第4話 小さな歌姫と王子の出会い

リリー・トレットは今日も諦念とともに目を覚ます。

もちろん昔からこんなふうだったわけではない。

リリーは人魚の母と人間の父のもとに産まれたハーフだ。

母は人間のような体に変身できる魔法を使えたから、最初はごく普通の子供と同じく、優しい両親のもとで愛情に包まれて育まれた。

そのうち弟も生まれ、リリーは己の指を握る小さな手の暖かさに、姉としてこの子を守るのだと幼心に胸に誓ったのだ。


生活が一変したのは、その2年後のことだった。

リリーが6歳になったばかりのある雨の日、用事があって出かけた両親が、帰り道で落石に巻き込まれて死んだのだ。

祖父も祖母も父も兄弟は無く、親戚の居ないリリー達は天涯孤独の身になった。

両親が出掛ける際などに面倒を見てくれていた老婦人は、一時的ならともかく急に幼い子供を二人も育てられるような余裕は、金銭的にも体力的にも無かった。

母の家族は人魚で、ほとんど人間として生まれたリリー達を預かって育てるなんてとても無理。


そうなると、行き先は決まっている。

王都の孤児院はしっかりしているし、似た境遇の子供達と一緒に育つから、きっと寂しくない。友達だって沢山できる。

そう言って励ましてくれる仲のいいおばあさんの目尻には涙が浮いていて、リリーは自分が哀れな子供なのだと理解した。

誰も悪くない。ただ運が無かっただけなのだ。


それでも孤児院に入ったばかりの頃は、まだ良かった。

孤児院の職員や子供たちは小さなリリーと弟のエディに優しかったし、親のない子だからと腫れ物に触るような扱いをされることが無いのは心地よかった。

それに二人は母親譲りの整った姿をしていて、特に青い瞳と真珠のような色の髪は、初めて見た人が振り返るような美しさだ。

そのうえリリーは人魚の血を引いているからか声が良く、孤児院でいっとう歌が上手かった。

将来は王都で一番の歌手になれるかもしれない。なんて言われるたび、リリーははにかむような控え目な笑顔を浮かべた。


状況が変わったのは、孤児院に新しい院長が来てからだ。

善良ではあったが金勘定の下手だった前の院長が老衰で亡くなり、その親類だからと院長に就任した男は、以前は商家を営んでいたのだという。

たしかに経営は上手かった。孤児院は以前よりも豊かになり、食事のメニューは増え、子供たちの寝具もより暖かいものになった。

院長は子供たちと積極的に交流するようなタイプではなかったものの、それでも院内で会えば笑顔で挨拶をしてくれたし、勿論暴力だって振るわない。

だから職員や子供達からの評判も悪くはなかった。


ある日リリーは院長に呼び出された。

リリーの歌の評判を聞きつけた客が来たのだという。

それ自体はめずらしいことではない。孤児院では寄付金を集めるために子供たちの合唱を定期的に披露していて、その中でも特に見目も声も美しいリリーは、特別にと歌を乞われることが以前からあった。

だからその日もリリーは、孤児院の一室で客のために歌を歌った。

裕福そうな身なりをした男はリリーの歌に、うっとりと目を閉じて聞き入っていた。


リリーはいつも子供達から、リリーの歌を聞くとうっとりして眠くなってしまう。なんてからかい交じりの称賛を受けている。

だから一人で歌を歌った後は、いつも観客の眠気覚ましに、一度パンと手を叩くのだ。

そうするとうっとりしていた人たちは、夢から覚めたようにはっとして、笑顔で拍手をしてくれる。

だからリリーはその日もそうするはずだった。

歌の最後の一音を終えて、リリーがいつも通りにしようとした手を、院長が横から掴んで止めたのだ。


「いいかい、リリー。そのまま黙っているんだよ」


優しい笑顔を浮かべて小声でそう言う院長に、リリーは困惑しながらも従った。

うっとりと目を閉じている客に、院長がしばらく何事か耳打ちをすると、客は緩慢な仕草でゆっくりと頷きを返した。

それからリリーのかわりに院長が手を叩く。

そうすると客ははっと我に返り、リリーの歌に賞賛の拍手をしてくれる。

今日のことは皆には内緒だよ。院長は笑顔でリリーにそう言った。

その客から高額の寄付金が届いたのは、その翌日のことだった。


それから何度か、同じ事が続いた。

リリーも幼いとはいえ、どうやら院長が何かをしているらしいということには気付く。

寄付金で孤児院はますます潤い、建物は隅々まで修繕され、職員も増えた給金のお陰で今までより良い暮らしが出来るようになったし、子供達もたくさん本を買ってもらって勉強することができている。

