第46話 優しい魔王の願いの行方・中
昔のことを思い出そうとしたとき、立夏の頭の中には最初に青空が思い浮かぶ。
それから、小さな妹を抱き上げる時の柔らかくてあたたかい感触。
優しくて真面目な父さんの作ってくれる料理の味。
照明に照らされた首長竜の化石と、隣でそれを見上げる親友たち。
誕生日には必ず家に居てくれる、忙しい母親の幸せそうな笑顔。
それらが最後には必ず、真っ青な空の記憶で塗り潰されるのだ。
立夏は幼いころに父親を亡くした。
もう10年以上は前のことだから、直接見た顔や声より、写真やビデオの中に残されたもののほうがずっと記憶に残っている。
立夏が父親のことで一番よく覚えているのは、大きなてのひらのことだ。
骨ばった長い指で、立夏の髪をくしゃくしゃに撫でるのが好きな人だった。
体が弱いことは、元々わかっていたのだという。
半年の闘病の末に亡くなった父親は、病室を訪れた立夏の頭をいつものようにくしゃくしゃと撫で、それから手を握って、母さんの言うことをきちんと聞け、友達とたくさん遊んで、元気に生きろと言った。
幸せになってくれと、涙を流しながら立夏に触れた。
立夏は優しい父親のことが大好きだったし、彼がもう居なくなってしまうのだということは、幼いとはいえさすがに理解できていた。
だから涙をぐっとこらえて、でも全然堪えられていなくてべそべそと泣きながら、父の言葉に頷いた。
母と二人の暮らしはいろいろと大変なことも多かったが、それでも幸せなことのほうがよほど多かったと思う。
幸いなことに立夏はなんでも出来た。
体は父の遺伝かひょろりとしていたが、それでも十分丈夫に生まれたし、なにより何にでも好奇心旺盛でやる気に満ち溢れていたから、家事だってなんだって苦にも思わず手伝えたのだ。
母は看護師をしていて忙しく、立夏は家で一人で過ごすことも多かった。
寂しくなかったとは言わない。それなりに泣いた日だってある。
それでも立夏は何事においても前向きな子供だったので、掃除も洗濯も料理もどれも興味深く取り組んだし、毎日図書館からどっさりと本を借りてきて、一人の時間も大いに楽しく過ごしたのだ。
そして母と過ごせる時は仕事について質問攻めにし、あるいは自分の学んだ興味深い物事について語り倒し、日に日に上達する料理の腕前を披露した。
母はそんな、毎日あまりにも楽しそうに過ごす息子に安心するやら驚くやらで、家に居るときはいつも笑って過ごしてくれた。
母の職場が変わって引っ越しをした時も、そんな立夏なので当然、今までの友達と別れる寂しさよりも新しい環境への好奇心が上回ってしまった。
多分薄情なたちなのだろうと、立夏自身思っている。
しかし、どちらかというと田舎と言ってよい生まれ育った土地から、急に刺激に満ち溢れた東京のど真ん中へ引っ越したのだから、立夏の性質を除いたとしても、子供らしい当然の心の動きではあったのかもしれない。
最初はさすがに母に連れられて近所を歩き回るだけだった立夏は、持ち前の好奇心で周囲の駅やバス停の場所も、経路も、ついでに交番の位置も瞬く間に覚え、一人で出かけたいと言い出した。
なにせ立夏が引っ越してきた場所は上野だったのだ。
日本屈指の博物館と科学館と美術館を目の前にぶら下げられて、我慢できるはずもない。
当然母には反対された。
立夏はこのとき9歳だ。引っ越してきたばかりの大都会を一人で歩き回ることを、心配されないはずがない。
しかし立夏は初めて東京で過ごす夏休みに、家で大人しくしていられるような子供ではなかったので、母親を毎日説得した。
学校だって一人で行っているのに、迷子になるはずもないくらいに地図を覚えているのに、いったいどうして博物館は駄目なのかと延々説き伏せ、当日の経路案内図と日程表まで作って、やっと許しを得たのである。
