第12話 二人の女優と二人の王子・前

ほんの小さな子供のころから、ヴィオレッタの夢は女優になることだった。

きっかけは、親に連れて行ってもらった祭りで、来ていた劇団の芝居を見たこと。

巡業で村や町を回る小さな劇団の、今思い返してみれば大道具や衣装の作りも少し雑な、それでもその当時のヴィオレッタからすれば夢のように楽しい劇。

すっかりとりこになったヴィオレッタが、劇中のお姫様の真似をしてセリフを言うのを、家族は微笑ましげに眺めては上手だねと褒めてくれたものだ。


子供の幼い憧れが、具体的な将来の夢になったのは、ヴィオレッタが14歳になったころだった。

近所に住んでいたヴィオレッタより幾つか年嵩の娘が、年始の祝いの休暇で王都から帰省してきたときのことだ。

土産を渡しに来てくれた彼女は、都会の様々な楽しい出来事を話してくれた。


「ねえヴィオレッタ、都会って本当に面白い場所が沢山あるのよ。

私が特に気に入ってるのはやっぱりお芝居ね。毎日いろんな劇場で、いろんな劇団が面白い演目をやってるの。贔屓にしてる役者もいるのよ」


それを聞いたヴィオレッタは、親に無理を言って、年上の兄弟とともに王都へ出稼ぎに出してもらった。

ヴィオレッタは町一番の美人と評判の娘だった。王都にもそれくらいの娘は大勢いるけれど、自分ほど演劇への情熱がある娘はいないに違いない。そんなふうに思うくらいには、役者になるというヴィオレッタの決意は強いものだった。

毎日劇場近くのカフェで働きながら、ヴィオレッタは足繁く劇場へ通った。

カフェの客としてやってきた劇場の職員に頼み込み、雑用をするかわりに稽古の見学をさせてもらえるようになったのは、ヴィオレッタが15歳の時だ。

ヴィオレッタは、ある日自分と同じく見学に来ていた、亜麻色の髪の可愛らしい少女に話しかけた。


「ねえ、このお芝居、原作はあるか知ってる?わたし、まだ図書館って行ったことないの」

「あたしは読んだわよ。あなた、よそから来た子なの?今度お勧めの本教えてあげるわね」


ミラベルと友人になったきっかけは、そんな、なんてことのない会話だった。

一人きりで役者を目指していたヴィオレッタは、それから、ミラベルと二人で役者を目指すことになる。

二人とも、演技について専門的な勉強をさせてもらっていたわけではない。ただ、毎日稽古の見学をし、原作と脚本を読み、監督と演出家の意図を考え、客に対して見栄えのよい話し方や仕草というものを見様見真似で学んでいった。

稽古が終わった舞台の上を二人で掃除している時、ミラベルは決まって少女役のソロパートを歌い、ヴィオレッタはそれにコーラスを入れた。

それが終わるとヴィオレッタがメインの台詞を喋り、ミラベルはサブキャストの台詞を担当する。


2つのランプだけが灯った薄暗い舞台で、モップ片手に行われる今日の演目は、現実的で夢の無い侍女と夢見がちな姫君が一日だけ入れ替わり、お互いに全く違う立場の男性に恋をする、というストーリーだ。

王子様の訪れを待つ夢見がちな姫の独唱は、ソプラノの得意なミラベルの天真爛漫な雰囲気とよく合っていて、彼女自身が誰の前で歌ったって恥ずかしくないと自信をもって断言するだけの可愛らしさがある。

ヴィオレッタはそこに、現実的な侍女のぼやきをしっとりしたアルトで添える。ヴィオレッタは、正直歌は得意ではない。けれどこの曲だけは、ミラベルに何度も付き合わされたおかげで比較的慣れていた。

歌が終わると、ヴィオレッタはやれやれと首を振り、すっかり覚えているセリフをいつものように口にする。


「ああお姫さまったら、どうしてそのように思えましょう。わたくしは一介の侍女でございます。美しく高貴なあなたさまとはまるで違う女なのですよ」

「違う、違う、貴方はいつもそればっかり! いいこと、この世には驚くような奇跡というものがあるのです。いつか貴方にだって、きっとそれが分かる日が来ることでしょうね」

