第28話 優しい少年の第一歩・前
訓練場から見上げる空は抜けるように青く、夏特有の明るさが満ちていた。
それでも肌がぴりぴりと焼けるような強い日差しではないし、じっとりした空気で不快になることもない。
明るく、乾いていて、日本とは違う穏やかな夏だ。
本当に異世界に来たんだな、と、蒼井錬はふと思った。
海が近いと聞いたのに、こんなに空気がさわやかなのはどうしてなんだろう。
潮風が湿気を運んできそうなものなのに。
そこまで考えて、錬は自分の茶髪をぐしゃぐしゃと乱暴にかきまわした。
今は個人訓練の休憩中だ。
頭を休めるのは必要なことだけれど、このぼんやりした思考はそれとはまた別で、自分はいまひとつこの状況に集中しきれていない。
立夏が攫われたのに。
助けに行かなければいけないのに。
気持ちばかりが焦って、それでも訓練に成果は思うようには付いてこなかった。
それがとても情けなくて罪深いことに思えた。
だから錬はそれを誰にも言ってはいなかったが、彼の葛藤は当然のものだ。
平和な生活から突然弾き出され、違う文化の中で戦いを学ぶことになった。大柄な大人の男が振るう鋼鉄のハンマーを、剣を、魔法を、持ち慣れない盾で防ぎ、仲間を守り、隙を見つけて攻撃をする。
人間相手に武器を振るう。
それは恐ろしいことだ。
戦いになんの疑問も持たず適応できる人間というのは、ある種の天才であり、狂人でもある。
蒼井錬は仲間思いの心優しい少年ではあったが、狂人ではない。それだけのことなのだが、本人はこれを怯懦だと考えた。
土を均した訓練所のわきに広がる芝生に座り、膝の上に両腕を乗せて、腕に凭れるように額をつける。
何度も兵士の攻撃を受けた体は倦怠感があり、腕はじんと痺れていた。
体を動かすこと自体は嫌いじゃない。部活動で吐くまで走り込みをしたことだってあるけれど、慣れない使い方をした筋肉の疲労感はまだ体に馴染まない。
勿論それは錬だけではなく、勇人も、琉唯も、同じことだろう。
皆疲れているし、しんどいはずだ。
親友二人には、弱音を吐けない。
というか弱音を吐いていい相手なんて見つからなかった。
異世界の人々は誰も彼もが善良で、つらい使命を背負った少年少女に優しく接してくれたが、それは「女神の使徒」という立場への当然の礼儀なのだろうと錬は薄々察していた。
では同じく女神の使徒であり、かつ異世界人であるライアはどうなのかというと、これも弱音を吐ける相手ではない。
神々しいほどの美貌を持ち、錬が今まで出会った中で一番大人びて、そのくせどこか抜けているところのある少年。
きっと良い奴なのだろうなと思う。地球からやってきた三人をいつも気にかけ、支えようと心をくだき、優しく接してくれる姿は、外見も相まってなんだか天使のようだった。
そのくせ度胸も根性もある。
地球人三人組とライアの四人でチームを組み、兵士たちと模擬戦をした時に、錬が防ぎ損ねて後衛まで魔法攻撃を届かせてしまったことがある。
模擬戦自体にはなんとか勝てたが、鋭利な風の刃がライアを霞め、真っ白な頬にぱっくりと傷をつけたのだ。
大怪我ではないが、普段の生活の中ではなかなか見ないような出血量の傷だった。
訓練を終えてそれに気づいた錬達三人は、あわててライアを衛生兵に見せに行ったが、怪我をした本人は困ったように微笑んでいた。