立夏は大はしゃぎで初めての巨大な博物館へ行き、色々な展示を目を輝かせながら見て回り、ちょうど首長竜の化石の前で情報量が多すぎてパンクして、ただただぽかんと骨だけでできた大きな体を見上げた。
そうして、あの三人に出会ったのだ。
不思議なやつらだと思った。
みんなそれぞれ好き放題に話すのに、まるで台本でもあるようにそれが途切れなくて、かと思えば一斉に黙って同じ展示を見上げていたりする。
別々のパーツで出来た、ひとつの機械かなにかみたいだと立夏は思った。
そしてもっと不思議なことに、立夏はそこにあっさり混ざってしまったのだ。
あれこれ話しながら博物館を見て回り、外の公園で遊んで、次の休みには動物園に行こうとすんなり決まり、いつのまにか四人は友達になっていた。
毎日一緒に遊んで馬鹿な話をした。
色々な場所へ出かけた。
中学生の頃、みんなで電車とバスを乗り継いで登山道も無いような山へキャンプに出かけ、案の定遭難しかけて予定外のサバイバルをしたときなんて、楽し過ぎて目眩がしそうだった。
これは生き延びるために仕方のないことだからと言い訳して木に登ってはよく分からない木の実を採取し、大喜びで川で魚をとり始めた立夏に、三人は最初は遭難したという衝撃でうろたえていたけれど、最終的にははしゃぎ倒して付き合ってくれた。
無事下山したあとは当然全員親から烈火の如く怒られたが、立夏はまだ興奮を引きずっていてほくほくと笑顔を浮かべていた。もちろん余計に怒られた。
新しい経験はいつだってキラキラ輝いて見えたし、それを友達と一緒に体験できるとなれば、立夏にとってこれ以上に楽しいものは無かったのだ。
四人一緒に居れば、なんだって出来るような気がした。
みんな馬鹿で子供っぽくて、しょうもないこともいろいろしたし、立夏なんてその中でも選りすぐりの馬鹿だったのだけれど、いつも楽し過ぎて堂々と遊んでいたせいで、三人からはなぜだか冷静で大人っぽいだなんていう評価をされていた。
それは実際のところは、図太くてマイペースというだけに過ぎないのだけれど、三人はなんでも好意的に解釈する器のでかい出来た人間だから、そんなふうに思うんだろう。立夏はそう判断している。
三人の感じ方と、自分の感じ方は、少しだけ違うのだ。
そのことに時々寂しくなることもある。
反対に、こんな面白い奴らと一緒に居れてラッキーだと嬉しくなることもある。
いつまでも一緒に居られるなんて夢見がちなことを考えるほど、立夏はロマンチストではない。
けれどこの三人とは、大人になって進む道が離れても、時々しか会えなくなっても、きっと同じように仲良しのままなんだろう。
そんなふうに素直に思えた。
中学二年生の冬、立夏に新しい父親が出来た。
母親の出かける頻度や、時々何か言いたげにそわそわする様子から、立夏はなんとなくそれを察していたので、正直驚きは薄い。かわりに、なんとも照れくさくて居心地の悪い気分を味わった。
とはいえ、お前なんて父親とは思わない、などと思春期真っただ中の反応をするような子供でもない。
むしろ相手もこの居心地の悪さを味わっているんだろうなと、立夏は不憫さすら感じた。
母の再婚は立夏にとって喜ばしいことだった。
母は立派な人だったけれど、どうしたって一人より二人でするほうが、子育ての負担は少ない。
支え合って生きていく人間は多いほうがいいだろう。
それなりの苦労をし、なおかつ賢い立夏は、そう思えるだけの余裕があった。
逆に父親のほうは真面目で緊張しがちな性格だったようで、立夏にそれはもうおそるおそるという距離感で接してきた。
突然思春期の息子が出来て、覚悟はしていたのだろうが、色々いっぱいいっぱいなのだろう。
だから立夏は、自分のほうから積極的に父親との距離を詰めることにしたのだ。