はためには良いこと尽くしだ。

けれどリリーには、どうもそれだけだとは思えない。


ある日リリーは、特に仲良くしている職員に、こっそり院長の話をしようとした。

とはいえ、まだ幼い彼女には、人目をはばかり何かをするというのは難しいことだ。

そわそわしている様子を見とがめられ、いつも歌を歌う部屋で、リリーは院長からゆっくりと言い含められた。


「いいかい、リリー。内緒にするんだ。約束しただろう?」

「……はい、院長先生。でも、」

「リリー、君が頑張り屋さんなのはよく知っている。小さい弟の面倒もよく見て、本当にえらいねぇ」

「……、は、い」

「最近はエディくんも大きくなって、みんなとボール遊びができるようになったらしいね。良いことだ。

これからも元気に育ってほしいと、私は思っているよ。

リリー、君も勿論そう思うだろう? いいかい、これはみんなのために必要なことなんだ」

「……わかり、ました。院長先生」


弟は。

リリーにとって弟はかけがえのない、何よりも大切な存在だ。

たった一人の肉親。両親に代わって、自分が守らなければならない愛しい小さな弟。

自分だけならまだ、もしかしてひょっとしたら、孤児院を抜け出して、この歌で食べていくことができたかもしれない。

けれど弟はまだ2歳だ。面倒を見ながら自分たちだけで生きていくなんて到底無理なことくらいは、リリーにも分かっていた。


それから1年、リリーは歌を歌い続けている。

ある日、リリーはいつになく上機嫌な院長に、いつもの部屋に呼び出された。


「リリー、よくお聞き。

じつは今度、この孤児院に第三王子殿下がお越しになると決まったんだ」

「第三……、ええと、ライア王子、殿下?」

「そう、ライア殿下だよ。

いいかいリリー、王子様が歌を気に入ってくだされば、ひょっとしたら君はお輿入れをして、お姫様にだってなれるかもしれないよ」

「え、……でも、わたしも殿下も、まだ7歳です」

「そんなことは問題じゃない。気に入られることが大事なんだ。

リリー、君は容姿にも、歌声にも、チャンスにも恵まれている。幸運な女の子なんだよ。

わかるね? この機会を逃してはいけない。

弟が可愛いだろう? もっと良い暮らしをさせてあげたいと思うだろう?

君は私の言うことをよく聞いていれば、それでいいんだよ」

「……はい、院長先生」


恵まれていると院長が言う髪も、声も、何もいらない。

本当にわたしが幸運なら、ただ両親と弟と、4人で幸せに暮らしていたかった。


リリーは院長がなにをしているのか、詳しいことは知らない。ただこれ以上、行われているだろうなにか良くない物事の手伝いをさせられるのが、どうしても耐えられなくなったのだ。

もしそれで自分が捕まることになったとしたって、構わない。

院長さえなんとかできれば、ほかの優しい職員たちは、弟をきちんと育ててくれるだろうから。


そもそも王子様に気に入られるなんて、無茶な話だ。リリーもそういったお伽噺は読むけれど、自分がそうなりたいだなんて思ったことは少しも無い。

だからきっと自分が王子様に気に入られなければ、院長だって諦めるだろう。リリーはそう考えた。

とはいえ、わざと下手に歌っては、後で院長に怒られるかもしれない。

きちんといつも通り歌って、そのうえで気に入られなければいい。

あるいは、そう、王子が最初から歌を聞かなければいいのだ。


どうすればいいんだろう。

考えこむ日々が増え、食欲も落ちて、リリーのもともと細かった体はいっそう痩せ細ってしまった。

落ち込む姉の様子に気付いて弟も心配してくれるけれど、秘密を打ち明けることなんて当然できない。

そうこうしているうちに、ついに王子の前で歌う当日の朝を迎えた。


昔の反省を生かし、リリーは朝から出来るだけ自然体を装って過ごす。

少しくらい緊張が伝わっても、王子の前で歌うからだと周りは誤解してくれるだろう。

なにせ前日から職員も子供達も、みんな緊張と興奮で浮き立って、孤児院はそわそわとした空気に包まれているのだ。

子供たち全員での最後の合唱練習が終わったあと、ほんのわずかな時間を縫って、リリーは子供しか知らない秘密の抜け道からこっそりと王子の控室へ向かった。

換気口の中から部屋の中を窺うと、中には自分と同じ年頃の美しい金髪の王子様と、御付きらしい少年しかいない。

チャンスだ。でもどうすれば見とがめられずに王子と話ができるだろう?