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ、これくらい」
首筋を伝った血が襟元に赤い染みを付けていた。
目尻にほんの少しだけ涙を浮かべ、杖をぎゅっと握る手は、ひょっとすると指先の震えを隠していたのかもしれない。それでも声と表情には怯えを見せてはいなかった。
地球でならまだ中学二年生ほどの、自分より年下の少年は、自分よりずっと覚悟が決まっているんだろう。だから取り乱すことがないのだ。
そう思うと、錬はますます心が落ち込んでしまう。
「俺、喧嘩苦手だったんだなぁ……」
ぽつりと漏れた独り言は、自分でもびっくりするほど弱々しい。
喧嘩と命懸けの戦いは別物だということは分かっている。けれど相手を傷つけるために能動的に暴力をふるうという意味では同じ事だ。
錬は体格が良く、茶色く染めたような髪色で、まるで不良のように見える。
けれど話してみれば明るいやつなのだと分かるから、必要以上に怖がられたこともないし、怖がらせないように気を遣って生きてきた。
自分から誰かに喧嘩を売ったことなんて当然ないし、幸いなことに学区には生意気だなんて言って絡んでくるような典型的不良もいなかったから、これまでそういったこととは無縁でいられた。
こんなことになるくらいなら、いっぺんくらい喧嘩しておきゃ良かった。
なんて思ったけれど、そうなっていたらきっと親友たちは怪我をした錬を心底心配しただろう。
自分だって、皆が怪我をしたら当然心配する。
だから頑張らなきゃいけないのに、気持ちが付いてこない。
そのせいで余計に心が萎んでしまう。
錬は見事な堂々巡りに陥っていた。
錬が一人でしゅんとしていると、不意に訓練場の空気がざわりと動いた。
何だろうと思って顔を上げてみれば、入口に数人の男達の姿が見える。
体格の良い護衛に囲まれて、腰から剣を下げた、一人の眩しいほどの金髪をした貴公子が立っていた。
錬はその顔に見覚えがある。
異世界に来た日、この国の国王に謁見をしたとき、玉座の左右に陣取っていた王子だ。
王族の中で一人だけ、髪を伸ばさず動きやすそうな長さに整えていたから、印象に残っていたのだ。
というかこの国は王様も王子様も全員びっくりするほどの美形だったので、そういう意味では全員印象に残っているのだけれど。
錬たちがあんまり見事に緊張するものだから、それ以降王様たちは気を遣っているのか忙しいのか姿を見せないけれど、末っ子の様子が気になって訓練を見に来たのかもしれない。
錬はそう思ったが、短髪の王子はライアと親しげに手を振って挨拶をすると、ずんずん歩いてこちらへ向かってきた。
え、と声を漏らし、思わず立ち上がる。
相手は偉い人なんだから、ぐったり座り込んだままでは多分失礼だろうと思ったからだ。
護衛達を入口に残して一人でやってきた王子は、にっと気持ちのよい笑顔を浮かべて、錬に向かって片手を差し出した。
ライアに似てはいるけれど、彼よりずっと精悍な印象の少年だ。
おそるおそる握手をし、錬は小市民的な動きで小さくお辞儀をする。
「そんなに緊張するな! こうして話すのは初めてだな。俺はアストレイ・エル・ファルシール。この国の第二王子だ。つまりライアの兄ちゃんだ!