「とてもそのようには思えませんわ。高貴なかたのおっしゃることは、なんて夢のようなのかしら!」


床をモップで拭いながらのつたない演技が一通り終わった時、ふいに思いもかけず、劇場内に拍手が響いた。

驚いた二人が立ちすくんでいると、ランプの明りが届いていなかった部屋の隅から、一人の男がステージに向かって歩いてくる。


「いやいや、驚いた。二人とも実に可愛らしい歌声と演技じゃないか。これは見学ばかりさせているのはもったいないね。どうだい、次の演目の脇役をやってみないか」


そう言ったのは、よくこの劇場に芝居をかけている劇団の監督だ。

二人はぱっと顔を見合わせ、それから揃って大きな声で、お願いしますと返事をした。

監督が帰っていき、今度こそ本当に二人きりになった劇場の中で、二人は歓声をあげた。


「すごい! すごい! あたしたち、本当に役者になるのだわ!」

「本当! 夢みたい!」

「ふふ、ヴィオレッタ、この世には、驚くような奇跡というものがあるのです、よ!」


お姫様の台詞を引用してぱちんとウインクをしてみせるミラベルに、ヴィオレッタは大笑いして抱きついた。

初めての舞台での台詞は一行だけ。歌だって少しコーラスに入っただけだ。

けれどもそれは間違いなく、目指していた道の第一歩だった。

公演が終わったあと、ミラベルと一緒に打ち上げと称して食べたクリームたっぷりのケーキは、今でもヴィオレッタの一番の好物だ。


それから二人はめきめきと頭角を現し、いくつものステージに登った。

特にミラベルはその持ち前の美しさと歌唱力で、若い娘が主役の演目には引っ張りだこだった。

対してヴィオレッタは、どこか落ち着いた雰囲気が邪魔をしてか、いまいち見合った役が少ない。


「みんなわかって無いのよね。あたしよりヴィオレッタのほうが、ずーっとお芝居が上手なのに!」

「そんなことないわ。ミラベルの演技は華があるもの」

「いーえ! あなたは自分を過小評価してるのよ! あたしのほうがずうっとあなたのこと、わかってるわ!」


そう言って拗ねるミラベルのことが、ヴィオレッタは少し妬ましくもあり、同時になにより愛おしかった。

ある日のことだ。ミラベルが一人の男を連れてヴィオレッタの部屋を訪れた。

無理矢理に引っ張ってこられたらしい男はずいぶん困惑しており、ヴィオレッタも同じくらいに困ってしまった。


「どうしたの? ミラベル、そちらのかたは、たしか脚本家のかたでしょ?」

「そうよ! いいこと? ヴィオレッタ。この人にあなたが主役の台本を当て書きしてもらうのよ!」

「ええっ! 本当に書いてもらえるなら嬉しいけれど、でも、そんなこと、いいの?」


当て書きというのは、演じる役者を決めてから、それに合わせて脚本を書くことだ。

遠慮がちではあるが期待に満ちたヴィオレッタと、すっかりお願いを聞いてもらうつもりのミラベルのキラキラとした視線に見つめられ、男は仕方がないなと言うように苦笑しながら頷いた。

感激のあまり言葉がでず、思わず口元をぱっと手で覆ったヴィオレッタに、ミラベルはぱちんとウインクしてみせる。


「ふふ、あなたに合う役が少ないなら、役のほうをあなたに合わせればいいのよ! 名案でしょ?」


ヴィオレッタがはじめて主役を務めた舞台は、想像以上の好評を博した。

結果的に得をした脚本家はミラベルとヴィオレッタに大層感謝し、二人のための脚本を、その後もたくさん書いてくれた。


二人が王都で評判の美人女優として注目を集め、しばらく経ったころ。

隣国のファルシールで新しく劇団を立ち上げたいという商人が、劇場で見たヴィオレッタの演技に一目惚れをして声をかけてきた。

突然のことに、ヴィオレッタは動揺した。

ファルシールは大国だ。その王都で活動する劇団ともなれば、今以上に多くの客に自分の演技を見てもらうことができるだろう。

けれど今の暮らしだって、決して悪いものではない。

深く思い悩み、最終的に、ヴィオレッタは国を出る決意をした。

それを最初に伝えた相手は、勿論ミラベルだ。


「ねえミラベル、あのね、わたし、ファルシールの劇団で働かないかって誘われてるのよ」

「えっ。……そうなのね、すごいじゃない! それで、どうするの?」

「行くつもり。新しい国で新しいお芝居をして、もっと役者として成長したいの」

「そう、そうなのね。えらいわ、ヴィオレッタ、格好良いじゃない! あたし、応援するわ! きっとファルシールでも大勢があなたのとりこになるでしょうけれど、あなたの一番のファンはあたしだってこと、忘れないでよね!」