じりじり過ぎて行く時間に焦りながらリリーがタイミングを計っていると、ふと王子が御付きの少年になにごとかを話しかけた。

笑顔でお辞儀をして少年が部屋を出た数秒後、意を決してリリーは換気口のフタを外した。


「お、王子様!」

「うん、王子だよ」


緊張に満ちた掠れた声へ、当たり前のように返事をされ、リリーは面食らってしまう。

きらきらとした瞳は空と木の葉の色が混じったような複雑な緑色で、不思議な色のそれにドキドキしながら、リリーは必死に言葉を紡いだ。


「ご、ごめんなさい! どうかわたしのことは内緒にしてください!」

「かまわない。何か僕に伝えたいことがあるのだろう?」

「はい、あの……。

わ、わたしの歌、絶対に聞かないで! それだけ言いに来たの!」


言いたいことを伝えると、リリーは大急ぎで部屋に戻った。

時々子供たちが使う換気用の空間は、そのおかげでホコリが定期的に掃除されるのだが、それでも服や髪が汚れてしまう。

誰にも見つからないよう気を付けながら身なりを整え、そこからはリリーは何食わぬ顔で、王子を迎える歓迎セレモニーに参加した。

緊張で震える指先を隠しながら皆と一緒に歌を歌い、挨拶を聞き、寄付金とプレゼントの贈呈に拍手をする。

セレモニーが終わったあと、リリーはいつもの部屋に呼び出された。


室内にいるのはリリーと院長、王子様、お付きの少年、それから剣を腰から下げた護衛の騎士だ。

ニコニコとした優しそうな笑顔で、リリーがいかに見事な歌声をしているか、幼い弟をどれだけ可愛がって世話をしているのか話す院長には、リリーの裏切りに気付いたような様子はない。

院長が自分ににっこりと頷くのを合図に、歌い慣れた一番得意な歌を、リリーは紡ぎ始める。


リリーの歌声の効果は劇的だ。ほんの数小節の間に、お付きの少年がとろんと夢見るような視線になった。

それに続いて護衛の騎士も、王子も、同じようになってしまう。


どうして?

聞かないでと伝えたのに、本気にしてもらえなかったの?


リリーの胸にゆっくりと、絶望が広がりはじめた。

所詮ただの子供には、大人の計画の邪魔なんて無理だったのだろうか。

わたしはこれからも、何もわからないまま、院長の手伝いをさせられてしまうのだろうか。


ああ、でも、諦めきれない。

わたしはもっと、自由に歌いたい。


最後の一音を歌い終わり、いつものように、院長が客の耳元になにかをささやきかける。

そこに割って入ろうとリリーが衝動的に駆け寄ろうとした瞬間、護衛の騎士が目にもとまらぬ速さで腰の剣を引き抜いた。

顎の下に突き付けられた剣に、院長がひっと短く悲鳴を上げる。

王子はそちらには目もくれず、ゆっくりと口元に微笑みを浮かべ、椅子から美しい所作で立ち上がった。


「なるほど、そういう仕掛けだったわけだな」


こつこつと軽い足音を立てながら歩み寄ってくる王子を、リリーは目を白黒させながら見つめる。

それほど広くも無い部屋の中で、王子はすぐにリリーのそばにたどり着き、震える手をそっと握りしめた。


「大丈夫だよ。あの男は僕が責任をもって捕まえよう。

君はもう、何も心配しなくていいんだ」


リリーを安心させるように、王子はそっと話しかけてくれる。

その穏やかさに、少女は長い間張りつめていた自分の心が、ゆっくりと解れていくのが分かった。


「わたし、わたし、もう、ここで歌わなくてもいいの?」

「ああ、もういいんだよ」

「弟も、なにもされない?」

「うん、必ず助けるとも。約束だ」


もう耐えることが出来ず、リリーは大粒の涙をこぼして泣いた。

こんなに大きな声で泣いたのは、両親が死んだと知らされたあの日以来だ。


もう大丈夫。

わたし達は安心して生きていいんだ。

リリーはようやく訪れた平穏に、久しぶりに心から安堵することができた。

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