父親をキャッチボールに誘い、一緒に銭湯へ行き、母のいない日に二人で料理を作り、それを食べながらスポーツの中継を見て好きな選手を応援した。
無理矢理布団に連れ込んで、好みの女子のタイプを脈絡もなく聞いた。一発芸を見せ合った。最終的になんだかよく分からないことになりながら、立夏は父親とプロレス技を掛け合い、二人揃って床の上に大の字に寝転がった。
「これだけやったんだからもう親子だろ! よろしく父さん!」
あんまりにも思い切りのいい宣言をする息子に、父はぽかんと目を丸くした後、立夏の前で初めて大笑いをしたのだった。
そうして距離が縮まってみれば、新しい父親もなかなかにいいやつだった。
あまり馴れ馴れしく構いすぎては立夏の負担になるだろう、と距離を取るところはあったけれど、むしろそれが心地よかったし、息子を大事しようと頑張っていることは見て取れた。
たまに家族で出かける機会があれば、一番楽しみにして綿密にスケジュールを練っていたし、突然のトラブルでそのスケジュールが台無しになっても、むしろそれが醍醐味だなんて言って微笑むことのできる男だった。
一緒に大河ドラマを見ている時も、登場人物の経歴を頭から全部羅列していく立夏の話を辛抱強く聞いていたし、なんならそれが分かりやすいと言ってお礼におやつを作ってくれた。
彼は料理上手で、簡単なものならケーキだって焼けたので、立夏はいつもそれを恭しく受け取っては笑われた。
なんせ母は忙しくておやつを作る暇も無かったから、親が手作りしてくれるおやつ、というものが、立夏にとっては非常に珍しいものなのである。
父が思っている以上に、彼が作るカップケーキは、立夏にとって特別なものなのだ。
だから妹ができたのだと報告を受けた時も、立夏は一番喜んだ。
自分で言うのもなんだが、立夏は美少年だ。そして母さんも美人だ。
父さんは可もなく不可もない大人しそうな顔立ちだったが、むしろ邪魔をしないから、きっとうまいこと遺伝子が混ざるだろう。
可愛い妹が生まれるんだろうな。
一緒に遊べるかな。何をしたら喜ぶかな。
歳が離れているから、立夏が就職して一人暮らしするようになったら会う機会も少なくなるだろうけれど、それまではたくさん一緒に居よう。
我儘を言われても、出来るだけ聞いてやりたい。甘やかしすぎるのは良くないけれど。
たくさん可愛がろう。
いいお兄ちゃんになろう。
母親のお腹をおそるおそる撫でながら、立夏はそう決意した。
父と共に身重の母を支えながら数カ月を過ごし、迎えた高校一年の春。
新しい家族の誕生を喜び合い、立夏はふくふくとした妹の頬をつつきながら、この子はどんな子に育つのだろうと考えた。
母に似て可愛い顔立ちをしているから、きっと何を着ても似合うだろう。
たくさん写真を撮っておこう。
父と妹のツーショットを撮り、次は反対に自分と妹のツーショットを父に撮ってもらって、お互い自分のほうがよく撮れたと自慢しあった。
普段は照れて写真を撮らせない父親が、娘と一緒だと無防備に笑って写真におさまるのが面白くて、立夏は妹が大きくなったらこのことを話して一緒に父さんをからかおうと決めた。母にはさっそくこのことを伝えたから、彼女のスマホは瞬く間に父と娘の写真でいっぱいになったのに、父だけがそれを知らないのだ。
真面目で優しくて、ちょっと抜けたところのある父親のことを、立夏はこの一年半で、すっかり大好きになっていた。
だから、彼が変わってしまった時、立夏はそれを受け止めきれなかったのだ。
運よく保育園が見つかって母が慌ただしく職場へ復帰した頃、立夏は父親の様子がどこかおかしいと気付いた。
元々少し神経質なところのある人だったが、部屋の中のリモコンや箱ティッシュなんかの細々したものをきっちり定位置に置きたがるようになったり、逆に自分のスーツの上着に埃がついていても気付かなかったり、イライラしているような表情が増えた。
父はこの春から勤めていた部署がかわり、慣れない仕事になったと言っていたから、そのせいでストレスが溜まっているのだろう。
それでも自分と同じく忙しく働いている母には、なるべくいつも通り振舞ってみせていたし、妹の世話も相変わらず壊れ物でも扱うように丁寧だったから、立夏はそんなときもあるだろうと、最初は気にしなかった。
だんだん家事を手伝ってくれることも減ったけれど、親友たちが手伝いに来てくれるようになったから、妹の面倒を自分が見ることが増えてもそれほど苦ではない。
きっともう少し経てば、また問題なく楽しい毎日が帰って来るだろう。疑いもせずにそう思っていた。
母が夜勤で居ないある日。
妹を寝かしつけ、父と並んでテレビを見ながら、立夏はなんてことのない冗談を言った。
父さんは変なところでちょっと頑固だよな、とかそんなニュアンスの、軽く父親をからかうような言葉。
父はそれに、そんなことないだろと言いながら、立夏を叩いたのだ。
よくあるやり取りだ。ただのツッコミである。
けれど普段と違って、その手は座っていた立夏がソファに倒れるほどに強かった。
最初立夏は何が起きたのか分らなかった。
頭を叩かれた傷みは感じていたけれど、それが父親のせいだとは咄嗟に理解できなかったのだ。
だからぽかんとした顔でソファのひじ掛けに倒れたまま隣を見上げれば、先程まで疲れた顔をしていた父が、怯えたような表情をしていた。
やってしまった、どうしよう、と、思いがけない悪行を働いてしまって混乱する顔だ。
だから立夏は起き上がって、父の肩をいつもより少し強めに叩き返し、なにすんだよと笑顔で文句を言った。
それで父もほっとしたような顔をして、ごめんごめんと謝る。
ちょっと力加減を間違えたんだろう。父さんは疲れてるから。たとえばドアを閉めようとして、うっかり勢いがつき過ぎてすごい音が鳴ってしまう時のような、その程度の話だ。
納得するための言葉はいくらでも見つかったから、立夏はそのことを深く考えなかった。
そうして二人の間で、こんなことが日常化し始めたのだ。
立夏の背中や肩には、いくつもの痣が出来た。
暴力を振るうようなやつだったのかという失望にも似た怒りもあったし、恐怖もあったが、困惑のほうが強かった。
なにせ父は立夏を殴った後、どう見ても楽しそうでもないし、すっきりしたというふうでもないのだ。
繰り返しこんなことをしているから、ある種の楽しさというか、中毒性というか、そういうものは感じているのかもしれないが、息子を殴ってしまった罪悪感のほうが強いことは明らかだった。
そのストレスで余計に神経をすり減らし、妻と娘の前ではせめて何もないふりをしようとしてまたストレスを溜め、立夏の前でそれが爆発する。
明らかに父は神経に不調をきたしていた。
まだ彼の突発的な暴力の矛先は立夏だけに限定していたが、いつそれが妹や母に向くのかと思うとさすがに恐ろしくて、立夏は保育園へは必ず自分が妹の迎えに行き、出来る限り父親と妹を二人きりにしないようにと気を使った。
十中八九、職場で何かあったのだろう。
どう考えても早めに病院に連れていったほうがいいだろうけれど、ほんの数カ月でこうなるほどに追い詰められている父が病院でなんらかの診断書を貰ってきたとして、果たして穏便に会社を休んだり、元の部署に異動したりすることは出来るのだろうか。
仕事は上手くいっているのか、職場で何か酷い目に遭っているんじゃないか、なんてことを息子から尋ねられては、父親にとってそれこそストレスになるんじゃないか。
母に相談することも考えたが、どう言葉を選んだところで修羅場になる未来しか見えずに躊躇してしまった。
調べたところ、自分や他人に怪我をさせてしまうような病気の場合、本人が同意しなくても入院させることは出来るのだという。
しかし仮に病気ではなかったら?
父は傷害罪にでもなるのだろうか。
もしそうなったとして、母はそのことをどう受け止めるだろう。
誰にも相談が出来ないまま、平気なふりをする暮らしがひと月ほど続き、とうとう勇人に怪我のことがバレてしまった。
泣きそうなくらい動揺して自分を心配してくれる親友にも、立夏は頼れなかった。
親友も、家族も、大切過ぎて負担をかけられなかったのだ。
本当は誰かに縋ってしまいたい。
何もかも投げ出してしまいたい。
どうするのが正解なのか教えてほしい。
けれど自分がもう少し我慢すれば、ひょっとして、なにもかも元通りになるかもしれないとも思えた。
もしかして父もそんなふうに我慢しながら、こうなってしまったのかもしれないけれど。
きっと立夏もこの時すでに、どこか病んでしまっていたのだろう。
立夏はここしばらく、ぐっすり眠れたことがない。
痣だらけの背中はいつも鈍い痛みがあって、寝返りを打つたび眠りが薄くなってしまうのだ。
いい加減母か、それとも福祉系の団体にでも相談してみるべきだろうか。と悩みながら、立夏は疲れ切ってソファでうたた寝をしていた。
よく晴れた土曜日の、午後のことだった。
赤ん坊の泣き声がして、立夏は目を覚ました。
いけない、妹が泣いている。今日は僕が夜まで面倒をみなくちゃいけないのに、つい寝てしまっていたらしい。
目を擦って起きた立夏は、妹の泣き声がベビーベッドからではなく、ベランダのほうから聞こえていることに気付いてぎょっとした。
どうして。まだ首が据わったばかりで、ひとりでそんなところまで行けるはずがないのに。
今日は母さんは仕事に行っているし、父さんは会社の人に誘われて、どこかへ遊びに行っていた。こういう日の父さんは苦手な酒を飲まされていることがあって、帰って来るとひどく疲れ切ってすぐに寝てしまうことが多い。
あわてて日よけのレースのカーテンを開け放てば、そこにはまだ帰ってきていないと思っていた父が居た。
そして彼の片手が無造作に小さな妹の背中を掴んで、ベランダの細い手すりの上に座らせている。
「ばっ、馬鹿! 危ないだろ!」
立夏は慌ててベランダに飛び出した。
妹はぐずって細い手すりの上で危なっかしく体を揺らし、いまにも落ちそうになっているのに、父はそれをぼうっと眺めているだけなのだ。
後ろから妹に腕を伸ばして抱き上げようとすると、父は驚いた顔をして妹の服の背中を掴み、手すりの上を滑らせるようにして自分のそばへ引き寄せた。
そうして眉間にしわを寄せ、立夏を見て赤い顔をして怒鳴った。
「は、俺だって子守りぐらい出来る! 馬鹿にするなよ!」
息から明らかに酒の匂いがして、立夏は血の気が引いた。
相手は酔っ払いだ。どう見たって正常な判断ができるようには見えない。
このクソ親父さすがにこれは後でぶん殴るぞ、と立夏は覚悟を決めた。
きっと嫌なことがあったんだろうけれど。無理に酒を飲ませてくるような馬鹿に絡まれて、心身ともに今ずたぼろなんだろうけれど。やっちゃいけないことっていうのがこの世にはあるだろうが。
妹を危険な目に遭わされて、さすがに立夏とて冷静ではいられなかった。
渡せ、渡さない、と腕を押しのけ合って揉み合いになるうち、とうとう立夏は父親にぶつかるようにして妹を奪い取った。
そうしてそのまま、足がもつれあい、二人同時にベランダの手すりにぶつかったのだ。
あ、と思った瞬間には、どこか錆びついていた個所が折れたのか、あっけなく手すりが外れていた。
体が傾き、マンションの壁面が視界に入る。
足がベランダの床から浮き、離れ、内臓がぐらつくような浮遊感がした。
空が真正面に見える。
落ちる。
そう思った瞬間、背中を丸め、腕の中の妹を無意識に抱きしめていた。
自分の体の下には父さんがいて、そうして。
何かがぶつかる大きな音と、割れて潰れる感触が。
一瞬意識が飛び、再び目が開いた時、立夏の体の下にある父親の体は、ゆっくり体温を失いつつあった。
そこからのことを立夏はあまりよく覚えていない。
死にはしなかったが、高いところから落ちたせいで体にはそこかしこに不調が出ていたし、頭痛がひどくて気を失ったからだ。
幸い妹はまだ赤ん坊で体が軽いからなのか、父親と立夏がクッションになったからか、たいした怪我もなく無事だった。
病院のベッドの上で父親は助からなかったと告げられ、自分の体の痣のことを尋ねられた。
立夏はそれをただの怪我だと言い張った。
ベッドの上に分厚い本を置きっぱなしで寝るから寝返りの時にぶつけたのかもしれない。
自分と父はプロレス好きだから時々ふざけて技をかけあっていて、それでついたのかもしれない。
とにかくなんてことのない、ただの怪我なんだと言い張った。
もう何もかもが解決しないのだと分かってしまった今、立夏はそうするしかなかったのだ。
しかしそんな虚勢が通じるはずもなく、母は立夏が父に殴られていたことを理解してしまった。
立夏と父がベランダから落ちた時の言い合いだって、マンションの住民が聞いていたのだ。
立夏は大勢の大人たちから同情された。
虐待を受けていたんだね。
あんな酷い父親のことなんて忘れていいんだよ。
庇う必要なんて無いんだ。
可哀想に、きっと自分が何をされていたのか認めたくないんだね。
そんな言葉を何度も聞いた。
それはそうなんだろう。
自分は父親から虐待されていたんだ。
それを我慢して父親を庇っている、馬鹿で可哀想な子供なんだろう。
あの男はクズと呼ばれてもしょうがないんだろう。
けれどそれを何の関係も無い周りの人間から言われるのは、どうしようもなく嫌だった。
だって父さんはあの時、一緒に落ちていく自分達を抱きしめたのだ。
自分が妹を守ろうとして胸に抱き、下敷きになろうとしたのと同じように、必死で僕と妹を守ろうとしたのだ。
殴られて悲しかった。怖かった。
あの優しいひとがこんなふうに変わるものなのかと恐ろしかった。
なんで自分がこんな目に遭わなきゃいけないんだと怒りがわいた。
けれどこんな結末が欲しかったんじゃない。
どうにかして父さんを説得して、会社を休ませてやりたかった。
妹がもう少し大きくなったら、自分がバイトをして少しは家計を支えようと思っていたのに。
父さんが病院に通って元気になったら、それはそれでまた自分のしたことに酷く落ち込むだろうから、その時は元気を出せと言ってやりたかった。
散々プロレスの技をかけまくってぼろぼろにして、へろへろになるまでキャンプに付き合わせて、ほかにもたくさん一緒に遊んで、これでチャラにしてやると言ってやるつもりだった。
どうにもならない場所で追い詰められて苦しんでいたんだろう父さんを、助けたかった。
間違ったことも許したかった。
だって家族なんだから!
周りからどんなふうに言われても、自分は父さんの優しいところを覚えているんだ。
父さんが緊張しながら仲良くなろうと精一杯頑張って話しかけてくれたことを。
二人で母さんに隠れてこっそり夜更かしをしてゲームをしたことを。
テレビで漫才を見て一緒に馬鹿みたいに笑ったことを。
自分のために作ってくれた料理の味を。
春にうまれた妹に花と名付けた日、来年はお弁当を持って、みんなで一緒にお花見に行こうねと言ったことを。
その時の嬉しそうな顔を。
僕と妹が怪我をしないように、必死で抱きしめてくれた腕の感触を。
濁った声が最期に、大丈夫かと、ごめんなと、悲しそうに言ったことを。
僕は覚えているんだ。
もっと早く誰かに相談していれば、父さんは助かったんだろうか。母さんを泣かせるようなことにならなかったんだろうか。妹は、父親を失わずに済んだのだろうか。
結局何もできなくて、誰も助けられなかった自分は、いったい何をすればよかったんだろう。
どうすれば、こんな結末にならなかったんだろう。
あの日からずっと、冷たくなっていく父さんの上に倒れて、妹の泣き声を聞きながら見上げた青空が、瞼の裏に焼き付いている。
それでも周囲に余計心配をかけるのも嫌で、表面上は平気な顔をしながら、立夏は妹と共に勇人の家に世話になっていた。
親友たちは立夏が内心ひどく落ち込んでいることに気付いていたけれど、これまでの出来事を聞き出そうとなんて絶対にしなかったし、父親のことにも触れなかった。
