第9話 出勤
あの後、私は誠一郎に抱っこされ、慶史が運転する車でアパートに戻った。
車の中でも誠一郎は私を放さず、慶史とは口喧嘩を止めず。
弟じゃなくても、こんなに喧嘩したのは何時振りだろう。
アパート前に車を付けると私はやっと解放され、車から降りた。
すると二人とも降り、誠一郎は、
『本当にごめんなさい』
と深々と頭を下げてくれた。
反対に慶史は口を尖らせたままだったが、私が玄関を閉めるまで見届けてくれる。
そんな可愛い弟に思わず笑ってしまい、鍵を掛けた時点で怒りは半分に減ってしまっていた。
『…なんて甘いヤツなんだ、私。』
次の日まではアソコの痛みもあったが、規格外というものは恐ろしい。
そして、大きいのが良い、とか言う人が居るが私には当てはまらない、とつくづく思ったのである。
ーーー
謹慎も解け出勤すると、私のデスクの上は書類で溢れ返っていた。
大きくため息を吐き、トートバックを椅子に置く。
休んでいた間の仕事を持って帰らないと終わらないだろう、と踏んで今日はトートにしてよかった。
先に出勤して来ていた社員は私の顔を見るなり、慌てて下を向き気づかないフリをする。
『…莫迦じゃないの、こいつ等。小学生みたいな事やってんじゃねーよ。』
溜息を一度だけ吐き、気持ちを切り替える。
そして、何事も無かった様に付箋とペンを出し、期限とコピーの枚数などを書き、貼り付けて行く作業から始めた。
作業を始め、暫くすると課長と支店長が出社してきたので、私は新しい湯呑を持って支店長に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
差し出した新しい湯呑みを出すと、先週の怒りは何処にやったのか、支店長は優しくなっており
「今回の事は仕方ない。昇格出来る様に頑張れ!お前なら出来る!」
とエールを送られた。
この変わりようはなんなのだろう。
軽く頭を下げて課長の許へ行くと、今度はこっちが不機嫌そうな面。
虫の居所が悪いのか、久し振りに課長から小言を言われた。
どうしたんだろう、と驚く。
まぁ、物が飛んで来た訳では無いのでそこまで機嫌が悪い訳ではなさそうだけれど…。
「湯呑、割ってしまい申し訳ありません。新しい湯呑を買って来ましたので、よければ使ってください」
ラッピングした箱を渡す。
2人とも備前焼の湯呑(勿論、支店長の方が値が張る)にした。
眉間に皺を寄せて、雑にラッピングを剥いでいくが、出て来た湯呑が好みだったのか、課長の目尻が若干下がる。
幾分、機嫌がよくなったのだろう。
すると私の目を見て、挽回出来るな、と。
任せて下さい、と言わんばかりに私は口角を上げてみせ、デスクに戻ると、睨みつけて来る脇谷が目に入り、これ見よがしに鼻で笑ってやる。
『…あれ位の事で誰が辞めるか。』
今迄だって色々されてきたのだ。
その悔しさをバネに是まで頑張って来た。
だから今回もこれをバネにして成長してやる。
それから私は周りの騒音も気に留めず、ひたすら仕分けに打ち込んだ。
昼休みまで掛かった仕分けに、安堵のため息と吐き、一息入れようとデスクを開けた。
チロルチョコがあったはずだが、引き出しを覗くが見つからない。
『食べてしまったんだったっけ…』
残念、とマグカップを持ち給湯室にカフェモカを淹れに向かうと、廊下で課長と出くわした。
手には一番近いデパートの紙袋。
「お疲れ様です。あれ?何処か出かけられてたんですか?」
「あぁ。これ、お前に」
紙袋から出て来たのはロイズの生チョコレート。
そう言えば、近所のデパートで2~3日前から北海道物産展が始まったばかりだ。
「湯呑、ありがとうな。それの礼だ。根詰め過ぎると眉間の皺が取れなくなるぞ。これ食べて一息つけ」
ふんわりと微笑まれ、私の心は簡単に乱される。
その手が伸び、私の頭をひと撫ですると、微笑みを残したまま課長は横を通り過ぎて行った。
課長の後姿も見送る余裕無く、慌てて給湯室に駆け込み、箱を抱きしめる。
たかがチョコレート一箱貰った位で喜ぶなんて、完全に恋する乙女だ。
『…顔が熱い。』
両手で頬を押え、顔の赤みが引くまで私は給湯室から出られずにいた。
10分は給湯室に居ただろうか。
あまりのんびりしていられない事を思い出し、慌ててコーヒーを淹れてデスクに戻った。
『…さて。この資料は家のパソコンにもデータ入れてるから家で出来るから…、こっちを今からすれば4時までには終わる、かな。で、こっちはグラフィックが必要…、これは…5年分のデータ引き出して比較と、』
パソコンからデータを引き出すが、3年前までしか出て来ない。
『…あちゃ〜、これは資料室行か〜。とりあえず、こっちを済ませてからだなぁ…。』
マグカップをデスクに置き、書類を持ち直した処で横に誰か立っているのに気付いた。
何故か愛子がもじもじしながら立っている。
「あの〜、嬉子さん」
男性社員に媚を売る時と一緒の声ですり寄って来て、思わず仰け反ってしまう。
「な、何?」
「実は〜、これの事なんですけど〜」
伏し目がちに差し出された書類に思わず眉間に皺が寄った。
「期限内に終わりそうにないんです〜。ごめんなさ〜い」
「…っで?」
「え?」
「だから?それで?“ごめんなさい”って何?」
一気に低くなった私の声のトーンに部屋に居る社員が一斉にこちらを見た。
上の人間に怒られてきたから、なるべくならやりたくはないが、愛子は簡単に仕事を放棄しようとしている。
どれだけ仕事を舐めれば気が済むのか。
私の目が座った事に気づいた愛子の顔色が一気に変わる。
「確認だけどこの書類、私は出来るかどうかちゃんと聞いたわよね?その時貴女は何て答えた?“出来ます。絶対にやってみせます”って大口叩かなかった?課長も支店長もその言葉聞いているのよね。2人に確認する?それに、私が謹慎喰らった日に凄い剣幕で此処にやって来て私を罵ってたわよねぇ。そんな最低で虫唾が走る先輩によく頼めたものね。アンタのその神経、どうなってんの?1回病院に行って解析して貰ってきてよ。凄い気になるからさ」
「ひ、酷いっ、あ、愛はっ…!」
「酷い?仕事舐めてくさって放棄しようとする奴に酷いとか言われたくないわー」
「あ、愛だって、頑張ったけど、…でも、っ、」
「はいはい。泣くなら自分のデスク戻って泣いてねー。それと泣いてもいいけどお給料貰ってるんなら期限内に課長に提出して。もう同じ間違いしないで。私、貴女をフォローする気ないわよ」
ぴしゃり、と言ってやれば脇谷が椅子から立ち上がり、こちらに向かって来るのが見えた。
「あらー。脇谷さんがその書類、手伝ってくれるってー。良かったわねー」
私を怒鳴り付けようと思って来たのだろうが、先手を打ってやる。
その言葉に驚いた脇谷は急に照れた顔に。
泣き顔から驚いた顔に変わる愛子に、したりと笑う。
そして愛子の肩を持ちクルリ、と半回転させるとここにやって来た脇谷に愛子を押し付け、私は椅子に座りふんぞり返ってやった。
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