第16話 キス
慌てて私は誠一郎から距離を取った。
職場でこんなシーンを見せられたら、誰でも気を悪くする。
それに部外者を連れ込んでいるのだ。
言い訳が出来る立場ではないが、とりあえず謝って2人を会社から出そうと
「部外者を勝手に入れてしまって申し訳ありません!慶史、誠一郎君、差し入れありがとう。また落ち着いたら連絡するから、今日は帰って」
慌ただしく2人の腕を掴むと課長の横を通り抜け、玄関に向かった。
「俺が話つけて来る」
「駄目!それは駄目」
「姉貴!」
「慶史、大丈夫だから。ほら、誠一郎君も」
「え、あ…はい…」
横を通り過ぎる際、慶史と課長が睨みあいしていた事を知らないまま、本当に大丈夫だから、と2人に言い聞かせ、無理に車に押し込み会社の敷地内から出した。
そして、足取り重く戻れば、課長は私の席で残りの仕事をしていて、慌てて駆け寄った。
「か、課長、その、すいませんでした。まさか、弟と友人が差し入れを、」
「帰れ」
「え?」
「帰れ、と言ったんだ」
ゆっくりと私の方に顔を向け、課長は吐き捨てるように言葉を発した。
「会社をラブホがわりに使うヤツに仕事は任せられない」
「なっ!私が何時、会社をラブホがわりにしたって言うんですか!」
「弟か友達か彼氏かは知らないが、男とキスしてたら誰だってそう思う」
「だ、だから!あれは違うんですってば!せ、説明したじゃないですか!差し入れを持って来てくれただけって!彼もちょっと悪ふざけしただけで、」
「煩い」
「課長!お願いだから、話を聞いて下さい!」
「うるせーって言ってるだろうが!お前が誰と付きあおーが俺に関係あんのか!?仕事引き受けてやるからイチャついて来いよ!」
課長が急に立ち上がった事もあり、椅子が倒れ、ガチャンッと床に叩きつけられた音が室内に木霊す。
この状態では、課長が私の話を聞いてくれる事は不可能だろう。
『…泣くな。タイミングが悪すぎ。少し時間を置いた方がいい…。』
言いきかせれば言い聞かせる程、悲しくなる。
ぐっと唇を噛み締め、課長を押し退け机の上にあったアイフォンや手帳をカバンに放り込んだ処で急に腕を掴まれ、驚いて顔を上げた瞬間、唇を塞がれていた。
キスされている事に気づくのに、優に10秒は掛かったと思う。
課長の唇が離れ、細められた瞳が私を見下ろし、そして、突き飛ばすように腕を放した。
「誰にでもキスさせるんだな。鹿島にもさせてんのか?」
その言葉にカッとなり、力いっぱい、課長の頬を引っ叩いていた。
「ってーなぁ」
「はっ、…、課長の、バカッ」
堪らず涙が零れる。
私は課長を睨みつけてからカバンを掴み、会社を飛び出した。
安い女と見られた事も悔しいが、一番悔しいのは、恋愛対象でもない女にキスして来た事。
3年振りにされた課長からのキスがこんな形な事も、全てムカつくし、悲しくなる。
化粧は落ちているし、鼻水は止まらない。
こんな顔でバスに乗る勇気は無く、3キロ程ある道のりをグズグズ言いながら歩いて帰った。
流石にヒールのある靴で3キロも歩けば、帰った時には足はパンパンで、その痛みに泣く事になった。
ーーー
「井之頭…。エアーサロンパス臭ぇ…」
「臭くってすんまそん!本当にすんまそん!」
「それに珍しいな。お前がヒールのある靴履いて無いのって」
「あー…。実は昨日、バスの定期を失くしちゃって。その上、財布も家に忘れて来てて、で歩いて帰る羽目になっちゃったんですよー。もう、帰ったら足、パンパンで。朝、激痛で目が覚めたんですよ?歩き方はお婆ちゃんみたいだし。もう、最悪ですよ。それにヒールがある靴履いちゃうと攣りそうで」
「あはははは!」
「笑い過ぎですって!」
「お前、意外にドジだもんな」
「うわ!鹿島さん、ヒドッ!」
つい先日、私が使った資料を使おうと資料室に行ったが見つからない、と鹿島さんに声を掛けられ、2人でやって来たのだが、エアーサロンパスの匂いが部屋中に充満し、今に至る。
換気扇を回し、資料を探すが見当たらない。
「家まで歩いて2時間くらいか?」
「んー、1時間半くらいですかね。抜け道で裏山通ったんで」
「裏山?もしかして、幽霊出るって噂の…、あの裏山?」
「あー、確かにそんな噂ありますね。あの裏山」
「お前、女なのに度胸あるよな。幽霊とか怖くねーの?俺、怖くって昼間でも1人では行けない…」
「怖いですか?私、非科学的なモノは信じないタチなんで、何時でも行けますね。深夜でも大丈夫」
「すっげーな。俺、お前のそう言う処に、…惚れてる」
急な鹿島さんの告白に私は目をぱちくり、とさせる事しか出来ないでいた。
棚越しで彼の顔は見えない。
なら、聞かなかった事にしよう!と資料探を再開する。
「お、おっかしいなぁ…。私、ちゃんと定位置に戻したのに…」
「…他の奴が持って出てんのかな?」
「それが一番、可能性ありますね」
「あんまし時間かけてると怒られちまうよなー」
「ですね。後、10分くらい探して見つけられなかったら戻りましょうか」
「そうしよう。じゃあ、俺こっち探すから、井之頭は壁面の方探して」
「了解です」
お互い違う場所を探し始める。
しかし、なかなか見つからず、いい加減諦めよう、と思った時だった。
「あ、あったー。鹿島さん、ありましたよ!」
「え?何処に?」
「下の段に背表紙が奥の方に入ってたんで見つからなかったんだ。あぁ、よかった」
「すまん、助かった」
「いえいえ、どういたしまして。はい」
資料を手渡そうとして鹿島さんの方を見上げれば、目の前に彼の顔が。
そして、啄むキスをされていた。
「………え?」
鹿島さんは悪戯が成功した子どものような顔をして、ボー然、と暫く立ち尽くしている私を残して資料室を出て行った。
ヨロヨロ、と私は棚に寄り掛かり、そのまま額を棚に打ち付けた。
「ば、バカなのは、私だ…」
隙だらけ。
もしかしたら、誰にでもキスさせる、というのは簡単に躰の関係になる、という意味も含まれていたのかもしれない。
幻滅されてしまったんだ、と泣きそうになって大きくため息を吐くと、閉められたはずの戸が開き、そして
「漸く分かったか」
その声の主に、先程の行為を見られていた事が分かり、私の顔は一気に赤くなる。
「ったく、隙があり過ぎるんだよ、お前は」
後ろ手に戸が閉められ、ゆっくり課長が近づいてくる。
「あ、」
昨日の今日で、課長に叩かれるかもしれない、と思わず身を竦めて目をギュッと閉じた。
だが、伸ばされた手は優しく髪を撫で、頬を包む。
驚いて目を開けると
「これは、消毒だ」
顔を持ち上げられ、キスされた。
恋人同士がするような、甘いキスを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます