのことを丈夫に産んでくれたじゃない。それで十分よ!

お母さんの体も前より良くなってきたんだから、また元気に働けるようになるまでくらい、わたしに店を預けたって平気だよ。

なんせおばあちゃんにもお母さんにも、店のことはめいっぱい仕込まれてるんだからね!」


太陽のように眩しいエレナに、コニーは目尻にじわりと涙を浮かべる。

それでも湿っぽく泣くのではなく、今度は笑顔を娘へ返した。


「……そう、そうね。ありがとうエレナ。お母さんしっかり休んで、またばりばり働くわ」

「うん。そうしてよ。お母さんの顔が見れなくて寂しがってる常連さんだっているんだからね?」

「あらあら、それじゃますます元気にならなきゃねえ」


照れてはにかむ母を寝室へ送り、枕元のテーブルへ水差しを置いた後、エレナはまた厨房へと戻ってきた。

無理をしているつもりはない。

母に言った言葉だって、嘘は一つもないつもりだ。

けれど時々は辛くなる時もあるし、泣きたくなる時もある。

それでもエレナは料理をすることが好きだ。店にくる客の笑顔が大好きだ。

ようし、と掛け声とともにぐっと拳を握り締めて気合を入れ直し、エレナは仕込み途中のスープの味見をした。もう少しだけ煮込んだほうがいいかもしれない。けれどそろそろ開店時間だ。

店が開いてすぐに入ってくるのは大抵近所に住む引退した漁師や職人の常連客で、彼らはゆっくりと食事をしていくから、定番のスープの配膳が少し遅れても気にしないだろう。

カタリナ達はもう少し後に来る予定だから、丁度よい頃合いにスープを出せるはずだ。

しかしかまどの横を見てみれば、火力を維持するには予備の薪の量がいささか心もとない。今日はいつもよりたくさんスープを仕込んだから、減りが早かったのだ。

エレナは皮手袋をし、勝手口から外に出て、扉の近くに積んであった備蓄の薪を抱えて店内へ戻った。

何本かの薪を火にくべてから他の作業をしていると、かまどの中で赤々と燃えていた火が、ふいに緑色の光を発して燃え上がった。


「あら?」


厨房内を緑色に照らした炎はすぐにいつもの赤色へと戻ったが、エレナは念のためかまどの周りを見回す。

こういったことはたまにあるのだ。

例えば火の中に塩をくべれば炎の色は黄色くなるし、ミョウバンなら紫になる。

緑になるのはホウ酸で、これは厨房の物陰に置きっぱなしにしている殺虫剤に含まれている。

殺虫剤は薬を団子状に固めたものなので、何かのはずみで転がり込んだのかもしれない。

しかしかまどの周りには焚きつけに使う藁がいくらか落ちている程度で、薬剤の欠片が散らばっているということはなかった。

偶然一欠けらが入ったのだろう。そう納得したエレナはかまどから視線を上げた。


「いけないいけない、それどころじゃないわ」


ぱたぱたと小走りに店の入り口まで駆け、開店を示す看板を掛ける。

そうすればいくらもしないうちに客が入り始め、エレナは調理に配膳にと忙しく立ち働き始めた。

気になっていたカトレアたちもやってきたが、忙しくて席へ通すときにちらりと盗み見る程度の時間しか取れず、一番の大男がきっと護衛なのだろうということくらいしかわからない。

普段とは違う状況に少しだけ気持ちが浮ついてしまうけれど、とにかくエレナは、美味しい料理を提供するのが仕事だ。

看板メニューであるスープをしっかりかき混ぜて一口だけ味見をし、いつも通りの味に頷く。

予約客がメニューを決めるまでの間に常連への配膳を済ませてしまおうと、エレナは大きなトレイにスープ皿を乗せて店へと出た。

それを配り終えた後は、緊張でドキドキと胸を弾ませながら、カタリナたちのテーブルへと注文を取りに行く。

席についた少年達のどこか庶民とは違う所作や雰囲気に、やっぱり貴族なのだわとエレナは内心そわそわとした。

カタリナ以外は三人ともこの町では見かけたことのない顔だから、きっと他領からの客なのだろう。

祖母から継いだ自慢の味を貴族に食べてもらう機会なんて、なかなかあるものではない。エレナが厨房に戻り張り切って注文された料理を作っていると、不意に店内が騒がしくなる。


何事かと様子を見に行けば、そこには予想外の光景が広がっていた。

口元を押さえて苦しむ客達の姿に、毒だ、とエレナは理解する。

麻痺性の貝毒は最初に口や顔の痺れから症状が出るのだと、彼女は祖母から習っていたのだ。

しかし、知っているからといって咄嗟に対処ができるわけではない。

それに貝毒の治療薬は、調合に魔法の技が必要な上に使用期限が短い高級品で、こんな下町の店では常備していない。

どうしよう、どうしよう、とそればかりが頭をぐるぐる回り、エレナの呼吸が早くなっていく。

慌てふためく彼女を宥めるように、落ち着いた女性の声が店内に響いた。

目立つわけではないがよく通るカタリナの声に、エレナははっと目を見開く。

頼りになる薬師から出される指示を必死に覚えようとするものの、明らかに過度に緊張しているエレナの様子に、カタリナ自身が彼女を伴って厨房へと入った。

大きな薬缶にいつでも沸かしているお湯で茶器や食器をある程度消毒したり、薬湯を淹れたり、丸薬を溶かして混ぜたり、と淀みなく動くカタリナの横で、エレナも震える指をなんとか動かして手伝いをする。