そう言って笑顔で自分を見送ってくれたミラベル。

ヴィオレッタが一番近くで見つめ続けた、一番尊敬し、そして一番愛している役者。

きっと彼女に負けないだけの、いいえ、彼女に勝てるくらいの役者になってみせる。

そう決意しての異国での生活は、はじめは決して楽なものではなかった。


ヴィオレッタは自国では人気の役者だったが、ファルシールではほとんど無名だ。おまけに劇団自体ができたばかり。

隣国で評判の役者と大々的に宣伝をしても、初公演の劇場の客席は7割程度しか埋まらなかった。

けれどそれで挫けるようなヴィオレッタではない。

評判の脚本家が居ると聞けば自ら口説き落としに行き、新進気鋭の監督が変わった演出をしていると聞けば、劇団のオーナーを説得して新しい機材を導入した。

ヴィオレッタは役者としては勿論、劇団の取りまとめ役としても優秀な女性だった。

数年後、彼女が団長の座を譲り受けるころには、紅薔薇歌劇団は公演のたびに満員御礼の、人気の劇団となっていた。


ヴィオレッタがその少年に出会ったのは、1年前の夏のことだ。

目深に帽子をかぶり、立見席で劇を見ていた少年と偶然目が合った瞬間、ヴィオレッタは思わず声を失った。

それほどに見事な色の瞳だったのだ。

演目を終えて挨拶をし、舞台袖に下がった瞬間、ヴィオレッタは近くにいた雑用係に少年の姿形を伝え、必ず引き留めるようにと厳命した。

そうして急いで舞台衣装から着替えて楽屋を出て、スタッフ用の通路で楽しげに雑用係と話をしている少年に駆け寄った。

こうして近くで見てみると、驚くほどに美しい少年だ。

雑用係を下がらせ、ヴィオレッタはどこか既視感のある不思議な少年に、まずは頭を下げた。


「ごめんなさいね、急に呼び止めてしまって」

「いや、いいさ。なかなか無い体験で面白いよ。劇場の裏側というのはこんなふうになっているのだな」

「あら、よかったわ。それで、呼び止めた理由なのだけれどね。あなた、役者の仕事に興味はないかしら?」


その言葉を聞いた途端、少年は喉をそらせて大笑いをした。


「はっはっは! 役者か! いいじゃあないか、悪くない。……しかしすまないな、俺としてもたいそう興味を引かれる申し出だがなあ、聞いてやることは出来んのだ」


そう言って、少年は帽子をとった。

中に纏められていた、美しい白にも近い金髪がこぼれおち、ヴィオレッタははっと息をのんだ。

ヴィオレッタは外国の出身者だが、この国に住んで長い。当然、その美しい髪とその姿を、絵姿で見たことがあった。

慌ててひざまずき、床に付きそうなほどに頭を下げる。


「も、申し訳ありません! リザレイア殿下とはつゆしらず、こ、このような失礼を……!」


狼狽するヴィオレッタとは反対に、王子は呑気に片手を振る。


「いや、構わんさ。美女にそのように頭を下げさせるのは心苦しい。どうか楽にしてくれ」

「は、はい……」


王子がお忍びで劇を見に来てくれた、という喜びもあるにはあるがそれどころではなく、ヴィオレッタは冷や汗が止まらなかった。

ぎこちなく顔を上げるヴィオレッタの前に、王子は笑ってしゃがみ込む。


「まあ気にするなと言っても難しかろう。ではこうするか。俺は君に今からひとつ頼みをする。引き受けてくれるな?」

「はい、なんなりと仰ってくださいませ」


出来ることなら、とも付けず、ヴィオレッタは即答した。何を言われるにせよ、これは引き受けるよりほかにない。

相手は将来この国を継ぐ第一王子だ。下手なことをすれば自分どころか、劇団も立ち行かなくなるだろう。

そう考えて緊張するヴィオレッタを、王子は目を細めて見つめる。


「頼みたいことは一つだ。君、俺に歌を教えてはくれないか」

「……は?」


思わず間抜けな声を出したヴィオレッタに、王子は悪戯が成功した子供のように笑い声をあげた。

これが、ヴィオレッタと第一王子の忘れられない出会いだ。

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