ただいつも通り四人で遊んで、立夏が少しでも元気になるよう、楽しい時間が過ごせるよう、気を使っているそぶりも見せずに一緒に居てくれた。
元気になれば、立夏が自分の中の問題と向き合って解決できると、勇人も琉唯も錬も信じてくれているのだ。
周囲からのお節介な言葉にうんざりしていた立夏にとって、三人との時間はなにものにも代えがたいものだった。
けれどどうしたって、立夏の心にはあの日の青空がこびりついていたから。
何もできないまま失われた命と未来のことを、考えずにはいられなかったから。
突然現れた化物が自分を異世界に攫った時、立夏はほんのすこしだけ安心したのだ。
何もかもがつらくてどうしようもなかった自分の心がこの化物を呼んだのかと、思わずにはいられなかった。
願いを、と言われたとき、叶えてほしいことが思い浮かばなかったわけじゃない。
立夏は何もできなかった自分が嫌で嫌で仕方なかった。
誰にも責められないなら、せめて神様が自分に罰を下してくれればいいと思った。
父さんの死を忘れて、いつか平気で生きていけるなんて思いたくない。
進学して、就職して、ひょっとして結婚もして、あの時は大変だったなとたまに思い出すだけになる日がくるなんて恐ろしすぎる。
母さんと妹と親友たちは健やかに生きてほしいけれど、自分だけはどこかでひっそり誰からも忘れられてしまいたかった。
幸せになんてなりたくない。
心の中で、そう願ったのだ。
だからだろうか。
頑張った結果、結局地の底の神殿に邪神と二人きりで閉じこもることになってしまっても、それほどつらいと思えていないのは。
ここは暗くて、静かで、何も無い。
時々洞窟のどこかで石が落ちて砕ける音が響く以外は、本当に何も起きない空間だった。
孤独でいることが、いまはひどく心地良い。
このままここで朽ちていくんだろう。
真っ黒で感情の無い悍ましい邪神の力が尽きる頃、きっと自分も死んでいくのだ。
邪神とほとんど同化した立夏は、ただ暗闇の中で、頭の中を流れる自分の記憶と、これまでに邪神の餌食になったのだろう誰かの記憶を見つめていた。
それなのに、もう死ぬのを待つだけだった立夏の耳に、聞き慣れた声が聞こえたのだ。
「立夏!」
何度も何度も聞いた大切な親友たちの声が、洞窟の中に大きく響いた。
それと同時に、自分を包むように大人しくしていた邪神が、寝床に踏み込まれた動物のように防衛本能をあらわにした。
突然叩き起こされたような衝撃を感じて、開けているんだか閉じているんだかも分からなくなっていた目を見開き、立夏は顔を上げた。
いくつもの不思議な丸い灯りに照らされて、まるでゲームのキャラクターのような恰好をした親友たちと見知らぬ少年が、そこに立っている。
同じ世界に皆がいる。
唖然としたのは一瞬で、立夏はすぐに事態を飲み込んだ。
あの森の中で感じた奇妙な気配。
それと目の前の親友たちの気配は同一のものだった。
邪神が自分をこの世界へ呼んだように、親友たちもこの世界に呼ばれたのだ。
邪神を退治するために、それが可能な、きっと神だとか呼ばれる存在によって。
後ろの金髪の少年はその神様の御使いか何かだろうか。
自分は愚かにも、親友たちから逃げ回っていたのだ。
最初から助けを求めればよかったのに。
ああ、この世界でも、僕は間違えたわけだ。
逃げ回って、神殿にたどり着いて、結局邪神はこんなに強くなった。
滑稽でどうしようもない。僕のせいで、皆が傷付いてしまう。
自分の声はちゃんと皆に届いただろうか。
僕なんてほうって逃げてくれ。大丈夫だ。死んだってかまいやしない。
だから頼むから、皆は無事に帰ってくれ。
そう願う立夏の心は、すぐに真っ黒に塗り潰された。
暗くて青い闇の中で、邪神が立夏の意識を奪っていく。
人と竜が混じり合ったような化物の体の内側に立夏を閉じ込めたまま、邪神は自分を封じ込めようとする女神の力から逃れるために、その巨大な腕を振りかざした。
立夏の願いとは裏腹に、最後の戦いは、いま始まるのだ。
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