出来上がった中和剤を飲ませると、客達の症状はすぐに落ち着いた。


安堵したエレナは、細くため息をつく。

まだ緊張と不安でどこかぎこちない体を動かし、客に頭を下げながら原因だろうスープを回収して回るが、常連客達は揃って気にしなくていいと声を掛けてくれた。

魚介類、特に貝は当たることもそれなりにあり、彼らもある程度は食中毒に慣れているのだ。

それでも自分が出した料理で客が体調を崩したとなれば、たとえそれが運よく軽症で済んでいようが、気に病まないはずがない。

スープ皿の乗ったトレイを厨房の作業台に置き、エレナは目尻にじわりと浮かんだ涙を、手の甲で乱暴に拭った。

自分が頑張らなければいけないのに、もう一人前になったと思っていたのに、どうしてこうなってしまうのだろう。

寝室で休んでいる母にこのことを伝えたら、彼女はどれだけ落胆し、客やエレナのことを心配するだろう。

罪悪感と焦燥感が、じくじくと胸を刺した。

かまどの近くの換気窓からは町中のいつもと変わらぬ賑やかな喧騒が聞こえてきて、その落差が余計につらく心を苛む。


そこでふと、エレナは違和感に気が付いた。

そうだ。町の様子はいつもと変わらない。

漁業組合から貝を買っている店は当然ここだけでは無く、昼の食事時には一般家庭も含め、町中でさまざまな貝料理が食べられている。

貝毒が出たとなれば回収したり連絡をしたり、診療所に患者を運び込んだりと騒がしくなるはずだ。

そんな様子がまるでない。

まるでこの店でしか、こんな事件が起きなかったかのように。

そこまで考えて、エレナの顔から血の気が引いた。

この店だけから食中毒が出たとなれば、当然店の落ち度を詰られるだろう。それは仕方のないことだ。

しかしそれが本来はある程度広範囲に被害のあるはずの貝毒となれば、どうしてこの店だけが、と疑念を持たれるに違いない。

組合が卸している大量の貝の中で、運悪くこの店に売られたものにだけ毒貝が混入していた、だなんて偶然を、誰が信じるだろうか。

きっと、質の悪い廉価なものをよそから買ったのだと思われるに違いない。

正規の組合を通さず杜撰な仕入れをしていたなんてことが噂されれば、もう組合はこの店と取引をしてくれない可能性もあるし、客足だって激減する。

そうなれば、当然店を畳むしかない。


「なんてこと……」


最悪の事態を想像し、エレナはあまりのことに込み上げてきた吐き気を、口元を押さえて耐えた。

もし、もしもそうなるとして、それでも自分は自身の潔白を訴えるしかない。

それしか病気の母と己を助ける道はないのだ。


「わ、わたしが、わたしが頑張らなくちゃ……」


気丈に振舞おうとするエレナの頬を、堪え切れない涙が一筋伝ったその時、店内と厨房を繋ぐ扉が開かれた。

カツカツと響く硬質な足音を立ててやってきたのは、カタリナと、それから彼女とともにやってきた客の一人だ。

ずっと帽子をかぶったままの少年は、それがおそらくお忍びのための変装か何かだろうということが容易に見て取れて、エレナはこれまであえて直視せずにいた。

しかしこうなれば当然のことながら、咄嗟に視線を向けてしまう。

その帽子の下に僅かに見える髪の白に近い金色も、エメラルドのようにキラキラ光る瞳も、気付いてしまえばあまりにも鮮やかだ。

その色が示す立場の高さを、この国の人間として当然エレナは知っている。

まさか、いや、そんなはずは。

すっかり涙が引っ込むほどに混乱した彼女の耳朶を、氷のように冷静な女の声が我に返らせた。


「エレナ・ドゥラン。災難でしたね」

「え、あ、いえ」

「混乱するのも無理はありません。ですがことを急いだほうがよいでしょう」

「……え?」

「結論から言います。今回のことはただの食中毒ではなく、何者かによる毒の混入だと私は考えています」


自分が考えていたこととはまた違った角度から振り下ろされた推測に、エレナは頭を殴られたような衝撃を覚えた。

毒を混入した? 料理に? いったいなぜ、誰が、なんのために?


「えっ、でも、うちの料理は私と母だけが作っているんです。誰も悪さをすることなんて……」


そんな証言をすれば自分達へ嫌疑をかけられてしまう、なんてことも考えず、エレナは胸の前で手を組みおろおろと言葉を返す。

その様子に、カタリナと、そして一応お忍びではあるがすっかりバレているライアも、顔を見合わせた。

厨房に入ってきた時より幾分表情の柔らかくなったカタリナが、それでも冷静な声音はそのままに、怯えるカタリナへできるだけ優しく言葉をかける。


「……ええ、そうでしょう。この環境では、部外者が厨房に現れて何かすればひどく目立ってしまう。

客達が複数の皿に同時に毒を盛るなどということは難しい。

そして貴方がた親子がわざわざ自分の店の料理にそんなことをするはずもない。

ですから、おそらくなにかしらの仕掛けがあるのです」

「仕掛けが」


オウム返しにそう言うエレナに、カタリナは重々しく頷く。


「そうです。私はその痕跡を探し、真犯人を見つけだすために、ここへ来ました」

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