お前の名前はアオイ・レンだろう? レンって呼んでいいか?」
「……っス、えと、どうぞ。あの、俺はアストレイ、様? って呼んだほうが……?」
「アストレイでいいって。ライアのことだってライアって呼んでるだろう? 喋り方だってもっと自然にしてくれればいい。話し難いだろう。べつに王子様だなんて思わなくていいぞ。歳だって一つしか違わないし。あ、俺が年上だぞ」
「そうなのか……、じゃあ、うん。そうさせてもらう」
ずいぶんと砕けた口調に驚いて、錬はぱちぱちと目を瞬かせた。
この国の王族は案外気さくなようだ。
ライアもかなり早い段階で、三人組に自分が王族だということは気にしなくていいと念を押していた。
これから皆で大変な旅に出なくてはいけないのだ。社会的な立場だとか、礼儀だとか、そういうものを気にしていては効率が悪いから、と。
それはもっともな意見だと思ったので、錬も勇人も琉唯も、今は友人相手のような口調でライアに接している。
王子様にはこんな俗な喋り方はひょっとして通じないんじゃないか、という三人の心配は外れ、ライアはごくごく自然に会話に参加した。
なんでも一番上の兄に連れられて時々城下に行くし、色々な立場の人間と会う機会があるので、いわゆる上流階級的な話し方以外も理解できるのだそうだ。
第二王子だというアストレイも、きっと弟と同じく、庶民相手に話すことに慣れている人間なのだろう。
それはさておき、自分は一体どうしてわざわざ王子様から自己紹介を受けているんだろうか。錬は一人で静かに困惑した。
握手をしていた手を離すと、アストレイはまたにっと笑った。
なんだか学校の格好良い先輩みたいな、頼りになる笑い方だな。と錬は思った。
「それじゃ、ちょっとあっちの訓練場に行こうぜ。俺、お前に特訓つけにきたんだ」
「えっ」
「ついてこい」
言うが早いか、アストレイはすぐに歩き始めてしまった。錬は横に置いていた大盾を掴んで、慌ててその後に付いて行く。
勇人と琉唯はぽかんとして錬のほうを見るが、それぞれ付いてくれている教師役から何か話しかけられると、納得したような顔をして錬に向かって頑張れと両手を振って応援してくれた。
ライアはなんだか心配そうな、けれどどこかほっとしたような不思議な顔をしているが、二人にならって手を振っている。そういう文化だと思っているのかもしれない。
多分これは地球三人組以外には予定内の出来事なのだろう。そう納得して、錬は斜め後ろからアストレイの後ろ姿を眺めた。
自分とあまり身長差のない王子は、よく見るとずいぶん鍛えられた体つきをしている。
運動部の先輩にもちょっと見かけないような、引き締まった体形だ。
そういえば、彼のてのひらは随分硬かった。剣の稽古かなにかをして、それで鍛えられたのだろう。
初対面の王子相手になにを話せばいいのかもわからない錬は、黙ってそんなことを考えた。
連れていかれた先は、元々いた場所からはそれなりに離れた訓練場だ。
低い林に囲まれているがだだっ広くて、鍛錬用の器具の一つもなく、端にぽつんと休憩用らしいベンチだけが置かれていた。
アストレイは持っていた長剣を鞘から引き抜き、無駄のない動きで構えて明るくにかっと笑った。
「じゃあ始めるぞ! 死ぬ気でやれよ」
すっとアストレイの顔から表情が抜け落ちる。
どんな訓練をするだとか、こういうところに気を付けろだとか、そんな説明を一切なしに、アストレイは錬に向かって切りかかった。
ドンと地面を踏みしめる音が響き、気が付けばアストレイがすぐ目の前まで近づいている。
反射的に盾を構えられたのは、鍛錬の成果というより神器にこめられた加護のお陰だ。
次の瞬間、とんでもなく鋭い金属音が響く。
盾を構える錬の足が、地面の上で僅かにずるりと後ずさったほどの衝撃だった。
あまりの気迫に錬がハ、と悲鳴じみた引きつった呼吸をする間に、アストレイは風のように走って横を通り抜けていた。
そして今度は背後から剣が迫る。
どうにか目の端で動きをとらえ、振り向いて再び攻撃を受け止めた。
ほんの二合受けただけで、錬の顔には汗が浮かび、こめかみを伝って顎から滴り落ちる。
なぜだか本能的に理解した。
アストレイの持つ剣は、きっと刃を潰していない、訓練用ではない、本当に人を切り殺せる武器だ。
錬はこれまでの訓練が怖かった。
反撃して相手に怪我をさせてしまうことも怖かった。
けれど目の前のこの男が、今までで一番怖い。
目の前の相手は、もしかして本当に自分を殺しに来ているんじゃないか。
そう思うほどの迫力が、自分と一つしか歳の変わらない少年にはあった。
無意識に唾を飲み込んだ音が、錬の耳にやけに大きく聞こえた。
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